『心が壊れた日』Ver.2.10


>LOTH様のHP謹呈用 Special Versionです。
 ……よろしければ、こちらを載せて下さい。

<お読み下さる方へ>
 少なくとも、あゆエピローグ後にご覧下さい。

 それでは、私が語る、奇しき記録……。
 よろしければ、どうぞご覧下さい……。

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 ……一つの始まりは、唐突に。
 

 風。
 冬の森を通り抜ける、優しき死神。

 時が、止まるとき。
 木の上の少女の笑顔が消えるとき。

 神様の気まぐれ、悪戯。
 バランスを崩し宙を舞う、小さな体。

 沈黙の森に、静かに響く、鈍い音。
 そして目を閉じ、動かなくなる、俺の大切な人。

 あゆを抱えた俺の手が、赤に染まる。
 その命の色は、雪を、街を、記憶を染め上げる。
 凍り付いた時間。
 この時に、俺の時間は、止まってしまったのだ…。
 

 それは始まり。
 一つの幸せと、多くの悲しみの…。
 

「あゆっ! あゆーっ!」
「………」
「…あゆっ」
「………」
「…そ、んな…」
「………」
「…あ…ぅ」
「………」
「…ぁぁぁあああっ!」

 ………。

 音を立てて崩れる、『日常』の名を冠するもの。
 その崩れた壁の向こう側に見えたものは、
 …見えたものは、たった一つの…。
 
 

    『心が壊れた日』
 
 

 …現実。
 これは、現実。
 少なくとも、俺にとっては。
 だから、
 俺は安らぎの中で、
 その安らぎの中で生きていられることを、
 俺は幸せに思った。
 それだけ、
 それだけで十分だ…。
 

 あゆ…。

「そこの人っ!」
「…え?」
「どいてっ! どいてっ! うぐぅ…どいて〜」
 …べちっ!
「うぐぅ…痛いよぉ〜」
「ひどいよぉ…避けてって言ったのに〜」

 …俺は嬉しかったよ。
 お前とまた、この街で再会できて。
 
 

「また、会おうね」
「そうだな」
「約束、だからね」
「ああ」
「そうだ、昔みたいに指切りしようよっ」
「そうだな…」
「うんっ」

 指切り、
 そして、『また明日』の約束。
 こうしていることが幸せで、
 それはずっと続くと思っていた。
 ずっと続くことを祈っっていた…。
 

 ………。
 

 雨。
 降り続く、雨。
 森にも、
 街にも、
 そして、私の心にも。

 雨は憂鬱。
 でも、雨が涙を洗い流してくれるなら、 
 私は雨に身を委ねたい。
 雨上がりの空が、綺麗であるように。
 私の心の靄も、消えることを願って。

 日常は、続く。
 私の大切な人を、置き去りにして。
 私のこの想いも、置き去りにして。
 その営みは、留まる事はない。
 …1つや2つの歯車が、壊れた程度では。

 鉄格子の隙間から見えるその光景は、私をいつも暗澹とさせる。
 ひたすらに、同じ事の繰り返し。
 一縷の望みがあるというのなら、
 それに賭けたいと思っていた、私の心を惑わすに十分なほど、
 その光景は、陰惨だった。
 …少なくとも、今の私にとっては。

「祐一」
「………」
「…祐一っ!」
「………」
 呼びかけても、反応はない。
 それは既に、分かっているはずの事。
 祐一は壁に向かって、何やら呟いているだけ。
 床には、金属製の器と、何かが散乱したような跡が見える。

 それが食べ物だったなんて、私は聞かされるまで分からなかった。
 そして、器に金属を使うのは、一番壊れにくいからだと言うことも。
 そう、祐一が器を壊した時、怪我をするのを避けるため、なのだそうだ。

 でも…。
 そんな事を説明されても、私には…。
 

 祐一。
 あゆちゃん。
 酷すぎるよ…。
 こんなのが結果だなんて、酷すぎるよ。
 祐一が、何をしたって言うの?
 あゆちゃんが、何をしたって言うの?
 …私が、何をしたって言うの…?

 祐一、分かったから…。
 もう分かったから、帰ろう…。
 帰ろうよ…。
 

 ………。
 

「探し物…」
「…探し物?」
「そう…探し物があるんだよ…」
「何を探してるんだ?」
「えっと…落とし物…。落とし物を探してるんだよ」
「…落とし物って、財布でも探してるのか?」
「違うよ」
「だったら何を落としたんだ?」
「大切な物…、すっごく大切な物…」

 探し物…
 そう、お前は…
 何か分からないけど、お前にとって『大切な物』を、
 探し続けていたんだよな。
 
 

 …ノイズ。
 それは、砂嵐のような激しいノイズの中、おぼろげに見える映像。
 そして、それが見えたのは一瞬…。

 目の前には浴槽。
 ただ、透明なはずのお湯が、赤く…。
 赤く染まって…。
「…止めろおおぉぉぉっ!」
 叫び出す、『俺』。
 そしてそんな俺を押さえつける、男達が数人。
「…血がっ! 血がぁぁぁっ!」
 『俺』は押さえつけられたまま、
 その、血で満たされた浴槽に、
 沈められ、
 沈み込まれてゆく…。

 そして、ノイズの中の、映像が、
 …消えた。
 

 ………。
 

 私は、まだここに居るんだね。
 それが、無意味な祈りだということは、分かっているのに。

 私は、まだここに居るんだね。
 それが、こんなにも近くにいて、それでもずっと遠くにいる祐一に、
 手が届かない事も分かっているはずなのに。

「………」
「祐一…」

 目の前の、鉄格子がはめられたドアの向こう側、
 そこは、私の…。

「あ…ぁ…、…ぅ…ぅう…」
「…嫌だよ、祐一」

 私の、大切な人の抜け殻が置かれている。

「…ァァァアアアゥッ!」
「見て…、見ていられないよ…」

 目を、背ける。
 頭を抱えて、耳をふさぐ、私。

 灰色の部屋。
 その部屋の中を満たす、鈍い音。
 それは、今、『祐一』の抜け殻を被った『何か』が生み出す、旋律。

 その『何か』は、
 ドアを、壁を、床を、
 叩いて回る。

 たとえ、『自分』の拳から、血が噴き出しても。
 たとえ、『自分』の口から、血を吐き出しても。
 構わず、叩く。
 まるで、泣く事しか出来ない赤子が、泣き続けるように。
 それだけを、ただ…。

 そうして、力尽きて、倒れる。
 …その繰り返し。

 そして…。

「………」

 今日も。
 

 …あゆちゃん。
 祐一がこうなってしまったのは、あゆちゃんのせいだよ。
 祐一を…、
 祐一を、返して。
 お願い、
 お願いだから。
 …それとも。

 ………。

 祐一。
 私も…。
 私も祐一と一緒で居られたら良かったのに。
 私は、
 今でもまだ、
 ここに居るんだね。
 ここに…。
 

「…ふふっ」
    …祐一。

「…ふふ、ふふふ…」
    今、私もそっちに行くよ。

「…あははっ」
    これからは、ずっと一緒だよ。

「…あはははは…」
    今行くから、待ってて…

 …ぱんっ!
「…名雪っ!」

 私の頬に、痛みが走る。
 それは、私を呼び止める、声。
 お母さんの、声。
「しっかりしなさい、あなたまで…」
「あ…」

 まだ、私は留まっている。
 こちら側に。 

「…もう、大丈夫ね?」
「…うん」

 うん、
 大丈夫、まだ…。

 私は今、切り立った崖の上にいる。
 足元に広がるその崖は、下が見えない。
 でも、そこに幸せがあると信じて、
 祐一は降りていったの?
 だったら、私も一緒に、
 私も…。
 

 ………。
 

「…探し物…だよ」
「探し物って、ここに埋まってるのか?」
「…うん」
「だったら、明日、夜が明けてから探せばいいだろ?」
「…ダメ、だよ」
「……」
「…だって」
「…夜は、明けないかもしれないよ」

 …ばかな。
 夜は、明けるに決まっている。
 そして、
 俺達は、
 また明日、必ず会えると…。
 

「…祐一君…ボクのこと…ボクのこと、忘れてください…。
 ボクなんて、最初からいなかったんだって…そう…思ってください…。
 ボクのこと…うぐぅ…忘…れて…」
「本当に…それでいいのか?
 本当にあゆの願いは俺に忘れてもらうことなのか?」
「だって…ボク…もうお願いなんてないもんっ。
 …本当は、もう二度と食べられないはずだった、たい焼き…、
 いっぱい食べられたもん…」
「だから…だか…ら…」
「ボクのこと、忘れてください」

 …あゆ、
 そんな悲しい事を、言わないでくれ。
 俺は…、
 お前のことが…、
 だから…。
 だから、そんな悲しい事を、言うのは止めてくれ…。
 

 ………。
 

 それは、いつかの日曜日。

「…名雪、ちょっといいかしら?」
 お母さんが、私を呼び止める。
「…今日、名雪に知っておいて欲しいことがあるのよ」
 私は何も言わずに、承諾の意を態度で伝える。
「…そう、じゃあ、行きましょう」

 辿り着いたのは、総合病院。
 祐一のいる場所とは違う、綺麗な建物。

 鼻につく消毒液の、病院特有の臭いと、
 明るい廊下と、暗い雰囲気の対照が、私には不快だった。

 そして、私達は一つの部屋の前に辿り着く。
「ここよ」
 お母さんはそれだけを口にする。
 その病室の表札は、一つだけ。
『月宮あゆ』
 そこには、そう書かれていた。

 …あゆちゃん?

 私は扉を開く。
 そこにあったのは、紛れもない現実。
 …それは、一つの答え。
 そして、一つの絶望と、
 一つの希望の、始まり。

 ベッドには、少女が一人。
 寝息さえ聞こえないほど、部屋は静かで、
 たくさんの機械に囲まれて、
 まさに、『生かされている』と言う表現がぴったりの、
 そんな姿。
「…そんな」
 私はそれだけを言うと、絶句する。
「あゆちゃんはね、あれからずっと、眠り続けているのよ」
 お母さんの、私に対する説明。

 でも、そんな事はどうでもいい。
 どうでもいいんだよ…。

 だって、お母さんはこれから私に、
 叶うかも知れない、
 叶わないかも知れない、
 そんな、曖昧な『夢』を見せつけたのだから。

 でも、お母さんには感謝している。
 だって、
 それは一つの絶望ではあっても、
 全ての絶望ではなく、
 一つの夢の終わりは、
 全ての夢の終わりではないことを、教えてくれたから。
 だから…、

「…お母さん」
 震える声で、私は言葉を続ける。
「…大丈夫だよ、私はもう、大丈夫だから」
 真剣な表情で、
「…私は待っていられるから。…祐一も、あゆちゃんも。
 だって、私は祐一達と違って、待つことが出来るから、
 …待ってあげることが…」
 だけど、最後は笑顔で。
「…だから、大丈夫だよ」

 もう、大丈夫。
 私は祐一を、きっと待てる気がするよ。
 …現実(ここ)で。
 

 ………。
 

 夕焼け。
 赤が、世界を染め上げて。
 俺の心を打つ、
 琴線に触れる、
 赤い、記憶。

 そこは商店街。
 なのに、いつもの賑やかさはなく、
 寂しさだけが、辺りを包む。

 その寂しさに、足を止められる。
 赤が、心に染み込んでくる。
 そのまま赤い世界に、吸い込まれるように。

「…祐一君」
 そんな俺を呼び止める、声。
 それは…、あゆ。
「なんだ、あゆか」
「……」
「久しぶりだな。元気だったか?」
「祐一君、あのね…」
 
「探し物、見つかったんだよ…」
「良かったじゃないか」
「あのね…探していた物が見つかったから…。
 ボク、もうここには来ないと思うんだ…」

 あゆの言葉は、続く。

「だから…祐一君とも、もう会えなくなるね…」
「…そう、なのか?」

 それは突然の、別れの言葉。
 俺は、思わず聞き返す。

「ボクは、この街にいる理由がなくなっちゃったから…」
「だったら、今度は俺の方からあゆの街に遊びに行ってやる」

「…だから」
「………?」
「最後に、祐一君を起こしてあげるよ」
「!? …あゆ、何を言ってるんだ?」

 それは俺の問いかけ。
 でも、あゆはそれには答えず、

「ばいばい、祐一君」
「…おい、あゆっ!」
「これから先、辛いこともあるかもしれないけど、負けないでっ」
「待ってくれっ! それはどういう意味…」

 視界が眩い光に覆われ、何も見えなくなる。

「…あゆっ!」

 それに抗うように、あゆの手を掴もうと伸ばした俺の手が、
 虚しく空を切る感覚。

 そして、俺の意識も、遠のいていく…。
 光から、闇に覆われて。
 

 ………。
 

 …どくん。

 それは、胎動。
 生まれる前の、記憶。
 言葉も、感情も、意識も、
 全てが虚無の、
 でも、その時の『記録』が、そこには残っていた。
 

 …ピチャン。

 しずくの、滴り落ちる音。
 それは、断章。
 幸せな日々が、終わるときに聞いた音。
 そしていずれ、再び耳にする、声。
 また俺は、幸せな日々を失うというのか…。
 

 しずくが赤く染まってゆく。
 降り積もっている、雪も、
 あゆを抱いている、俺の両手も、
 そして…、世界も。
 

 それは人形。
 今まで生きていた、人形。
 その流れ出る血と共に、
 言葉を失い、
 意識を失い、
 熱を、失ってゆく。
 

 あゆ、俺は…。
 俺は…っ!
 

 ………。
 

「…あゆっ!」
 
 飛び散った意識が、体に戻る感覚。
 俺は、うつ伏せに倒れていたらしい。
 意識を取り戻して、ゆっくりと俺は立ち上がる。

 そして、意識を取り戻して、次に俺が見たもの、
 それは、まるで牢屋のような部屋だった。
 灰色の壁と床には、所々に赤黒い染みがある。

 部屋の隅には簡素なベッド、ボロボロになった枕と毛布がそこにはあり、
 ベッドから見て、部屋の対角線に位置する場所に、トイレがある。
 ベッドの横には、空の棚が一つだけあった。

 また、窓には鉄格子がはめられ、換気をすることさえままならない。
 それから、鉄製の扉。覗き窓になっている部分には、
 こちらにも、窓と同じように鉄格子がはめてある。

 その部屋は、本当に最低限のものしか用意されていなかった。

 床には食べ物が乱雑に食い散らかされ、
 いかに清掃が行き届いていないかがわかる。
 あとは、鼻につく、異臭。何かが腐ったかのような臭い。

「…なんだ、ここは」

 思わず呟く、俺。
 何故俺がこんな所にいるのか、全く心当たりがない。

 …ついさっきまで、あゆと一緒に商店街にいたはずなのに。

「なぜ…、俺はこんな所に…?」

 それに、俺は、罪など犯してはいないはずだ。
 それなのに、何故…?

 そしてもう一度、辺りを見渡す。
 それくらいしか、出来ることはなかった。
 そんな俺の目に、天井の片隅のダクトと、
 その横に設置されていた監視カメラが映る。

 次の瞬間、俺はそのカメラに向かって、噛みつくように怒鳴っていた。
「俺が何をした! ここから出せ!」
 と。
 

 そして俺は、疲れて声が出なくなるまで、
 監視カメラに向かって叫び続ける。

 もしかしたら無駄かも知れない、気でも狂ったかと思われるかも知れない。
 それでも、やらないよりはマシだった。
 それくらい、今自分のいる環境は劣悪だった。
 人間が人間として生きてゆくための条件すら、
 満足に満たしていない部屋だったからだ。

 そして、疲れ果てた俺は、床にしゃがみ込む。
 今の自分の置かれている状況が分からないため、それ以上は出来なかった。

 その後しばらくして、監視員が通報したのか、
 部屋の鉄扉が開いて白衣の男が二人、俺の前に現れた。
 

「…ここはどこなんだ?」

 俺は当然の質問をその二人にぶつける、
 二人は俺の目を見て、それからひそひそと話し合っている。
 そして、二人は俺の方に向き直り、口を開く。

 返ってきた答えは…。

「…ここかい? …ここは精神科の隔離病棟だよ、相沢祐一君?」
 

 ………。
 

 あれから…、
 私の大切な『もの』達が、時の流れから取り残されてから、7年。
 私は既に、高校生。
 もう心だって、あの時よりも強くなったと、私は思っていた。

 私はいつも、心の中に『絶望』を抱えて、
 それでも、いつか『希望』が叶えられると…、
 そう、信じ続けて。

 私も、何度も祐一のいる彼岸に行きかけ、その度に戻ってきた。
 でも、それも…。
 …その不毛な『戦い』も、今日で終わる。

 『希望』と『絶望』の、
 いつまでも続くと思っていたこの戦いは、
 『絶望』の勝利で、幕を閉じた。
 …少なくとも、この時は。

 その知らせ…。
 あゆちゃんが、今亡くなったという知らせが、
 私の耳に届いたのは、私が家に帰ってからだった。

「…これで、終わりなんだね。…何もかも」
 私は呟く。これで、祐一が救われる道は、完全に閉ざされたと、
 私は思ったからだ。

 次の日、私は学校を休んだ。
 お母さんは、その事について、何も言わなかった。
 ただ、
「…ゆっくり休んでて良いのよ」
 とだけ。
 

 しかし…。

 それはお昼のことだった。

 プルルルル…
 プルルルル…

 突然鳴り出した、電話。
 お母さんは仕事だから、今家にいるのは、私だけ。

 私は最初、その電話に出る気が起きなかった。
 もう、どうでも良かったから。
 でも…、
 何かが心の隅に、引っかかって…。

「…はい、水瀬です」
 わたしは受話器を上げていた…。
 

 ………。
 

 目が覚める。
 相変わらずの牢獄部屋。
 相変わらず汚れた壁面と、
 相変わらずの監視カメラと、
 相変わらずむせ返るほどの異臭。
 ただ、一つだけ違っているのは、
 俺が、俺自身を『知覚』し、現実を『認識』している事だ。

 …あゆ。
 俺は結局、お前を助けることは出来なかったんだな。
 …すまない、許してくれ…。
 

 衰弱した体でふらふらと立ち上がると、
 俺は扉の外の監視員に、掃除道具を要求する。
 こんな所では、いくらお腹がすいていたところで、
 満足に食事など摂れたものではないからだ。

 しかし、俺の要求は承諾されなかった。
 ただし、俺は風呂に入れられた。

 俺はあくまで、監視員の監視の下、
 ボロボロの服(既に服と呼べるような代物ではなかったが)を脱ぎ捨て、
 赤黒くなった体を、石鹸が擦れた皮膚に滲みるようになるまで
 ごしごしと擦る。
 長年たまっていた垢を擦り落とした後、ゆっくりと浴槽につかる。
 洗いたての体のすべすべした感触と、程良く熱いお湯が、
 擦れた皮膚に滲みる、その感覚がとても心地よかった。
 

 俺は充分に風呂を満喫し、湯上がりで火照った体をタオルで拭きあげる。
 自分の体から充分に水気を拭き取ると、
 俺は監視員から、ボロの代わりに新しく渡された服を着て、
 またあの部屋に戻ってきた。

 俺を監視する監視員は、終始不思議そうな顔をしていた。
 その表情が気になって、俺は尋ねてみた。
「何で、そんな顔をするんですか?」
 と。

 答えは単純だった。
「そりゃあ、あれだけ風呂に入るのを嫌がってた患者が、突然、
 何の抵抗もなく風呂に入る姿を見れば、誰だって不思議がるだろ?」
 …要するに、以前の俺は水を怖がり風呂に入ることさえ
 しなかったという事だった。
 

 俺が風呂に入っている間に部屋は一通り清掃されており、
 壁にあった赤黒い染みは、大部分が綺麗に消されていた。
 それでも、消えきらずに残っているものはあったが。
 また、床に散らかされていた異物も片付けられており、
 今ではその形跡すら、そこに臨む事は出来なかった。
 まあ、さすがに異臭までは、取り去ることは出来なかったようだが…。
 それでも今までよりは、はるかにマシになっていた。

 俺は新しいシーツが掛けられたベッドに横になり、毛布を被る。
 今の俺には何もすることが無く、ただ灰色の天井をぼんやりと眺めていた。

 そして、いつの間にか、俺は夢に落ちていった…。
 
 

 ……。

 ………。

 祐一君…。
 ボクは、無力だったけど、
 あれからずっと、キミを見ていたよ。
 ボクの、せいなんだね。
 ボクのせいで、祐一君は…。

 だったら、ボクに出来ることは…。
 

 夕焼け。
 辺りは赤く染まっている。
 でも、この世界の終わりには、それはまさに相応しい色だね。

 祐一君。
 ボクのせいで、心が壊れてしまったキミを、
 ボクの最後の願いで、助けてあげるよ。
 ボクの、
 …命と引き替えにしても!

 ボクは終焉。
 今のキミにとって、夢の終わりを告げるもの。
 だから…、
 だから、さよならだよっ!
 

「…祐一君」
    …ボクは言葉を紡ぐ。

「……」
    慎重に、言葉を選びながら。

「祐一君、あのね…」
    …そして、ボクは告げる。

「探し物、見つかったんだよ…」
    キミと、ボクの夢の終わりを。

「あのね…探していた物が見つかったから…。
 ボク、もうここには来ないと思うんだ…」
    そして、祐一君、キミを待っている人の所へ、ボクは誘うよ。

「だから…祐一君とも、もう会えなくなるね…」
    それが、ボクの最後の使命。そして…。

「ボクは、この街にいる理由がなくなっちゃったから…」
    ボクの、最後の願い。

「…だから」
    …だから。

「最後に、祐一君を起こしてあげるよ」
    祐一君を置き去りにした現実に、返してあげるよ。

「ばいばい、祐一君」
    …さよなら、だよっ!

「これから先、辛いこともあるかもしれないけど、負けないでっ」
    もう一人の『祐一君』は、ボクが連れて行くから、
    もう自分自身に、負けないでね…、祐一君。
 

 …さよなら、だよっ!

 …さよ…、な…。

 …さ、ょ…。

 ………。

 ……。
 

「…先生、心音が停止しました!」
「ショックはっ!」
「駄目です、効果ありません」
「脳波は!」
「…フラットです!」
「そうか…」
「蘇生処置、続けますか?」
「………」
「…先生?」
「…いや、もう良い。これ以上は無駄だ」
「………」
 

 ………。
 

「…あゆ?」

 俺はそれが夢であることをはっきりと認識できずにいた。
 いつの間にか醒めていた目で、辺りを見回す。
 既に日は落ちており、月の光だけが、部屋を満たしていた。
 そうして俺は、ふと棚に目をやる。
 空だと思っていたその棚には、薄汚れた人形が一つだけ、
 微かな月の光に映し出されていた。

 その人形は、
 その古びた天使の人形は、
 風も吹き込まない部屋であるにも関わらず、
 置かれていたその棚から、
 まるでスローモーションのように、
 ゆっくりと、
 床に落ちた。

「………」
 俺は黙ってそれを見ている事しか出来なかった。
 …何故か分からないが、
 触れてはいけない、そんな気がしたのだ。
 そして、
 あの夢が、ただの夢ではないことを、
 俺は直感的に認識した。
 …それが何故かは分からないが。
 

 ………。
 

 私は、
 待ち望んでいた。
 この日が来ることを。
 でも、
 私は、
 恐れていた、
 この日が来ることを。

 祐一は、
 大切な人を失って、
 大切な時間を失って、
 そして、
 自分の心を失った。

 そんな祐一が、
 純粋な祐一が、
 突然この世界に投げ出されて、
 戸惑いもなく、
 平穏な日々を過ごせるとは、
 思えない。
 …思えなかったから。

 だけど、
 私は…。
 

 私はお母さんが仕事から帰ってくるまででさえ、
 待つ事をもどかしく感じて、
 結局、お母さんが帰ってきたとき、
 雪の降る中、
 私は頭と肩に雪を積もらせながら、
 玄関前でお母さんの帰りを待っていた。

「…お母さん」
 私はそれ以上言えなかった。
 言葉にさえ、出来ない気持ち。
 もう何年も前に、無くしてしまったかと思っていた、
 嬉しいという気持ち。

 今、私は自分自身がどういう表情をしているか、
 それさえも、分からずにいた。
 ただ、視界が歪んでゆくことだけが、私に分かることだった。

 でも、お母さんは、
 何も言えない私に向かって、微笑みながら応える。
「…名雪、良かったわね、待ってた甲斐があったわね?」
 …と。

「さあ、家に入りましょ、…寒かったでしょう?」
 お母さんはそう言って、私の頭と肩に積もっていた雪をそっと払い落とす。
 私は、お母さんの顔を覗き込みながら、
「…うんっ!」
 

 ………。
 

 …それから数日後。
 検査漬けでうんざりしている俺に面会人が来るとのことで、
 俺はその前に、風呂に入れさせてもらう事を要求した。
 『目覚めた当初』に比べれば、体も綺麗にはなったが、
 それでも人に会うのならば、話は別だ。
 それに、何の楽しみもないここで、楽しみといえば、風呂に入るくらいの
 事しかなかったのも理由の一つだ。

 そして、風呂に入る前、ふと目にとまった鏡を見る
 そこにはもう、
 以前見た、少年の面影は既に無かった。
 まだ幾分やつれている自分の顔。
 だけど眼光だけが、鋭く光って、
 そして髭が、少しだけ伸びていた。

 俺は髭を剃り落とす。
 それから体を洗い、湯船に浸かる。
 ここでの唯一の楽しみなので、心ゆくまで入浴を堪能する。

 充分に風呂を堪能した後、
 面会時間よりは少し早かったが、面会部屋に俺は向かう。
 待つのは好きではないが、面会部屋で待つ方が、
 あの退屈で、憂鬱な気分になる牢獄の部屋にいるよりは、
 はるかにマシに思えた。

 そして待つ。
 俺の中で凍り付いていた、時が動き出すのを…。
 

 ………。
 

 次の日曜日。
 私達は祐一に会いに、祐一の居る病院に向かっている。
 私は、『祐一』に会えるのが楽しみで、
 でも、『祐一』の心に触れることが恐くて、
 そして…、
 せっかく祐一が、『ここ』に戻ってきたのに、
 私はもしかしたら、
 祐一をまた、
 『彼岸』に追いやってしまうかも知れない事が、ただ悲しくて。
 だから、素直には、純粋には喜ぶことが出来なかった。
 今の、『祐一』の帰還を…。
 

 そして、辿り着く、『運命』の瞬間。
 その扉を、開く。
 面会室のドアを。
 そして、祐一の心の扉を。
 

 ………。
 

 扉が、開く。
 俺に会いに来た人が、その姿を見せる。
 それは、女の人が、二人。
 一人は、見覚えのある人だった。
「…秋子さん」
 俺は呟く。
「祐一さん、お久しぶりですね」
 でも、その時の秋子さんの顔は、多分、初めて見る、無表情。
 そう、まるで、全ての感情を押し殺したような、そんな顔だった。

「…俺、何でこんな所に」
 純粋に、今まで訊きたくて仕方のなかった疑問。
 けれど、秋子さんはその質問には答えず、
「祐一さんが、最初にそんな質問をする、
 …ということはもう大丈夫みたいですね」
 よかったわ、といった感じで頬に手を当てる。
 そして、さっきまでの無表情が綻び、いつも見ていた笑顔に戻る。

「…祐一」
 今度はもう一人の、髪の長い、秋子さんに同行してきた彼女が、
 堪えきれないと言った表情で、俺の名前をぽつりと呟く。
 俺はその人を見る。少女らしいあどけなさを微かに残した、それでももう、
 綺麗といってもいい容姿の女性だった。

 …しかし、俺の記憶には彼女の顔はなかった。
 だから、俺は秋子さんに尋ねる。
「…秋子さん、こちらの方は?」
 と。

 その時の彼女の顔は、蒼白だった。
 肩が、ふるふると震えていた。
 俺は何か悪いことでも聞いてしまったかと思ったが、
 彼女が誰であるか分からないから、そう言うしかなかったのだが。

「…無理も、ありませんね」
 少し悲しそうに秋子さんも俯く。

「…あれから7年も経ってますから。祐一さん、この子は名雪ですよ」
「な…名雪? …そんな馬鹿な、名雪は俺と同い年のはず…、
 …って7年だって!?」

 俺はそんなに長い間こんな所にいたというのか?
 そんな記憶は全くないのに。…どうして?

「7年、って、…そう言えばあゆは! あゆはどうなったんです?」

 俺は堪らず聞いてみた。
 あゆは、だって俺はあゆと一緒にいたはずじゃ…。

「…あゆちゃんは、ずっと昏睡状態だったんですけど、
 …数日前に息を引き取りました。その次の日よ、
 祐一さんの事で病院から連絡があったのは」

 俺はその、秋子さんの言葉が信じられなかった。
 じゃあ、今まで見ていたものは一体なんだというのだ!

「そんな…、なら、俺が見ていたものは一体…」

 俺がそこまで言うと、秋子さんは何も言わず、首を横に振った。

「そん…な…、じゃあ真琴は? 栞は? 舞は? 佐祐理さんは?」
「祐一、その人達、誰?」
「…そう、か…」
 

 秋子さんと名雪はそれから暫くして帰っていった。
 最後は二人とも、笑顔で、だ。
 
 

 次の日から、俺は検査の連続だった。
 最初はなぜこんな目に遭うのか納得できなかったが、
 段々と自分の置かれていた状況を理解するにつれ、
 それも仕方のない事だと分かる。

 なぜなら俺は、
「話しかけても、受け答えが全く出来ない」
「風呂に入れようとするたびに、『血がぁっ!』って叫んで抵抗する」
「何もない壁に向かって、ぶつぶつと意味不明の言葉を呟く」
「食事を用意しても、食べ物が乗ったままの皿を、床に叩きつけて壊す」
「壁や床を、自分が倒れるまでずっと両手で殴り続ける」
 …などといった、およそ理性とか、自己統一性に欠けた、
 常軌を逸した行為をひたすらに続けていたからだった。

 それが突然、特に何の治療も施されていないタイミングで、
 人としての統一性を持った人格が表に現れたのだから、
 それも無理のない話だった。
 しかし、それを納得の上でも、『検査』は苦痛だった。
 それこそ、これで気が狂った患者もいるのではないか、と思うほどに。
 

 それは今日も、続く…。

「…では、君はその事について、全く覚えがないんだね?」
「ありません」

 昨日と同じ質問、そして、昨日と同じ答え。
 それが順番も変えられずに続けられるのだ。
 『健常者』を自負する者にとっては、これほどの屈辱的な日々は無かろう。

「じゃあ、次に…」
「…だから、覚えがないって言ってるでしょう?」

 とうとう、堪らなくなって俺はそう言ってしまう。

「その続き、俺が言おうか? 次は、
 『あの部屋にいるとき、誰と話をしていたのか?』で、その次は、
 『食事について、何か気に入らない事でもあったのか?』で、最後は
 『灰色の壁や床に、何か恨みでもあったのか?』だろう?
 もういい加減覚えた、いつまで続けるんだこんな事?」

 その言葉を口に出した瞬間、面接医はにやりと笑った。
「…あと、1週間ぐらいかな」
 と、彼は口にする。

「…だぁぁぁっ! 話にならねぇっ!」
「そう言うな、こちらだって引き受けた以上、正常に社会生活に適応できるか
 確認がとれるまで、無闇にここから出すわけにはいかないんだ」
「それは分かってるけど…」
「と言う訳で、もう少し辛抱してくれ」
「…はぁーっ」
「ま、明日から検査の内容が変わるから、今ほどストレスはたまらないさ」
「…そう願いたいよ」
 

 そして、それから暫くして、『洗礼』を受け終えた俺に、
 ようやく退院許可が下りた。

 その間、精神科医との面談の中で、俺は、
 『もう一人の自分が取っていた、支離滅裂な行動の内容』と、
 『その間の記憶が俺にはほとんど無い』という事について、
 これでもかという位に思い知らされた。
 7年間の空白の中で、俺が最も『現実』に一番近い事で、
 知っている事と言えば、
『血の風呂に沈められる』
 という、ただ一点だけだったのだから。
 

 そしてその間、俺が見ていた『別の記憶』について、彼はこう説明した。

 その間の俺にとって、俺の自我(すなわち、今、俺といっている意識のこと)
 が存在する場所は現実ではなく、
 悲しい出来事に耐えられなくなった俺の弱い心が生み出した妄想の中であり、
 その外(すなわち現実のこと)からの事象に対し何の反応も示さなかった。
 つまり、外からの全ての刺激に対し、現実から妄想の世界に逃避した精神は
 その世界を守るために、外界からの反応を全て拒絶していた、ということ。

 また、

 自我が妄想の世界に閉じこもり、統制を失った現実の俺は、
 妄想の世界から現実の肉体の制御に俺の自我が戻ってくるまでの7年間、
 自我が妄想の世界に閉じこもったときに自己防衛のために形成された、
 もう一つの人格である『狂気』に支配されて常軌を逸した行動を
 とっていた、ということだった。

 そう、あの何の統制もされていない行動を起こしていたあの人格でさえ、
 あくまで自己防衛の産物であり、この7年間、最低限ではあったが、
 精神と肉体の繋がりを辛うじて維持してこられたのは、
 紛れもなく『あの人格』のお陰であったのだ。
 

 そして、これはあの精神科医達には話していなかった、
 話せない事だと思った、
 記憶の中に眠る『答え』だが…、

 俺の『自我』が、あの妄想の世界から現実に戻ってこられたのは、
 きっとあの少女の、最後に残された『奇跡』の力のお陰なんだと、
 俺はそう思った。

(最後のお別れだけは、夢じゃなかったんだな…、
 すまない、あゆ、…すまない)
 

 …そして迎えた退院の日。
 その日はこの地方の長かった冬の終わりだった。
 既に道路に雪はなく、誰も踏み込まない隅の雪も、日陰の雪も、
 日光と気温で段々と溶けてなくなっていく、
 街を吹き抜ける風も、もう身を切り裂くような冷たさはなく、
 命の香りを、ほのかに暖かみを乗せて駆け抜けてゆく、
 そんな日だ。

 秋子さんと名雪は、俺の退院の日を心待ちにしていてくれたみたいで、 
 病院の玄関の前で、急かすように手招きをしていた。

 病院の正面玄関から外に出た俺は、太陽を仰ぎ見る。
 やはり直視は出来なかったが、まだ日の光は暖かみしか感じなかった。
 しかし、しばらくすればこの光さえ、
 身を焦がさんばかりの暑さに嫌悪する季節になろう。
 でも、その事さえも今の俺には嬉しかった。

 そして…、
『…これから先、辛いこともあるかもしれないけど、負けないで、祐一君』
 太陽を仰ぎ見たそのとき、そんな声が聞こえた気がした。

 その声は、俺を優しい妄想から解放してくれた、少女の声。
 だから俺は、天を仰ぎ呟く。

「あゆ…分かった、約束する。…だから、見ていてくれ」

 それを言った後、俺はその声を振り払うように頭を二、三度振ると、
 そんな俺を待ってくれている二人の所へ歩き出す。

 そして、今まで背を向けていた現実にも…。
 

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編集後記

 『心が壊れた日』改訂版、文書Ver.2.10をお届け致しました。
 

 これが恐らく最終版です。私の伝えたかった気持ちが届けばいいのですが。
 

 ちなみに私は、これを書いていて『彼岸』に何度か行きかけました。
 テンションを狂気に持っていかなければならなかったためです。

 無性に夜中に笑いたくなるんですよ。
 ……その時、楽しい事なんて何もないのに、ですよ?

 見えないはずの物が、見える気がするんですよ。
 そして、聞こえないはずの声が、聞こえるんですよ。
 ……私を呼ぶ、『ここ』にはいないはずの人の声が。

 マジでやばいと思いました。
 その度に、中断、です。
 おかげでえらく手間取りました(笑)

 それでも、その割には……文章にはそんなに……(あはは…)
 

 お読み下さった方の心に、何か残れば幸いです。
 それでは……。 inserted by FC2 system