『たとえば…空から、お菓子を降らせてみたり』

   『なんだよ、そりゃ』

   『夢ですよ、夢』

   『空から、お菓子が降ってきたりすれば、素敵だと思いませんか?』
 
 
 

空から降ってきた夢

 

 
 
 
 

したたか飲んだ次の日の、朝の目覚めは最悪。
祐一はズキスキ痛む頭に手をやり、まだぼんやりした意識の中でゆっくりと目を開けた。
……まぶしい。

「………はあ」
「………はあ」

祐一は思わず目をつぶると、頭に手をやってため息をついた。
……ため息?
いや、確かにため息はついた。ついたのだが……なぜか、すぐそばでもした……ような?
まさか、気のせいだろう。きっと……

祐一はズキズキする頭を、声のした気がした方へ向けた。そして、肘を付いてわずかに起きあがると、右手で目の上、ひさしを作ってゆっくり目を開けた。
そして、声のした方を……

「…………え?」

祐一は、そこで自分の目を疑った。
間違いなく、目に入ったのは自分の部屋の光景。見慣れた机、見慣れた本棚、そして見慣れた電灯。
そして、間違いなく見慣れた、自分のいるベッドのその傍らに、寝息を立てている…

「………ええ?」
「………ん……」

呆然とつぶやく祐一の目の前、その声に気が付いたのか、その人はわずかに首を振ると、ゆっくりと目を開けた。そして、ぼんやりとしたその大きな瞳が、ゆっくりと見下ろす祐一の顔に焦点を合わせると

「………相沢……さん……?」
「………天野……」

美汐はつぶやくと、ゆっくりと目を閉じた。

「…………!!」

しかしその次の瞬間、美汐はがばっと身を起こすと、祐一と、そして自分の姿を……
……その瞬間、美汐の顔が真っ赤に染まった。

「……あ、あい」
「ま、まてっ」

祐一は、あわてて手を伸ばすと、そんな美汐の口を右手でふさいだ。
ここで大声を出されたら……はっきり言って壁が薄いこのアパートで、いったいどんな騒ぎになるやら……

「…お、落ち着け、天野。落ち着いて、だな…」
「………」
「えっと…し、深呼吸だ。それから、えっと、その……」
「………」
「……お、落ち着いて、オレの言うことを…」
「………」

こくこく

焦って言い続ける祐一に、しかし真っ赤な顔のまま美汐は、頷きながら祐一の手をそっと掴んだ。

「……天野?」
「………はぁ」

気が付いて祐一は美汐の口を覆った手を外した。
美汐はようやく大きく息をつくと、赤く染まった顔で祐一を見上げたまま

「……相沢さん。」
「な、何だ、天野?」
「……とりあえず、その……手をどけてくれませんか。その…わたしの……」
「……え?」

祐一は美汐の口から外した手と反対の左手に目をやった。
……その手は、しっかりと布団を掴んだままだった。そして、布団は祐一が焦って身を起こしたせいで、既に祐一自身も美汐の体も申し訳程度にしか隠していない……

「ご、ごめっ」
「……ともかく、その…」

ともかく自分の腕で胸を隠す美汐。祐一はあわててそんな美汐から目をそらすと

「……あ、そ、そうだな、えっと…」
「ともかく……着替えを……」
「あ、うん。そう…えっと……」
 

祐一はベッドの側をあわてて目で追うと、床に置かれた自分の服を確認した。
そして、急いでベッドを降りると、とりあえず服をかき集めると振り返り

「あ、あの…オレ、と、隣の部屋で着替えるから、その…あ、天野も…」
「はい。それはいいのですけど……」
「………?」
「その……早く行ってください……あの……」
「………」

祐一は美汐の方を見ないようにしながら、自分の格好を見下ろした。
……下着すら身につけていない自分の格好を……

「……ご、ごめんっ」

祐一は振り返ると隣のダイニングにあわてて飛び込み、ドアを閉めた。

「ご、ごめん。えっと……」
「………」
「そ、その…こ、これはその、あ、朝だからこうなってるんで、決してその、天野に、その…」
「……相沢さん。」

美汐は真っ赤な顔のまま起きあがると、ドアの磨りガラスに映る祐一の影にクスッと笑った。

「……そんなこと、聞いてません。」
「あ、えっと、あ、いや、その……」
「……相沢さん、落ち着いてください。」
「……あ、ああ……」
「……あと、とりあえず……せめてシャワーを浴びたいのですが……」
「……あ、そうだな。うん。分かったよ。」
「……はい。」

ドアの向こう、祐一は黙り込んだ。そして、かすかに、深呼吸でもしているらしい息。
美汐もほうっと息を一つつくと、カーテンの隙間から見える青空を目を細めて見つめたやはりわずかに痛む頭を振った。
そして、祐一のベッドの上、かろうじて落ちかけているシーツを引っ張り上げて自分の体を改めて覆うと、もう一度、熱く火照る頬を枕に埋めた。枕には、自分の物でない不思議な匂いが染みていた。美汐はその匂いに、また少し、頬が熱くなるのを感じながら……
……わたしは…いったい……
 

☆  ☆  ☆  ☆
 

「……えっと」
「……あの」

二人が同時に声を上げ、また黙り込んだ。

二人の驚きの目覚めから、もうほぼ1時間。
結局、美汐だけシャワーに入り、その間祐一は着替えてベッドのところに戻り、呆然と二日酔いの頭で考えていた。昨日のこと…昨夜のこと。飲んで、そのあと…

「……なあ、あ、天野」
「……は、はい」

このままでは埒が明かない。
祐一は大きく息をつくと、顔を上げて正面、ガラスのテーブルを前に正座している美汐の顔を見た。
……声が若干裏返っているのはしょうがない。それに、美汐の顔がいつもより赤く染まって見えるのも、気のせいじゃないと思う。

「……その……昨日、コンパ行った時のことは……覚えてるか?」
「……はい。」

美汐はまだわずかに火照った顔を小さく縦に振った。まだシャワーで少し濡れている肩までの髪が目の前に垂れるのを、すぐに右手でかき上げる。

「昨日は…わたしはとりあえずビールを…」
「ああ。」
「相沢さんはビールから、すぐに日本酒を飲み出したはずです。」
「あそこは日本酒のいいのがあるんだよ。だから…」
「……ずいぶん飲んでました。」
「……コップに4杯までは、覚えてけどな。」
「……4杯…」

美汐は少し首をかしげると、祐一の顔に目線をちらっと上げて

「……わたしが覚えてるのは、その倍です……」
「……マジ?」
「……はい。」

美汐はまた目線を落としたまま、こっくりと頷いた。

「……マジかよ…」

……どうりで、頭痛がするわけだ。
祐一はアルコールが好きではあるけれど、決して強い方ではない……それは自分でもよく分かっていた。いや、そのつもりだった。
だから、いつもは決してそんなには飲まないのだが…

「……おいしかったから、かな。」
「……でしょうか。わたしは飲まなかったので分かりませんが…」
「………はあ」

にしても、8杯…
祐一は自分に半分あきれながら、美汐の方を見て

「でも、飲まなかったんだったら…覚えてるんだ、その…昨日、オレたち…」
「い、いえ……その……」

祐一の問いに、しかし美汐は急いで首を振った。

「お酒は飲みませんでしたが……」
「………?」
「……その、ウイスキーを……」
「……水割り?」
「はい…多分。」
「多分?」
「はい。その…途中まではそうだったと思うのですが…」

美汐はわずかに痛む頭に手をやった。

「……最後はそのまま……だと思います。」
「………」
「良く覚えていないので……何杯かも……」
「………」
「………」

「……はあ」
「……はあ」

それ以上聞く必要もなく、二人とも状況は理解できた。

「……ていうことは、昨日のこと…この部屋にはどうやってきたのか、とか…」
「……ぜんぜん覚えてないです。」
「……オレも。」

タクシーで帰ったのか…それとも歩いたのか?
コンパで飲んだ店からは歩くには少し遠いから、多分タクシーだろうと思う。
しかし、良くその状態で帰れたもんだ…天野が連れてきてくれたのかな?
いや、そんなはずないか…天野、このアパート初めてなのに…

祐一はそんなことを思いながら、自分の足下に目線を落として正座している美汐の姿に、少し苦笑のようなものを覚えた。
思えば、長いつきあいと言ってもいいのに…高校、そして大学に入ってからだって毎日のように会っているっていうのに、こうして部屋に入ったことどころか、部屋の前まで来たのだって多分、今日が初めてのはず……
思えば、不思議なつきあいだよな、天野と……オレ。
親しいようで親しくない…友達のようで、友達以上のようで。なんて言ったらいいんだろう、オレたちの間は……
なのに……いきなり、こんな…

「……えっと」

そんなことを考えてても…しょうがない。
祐一はそんな感慨を頭の隅に追いやると、自分の座っているベッドにちらっと目をやった。

「それで、その……それから、オレたち……ここで寝てたわけなんだけど……」
「……」

美汐はビクッと体を硬くした。

「……はい。」
「……その……オレたち…その……」
「………」
「……えっと、つまり、その……」
「……」
「……オレ、覚えてないけど…いや、覚えてないからって、言い訳したりするつもりじゃないけど、その……」
「………」
「……オレ…お前と……」

その時、美汐は顔を上げて祐一の顔を見た。
わずかに赤く染まったその頬が、更に赤く血が上るのが見えた。

「……覚えて、ないです。」
「……そうか。」
「はい。全く…覚えてないです。」
「……そうか……」
「……はい……」

美汐の言葉に、思わず祐一は息をついた。
ほっとすることじゃない…それは分かっている。いるんだけど……

「……オレも、覚えてないんだよな、全く。」
「……はい。」
「そうか……」
「はい。」
「………」
「………」

そのまま、二人は黙り込んだ。
部屋は静まりかえり、わずかに外の喧噪が窓から響いた。
どこか、学校がどこかから、昼を告げるチャイムのような音……
その音に、祐一は部屋の時計を見上げた。

「……でも、まずいよな。天野、お前……」
「……え」

突然声を上げた祐一に、美汐はハッとして顔を上げた。
祐一は時計を見上げたまま、少し眉をひそめながら

「お前…家の人になんて言うんだ、昨日帰らなかったこと?」
「………」

祐一の言葉に、美汐はまた少し体を硬くした。
アパート暮らしの祐一と違って、美汐は毎日自宅から通学しているのだ。たまには外泊することもあるが、そんなときは美汐はいつも前もって言っていた。
なのに、昨日は……

「無断外泊だろ? それも、男の…オレの部屋で……」
「………」
「ただでさえ、お前が外泊なんて滅多にないのに…説明しなきゃならないだろ? いくら記憶がないって言っても…オレとこうして、一晩……」
「………」
「……両親、心配してるだろ? ともかく、お前、電話して説明しろよ。」
「………」
「……オレは…今日は授業ないし。お前は…あるんだったら、終わってから待ち合わせて…」
「………」

言いながら、祐一はベットから立ち上がってクローゼットの方に近寄った。
そしてクローゼットを開けて中の服を漁りながら

「……びっくりさせることになるかもしれないけど、やっぱり…」

「………あの」

と、そんな祐一にさっきから黙ったままだった美汐が、しっかりと顔を上げて祐一にいつもの声ではっきりと

「……何もなかった。そうしませんか?」
「……え」

祐一はクローゼットから振り返り、美汐の顔をマジマジと見た。

「……何もなかった……?」
「……はい。」

美汐は小さく頷いた。

「何も…なかったんです。覚えてないのですし。ですから…」
「……ちょっと待てよ、天野。」

いつもの無表情で言いかけた美汐に、しかし祐一はクローゼットから戻って美汐の前に膝をついて

「そういうわけにはいかないだろ?覚えてないことと、何もないことは…」
「違います。でも……何もなかった。そう……しませんか?」
「………」
「そうした方が…いいと思うんです。そうした方が…」
「………」

美汐はジッと祐一の顔を見つめた。
祐一はそんな美汐の目をのぞき込んだ。

「……その方が…いいのか……?」
「………はい。」

美汐は祐一の視線に、一瞬目線を落としたが、すぐにまた目を上げて祐一を見上げて

「……私たちは、もともと……そういう間では、ないはずです。なかったはずです……」
「………」
「……ですから、何もない……あるはずがないのだと、思うんです。覚えていないし…覚えていないからこそ、そう思うことにした方がいいと思うんです。」
「………」
「……そう思うんです……」
「………」

祐一は美汐の顔をジッと見つめていたが、不意にその場に腰を下ろすと、視線を窓の外、青空に目をやった。

「……そう……だな。」
「………」
「……オレたちは…そういう間じゃ、ないんだよな。」
「……はい。」
「……だから…何もなかった……」
「………」
「……そうして……そうしたら、オレたちは……」
「………」
「………」

祐一は目をつぶって頭痛のする頭を大きく振った。
そして美汐に目を戻すと、小さく頷いた。

「……そうだな。昨日は……」
「……何もなかったんです。」
「……ああ。コンパで飲み過ぎて、二人とも酔った…それだけ、なんだよな。」
「……はい。」

美汐は祐一の言葉に頷いた。

「私は……友達のところに泊まった。そう、家には電話しておきます。」
「……そうか。」
「はい。」
「……オレは…」

祐一は言いながら、また部屋の時計を見上げ

「……今日は授業ないし。二日酔いで頭、痛いから……今日は寝てるわ。」
「……はい。」
「天野、お前は…」
「1コマだけあるので、大学に戻ります。」
「……そうか。」
「はい。では……」

言うと、美汐は立ち上がって側に置いたカバンを手に取った。そして、小さく祐一に頭を下げると、玄関に向かっていつもの足取りで歩いていった。

「……天野。」
「……はい?」

そのまま、ドアのノブに手をかけた美汐に祐一が声をかけた。
美汐は振り返って首をかしげた。

「……なにか?」
「……ああ」

祐一は美汐の目線に、思わず少し目線をそらしてしまいながら

「……その……昨日のことだけど。」
「………?」
「……天野、お前…本当に覚えて…ないのか?その……この部屋に来てから、オレたち……」
「………」

美汐の頬が赤く染まっていくのが祐一にも見えた。
しかし、それでも美汐はいつもの表情を変えないまま

「……何も、覚えてません。本当に、覚えてないです。」
「……そうか。」
「はい。」

美汐は言うと、ドアを開けた。そして、足を外へ踏み出すと、振り返って祐一に

「……では。」
「……ああ。」

バタン

音を立てて閉じたドア。
美汐はノブから手を離すと、そっと熱を帯びた頬に右掌を当てた。
それからホッと一つ息をついて大きく首を振ると、振り返ってまぶしく光る昼の日差しの中へと、目を細めながら歩き出した。

一方、祐一は閉じたドアをしばらく見つめていたが、やがてやはりホウッと大きく息をついた。
それから、ベッドまで歩いてのろのろと近寄ると、ベットに身を投げて二日酔いの頭を枕に埋めた。
そして、考えていた。二日酔いに痛む頭で……枕にかすかに残る、自分のものではない甘い匂いを感じながら。
昨日のこと……自分のこと。天野のこと……そして……
 

☆  ☆  ☆  ☆    ☆    ☆    ☆
 

「……ただいま、帰りました。」

美汐は玄関のドアを開けながら、奥に向かっていつものように言った。
夕暮れの玄関はあわい灯がついて、玄関とその奥の廊下の一部をかろうじて照らしていた。
美汐はドアを後ろ手に閉じ、いつもの様に靴に手をやると

「……お帰り。」

その時、奥からいつものように母ではない声がした。
美汐ははっとして顔を上げた。その目の端に、いつもはこんな時間にはない黒い靴が映った。
一瞬、美汐は手を止めて家の奥を見やった。

「……お帰り。」

その時、廊下の奥から母が、ニコニコしながら現れて

「ご飯は、食べてきた?」
「……いいえ。」
「じゃあ、着替えていらっしゃい。」

何事もない様子でいつもの様に言う母。
美汐は黙ってうなずくと、靴を脱いで廊下に上がった。
そして、先に戻っていく母の後を追うように、奥へと歩いて階段のところで立ち止まった。階段からはわずかに奥、リビングの様子が見えた。
父はキッチンを背に、テレビの方を向いて座っていた。その目の前のテーブルにはいつもの様にビールが置かれていたが、全く手はついていなかった。多分テレビを見ているのだろう、父は腕をテーブルに置いたまま、ぼんやりと何かを見ているようだった。その指が、コツコツとテーブルをかすかに叩くのが、廊下の美汐にも聞こえた。
美汐は小さく首を振ると、手すりに手をかけて階段を上り出した。
そして、ゆっくりと階段を上ると、自分の部屋に入ってドアを閉めた。

『お酒を飲み過ぎて帰れなくなったので……友達の家に泊まりました。』

昼過ぎに電話した時、美汐が母に言った言葉。

『あら、そう』

母は何事もないようにそう答え、そして別に何事もなく電話を切った。
だから、何事もない…しいてそのつもりで、美汐は帰ってきた……

美汐は小さく首を振ると、カバンをテーブルに置いて上着に手をかけた。
……何も、ない。そう、何もないのだから。
わたしらしくない……気にし過ぎなだけなのだ。そう……お父さんが帰って来ているのも、帰っているのにぼんやりとテーブルに座っているのも。
そう…気にすることは…

「……美汐、一応、言っておくんだけど……」
「……!?」

背中からの声に、あわてて美汐が振り返ると、そこには母が立っていた。
母はさっきと同じエプロンをしたまま、少し笑みを浮かべて美汐を見ていた。

「お、お母さん…いつそこに?」
「今さっき。音、あんまりたてたくないからドアを叩かなかったんだけど、開けてもあなた気がつかないから。」
「………」

美汐はちょっとびっくりして母の顔を見つめた。
母はそんな美汐の顔に、ちょっとくすっと笑った。

「……ちょっと、一応言っておいた方がいいかと思って。」
「……何を、ですか?」
「何をって、ほら、お父さんが帰ってきてるでしょう?」
「……はい。」
「だから、一応あなたに言っておかなきゃと思って。」

美汐は母の言葉に、ちょっと首をかしげながら

「……言っておく……こと?」
「ええ。」

母は頷くと、ちらっとドアに振り返って

「……まあ、お父さんもあなたと同じで不器用な人だから、きっとなんて切り出そうか迷うばっかりで何も聞けないと思うけど。」
「……はあ。」
「でも……あなたも嘘がつけない人だから…変なこと言って、お父さんをびっくりさせるといけないでしょ?」
「………」

美汐はますます困惑して、母の顔を見つめた。
そんな美汐に母はまたくすっと笑うと、小さな声で美汐に

「昨日…友達の家に泊まったなんて、嘘なんでしょう?」
「……え?」
「いいのよ、分かってます。相沢さんのところでしょう?」
「……いえ、違います。」

美汐は即座に否定して、母の顔を見た。
母は美汐の顔をジッと見つめると、やがてにっこりと微笑んで

「……本当に、嘘のつけない子、あなたって。」
「………」
「ほら、嘘をつくとますます無表情になる。だからよけいに分かっちゃうわ。ほんとに……不器用なんだから。」
「……だから、違うんです……」
「分かってます、よく分かってます。そう、お父さんにも言っておきました。けどね、美汐……あなたの嘘くらい、お父さんも分かってますよ。あなたの親ですもの。」
「………」
「やっぱり、相沢さんのところだったのねえ……」

母はにこにこしながら美汐の顔をのぞき込んでいた。
美汐は何を言ったらいいのか……どんな顔をしたらいいのかも分からなくて、黙ってそんな母の顔を見つめていた。

「……まあ、あなたももう大学生……自分のことは自分で責任持てる年だから、とやかく言う気はないんだけど、少なくとも私は。」
「………」
「でも、まあ……父親って娘のことになると、ちょっとムキになるところ、あるから。だから、私の方で今日は何とか押さえることにするわ。でも、今度からは、もうちょっと気をつけてね。今まで見たいに。」
「……で、ですから、わたしは別に……」
「でも、まあ…あなた達ならその辺は大丈夫だと思うけど。」

何とか否定する美汐に、でも母は全く取り合わず

「今まで、波風立てないでおつき合いしてくれてたし……それに、相沢さんなら誠実な、いい人だとお父さんだって分かってるから。少なくとも、私は好きね、あの人は。」
「いえ、だから……」
「……でも、まあ……今度、一度来てもらってね。お父さんに挨拶…は、もちろんまだまだ先だけど。」
「あ、挨拶……」
「それは無理でしょう?あなたも相沢さんもまだ大学生だし……子供ができちゃったっていうんなら、それはまた別だけど?」
「こ、子供……」
「まあ、それはないわよね。慎重なあなた達なら、お母さんも安心してるわ。ちゃんと避妊はしてくれてるって。」
「ひ、避妊……」
「ていうかね……」

と、呆然としている美汐の顔を母はニコニコしながらジッとのぞき込んで

「あなた達のことだから、まだじれったい、子供みたいな交際をしてるのかな……って、実は私は心配だったの。あなたはちょっと堅い……というか、頑ななところがあるし。そう言うところ分かってつき合ってる相沢さんも、少し頑ななとこ…似たもの同士って感じだから。だから、お互いに……」
「………」
「……でも、これであなた達も普通のつき合いをしてるんだって分かって、私はちょっと安心したわ。うん。」

母はニコニコしながら、美汐に頷いて見せた。
美汐はそんな母の顔を、もはや呆然と見つめるだけだった。
母はそんな美汐に、もう一度大きく頷くと

「とりあえず、今日はあなたは黙ってなさい。お父さんは私が何とかしてあげる。大丈夫、お父さんは何も聞けやしないから。そんなとこ、あなたそっくり。」
「………」
「まあ、そんなところがお父さんの…あなたのいいところでもあるんだけどね。そういうとこ、相沢さんは分かってくれてるんでしょうね。」

母はそう言って、美汐の頬をポンポンッと掌で叩くように触った。
その熱い感触に、美汐は初めて自分の頬が熱くなっているのが分かった。

「……ほんとに、今度、相沢さん、家に連れてきてちょうだい。私、久しぶりに会って話がしたいわ。いい子だもの…あなたの選んだ人だもの。あなたを選んでくれた…ね。」
「………」
「でも、本当に、こういうのは今度だけにしてね。次からはもっと上手に嘘ついてちょうだい。少なくとも、お父さんにはね。」

そしてその掌で今度は美汐の髪に手をやると、母はそっとその髪を梳くように肩に手をやった。それからその方をぽんっと叩くと

「……じゃ、着替えて、降りてきて。後はお母さんに任せなさい。」
「………」
「早く……ね。」

言うと、母は軽い足取りで振り向くとドアに手をかけた。

パタン

「………」

ドアの音とともに、呆然としていた美汐は小さく首を振った。
そして、母のもういなくなったドアをぼんやり見つめた。いつもの母らしくない、はしゃいでいたその姿を……

コツン

そのまま美汐はその場で座り込むと、テーブルに顔をつけた。目の前にクローゼットの扉が開いて、暗い鏡の中に座り込んだ自分の姿が映るのが美汐の目には映っていた。いつの間にか火照った頬に、冷たいテーブルの感触が心地よかった。
美汐はそのまま、テーブルに顔をつけたまま……

『何もなかった。そう……しませんか?』
『……私たちは、もともと……そういう間では、ないはずです。なかったはずです……』
『……ですから、何もない……あるはずがないのだと、思うんです。覚えていないし…覚えていないからこそ、そう思うことにした方がいいと思うんです。』

声が響いていた。
自分の声。

そう言ったのは…わたし。
そう思っていた。それが一番いいのだと……それでいいのだと……思って……
……そう、わたしたちは……
……相沢さんは……
…………わたしは…………

美汐はそのまま、暗い鏡の中の自分の顔をぼんやりと見ていた。
 

☆  ☆  ☆  ☆    ☆    ☆    ☆
 

「……まぶしいな……」

まぶしい秋晴れの空の下。校門を入ったところで、祐一は一つ息をつきながら空を見上げて眩しそうに目を細めた。
昨日は二日酔いで結局夜まで部屋から一歩も出られない状態だった祐一だが、今日は頭痛も去ってとりあえず授業を受けられる状態にはあった……もちろん、受けたいかどうかは別の問題だが。
しかし、今日の午前一コマ、午後の一コマは必須の授業。しかも、どちらも出席にうるさい教官だった。だからこそ、祐一もこうして大学へと来たわけで……

「……あれ?」

しかし、掲示板の前、祐一は今日の授業変更の掲示に目をやって思わず声をあげた。

「……マジかよ……」

そこに小さく掲示されていたのは、今日の休講の掲示。その授業の中身はもちろん……

「……マジなんだな、これが。」
「……ん?」

祐一の後ろで、小さなため息と共に声がした。
祐一はゆっくりと振り向いて

「……北川。」
「おう、おはよう。」

声の主、北川は祐一に軽く手を上げた。

「お、おう。」
「しっかし、参っちゃうよな。このためにわざわざ朝から来てるのにな……」
「マジで休講なわけか?」
「だぞ。教室に行ったけど、もうみんな帰るとこだった。」
「………はあ」

祐一はもう一度掲示板を見上げると、またため息をついた。

「オレもこのために来たんだがな……」
「まったく。」

うんうんとうなずく北川。

「まあ、しょうがない。どうせまたこの間みたいに補講があるだろうから……」
「……補講?」

北川のその言葉に、祐一はまじまじと北川の顔を見た。

「……何、それ。」
「先週、あっただろ。この間の休講の補講。」
「……知らない……」
「………」

北川はマジマジと祐一の顔を見た。
そして、小さく肩をすくめて

「……お気の毒さま。」
「マジ……か?」
「こんなことで嘘を言ってもしょうがないだろ。」
「……ぐはっ」
「ちなみに、もちろん出欠はしっかり取られたぞ。」

やれやれという感じで北川は首を振りながら

「むろん、俺は出た。」
「………」
「……お前も出たことになってるけどな。」
「……そうか。」
「そうか、じゃないぞ。」

指をチッチッと振ってみせると、北川は祐一に

「感謝しろ、俺に。」
「……やなこった。」
「おいっ」
「まあ、泣いて頼むなら、してやらないこともない。」
「するかっ」
「……甲斐のない奴だな、お前って」
「どっちがっ」
「お前が。」
「………はあ。」

北川は大きなため息をついた。

「……まあ、いい。この恩は、貸しにしとく。」
「分かった。いつか、代返してやる。」
「……お前が出て俺が出ない、なんてことがこの先もあるとは思えん。」
「……そんなことはないぞ。」
「今の、超棒読みだぞ、相沢」
「はっはっは、そんなことはないぞ。」
「…………」

北川は祐一をジト目で見た。
祐一はそんな北川から目をわざとそらして空を見上げた。そして伸びをしながら

「……じゃあ、今すぐ借りを返そう。」
「おっ」
「缶コーヒー1本。」
「安っ」
「嫌ならいいんだぜ、嫌なら。」
「………」

空を見上げながら言った祐一に、北川は同じく空を見上げた。
真っ青な空から秋にしては強い日差しが降り注いでいた。
北川は手をかざすと目を細めながら祐一に振り返り

「……まあ、午後まで俺も暇だしな。あそこのベンチ、先に行ってから。」
「おう。」

北川は言うと掲示板と反対側の学生課の建物の前、木陰のベンチへと向かった。
祐一は少し先の生協の前まで行って、自動販売機で缶コーヒーを2本買うとベンチに戻って北川に1本を投げた。

「ほらよ。」
「……おう。」

そして北川が受け取ったのを見て隣に腰をかけ、自分のコーヒーの缶を開けて一口飲んだ。

「……はあ。」
「……暑いよな…」

北川も同じく、コーヒーを飲みながらつぶやいて

「昨日はそうでもなかったがな…」
「……昨日は、ずっと部屋で寝てたんでよく分かんねーよ。」
「……ふーん。」

北川は祐一の顔を横目でちらっと見た。
祐一はそんな北川に気づかずにぼんやりと通り過ぎる学生達を眺めながらコーヒーを飲んでいた。
北川はすぐに目線を同じく学生達に向けて

「そう言えば、飲んでたもんな、相沢。」
「……半分くらいしか覚えてないけどな。」
「ほんとか?すごい勢いで飲んでたけど?」
「ああ。8杯飲んだって話だけど…」
「おう。後半、ほとんどつまみもナシで、『おいしい、おいしい』って言いながら……」
「その辺、ぜんぜんだな……」

祐一が頭を振りながら言うと、北川はまたちらっと祐一の顔を見て

「……じゃあ、お前ら、どうやって帰ったのかも?」
「ああ。ともかく、家には帰り着いてたけどな……」
「……誰の?」
「決まってるだろ。オレの部屋だよ。」
「……ふーーーーーーーん。」

北川は手にした缶コーヒーをぐいっと飲み干した。
そして、ぼんやりとまたコーヒーを口にした祐一の方に向き直ると、ニヤリと笑って

「……部屋では程ほどにしとけよ。隣の家に迷惑だからな。壁、薄そうだし。」
「…………へ?」

祐一は飲みかけたコーヒーの缶を口から離すと、マジマジと北川の顔を見た。
北川はそんな祐一ににやにやしながら見ていた。
祐一は、何のことだか分からずに北川の顔を……

……『お前ら』?
…………『ら』?
らって…ええっ?

「あ、い、いや」

祐一は、ようやく北川が言っている意味に気がついた。
そしてあわてて北川に

「お、オレはただ…」
「いいっていいって。」

でも、北川はにやにやしながら祐一に頷いて

「分かってるから、お前らが一緒に帰っていったのは。」
「いや、だから……」
「みんな、二人とも酔ってるから心配してたんだけど、二人とも『大丈夫』って言いながら、寄り添って帰っていったもんな……」
「そ、それは……」

覚えがない言葉に、でも祐一はそれでもあわてて

「で、でも、だなっ、お、オレたちはあの夜は二人とも、すごく酔って、だから……」
「いいからいいから」
「で、でも、オレたち」
「……そんなにそんなにムキになって言い訳すんなよ、みっともない。」

そんな祐一に、北川は肩をぽんっと叩くとまたニヤリと笑って

「冗談だよ。天野がお前の部屋、入り浸ったりしてるわけないことは分かってるって。天野、まじめだし……お前もそういうとこ、妙に堅いとこあるしな。」
「だ、だから……」
「でも、そんなお前らが、ようやくガキみたいに隠したりしないで、普通につき合ってるとこ見せたんで、俺たちもびっくりしたけど…ちょっとホッとしたよ、俺はな。」
「………?」

驚いて顔を見る祐一に、北川はうんうんと頷いてみせた。

「だって、お前らがつき合ってることなんて、元々ミエミエだったのに、何かお前ら、人に隠してるとこあったからさ。」
「だから別に、隠すも何も、オレ達は…」

祐一は反論しようとするが、北川はまた無視して祐一にチッチッと指を振って見せて

「だいたい、転校してきたばかりのお前と、学年も違う天野が親しくなってること自体態、なんにもなきゃあり得ないことだろ?特に天野、人なつっこいほうじゃないのに…別に二人が部活が一緒って訳でもないし。」
「っていうか、オレも天野も部活になんて入ってなかったぞ。」
「そうそう、そうだったよな。なのに…昼休みとか登下校の時とか、お前ら待ち合わせてよく話してただろ。」
「ま、待ち合わせをしていたわけじゃ……」

あれは偶然、よく会っただけ…祐一の記憶の中には、もちろんそれしか覚えがない。
別に約束をしたり、待ち合わせをしたことなど……数えるほどしかなかった……あの頃は。
ただ、祐一が偶然帰ろうとしたその玄関で美汐が靴を履き替えていたり……祐一が食堂でご飯を食べていると、空いた席を探していた美汐が偶然空いた祐一の正面に座ったり……

『……偶然、ですね。』
『……そうだな、ほんとに』

そんな会話をしながら、でも別にたいした話をしたりするわけでもなくて。
天気の話……お互い知っている教師の話。たわいもない、普通の会話。
確かに、わざとそんな話をしていたこともある。何でもない普通の生活。何でもない、普通の日常。それはあいつとオレとの…

『約束は守ってくださっているようですね』

約束。
オレは天野と約束したから。

『私は…それでこんなふうになってしまいましたが…』
『…相沢さんは、どうか強くあってくださいね』

オレは…いや、オレたちは何事もない、普通の生活をしてきた。
オレと、天野……

「……でもな。」

黙り込んだ祐一に、北川はちょっと顔をしかめると

「高校出て、お前が大学入って水瀬さんの家に出てこっち下宿して……だから、どうなったのかなって俺はちょっと、人ごとながら心配に思ってたんだ。」
「……それは……」
「けど、その間もちゃんと付き合い続けてたみたいだし。」
「いや、だから…」
「でも、なのに俺にも隠すようにして…水臭い奴だよな、お前は。」
「……隠してなんていないって。だから……」

北川は言いかけた祐一にブンブンと首を振ってみせ

「でも、ミエミエなんだよな。お前らって。だって、相沢、お前も頭冷やして考えてみろよ。」
「何をだよ?」
「いいか? どう考えても天野がうちの大学に来たのは、お前を追って来たからだろ?」
「いや、それは天野の行きたい学部が…」
「違うって。天野が実は学年でもトップクラスの成績だってのは、お前は知られてないと思ってたのか知らないけど、結構有名な話だったんだぞ、学校では。」
「……え?」
「その上、どう考えてもあの天野がテニスなんてやらないだろうことも、酒が好きそうでもないことも……合コンはもっと苦手だってことも見るだけでも分かるっていうのに、うちみたいなナンパなテニスサークル入ってきてる…これはどう考えても、お前がいるからだろうがっ!」

北川はそう言って、ビシッと祐一を指さした。
祐一は突きつけられたその指に、思わず身をそらして

「……あ…いや……」
「なのに、俺達の前ではそんな素振り、わざと見せないようにしてるんだから…お前ら、堅いって言うより、よっぽど俺たちをバカにしてるのか……それともバカなのかは分からないけどさ。ともかくお蔭で本当はある意味、逆に目立ってるカップルなんだぞ。」
「……へ?」

目立つ……カップル?
思わず、祐一は天野の顔を思い浮かべた。
……カップル……

「……まあ、俺たちもガキじゃないし、これは別に茶化して言ってるわけじゃないぞ。」

そんな祐一に、北川はコーヒーを飲み干すと立ち上がった。

「ただ、もうお前らもこれからは、それらしくしてくれたらいいんだって、それが言いたいだけだけどな。」

そして、少し伸びをしながら振り返ると

「だいたい、いつまでもそんな付き合いじゃ、天野に悪いと思うぞ。まあ…最初は本当のこと言って、彼女のどこがいいのかってお前の趣味を疑ったけど。」
「……おい」
「あ、いや……」

あわてて北川は祐一に肩をすくめて

「でも、俺も……お前と一緒にだけど、ずいぶん彼女と長いつき合いになるからさ。天野のこと、少なくともあの頃からしたらずいぶんと本当の魅力が判った気がするよ。だから、お前の気持ち、俺にも今は分かるし。それに、あの頃と比べて、天野、ずっと魅力的になったし。」
「……魅力的?」

天野が……魅力的?
さっきから頭に浮かんでいる美汐の顔を、祐一はもう一度マジマジと思い浮かべてみた。
あの頃と変わらない、無表情で、大きな瞳をいつも真っ正面に向けている、童顔の少女……

「ああ。」

そんな祐一に、北川は小さく頷いて

「本当のとこ……今だから言うけど、天野がうちのサークル入ってきた時、結構目をつけた野郎、多かったんだぞ。」
「……冗談?」
「冗談なもんかよ。」

北川は祐一に肩をすくめて見せた。

「マジで狙ってた奴もいたんだぜ。でも、すぐにお前がいること分かったから、誰も手を出さなかっただけで。」
「………」

天野が……狙われる?
祐一はさっきから美汐の顔を思い浮かべていたが、まだピンと来なかった。
天野が……まさか?
だって……

『…天野はどっちかって言うと、タヌキだよな。』

あの頃、ようやく気持ちが落ち着いて、ものみの丘に美汐をあの場所に連れて行った時。
丘を渡る風の中、風に天野の癖毛が乱れて巻き上がり、まるでタヌキの耳のようになってしまって、オレは思わず吹き出してしまって。
そしたら……そう、天野はまじめな顔で髪を直すと、オレの方に向き直って

『だから言ったじゃないですか。この街に住む人間の、その半分ぐらいがあの子たちなのかも、と。』
『え?』

オレは思わず笑うのをやめて、天野の顔を見たっけ。
でも、天野は真剣な顔でオレを見上げたまま

『わたしは…本当にタヌキなのかもしれませんよ。』
『………』
『………』

次の瞬間、オレは吹き出してしまって。だって、一瞬でもそんなこと、信じてしまった自分が思わずおかしくなってしまったから。天野は……多分、天野も……

あの頃から、天野の顔がどんなに変わったっていうんだろう?
思い浮かべても、祐一には北川の言う言葉がよく分からないでいた。
天野は……天野で……
……オレにとって、天野は……

「……まあ、付き合ってるのはお前らなんだから、どう付き合おうと勝手だけどな。ただ……」
「だから、北川……」

祐一は首を振ると、空缶を握りしめて立ち上がった。
そして、北側に向き直ると、

「あのな、オレと天野は……」
「……あ」

その時、北川が祐一の後ろ、何かに気がついたように声を上げた。
そして、手を挙げると大きく振って

「お〜〜い、天野〜〜」
「………え?」

祐一が驚いて振り返ると、北川の目線の先、小さな姿が校門の方からこっちに向かって歩いているのが見えた。
その姿……美汐は手を振る北川に気がついたように、一旦立ち止まって二人の方を見た。
顔は逆光で祐一からはよく見えなかった。

「……こんにちは。」

美汐はそのまま、ゆっくりと同じ足取りでまた歩き出すと、ベンチの前まで来ていつもの無表情に挨拶をした。

「おう、こんにちは、天野。」
「……やあ。」
「……はい。」

北川と、そして祐一の挨拶に、美汐はいつもの様にうなずいて答えた。
一瞬、その視線は祐一に向けられたが、すぐに北川に美汐は向き直り

「……休講ですか?」
「おう。参っちゃうよ。このために朝から来てるのにさ。」
「……そうですね。」

小さくうなずく美汐。その表情はいつもの無表情で、美汐が何を考えているのかは判り難い。。
北川は、そんな美汐にちょっといたずらっぽく笑みを浮かべて

「そういえば、さっき相沢と話してたんだけどさ。」
「……はい。」
「一昨日の飲み会だけど」

北川の言葉に、美汐は一瞬、祐一を見た……ような気が、祐一はした。

「天野、ずいぶん飲んでたよな?」
「……はい。」

しかし、答えた美汐はもう既にいつもの表情で

「あまり覚えていませんが。」
「ほんと?」
「はい。水割りを3杯いただいたとこまでは覚えているのですが。」
「……俺が見た時は、ストレートで飲んでたけど。」
「……そのようですね。全く覚えていないのですが。」

美汐は首をかしげると、小さく振ってみせた。

「初めてかもしれません、あそこまで飲んだのは。」
「かもな。天野、結構強いから。」
「……そんなことは、ないです。」
「そうか?多分、相沢と同じくらいかと思うけどな。」
「……そんなことはないだろ。」
「……それはないと思います。」

二人は同時に、しかし目線も合わさずに言った。

「……ふーん。」
「………」
「……結構強いと思うけどな。」

北川はちょっと首をかしげながら、でもにやっと笑うと

「…でも、飲み会の終わり頃には記憶がなかったわけだ?」
「はい。」
「で、相沢のうちに泊まったと。」
「………」

美汐は北川の顔を無表情に見上げた。
そのまま、顔色一つ変えずにちょっと首をかしげた。

「……もう家に戻れる時間ではなかった、と思います。」
「そうだな。」
「ですから、泊めていただいたのだと思います……覚えていませんが。」
「……そうか?」
「多分。記憶がないので、はっきりとは言えませんが、多分。」
「……ふーん。」
「……それだけです。」

美汐は無表情なまま口を閉じた。
いつもと変わらない顔で……

祐一は思わず美汐の顔を見つめていた。
美汐は祐一に目を合わさず、ただ北川の顔を見あげていた。
いつもと変わらないその表情……

『……何もなかった。そうしませんか?』

いつもと同じ口調。いつもと同じ表情。

『あるはずがないのだと、思うんです。覚えていないし…覚えていないからこそ、そう思うことにした方がいいと思うんです。』

あの頃と同じ、感情を読ませない無表情。
あの頃と同じ、その……

『…相沢さんは、どうか強くあってくださいね』

……あの頃と……
 

祐一はもう一度、美汐の顔を見つめた。
わずかに赤みの差した頬……その頬は、日差しにわずかに分かるナチュラル系のファンデーション。あの頃は何もつけていなかったその小さな唇には、ナチュラルレッドの口紅。
……背がちょっと大きくなったのかと思っていたけど……そうか、少し高いヒールの靴だったんだな…
それに、わずかに香る…布団にも残っていた、この甘い香りは……

『……私たちは、もともと……そういう間では、ないはずです。なかったはずです……』

『そうした方が…いいと思うんです。そうした方が…』

いつもと変わらない……
……そんなわけがないじゃないか……?
その頬も、その髪も、その瞳も……その揺らめきも……
そんなこと、オレにも分かってはず……

……なのに……

祐一は思わず美汐から空へと顔を上げた。
思わず、目をつぶって振り向いた。

「……そういえば、オレ……学生課に用があるんだった。」
「……用?」

驚いた声の北川に、でも祐一は振り向かなかった。
……振り向けずに

「……授業始まる前に、行って来るわ。じゃあ。」
「お、おい、相沢?」
「………」
「おいっ」
「……また…な」

そうつぶやくように言うと、祐一はわずかに手を挙げると、後ろの建物の中へと消えていった。
そんな祐一を黙って見送った北川は、肩をすくめながら

「……変なやつ。」
「………」

美汐は返事をしなかった。
ただ、北川の耳には、かすかに何か、ため息のようなものを耳にした。

「……天野?」
「……はい」

北川は美汐の方へ振り向いた。美汐はそんな北川を見上げた……

「……そういえば、わたしも……」
「……ん?」
「……次の授業の準備に、早く来たのでした。」
「……あ、ああ……そうか。」
「はい。」

言って、美汐は北川に小さく頭を下げ

「…では、また……北川先輩。」
「……おう。」

北川も美汐に手を振った。
美汐はもう一度、小さく頭を下げると図書館の方へと歩いていった。

北川はそんな美汐の姿が建物の角に消えたのを黙って見送った。
それから右手をわずかに振り上げると、コーヒー缶を後ろへと放り投げた。

カーーーン

音を立てて、缶はゴミ箱の中に収まった。
北川は振り返ってそれを見届けるとベンチに座り込み、祐一の…そして美汐の消えた方を順に見ると肩をすくめながら

「……今頃から…何の用事なんだよ、二人とも?」

そうつぶやいた北川は、空を見上げた……抜けるように青い空を。

「……あいつら、本気で……ガキだな。まったく……」

北川は苦笑を浮かべながらまたつぶやいた。
 
 

<後半へ続く>


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