恋はいつだって唐突だ


恋はいつだって唐突だ。
でも、それはあまりに唐突だったので、
オレは不覚にも休み時間の惰眠の中にいた。
だから、誰かが肩を揺らすのを、しばらく気がつかなかったのだ。
「祐一、祐一ってば。」
「……へ?」
やっと目が覚めて、顔を上げたオレの目に映ったのは、名雪の顔だった。
「放送だよ。お母さんが、わたしたちにすぐ電話しろ、だって。行くよ。」
「…お、おう。」
さっさと駆け出す名雪を追って、オレは正面玄関へと駆けおりた。
そこには、学校でただ一台の公衆電話があるからだ。
先に駆け出した名雪が、もうカードをさしこんでボタンを押していた。
「…なんだろうね、電話しろなんて。」
「さあ。実の娘が分からないことが、オレに分かるはずがない。」
「…ん、もう、祐一…」
名雪はちょっとまゆをしかめたが、ちょうどその時、電話に誰かが出たらしく、
「あ、もしもし?」
と、受話器を持ち直した。
「…あ、お母さん。どうかした?」
「………」
「……え!?」
と、名雪らしからぬ、すっとんきょうな声。
…次の瞬間、自由落下する受話器をオレがあわてて拾い上げた時には、
名雪の姿は既に玄関を越え、外の光に消えていた。
…内履きを履き替えてけよ。
思いながら、オレは受話器を持ち直し、
「えっと、もしもし?」
「あ、祐一さん?」
受話器の向こうは…秋子さんの声だった。
一瞬、そうは分からなかったのは、思えばそれが、初めて聞く、秋子さんの興奮した声だったからに違いない。
「あっと、ええ。」
とまどうオレに、秋子さんは早口に
「祐一さん、驚かないで聞いてくださいね。今、真琴が…」
…そこまでしか、オレの耳には入らなかった。
次の瞬間、オレは玄関を飛び出していた。
…人のことは言えない。やっぱり、靴を履き替えず。

それからどう走ったのか、覚えがない。
どのくらいの早さでたどりついたのかも、覚えていない。
ただ、ドアを開けて家の玄関に飛びこんだ時、
酸欠でぼんやり膜がかかった視界に、
オレよりもほんの少し前にたどりついていた名雪が、
誰かを抱きしめて泣きじゃくっているのが、見えた。
「……あぅー、名雪、どうしたの?」
「………」
「苦しいよー、名雪ー」
「………」
ただ泣きじゃくり、声もでない名雪。
その向こうに、やはり目を腫らしている秋子さん。
そして、名雪に抱きつかれて目を白黒させているのは…
夢じゃない。
それは間違いなく、真琴、だった。

「……帰って…きたんだ…」
ようやく出たのだろう、かすれた名雪の声。
「あぅー…当たり前でしょ、あたしの家だもん。」
「……うん」
泣きながら、うなずく名雪。
赤い目の秋子さんも、うなずく。
やっぱり涙で目をかすませたオレは、努めて明るい声を装いながら、真琴の頭をぽんっと叩く。
「何が『あたしの家』だ、ばか。居候のくせに。」
「…あぅー、痛い…」
叩かれた勢いで名雪の肩で鼻までつぶした真琴は、うらめしそうに顔を上げる。
「………!?」
と、いきなり驚いた顔になり、あわてて名雪を、秋子さんの顔を見あげた。
まるで助けを求めるように。
そして、それから
不信感に満ちた顔で
他人を見るような眼差しで
脅えたような瞳で
おずおずとした声で
オレに、言った。
「…あぅー…あんた、誰?」
「……!?」
「ねえ……名雪の知り合い?ねえ?」
そして真琴は、凍りついたオレから、やはり凍りついた名雪と秋子さんへと、また助けを求めるような眼差しを向けた。

夜の街。
「おいしかったわね。」
「うーん、でも、お母さんの料理のほうがおいしいと思うよ。」
「真琴も、そう思うー」
楽しそうに歩く、秋子さん、名雪、そして真琴。
その少し後ろを、オレはまだ呆然としながら歩いていた。
『ねえ、今日は外に食べに行こうよ。ほら、あの時の店。』
『あぅー、さんせーい』
『了承』
あれからそんな会話があって、みんなで思い出のレストランに行った帰りだった。
ほんとのところ、真琴が前のことをどう覚えているのか、とか
元のようにものを食べたりできるのか、とか、
オレはちょっと不安だったのだが、
真琴はその店に来たことは覚えていたが、
その時自分はどうだったか、なんてほとんど記憶にないらしく、
それどころか普通に箸やナイフ、フォークを使い、
名雪の倍は食べる始末。
名雪など、またもちょっと涙ぐんでは、
『えへへ』
なんてごまかし笑いをするし、
オレもそんな真琴の、
そしてみんなの姿を見ると涙が出そうになった。それは確か。
確かなんだが…
食事の間も、真琴はほとんどオレの方は見なかったし、たまに見たその眼差しは、おどおどしたまま。
一方、名雪たちの会話には、
『あぅー』
なんて言いながら、うれしそうに口を挟んでいる、そんな真琴の姿を見せられると…
「あ、これこれ。ねえ、これ、やりましょう。」
そんなオレの思いをよそに、秋子さんが、若干、わざとらしく言い出した。
それはそうだろう。本当は最初から、それが目的だったんだから。
「あ、プリクラだー。」
名雪も、棒読み風に答えると、真琴を振り返って
「うん、みんなで撮ろうよ。ね、真琴?」
「あぅー…わたしも入っていいの?」
真琴は、ちょっととまどうように名雪と、秋子さんの顔をうかがったが、
「もちろん。」
「…真琴も一緒に撮るっ!」
うれしそうに叫んで駆け寄って、3人はフレームを選び出した。
その姿は、本当の家族のようだった。
…真琴。昔、お前が望んだのは、こんな暖かさだったんだよな。
そして、お前は帰ってきて、それを手に入れてる。
秋子さんと、名雪と…真琴。暖かい、人との繋がり。
…じゃあ、今のお前にとって、オレは何なんだ?
お前に忘れられ、他人のような眼差しを向けられるオレは?
オレとお前の繋がりなんて、今のお前にとって…
「なにぼんやりしてるの、祐一。」
いつの間にか、名雪がオレの腕を掴んでいた。
「あ、ああ」
「ほら、早く来ないと、一緒に写してあげないよ。」
「いや、オレは…」
「ほらほら」
強引な名雪に引っ張られて、オレはカメラの前に立たされていた。
「はい、撮りますよー。ほら、真琴は祐一さんと並んで。」
「それじゃあ、お母さん、はみ出ちゃうよ。」
「じゃあ、お母さんは後ろでいいからね。」
「じゃあじゃあ、わたしは前ね。ほらほら、2人はもっとくっついて。」
張り切る秋子さん、名雪に並ばされ、撮った4人のプリクラは
思い切りはしゃいで盛り上がる名雪、秋子さんはともかく、
2人に無理にオレと並ばされ、くっつけられて当惑している真琴と、
それを知ってて、どんな顔をしたらいいのかわからないオレ。
何度撮り直しても、それは「なごやかな水瀬家一同の家族写真」には、
とうてい見えない代物にしかならなかった。

夜10時すぎ。
名雪はいつものとおり、しばらく前にあくびをしながら二階へ上っていった。
真琴も、そんな名雪にくっついて、同じく二階へ消えていた。
居間には、オレ一人。
何もする気にもなれず、眠る気にすらなれぬまま、ぼんやりとソファーに寝転んで天井を眺めていた。
「…あら、祐一さん」
「…あ、秋子さん」
風呂上がりの秋子さんが、寝間着姿で戸口に立っていた。
「まだ居間に電気がついてるから、どうしたのかと思って…眠れないんですか?」
「ええ、まあ…」
「まあ、そうでしょうね。彼女が帰ってきたんですから。」
「………」
…この人は本気で言っているのか、それとも、分かっててやっているのか?
「…ねえ、秋子さん」
「はい?」
「………いえ、いいです。」
秋子さんの本心は、まだまだオレには読めそうもない。
それに、今はそれは問題じゃない。
「…秋子さん、真琴のことだけど…」
「真琴、帰ってきても、前と全然変わりないですね。にぎやかで、ちょっとあまのじゃくなところがあって、でも本当は素直で。名雪といると…姉妹みたい。」
「姉妹…」
真琴と名雪の姉妹姿が頭に浮かぶ。
感じとしては、名雪の方がお姉さんだな。
名雪はなにかと世話焼きだからな。
真琴の方は、そんな名雪に『あぅー、うるさいー』とか意地張りながら、結局は甘えることだろう。
あいつは本当は、寂しがりだから。
でも、オレは…
「…そうですね。本当に、そうですね。」
「……祐一さん?」
つぶやきながら立ち上がったオレに、何かを感じたのか、秋子さんは心配そうな瞳を向ける。
「…オレ、もう寝ます。」
「……そうですね。それがいいですね。」
にっこり笑った秋子さんの横をすり抜けて、オレは早足で階段に向かう。
…顔を、秋子さんに見られたくて。
「じゃあ、おやすみなさい。」
階段を数段上ったところで、秋子さんの声。
「……秋子さん。」
秋子さんからは見えない階段の暗がりで、オレは足を止めた。
「はい?」
「……真琴のこと、前のように置いてやってくれますか?」
「…もちろんです。だって…私たちは、家族ですもの。」
「……そう思っててやってくれますか?これからも…ずっと?」
「ええ、もちろん。」
秋子さんのやさしい声が、今のオレにはうれしかった。
本当のところ、秋子さんがそう答えてくれることは、聞かなくても分かっていた。
でも、今のオレには、それを確認するくらいしか…
「…ありがとうございます…本当に、これからもお願いします。真琴は、あいつはこんな家族の温もりが欲しくて、きっと戻ってきたんだから…」
「……祐一さん?」
秋子さんの声が、階段に近づいてきて、オレはあわてて階段を上る。
「………そうなんでしょうか?」
その声が階段の下から響く頃、オレは自分の部屋の前まできていた。
オレは部屋の扉を開けながら、
「お願いします。」
「……本当に、そうなんでしょうか?」
秋子さんの声は、ドアのすき間から聞こえたが、オレはそのままドアを閉じ、ベットに身を投げだした。
…それっきり、秋子さんの声は聞こえなかった。

……今何時なんだろう。
多分、夜中は過ぎている。
結局、オレは眠れずに、ベットに横たわっていた。
夜が早い水瀬家は、既に家中、静まりかえり、いつものように近所からも、何の物音もしていない。
…いや。今日に限ってどこかからか、何かかすかに音がする。
ごそ、ごそごそ
…どうやら、名雪の部屋らしい。誰かが動きまわる音。
それが名雪じゃないってことは、時間からして明白だ。
ギ、ギギー
と、名雪のドアらしき音がして、誰かは廊下に出てきたらしい。
オレは、それが誰かを見定めるべく、ベットを降りた。
そのまま、ドアのところまで、足音を殺して近づくと、すっとドアを開け…
ゴツン
「……あいたっ……あぅ……」
「……真琴!?」
ドアは見事に命中し、頭を抱えた音の主の姿が、オレの部屋の明かりに浮かび上がった。
「……何してるんだ?」
「…え?あ、え?」
オレの声に、真琴は驚いて飛び下がる。
オレは、そのまま逃げようとする真琴の後ろ襟を捕まえて、
「またオレに悪戯を…」
…言いかけて、やめた。
真琴の顔が、脅えていた。
「…何もしやしないよ。ほら、手を放すから。」
オレは寝間着から手を放すと、
「でも、こんな夜中にどうしたのか、それだけは言ってくれないか。さっき、名雪の部屋に入ってたろう?」
「……う、うん」
真琴が答えた。
その顔は、暗い廊下で見えにくいけれど…目が、おどおどと不安そうに動いている。
「どうしたんだ。何か、名雪に頼み事でも?」
「う、ううん」
真琴はあわてて首を振ると、小さな声で
「…ぴろが」
「ぴろ?」
「う、うん。ぴろがいないの…」
そういえば、今日は朝以来、ぴろの姿を見ていない。
「そういえば…オレは朝から見てないぞ。」
「あたしが今日、あの丘で気がついた時には、ぴろはいたの。一緒に街に降りてきたんだけど…」
「それっきり、いないのか?」
「…うん。」
…だからって、名雪のとこにいるわけはないだろう。もしいたら、名雪は大騒ぎでまだ寝てないか、アレルギーでまだ眠れないか、どっちかのはずだから。
「それで探しているのか?」
「う、うん…あなたのところには…いないよね?」
「……ああ」
…声が詰まる。
こんな他人のような言葉、真琴から聞いたことなんてなかった。
いつもいがみ合うか、あるいは甘えてくれた真琴が…
「…残念ながら。」
「あぅ……」
闇の中、ぼんやり映る真琴の顔に、落胆の色が浮かぶ。
「家の中、他は探してみたか?」
「うん」
「いないのか?」
「………」
無言でうなずく真琴。瞳に涙がたまっている。
「そうか…ベランダは?」
「ベランダ?ううん、まだ。」
そういえば、真琴の部屋からはベランダには出れない。
出られるのは、秋子さんの部屋と、名雪の部屋と、そしてオレの部屋だけだ。
「探してみるか?」
…多分、いないとは思うが。いるなら、声が聞こえるはずだし。
「………」
途端に真琴の顔が不安そうになる。オレの部屋に入るのが、不安なのだろう。
オレは、精一杯の笑顔を作ってみせながら、
「じゃあ、オレがちょっと見てみるから、ここで待ってろ。」
「………え、でも…」
真琴が口の中で何か言っているのを無視して、オレは歩いていって、ベランダへ続く窓を開けた。
外はあたたかい春の宵。満月にはほんの少しだけ欠けた月が、あたりを明るく照らしていた。
「……いないな。」
窓を閉めて、オレはドアの外、真琴の方に振り返り、
「やっぱりいないよ、真琴…って、何してるんだ。」
「えっ?」
部屋の外にいたはずの真琴は、いつのまにやらベットの中にいた。
「えっ、あっ…えっと……あぅ…」
言いながら、真琴はあわてて体を起こし、
「あぅ…ごめんなさい。」
言いながら、ベットを降りようとする。
オレは急いで押し止めた。
「いや…いいよ、いいんだ。」
考えてみれば、真琴は長い間、この部屋で、このベットで過ごしていた。
だから、このまま一緒にいたオレを思い出したか、そうでなくとも思い出すかもしれない。
「そのベット、気に入ったのか?」
「あぅ…ううん、そうじゃなくて…んー…でも…」
「でも?」
「でも…何か懐かしい、あったかい、そんな感じがする。」
「そうだろ、そうだろう?」
「あぅ…痛い…」
どうやら、オレは掴んだ腕に力を入れていたらしい。
「あ、ああ、ごめん。」
オレはあわてて手を放すと、
「ほら、いいから寝ろよ。」
「………あぅ…」
真琴は、ちょっと考えていたが、
「…うん」
そのまま、ころんと寝転がって、シーツを頭からかぶった。
やがて、顔を出すと、首をうれしそうにぶるぶるっと振って、
「…やっぱり、懐かしい感じ。」
「そうだろう。お前、よくここで寝てたから。」
「うん。そんな気がする。覚えがある…ような、気がする。」
「そばに誰か、いつもいなかったか?覚えてないか?」
一縷の期待を胸に、オレは尋ねた。
「……うん。誰かいた、気がする。」
「誰だ?」
真琴は、首をかしげると、
「……わかんない。名雪か、秋子さんかな…う?ん…」
「ほんとに?ほんとにその2人なのか?」
「あぅ?……思い出せない。」
…駄目か。やはり真琴に、オレの記憶はないのか。
「あ」
と、思い出したように真琴が体を起こす。
「あと…」
「うん、あと?」
思い出したのか!?
「あと、ぴろがいたと思う。」
「……ぴろか。」
オレは思わず足の力が抜けてしまった。
「あぅ…ごめんなさい…」
オレの様子に、真琴が申しわけなさそうに顔を落とす。
…その姿が、余計オレには、痛い。
「………真琴。」
「…え、なに?」
「そこで寝てもいいよ。」
「え?」
一瞬、真琴は顔を輝かせたが、すぐにオレの顔色をうかがうように見上げると
「…あぅ……でも……」
「心配するな。」
オレはそんな真琴に、笑顔を作ると
「オレは他で寝るからさ。」
「………」
「じゃあ、ゆっくり寝ろよ。」
「……ありがとう。」
「気にするな。ああ、ぴろはきっと、朝になったら帰ってくるから。」
「うん。」
ゆっくり戸口へ向かうオレを、シーツから出た真琴の目がずっと追ってるのを感じる。
「………じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい。」
戸を閉める瞬間、真琴のほっとしたようなため息が、聞こえた。
オレは、黙って、階下に降りていった。

いつのまにか、朝が来ていた。
結局、一睡もできなかった。
できるわけがない。こんな気持ちで。
うれしさ。悲しさ。不安。心配。
たくさんの気持ちが渦巻いて、とりとめのない考えばかり、浮かんでは消える。
その上、典型的な徹夜明けの気だるさに、オレは、外が白々と明るんで、やがて空が青く染まるのを、見るではなく眺めていた。
だが、それもしばらく前のこと。
トントントン
まだ沈んだ気分でいたオレの耳に、誰かが階段を降りてくるのが聞こえてきた。
言うまでもなく、秋子さんだろう。もう朝の用意の時間らしい。
…秋子さんと顔を合わせたくないな。今は。
オレは秋子さんの足音が、居間の前を通りすぎるのを見はからって、そっと廊下に出た。
そしてそのまま、玄関へ行って、架けてあった薄手のコートを羽織ると、そっと玄関のドアから外へと抜けだした。

春とはいえ、早朝の空気はまだ冷たい。
まだ低い太陽が、通りの向こうに顔をのぞかせていた。
そして…その太陽を背にした、小さなシルエットが、水瀬家の前に立っていた。
「………天野」
「………はい。」
それは、天野美汐だった。
「…早いな。」
「…一応言っておきますが、歳のせいじゃありませんよ。いつもはこれほどでもありません。」
いつもの軽い応酬に、こんな気分のオレも、ちょっと笑えた。
「そういう言い訳するところが、おばさんなんだよな、天野は。」
「大人っぽいといってください。」
そう返す天野の顔は、昔よりも少しだけ、柔らかい表情に見える。
「………」
そして、天野は黙った。
オレも、黙った。
「……真琴が、帰っているのですね。」
いつ、誰から聞いたのだろう。まだ、家の者しか知らないはずだが。
「……ああ。」
「……そうですか。」
「………」
無言のオレに、天野は小さく首をかしげる。
「……うれしくないようですが。」
「……いや、そんなことはないさ。」
「…そうですか。」
言葉を切ると、天野は水瀬家を見つめた。
「…また、友達になれるといいのですが。」
「…いや、その必要は、ないよ。」
「…?」
不思議そうに見つめる天野に、オレは答えた。
真琴は、天野を覚えている。あいつが、最後にできた本当の友達を、忘れるわけがない。
悲しいほどにオレはそれに確信があった。
「あいつは、天野を覚えているから。」
「…どういうことですか?」
「あいつは、何もかも覚えてる。天野に初めて会って友達になった時のこと…あの、最後の日に会ったことも。全部。」
「……そうですか。」
天野の顔に一瞬浮かんだ驚きは、もう消えていた。
「………」
「………」
そのまま、また、沈黙が流れる。
天野はまた、家の方を見つめていた。
多分、それにしてはなぜオレがうれしそうでないのか、天野も不思議に思っているのだろう。しかし、オレが言い出さないから聞かないのだ。
それが、オレと天野の、今も続く不文律の一つ。
「…真琴は、すべて覚えてた。」
「はい。」
オレは、ようやく口をあけた。
「ほとんど覚えてるんだ。覚えてないのは、その前の、自分が「真琴」じゃなかった頃のことと、自分が前にどうなったのかってことと、そして…」
「………」
「……オレのこと、全部」
天野の目が、一瞬、大きく広がった。
「……相沢さんのことを全て、ですか?」
「そう。全部だよ…全部だ。」
「………」
天野は、また黙り込む。
そんな天野の目を、オレは覗きこんだ。
「なあ、天野。」
「…はい。」
「今までに…帰ってきたことって…あるのか。」
「………」
天野は、一瞬目を伏せると、真剣な眼差しをオレに返した。
「…相沢さん。」
「ああ。」
「…相沢さんは、今、本当の奇跡を見ているんです。」
「それは…ない、ということなのか。」
「…はい。」
「じゃあ、今の真琴は…」
「…妖狐たちの思いの集まりなのかもしれません。」
「…前に天野が話したような?」
「…はい。でも、そうでないのかもしれない。違う妖狐の一人なのかもしれない。伝承も、何も教えてくれません。」
「じゃあ…」
オレの頭を、恐ろしい、つらい考えがよぎる。
「じゃあ、もしかしたら、真琴は、また…」
「…かもしれません。あるいは、そうならないかもしれない。わたしには…分かりません。」
悲しげに、うなずいて
「でも…」
…と、天野は空を見あげる。
「…でも、わたしは、相沢さんがうらやましいです。」
「うらやましい?」
思わず、オレは天野をにらむ。
「………」
しかし、それ以上は、何も言えなかった。
天野の瞳には、しばらく見なかった悲しみがたたずんでいたから。
天野のところに来た妖狐がどんなやつだったのか、オレは知らない。天野は一度も語ろうとしなかったし、オレも聞こうとしなかった。それが天野とオレの、もう一つの不文律だった。
オレが真琴が戻ってくるのを願ったように、天野もそいつが帰ってくるのを、オレと同じように、あるいはオレ以上に願ったに違いない。幾日も幾日も、望み、そして祈ったに違いないのだ。
でも…
でも、天野のもとに、そいつは帰らなかった。
…そして、オレのところに、真琴は、いる。
「…すまない。」
「…いえ。」
オレが目をそらすと、天野は顔を落として、
そして再び向き直った顔は、いつもの天野だった。
「……なあ、天野。」
そんな天野に、オレはもう一つだけ、聞きたかった。
「…はい。」
「…どうして、真琴はオレのことだけ、忘れてきたんだろう。」
「………」
「妖狐たちは、いつも記憶をなくして、それがほんのつかのまのものと多分知りながら、人間としての生を手に入れる。そうだろう?」
「はい。」
「じゃあ、なぜ真琴は、昔のことを覚えているんだろう。なぜ、オレのことだけ忘れているんだろう。」
「それは……わたしには分かりません。申し訳ありませんが。」
言って、しかし天野は視線を地面に落とすと
「でも…こうも考えられると思います。」
「うん。」
オレは、天野の腕を掴んだ。
「何でもいい、言ってみてくれ。」
「…はい。」
天野は、オレの目を覗きこんだ。
「…人魚姫の話を知っていますか?」
「………はあ?」
思わず、声が大きくなる。
「何を言って…」
「人魚姫です。相沢さん。」
しかし、天野は真剣なまま。
オレはそんな天野に気圧されて
「……ああ、知ってる、と思う。」
「どんな話でした?」
「…人魚姫が、海で王子様を助けて、その時、王子にひとめぼれする。で、魔法使いに頼んで、人間に変えてもらうんだろ、確か。」
「はい。」
「そのかわりに、魔法使いに声を取られた人魚姫は、王子の前に出るけど自分が人魚だとは言えない。声が出ないもんな。」
「そうです。でも、薬には期限があって、それまでに王子の愛を得られるか、あるいは王子を殺さないと、人魚姫は泡になって消えねばならない。それで…」
「王子を殺そうとするが、人魚姫には殺せない。とうとう、人魚姫は泡となって消えてしまう。」
「違いますよ。消える前に、救われて天国に行けるんです。」
「……どっちにせよ、救われないな。で、それがどうしたんだ。」
尋ねたオレに、しかし天野はペースを変えずに
「…ギリシャ神話でも、変身する話は多いんです。日本の伝承にも。その多くで特徴的なのは、いいですか、やはり変身には代償が必要だということです。人魚姫での「声」のように。」
「………」
「そして、その代償は、多くが”かけがえのないもの”だということです。例えば、人魚姫の声は、王子に愛を告げるために必要なだけでなく、王子が人魚姫に関して覚えている唯一の証拠であり、誰もが認める美しいものだったのです。妖狐たちにしても、彼らが人間としての生を望んだその理由、それ自身が彼らが払った代償、記憶の中に、思い出の中にあるのに、それを犠牲にしなくてはならない。」
「…つまり?」
「つまり、人としての生のためには、犠牲が必要なのだということです。それも、ただの犠牲ではなく、その…」
「…あぅ?」
急にオレの後ろから、声。
天野はそこで言葉を切った。その目は、声の主を見つめていた…
優しく。
「………?」
声の主は、何かを思い出すように、じっと天野を見つめていたが、やがて、ゆっくりとやってきた。
「………」
天野は、黙って、両手を広げる。
どさっ
小柄な天野の体には、それは大きな衝撃だったはず。
でも、黙って天野は真琴を受け止めていた。
「覚えていて、くれたんですね。」
「…あぅ…だって、友達だもん。」
「そうですね。友達、です。」
しっかりと真琴を抱きしめる、その肩が、少し震えていた。
「うん。………でも、ごめん…名前、思い出せない…」
「いいんですよ、真琴。名前なんて。美汐。天野、美汐です。」
「うん!美汐…久しぶり。」
「はい。久しぶりですね。元気ですか?」
「もちろん!」
うれしそうな真琴。
柔らかな顔つきの、そしてちょっと涙ぐんだ瞳の天野。
オレはちょっとうれしくて、そして…
…そして、その場にいられなかった。
オレは、2人に背を向けると、黙って歩いていった。
行く先など、考えもせず。

どうしてここに来たんだろう。
意識したつもりはなかったが、やはりオレはここに来ていた。
ものみの丘。
雪はとっくに消え、青々としたその場所は、あの日の面影などほとんどない。
斜面を吹き上げる柔らかい風が、頬を撫でる。
オレは、草の生い茂る一角、小さな木の下に、座り込んだ。
だいぶ上った太陽。その木漏れ日が、暖かい。
オレは木に寄りかかると、心地よさに、目を閉じた。

ちりん、ちりん
『ねえ?祐一?』
『なんだよ、真琴』
『…何でもない。』
『何でもないなら呼ぶな、馬鹿。』
『あぅ…ほんとは、あるの。』
『だったら、言えよ。』
『うん……』
ちりん、ちりん
『ねえ。』
『だから、なんだよ。』
『ぴろ、どこ行ったんだろう。』
『どっか、遊びにでも行ったんだろ。じきに戻ってくるさ。』
『うん……』
ちりん、ちりん
『ねえ。』
『…今度はなんだよ。』
『ねえ…ぴろの首にさ、鈴、つけようよ。』
『鈴?』
『うん。そしたら、どこに行っても分かるでしょ。』
『うーん…でも、ぴろはよろこばないと思うぞ』
『えー、なんでよー』
『ネズミに逃げられちまう。』
『えー、ぴろはネズミなんか獲らないよ。』
『獲ってたぞ、この前。オレの部屋の前に、死骸置いてあった。』
『あぅー…知らなかった。』
『第一、そんなのつけたら、うるさくて名雪にばれちゃうだろ。そしたら、家に置けなくなるぞ。それでもいいのか?』
『あぅー……』
ちりん、ちりん
『…でも、つけたい。』
『…だったら、その鈴、ぴろにつけてやるか?だったら、考えてやってもいい。』
『えーー……あぅー………やだ。』
『なんでだよ。どうせ、安もんなんだから、また買ってやる。』
『あぅ………ううん、いい。』
『なんでだよ…』
『だって………』
ちりん、ちりん
『……だって………』
…ちりん、ちりん…

…オレは目を覚ました。
それは夢。
まだ真琴が元気だった頃、部屋でマンガを読みながら交わした、他愛のない会話。肉まんの香り。鈴の音。
オレはまだその余韻を確かめるように、もう一度、目を閉じる。
耳の奥、あの日の鈴の音が響く。
ちりんちりん
まるで、今、鳴ってているように。
…ちりんちりん
ちりんちりん
「………!?」
確かな鈴の音。
ふいに日が陰ったのを感じて、オレは目を開けた。
「………あっ」
見下ろしている大きな目と、目が合った。
その腕に結ばれた鈴が、ふいにそよいだ風に鳴る。
ちりんちりん
「………真琴。」
「………うん。」
うなずいて、真琴はオレの前に座りこんだ。
ちりんちりん
動きで、鈴が鳴る。
「……その鈴……」
「……うん。秋子さんが、さっき、出る時、つけてくれた。」
その音、その汚れ。それはまぎれもなく、オレが真琴に買ってやった鈴だった。
…あの日、どうしても捨てられなくて、持ち帰った鈴。机の引き出し、一番奥へしまって、めったに、だけどほんのたまにだけ、そっと見つめていた鈴。
その在りかを、秋子さんは知っていたのだ。
「………」
鈴を見つめるオレに、真琴は一瞬、言いよどんで、
「……この鈴…あなたが、あたしに買ってくれたんだって。秋子さんが。」
「……ああ。」
覚えてないだろうけど、それは本当だよ。
お前が、どうしても欲しいって言うから。
オレはもっといいものを買ってやりたかったけど、どうしてもってお前が言うから。
「……ごめんなさい。覚えてないの。」
「……ああ。」
この鈴を残して、消えていった真琴。今ここにいる、オレを知らない真琴。
真琴の、オレの思い出は、どこに消えてしまったのだろう。この鈴は、オレがこいつを買ったことを、オレがこいつを真琴にやったことを、覚えてくれているのだろうか。
…それが全部幻で、それが全部オレの思い違いで、それが全部オレの妄想だったら。その方が、よっぽどすっきりするだろう。
そうだ。全部、消えてしまえばいい。今すぐ、消えてしまえばいい。オレも消えてしまえばいい。オレは、真琴の幸せを望んだ。真琴が求めるものを、真琴が欲しかったものを、全部与えてやりたかった。
そして、秋子さん、名雪、そして天野。真琴が求めてやまなかった、暖かさ、家庭、友達は、今、もうここにある。
けど、オレは…オレは…
「………」
どのくらい、オレはそうしていたのだろう。
真琴が、落としていた目を上げて、オレを見た。
…その目に、光るもの。あふれそうな、涙の滴。
「………どうしたんだ、真琴!?」
驚き、オレは絶句した。
真琴の瞳から、涙が、ぼろぼろこぼれて落ちた。
「……どうして、どうして?あたし、どうして覚えてないの?
この鈴を、誰かにもらったことは、覚えてる。とってもうれしかったこと。うれしくて何度も鳴らしたこと。
あのベットで寝てたことも覚えてる。誰かがそばにいてくれて、ずっと安心してたこと。
プリクラ撮ったことも覚えている。みんなで初めて撮ったこと。みんな、うれしそうに笑って。わたしも、うれしくて笑って。みんなのあったかさがうれしくて。そして、誰よりもあったかい人が、一緒にいたから、うれしくて。
でも…全部、全部、それがあなただったんだって、そう、人から教えてもらうの。全部、あたしの思い出なのに。
昨日、名雪が見せてくれたプリクラに写っているのは、秋子さんと、名雪と、そして、あなた。わたしがいつも安心して眠ったあのベット、そばにいてくれたのはあなただったってこと、そして、この鈴をくれたのはあなただってことも、秋子さんが教えてくれて。
どれもみんな、あったかい思い出で。どれもみんな、あたしの一番大切な思い出で。みんなみんな、ほんとはあなたに繋がる思い出で。
なのに、どうして?どうしてあたしは覚えてないの?どうして忘れちゃったんだろう?いったい、あたし…あたしは…」
真琴の声が、涙に詰まる。途切れなく流れる涙は、頬を伝って地面を濡らしていた。
…消えたオレの思い出が、お前を苦しめていたなんて。オレはお前を幸せにしたかったのに。お前が欲しかったものをあげたかったのに。そして、今、お前はそれを手に入れたはずなのに。
苦しいのはオレだけだと思っていた。悲しいのはオレだけだと思っていた。だけど…
オレが。お前を幸せにしたかったオレが、オレの思い出が、お前を…
「…真琴っ!」
オレは、真琴を抱きしめた。それしか、オレにできることはなかった。今のオレには。
…いや、本当はもう一つある。オレはようやく、それに気付いた。
「……ばかっ!だからお前は馬鹿なんだよ!」
「……な、なんでよぅ…」
鼻をすすりながら、真琴が顔を上げた。
「昔のことなんか、昔のことでしかないんだよ。どうせお前は、そんなの忘れちまうんだから。」
「…忘れないもん…」
「忘れるっ!なぜなら、オレがこれから、新しい思い出を作ってやるから!」
「………あぅ?」
驚いて見上げた真琴の、その瞳を、オレは忘れないだろう。
「なぜなら、オレは…オレは、お前が好きだから。ずっと一緒にいたいからだよ!」
「………え?え?え?」
真琴の瞳が、大きく見開く。顔が、みるみる真っ赤に染まる。
「………あぅー」
分かっている。これは驚いて、とまどって、恥ずかしいからで、それ以上の意味は、今はないってことは。
だけど、構わない。これは、最初の一歩だから。真琴がオレを好きになる、最初の一歩なんだから。絶対、真琴はオレを好きになる。それは決まってることだから。もう決まってることだから。
天野の言葉が、頭に浮かぶ。
『…人としての生のためには、犠牲が必要なのだということです。それも、ただの犠牲ではなく…』
天野の言いたかった事は分かっている。そうなのかもしれない。真琴が戻ってくるために、犠牲にしなければならないものがあったとしたら、それが一番大切なものしか犠牲にならないのだとしたら、だから、オレの思い出を犠牲にしたのかもしれない…
でも、そうではないかもしれないし、結局、そんなのどうでもいい。
もしかしたら、また真琴はいなくなるのかもしれない。そしてまた、オレのことなど忘れて戻ってくるかもしれない。
でも、それでもオレは、真琴を好きになる。真琴もオレを好きになる。ただ、それだけのことなんだ。

「……にゃあ」
ふいに真上から、泣き声が聞こえる。
「ぴろ!?」
オレの腕の中から、真琴があわてて立ちあがる。
「ぴろ!どこ?」
「…にゃー」
見上げると、ちょうど真上の木の枝に、ぴろの不安げな顔。
「も?、そんなとこにいたの。降りてらっしゃい!」
瞳にたまった涙を拭くと、真琴が伸ばした両手の上、ぴろは不安そうな様子でそっと、そっと足を伸ばして…
…どさっ
「…ぴろ?重い……」
すっかり大きくなったぴろは、ちょっと真琴には荷がかち過ぎで、
でも、真琴はよろけながらも、しっかりぴろを抱きしめた。
「あぅー…もー、どこ行ったかと思ったじゃない…」
「…にゃー」
微笑む真琴の長い髪を、ふいに吹いた突風が、大きくなびかせる。
…まるであの日、ベールを飛ばした風のように、強い風が。
そうだ、真琴。
いつか、いつかお前にもう一度、ベールをかけてやる。
新しい、純白のベールを。
またお前が「一緒にいたい」と言った、その時に。
そしてきっとその時には、雪だるまじゃなくて、秋子さんと、名雪と、天野に証人になってもらおう。
もしもまた、お前が消えたって、
そしてまた、オレのことなんか忘れて戻ってきたって、
オレたちはまた互いを好きになって、そしてオレはお前にベールをかけてやる。
そして、ずっと一緒にいるんだ。
そのために、オレたちは出会うから。何度だって、出会うから。
そしてオレたちは恋をする。
だって

恋はいつだって唐突だから。

「……真琴。」
立ち上がりながら呼んだオレに、真琴はくるっと振り向いた。
両手でぴろを抱きながら。
「……なあに、祐一?」

まだ日が高いものみの丘を、暖かい風が吹き抜けていた。

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