風が吹いていた。
ほんの少し冷たいけど、でも爽やかないい風。
草木が揺れて、心地よい自然の音楽を奏でる。
そんな気持ちのいい朝に……
あたしは目覚める。
『遠い処から還ってきた少女』
epilogue III〜遠い処から還ってきた少女〜
ふわふわのベッドの中で身体をまるめて、目が覚める寸前の最高に気持ちいいまどろみの中を漂っている。
目が覚めれば、暑いだの寒いだの、お腹が減っただの、寝違えて首が痛いだの、いろいろあるんだろうから、今はもうちょっと……ううん、ずぅ〜っとこうしていたい……。
……ぴちゃんっ。
「あぅ〜っ、冷たいっ!」
頬に感じる冷たい水滴の感触。最高の時は一瞬にして消え失せてしまう。取り戻そうと思っても、もうあのふわふわな感じは帰ってこなかった。
まるで誰かにムリヤリ起こされた気がする。
あたしは寝起きの不機嫌さも手伝って、さっきと反対に不愉快極まりない気分で目を開けた。
「…………あぅ?」
ふわふわのベッドの中にいたはずなのに、あたしの目の前には、澄み切った青空が広がっていた。身体を横たえているのは、ふわふわの草むら。優しく頬を撫でていく春の風が気持ちいい……。
……ていうか、ここどこ?
あたしはゆっくりと、草のベッドから身を起こした。
上半身だけ起こした状態で、きょろきょろと辺りを見回してみる。
「………ま、またぁっ!?」
あたしは、またしても丘の上にいた。
完全に目が覚めて、頭がはっきりしてきたから、いろんなことを一気に思い出した。
……森、……森の中にいたハズなのにっ。
あたしは確かに、栞と一弥と一緒にあの切り株のある場所を目指して、森の中を歩いていたはずだ。それで、霧が出てきて……2人とはぐれちゃって………あぅ?
やっぱわかんないっ。
なんで、あたしこんなトコにいるの?
栞と一弥はどうしたのっ?
……考えてみれば、その前には祐衣と一弥…クソガキと一緒に、やっぱり森の中を歩いていて同じ目にあった。
「あぅーーっ!! なんであそこに行くとココに帰ってきちゃうのよぅ」
わかんないコトが多すぎて、何も考えられない。
あたしは朝っぱらからパニック(っていつの間に朝になってんのよっ!)。ちょっぴり寝癖のついた頭をガリガリとかきながら、うーうーと唸る。
………………………うー。
………………………うー。
………………………うー。
………………………………。
「…………帰ろっ」
やっぱり、夢よ、夢、夢っ。
あたしは、ながーーーーい夢を見てたんだわ、きっと。
祐衣も、一弥も、栞も、みーーんな夢だったのよっ。
そうよっ、そうじゃなきゃワケわかんないし。
だいたい、お家がなくって祐一に会えないなんてありえないじゃないっ。
あたしは勢いよく立ち上がって、青空に向かって大きく伸びをした。そうして心の中のもやもやを吹き飛ばして、それからお家のある方向へ向かって走り始める。
丘を走るのは、すっごく気持ちよくて、
あたしはただお家に帰ることだけ、祐一に会うことだけを考えて、
他の全てを忘れて、走り続けた。
………心の底に残った、微かなもやもやの欠片が囁く。
――――だって、
もしも、あれが夢じゃなくって、
祐衣も栞も一弥が、今でも何処かに居て、
それで二度と会うことができなかったりしたら……
そんなの悲しすぎるじゃない。
そんなの辛すぎるじゃない。
だから……………
あれは……………夢。
……………夢…………。
あたしは丘を抜けて、森の中を走っていく。
木々は、ゆるやかな風を受けてざわめき、
頭の上では、鳥たちが気持ちよさそうに囀っている。
――――ザザッ
一瞬、強い風が吹き、木々のざわめきが大きくなる。
そしてあたしには、その木々のざわめきが何か意味のある言葉のように聞こえた。
『丘は森に連なり、やがて街へと続いていく』
ほとんど空耳に近い。なんでそんな風に聞こえてきたのかもわからない。
でも、その言葉の持つ響きが気に入ったあたしは、
「丘は森に連なり、やがて街へと続いていくっ」
呪文のように、その言葉を呟いて、
スピードを上げて、一気に森を駆け抜けていく。
そして、あたしは商店街の外れにたどり着いた。
夢の中で何度も同じ状況を体験してきて、いつもココで何かがいつもと違うコトに気付いちゃってたから、あたしは恐る恐る商店街に足を踏み入れた。
「あぅー………」
ゆーっくりと商店街の様子を窺う。
………………………ここよっ!!
そうよっ! 商店街はこうなのよっ! あたしの知ってる商店街だわっ!!
そこには見慣れた店並びと雰囲気があって、あたしは涙が出そうになった。ようやく長い夢から覚めた気分がした。
ぐぐぐう〜…。
あぅ、夢から覚めたら急にお腹が空いてきたわね。早くお家に帰って、朝ご飯食べようっ。
「祐一っ、今帰るからねっ」
あたしはさらにスピードをつけて、まるで風のように商店街を疾走する。
今度は、誰にもぶつかったりはしなかった。
あの角を曲がったら、あとはお家に一直線っ。
お家に近づくにつれて、あたしの足どりは軽くなった。
見慣れた景色がずっと続いてて、心の中に残っていた不安な気持ちがどんどんと消えていく。もうちょっとでお家が見えてくるっ。
……なんだか、すっごく長い時が過ぎた気がする。
たった一日、うっかりと丘で寝過ごしただけのはずなのに、
とても……とても遠い処から、ようやく還ってきたような気分になって、
気付かないうちに、涙が溢れ出しそうになってて、それでも足をゆるめたりしないで、
お家に向かって真っ直ぐに、祐一に向かって真っ直ぐに。
そして……………
『水瀬』とかかれた表札のある家の門を一気に抜けたあたしは、
息を切らせながら、玄関のドアを一気に開いた。
其処にいたのは……
ずーーーっと、ずーーーっと想い続けていた人。
…………………祐一。
祐一っ。
祐一っ。
祐一っ。
祐一っ。
祐一っ。
「あぅーーっ! 祐一ぃーーーーーっ!!」
ドアの向こう側にいた人。誰よりも会いたかった人。その人の胸に向かって、あたしはまるで体当たりをするみたいに、勢いよく飛び込んでいった。
祐一の横には、見覚えのない――でも、何処かで見たような気もする――女の子が立っていて、あたしはほんの一瞬だけ
『このコは誰なんだろう?』
って思ったけれど……祐一の胸の暖かさを感じたら、そんなことは全部どうでもよくなってしまった。
あたしはお家に帰ってきた。
「あぅー、お腹いっぱいっ」
「食い過ぎだ、バカ」
「あぅーっ、いいじゃないっ! お腹空いてたんだからっ!」
秋子さんのおいしい料理をお腹いっぱい詰め込んだあたしは心も身体も大満足状態で、祐一のいじわるな言葉もあんまり気にならない。
「あら、もういいの? まだまだあるから、遠慮しないで食べなさい」
キッチンの奥から、エプロン姿の秋子さんがやってくる。あたしの記憶とまったく変わらないやさしい笑顔が、なんだかとってもうれしい。
「もうお腹いっぱい。…秋子さん、ごちそうさまっ」
あたしも秋子さんに負けないような笑顔で元気よく返事をする。
「でも……本当によかったよ、真琴が帰ってきてくれて」
隣りの椅子に座って、祐一と一緒にあたしがご飯を食べるのを見守っていた名雪が声をかけてきた。のんびりとした口調は、あたしの知ってる名雪そのままで、またまたうれしさがこみ上げてくる。
あたしがどのくらいお家に帰ってなかったのかは、まだ聞いていなかったけど、みんなの様子から考えると一日なんてものではないみたいだった。
でも……もうそんなことはどうでもいい。
あたしは今、みんなに囲まれて此処にいる。それだけで充分だった。
もう、ワケがわかんないコトは、わかんないままでかまわない。
自分のお家に居るってことが、こんなにも安心できるものなんだということが、身に染みて感じられた。
それにしても……………
じぃ〜〜〜〜〜っ。
「な、なにっ? わたしの顔に何か付いてる?」
………やっぱり、似てるわ。
お家に帰ってきて、名雪を見た瞬間からずっと感じていたこと。あたしの記憶の中にいる少女。おそらくは夢の中で出会った少女と、名雪が………似すぎている。
祐衣………相沢祐衣。祐一の子ども……。もしかしたら……名雪は……。そして祐衣は………。
……いけないっ!
わかんないコトは、わかんないままの方がいいっ。
ましてや……未来なんて、元々誰にもわかんないものなんだし……。
「名雪っ!!」
あたしは大声をあげながら立ち上がった。
「な、何っ?」
「あたし……自分の子どもには、祐衣って名前を付けるからねっ!」
……祐一とあたしの子どもの名前なんだからねっ。
一方的に宣戦布告したあたしは、リビングへ向かって逃げる。
「………え?」
キッチンで残してきた名雪のきょとんとした顔が、目に見えるようだった。
そして、リビングには先客がいた。
「あっ……」
ソファにちょこんと座っていたその先客が、あたしの姿を見て慌てたように立ち上がった。
月宮あゆ。
玄関で祐一と一緒に立っていた女の子。
秋子さんがご飯を作ってる間に、祐一が紹介してくれた。なんでも祐一の幼なじみで、お家がないからここで居候をしてるらしい。
あたしが居ない間にここの家族になっちゃってたのには、ちょっと引っかかるものがあったけど、お家がないんだったら仕方がない。
お家がないのは、本当に悲しい事だから。
それに……あたしだって、居候なんだし。
「あ、あの……」
気が付くと、あゆが目の前に立っていた。ちょっと脅えたような顔であたしをじっと見つめている。
「何?」
「あ、あの………ありがとう」
「へ? 何が?」
……あたし、この子になんかしたっけ? ありがとうってどういう意味だろ?
「うぐぅ……ボクにもよくわからないんだけど、どうしてもお礼を言わなくっちゃ、って、そう思えたんだよ」
……変な子。なんだかちょっとコワイわよぅ。
どうにも意味不明な言葉に、あたしはちょっと後ずさり。でも……なんか、この子には会ったコトあるような気がするのよね……。
そんなことを思った瞬間、言葉が勝手に口から飛び出ていた。
「あたしより先に帰って来てるなんて、ズルイわよっ」
「えっ!?」
あぅ? あたしなんでこんなコト言ってるんだろ?
今度はあゆが戸惑ったような顔をする。あたしも自分自身の発した言葉で、あゆに負けないくらい混乱する。
「な、なんでもないわよっ。そ、そ、そんなことよりっ!」
声が上ずっちゃって恥ずかしい。でも何か喋って、話を変えなくちゃっ。ワケのわかんないのはもうたくさんよぅ。
「あぅー……えっと……こ、これから、よろしくねっ」
……なんかムチャクチャ恥ずかしいこと言った気がするわね。でも、これからは同じ家族なんだし……ね。
「あ………う、うんっ! こちらこそ、よろしくねっ」
本っ当にうれしそうな顔のあゆ。なんだかあたしまでうれしくなってくる。
「おっ、さっそく仲良くなってるな。やっぱり思った通りだったな」
祐一があたしを追ってリビングに入ってくる。……遅いっ、もっと早く追ってきてくれなくちゃ。
「あぅー、やっぱりって、何よぅ」
「いや、お前ら似たところがあるから、なんとなくすぐに仲良くなるような気がしてたんだ」
………似ている? あたしとこの子が?
あたしはあゆに視線を戻して、じーーっと観察。あゆも同じようにあたしを観察してるみたいだ。
「あぅー、どこが似てるのよぅ。全然ちがうじゃないっ」
祐一は、いつものいじわるそうな笑顔を浮かべてる。
「そうか? ドジそうなとことか、ガキっぽいとことか、そっくりだろ?」
……………………………………………。
「な、何よっ! あたしはドジっぽくもガキっぽくも見えないわよっ!!」
「うぐぅっ、ヒドイよ祐一君っ!!」
「ははっ、怒り方まで似てるぞ」
祐一はあたしたちの反応を見ておかしそうに笑う。
あたしは、悔しくって、憎らしくって、何か投げつけてやろうとポケットに手を突っ込んだ。
そしたら……。
…………………あっ……。
左右のポケットにひとつづつ、何かが入っていた。
あたしはそっとそれを取り出して……。
ゆっくりと、両方の手のひらにちょこんと収まっている2つのものを、見つめた。
……………銀紙とアメ玉……。
…………………………………………。
「……祐一っ!」
あたしは祐一の方に向き直って、銀紙とアメ玉を握りしめた右手を思い切り振りかぶって、
「コレ………あんたにあげるわっ!!!」
銀紙とアメ玉を、精いっぱいの力で、祐一に投げつけた。
過去も未来も、全部、祐一に投げつけた。
そしてあたしは………
「祐一ーーーーーっ!!!」
もう一度、祐一の胸の中へ………
大好きな人の胸の中へ………
あたしの還るべき場所へ………
思い切り飛び込んでいった。
…………ただいま…………
遠い処から還ってきた少女 ・ 終幕