Kanon/香里(名雪?)SS/

 十万ヒットの節目に。
 

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 音を立てないようにして鉛筆を置く。しん、とした教室。前の方にパイプ椅子で座っている顔しか知らない試験監督の先生――新採らしい――が退屈そうにしている。学年が違うのだから顔を知っているだけでも僥倖だろう。別に知らなくともどうということはないけれど。
 時計を見る。残り二十分。寝てしまおうかと思ったけれど、その前に一度答案をチェックする。最初から最後まで、一通り見てケアレスミスがないのを確認する。
(……あ)
 計算途中の掛け算にミスがある。何を考えていたのだろう、ニ×三が八になっている。しかもその問題が間違ってくると次とそのまた次の問題まで狂いが出てくる。解き方はカンペキにわかっているが、ただ、めんどくさい。
「……はあ」
 思いっきりやるせないため息をついて、香里は答案に消しゴムをかけ始めた。時間が残っているのが不幸中の幸いといえばそうなのだろう。そんなことを手を動かしながらぼんやりと考える。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

       “甘い手”

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 紙の上を躍る文字。数字と言葉で表されるたったひとつだけの答えを探すためのクイズ。
 それらを読み、解き、最適と思われる答えを解答欄に書き込んでいく。
 流れるように。
 留まることなく。
 数値をはじき出す。
 解答を導く。
 
 
 

 ―――自分の、存在価値を確かめるように
 
 
 
 

「終わったぁー……」
「終わったねー……」
 相沢君と名雪が同じような台詞と同じようなポーズで机に突っ伏す。……似たもの夫婦。
 テスト最終日。その最後の数学が終わったところで、教室の中は開放感に包まれている。
 三年生になって最初のテスト。受験生だとわかってはいるが、まだ今ひとつ実感がわかない――そんな時期。
 とりあえず目先のテストが終わった安堵感にしばし浸る。
「……英語と数学が一緒の日にあるなんてイヤガラセ以外のなんでもないよな」
「そうだねー……」
「燃え尽きてるな、名雪」
「そうだねー……」
「名雪、頑張ってたからね」
 横から口を挟む。どこかからかうように笑いながら。
「負けた方がなんでも言う事ひとつきくんでしょ? 相沢君」
「……なんで知ってる」
「だって、あたし名雪と一緒に勉強してたもの」
 さらりと言い放つと、相沢君が嫌そうな顔をした。
「……裏切り者め」
「何いってるんだか」
 そうこうしているうちに名雪が復活する。体を起こすと、何かを思い出すように視線を中空に彷徨わせ、ぽん、とひとつ手を打つと鞄を持って立ち上がる。
「あ、私今日から部活あるんだった」
「今日からか?」
「うん、だってインターハイ近いし」
「そっか」
「じゃあ、あたしも帰ろうかな」
 そう言って私も立ち上がると名雪の後を追うように歩き出した。しばし進んだ所で振り返る。
「相沢君は? どうするの?」
「北川待ってる」
「北川君、どうしたの?」
「掃除当番」
「どこの?」
「トイレ」
「そ。じゃね」
「またな」

「か・お・り〜」
 能天気な声と共に、後ろから抱きつかれる。重い。思わず立ち止まる。というか引き摺ったままで歩けそうにない。犯人は誰かなんてわかってる。というかそんな事をしてくる人間なんて一人しか知り合いの中にはいない。
「……名雪」
 何の用? と視線だけで問いかける。そんな香里に構わず、名雪は何故か抱きついたままうっとりしている。
 何か、遺伝子レベルで擦り込まれている何かが警鐘をガンガン打ち鳴らす。
「抱きつくの、やめてくれない?」
「え〜香里いい匂いで気持ちいいんだもん〜」
「それでもヤメテ」
「ぶ〜」
「とか言いながら更に腕に力込めるの止めてくれないかしら?」
「それよりさ、香里テストどうだった?」
「……いつも通りよ」
 名雪を引き摺ったまま(ある程度自分で歩いてくれているので)部室へ向かって歩く。なんだかすれ違う人達の視線が痛い。
「いつも通りだったら一番だ。すごいね、香里」
 無邪気な声。無邪気な言葉。本心からそう思っていることがわかる。
「いいなあ、頭良くって。ずっと一番」
「……そうかしら?」
「え?」
「勉強できるってそんなにいいことかしら?」
「ええ? それは……」
 戸惑いながら、名雪は言う。
「やっぱり、できないよりできる方がいいんじゃない、かなぁ……」
 できないよりはできる方がいい。それは、確かにそうかもしれない。けどね。
「……そうかもね」
 私からしてみたら、貴方の方が羨ましい。
 やんわりと、名雪の腕を押しのける。そして振り向くと、名雪がなんだか困った顔で私を見ていた。私は自分の後ろにあるドアを肩越しに親指で指して名雪に告げる。
「部室」
 あ、と名雪が口をあける。
「じゃあね」
「あ、うん」 
 イマイチ腑に落ちない顔をしている名雪を残して、部室の中に入って、少しだけ力を込めてドアを閉めた。
 

 ――次の日から連休を挟んで五日間、熱を出して私は寝込んだ。
 

 遠くで音が聞こえる。切れかけた電球みたいにはっきりしない意識の中で私はそれを聞いた。
 唐突に、意識が覚醒する。
 見間違えようのない、自分の部屋。体を起こした拍子に額に乗っていたタオルが落ちて腿の上辺りにある。ちょっと離れた所には洗面器。少し前まで栞がいた気がする。ヤケに楽しそうに自分の看病をしていた彼女を思い出して、軽く苦笑する。元気だというのは喜ばしいことだろう。時と場合によりけりかもしれないけど。
 また、音が聞こえた。夢じゃない。
「……栞?」
 返事はない。どこかに出かけているのだろうか。仕方なく、かけ布団を横にずらしてベッドから降りる。
 もう熱はほとんど平熱まで下がっている。それでも少しフラついたのは、ずっと横になっていたからだろう。体は重かった。
 玄関のチャイムはもう聞こえない。
「……誰かしら。っていうか栞ドコ行ったのかしら……」
 ドアのノブに手をかけて押し開けようとしたその瞬間、力を加えていないのに向こう側に開く。
「――あ」
 そこにいたのは、
「香里、元気?」
 名雪だった。学校の制服。
「鍵開いてたから、勝手に入ってきちゃった。てへっ☆」
「てへっ☆ じゃないでしょ……」
「ホントは玄関で栞ちゃんに会ったんだけどね。風邪薬切れたから買いに行ってくるって」
「あ……そうなんだ」
 名雪を部屋の中に招き入れて、ドアを閉める。ベッドに腰を下ろすと、名雪に「寝てないとダメだよ」とか言われて布団の中に押し込まれてしまった。
 手に持った鞄の中をなにやらがさごそやると、名雪はファイルを取り出してその中から何枚かのプリントを取り出した。
「あー……ありがと」
 ベツにいいのに、なんて思って、そんな風に思った自分を少し恥じる。わざわざ持ってきてくれたのに。
「後、コレ」
 名雪がさっき出したのとはベツに、一枚の紙を取り出す。幾つもの数字が並んでいる。
 どこか楽しそうな名雪の顔を眺めながら、名雪の手からそれを受け取る。
「……コレって」
「中間試験の結果。やっぱり香里が一番だったね」
 ……こういうのを本人以外にわたす担任もどうかと思う。
 私はざっと目を通した後、放り投げるようにそれを置いた。
「……どうしたの? 嬉しくないの?」
「さぁ、どうなのかな? でもこんな与えられたことをこなすだけなら誰でもできるわ」
「……そうかな?」
「こんな暗記だけのテストなんて機械にでもやらせてればいいのよ」
「わ、わ……」
「それでも、みんなはあたしのことをスゴイって言う。こんなの、その気になれば誰にだってできることなのに」
「……香里、なんだか大胆発言」
「熱のせいよ」
 熱なんてもうほとんどないくせにそう言ってみる。名雪は少し笑ってくれた。それから、近くに置いてある洗面器と濡れたタオルに目をつけてそれに手を伸ばす。
「あ……いいって」
「いいからいいから」
 冷たいタオルが私の額に置かれる。目を閉じて、そのタオルを目の位置まで下ろした。
 目を冷やすと気持ちいい。
「あ、祐一がね、鬼のカクラン……だって。どういう意味?」
「……相沢君、撲殺決定ね」
 

 いつか見た空のカケラ。
 小さなタマゴ。
 羽。
 

「香里はさ」
「……うん」
 目を瞑っていると、少しずつ、泥の中へ沈んでいくような感覚に捕われていく。
「なんかやりたいこととか、ないの?」
「……さぁ、なんだろね。忘れちゃったよ」
「栞ちゃんの姉じゃない《香里》は、どうしたいの?」
 子供がいる。あれはいったいいつだろう?
 いつからか、他人事のように俯瞰している自分がいる。
 妹の為だと言って、自分を見つめるのを放棄しかけている自分がいる。
 遠くて近い『過去』。
「香里、困ってる?」
「……ちょっと、ね」
 口元だけで笑ってみせる。
 どうして名雪を羨ましいなんて思ったか、漠然と雲のように決まった形を持たなかったものが、今なんだか形を成したような気がした。
「……ねえ」
「ん?」
「刷り込み、って知ってる?」
「刷り込み?」
「そ。インプリンティング。アヒルの孵ったばかりの雛とかが最初に見たものを親だと思い込む行為」
「そのくらい知ってるよ」
 名雪が口唇を尖らせる。それに軽く笑顔で私は応えた。
「香里はさ、鳥さんなんかじゃないよ」
「なんか、時々すごく自分を騙してるような気分になる時があるわ」
 人は生まれてきた以上、生きなければならない。しかしやがて人は死を迎える。動かなくなり、冷たくなり、消えてなくなる。それでも人は生きなければならないのかと、いずれ死ぬ命ならば生きていても意味はないと。
 TVドラマだったろうか。その時は大した感動もなく流して見ていたが、今だったらきっとそんな風には見れないだろう。
 栞は――どんな風に感じるだろう。
「……名雪、貴方ってさぁ」
「うん」
「いつもバカだけど、時々バカじゃなくなるわよねぇ……」
「香里、ひょっとしたらわたしのことバカにしてる?」
「誉めてるわよ、最上級の表現で」
「ん〜……じゃあねえ――」
 すっ、と何かが近付いてくる気配。すぐ近く。吐息。それから――
「――っ!?」
 脊髄反射で体を起こした私を、名雪はびっくりした顔で見ていた。すぐにそれが笑顔に変わる。
 べしゃ、と湿った音を立てて、タオルが腿の上辺りに落ちた。
 頬が熱くなって、その顔を見ていられなくなって、思わず私は俯く。右手で額を押えたまま。
「答えは数学みたいにひとつだけじゃないし、世の中はそう簡単にわりきれないし、わりきれても困るし、香里は、香里だよ。そんなもんでいいんじゃない?」
「……ヒトソレゾレ、か」
 ずっと、何か目に見えるものに縋りたかったのかもしれない。
 そんなものになんの意味がある、と自分で疑問に思ってはいても。
 自分の中の、なにか不確かなものに気付いた気がする。
 ゼロと一じゃない、私達の世界。
 ゆらゆら揺れて頼りない、けれど、未知数の。
 これはきっと、イイコト、だよね?
「名雪」
 名前を呼んだ。
 春も夏も秋も。
 けれど、雪の名前を持った、冬が一番似合う少女はゆっくりと微笑む。

 
 小さな空が、広がっていく。
 ちょっとだけでいい、その手で羽の生えた背中を押してくれたら。
 その先に―――
 

「ただいまー! お姉ちゃん元気にしてた?」
 不必要に大きな音を立ててドアが開く。笑顔の栞が、手に汗をかいた袋をぶら下げて部屋の中に飛び込んでくる。
「……アイスね」
「アイスだね」
「ええ!? ひょっとしてわたしってバレバレですか?」
「わからない方がどうかしてるわよ」
「……うう〜。そんなこと言うお姉ちゃん嫌い。あげない。はい、名雪さん」
 と、ビニールの袋の中からカップのアイスを取り出して名雪の方に差し出す。ピンク色。それだけで何のアイスかわかる。
「わ、イチゴだ。ありがとう〜」
「そのラムレーズンはあたしのよね?」
「ふん、だ。お姉ちゃんになんかあげないも〜んだ」
 ……ナマイキ。
「……ま、いいわ。で、名雪?」
「何?」
「結局、どっちが勝ったの?」
「当然」
「当然?」
「わ・た・し」
 
 

《おしまい》
 

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《蛇足な後書》
 十万ヒット、おめでとうございますー
 いつまでもペースの落ちないLOTHさんをすごいなぁと思いながら。
 これからも質の高いSSを書きつづけて欲しいと思いながら。
 お祝いの言葉に代えて。

 2000/9/16 Naoya拝
 

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ささやかなコメント by LOTH

100000hit記念にNAOYAさんに戴きました。

NAOYAさんというと、わたしにとっては美汐か…香里。
もちろん、それ以外でも素晴らしい作品はあるのですが、わたしにとっては『Forbidden Lover』がやっぱり頭にあって…
あと、香里は…

NAOYAさんの香里は、仕切り屋・香里さんはもちろんなのですが…わたしには独特で印象的で。
どこかシニカルで、でもどこか…熱い感じ。
何かを悩んで…何かを求めている感じ。
わたしがLunaticで書いたような、変な(苦笑)香里ではないですが、Kanonの香里とはまた違う…そんな感じで。

栞シナリオは、本当に書けば多分、香里が主人公のシナリオになるんじゃないかと思うことがあります。
視点が祐一だから、それはありえないけれど…
本当は、栞と香里の物語として書くべき話なんじゃないかと…
わたしは思い、そして…書きはじめていたりしますが…書き終えてないわけですけど(苦笑)
そんな…強くてもろい香里。

そんな香里と、多分Kanonで一番強いとわたしが言う名雪。
このコンビは、まさにNAOYAさんの真骨頂なんじゃないかなと…
わたしも最近、このコンビをよく書くようになったんですけど(笑)
まだまだだなあと…思わされてしまいました。

…でも、書き終えないといけないですけどね。『夢の降る積もる町で』なんですけど(爆)

NAOYAさん、ありがとうございます。

2000.9.16 LOTH inserted by FC2 system