第一章‐『散歩道』
 
 

「…もう、いよいよ冬だなぁ」
 なんともなしに呟いた、そんな言葉が白くけぶって消える。自分の中にあった温かさが霧散していくのを
うっすらと感じながら、祐一は自分たちを包んでいる景色を見ていた。
 枯葉色に染まった世界はどこか寂しげだった。まだ雪が積もっていないとはいえ、十一月も半分をすぎれ
ば立派に冬の仲間入りだ。北国ではさらにそれが顕著だろう。
 最低気温が氷点下を下る日もちらほら出てきた。次に降ってくるのは雨だろうか。そんなことも考えなが
ら祐一は青く澄んだ空を見上げる。晴れた朝は冷え込みがきびしい。その言葉を、祐一は今朝身をもって学
んだ。
 この間まであれだけ街を彩っていた木々の葉も、もう数えるほどしか枝に残っていない。昨夜の雨のせい、
もしくは今も吹いている風のせいだろう。
「まだまだですよ、祐一さん。これからもっと寒くなりますからね」
「……はぁ」
 隣を歩く佐祐理の言葉に、祐一は大袈裟に肩を落とす。単調な景色の中で色彩豊かな笑みを浮かべる佐祐
理とは対照的に、舞はまるで溶けこむ様に、道端をキョロキョロ見まわしながら歩いている。

 今日は、三人そろってショッピングだ。
 
 

 だんだんと近づいてくるざわめき、いや、それは一種の雰囲気にも似ていただろうか。
 なんとなく人がいる感じがする、という、ただそれだけのことなのだが、一旦そう思うと、本当にその辺
りの空気がくすんだように見えるから不思議である。
 不穏、とまでは言わないが、あまりいいイメージがただよってこない。健全な――まあ、深い意味ではな
く――商店街から受けるイメージではない気がする。少なくとも、昨日までとはまるで違うようだ。
(…まあ要するに、「イヤな予感」ってヤツだな)
 なんだが大袈裟なことを考えていた自分に少し驚き、祐一はそうやって考えを打ち消した。テレビの見過
ぎだろうか。子供でもあるまいし。
 不当な路上駐車の数が、そのざわめきに比例して増えてゆく。違法駐車は道路の幅を狭くする。これから
冬になるとタイヘンだな、と思いつつ、三人は最後の角を曲がった。
 

「ぐぁ…」
「うわーっ、混んでますねぇ…」
 やっと着いた商店街の入り口付近で、三人は思わず足を止めた。さっきまでおぼろげに感じていた人々の
ざわめき、それが今目の前で証明されている。
 横一列になって道をふさぐオクサマたち。休日なのに制服を着ている女子高生。
 そんないつもの喧騒にまぎれて、今日はやけに親子連れが多い。この混雑も恐らくそれが原因だろう。何
か子供向けの催し物でもあっただろうか。祐一には見当もつかなかった。
(…しかし、これは…)
 所々から挙がる幼い歓声に、祐一は思わず顔をしかめた。特に人ごみが嫌いだというわけではない。子供
もまあ、苦手ではこそあれ嫌いではない。
 原因は他にあった。ごく近い過去である一つの出来事を呼び起こす、どこか共通したイメージ。
(…そう、まるで…)
「この前の遊園地みたいですねーっ」
「…ぐはっ…」
 思い起こしていたことをずばり言い当てられ、祐一は思わずうめいた。
「あははーっ。大丈夫ですかーっ?」
「……なんとか」
 佐祐理はすでに祐一を見てはいない。何か新しい店ができたとかいうことを、楽しそうに舞と話している
最中だった。
(佐祐理さんも…オレと同じコトを考えていたんだろうか?)
 そんな疑問がふと浮かんだが、すぐに「意味がない」と祐一はその考えを四散させる。
 あの時の自分の気持ちは、きっと自分にしかわからない。そんなありふれた理由をつけて。
 もっと深いところに何か横たわっている気もしたが、祐一はあえてそれを無視した。
「…さて、こんなトコで突っ立ってても仕方ないな」
「そうですね。行きましょうか」
 …こくり。
 二人の言葉に舞もうなずき、三人は人ごみの中へ消えていった。
 
 

 いつもより騒がしい商店街の往来は、いつもより人の流れも激しい。
 休日だと言うのに何をそんなに慌てているんだろう。まっすぐ前だけを見て早足で行き交う大人たちを、
祐一はどこか不思議そうに眺めていた。
 そこに軽蔑はなかった。あったとすれば困惑だろうか。底の見えない井戸を覗き込んでしまったような戸
惑い。自分には理解できないモノが、この人たちにはある。
(…なんだ、そりゃ?)
 自分で思い描いた比喩を、祐一は鼻で笑い飛ばす。バカバカしい。それは偏見というものだ。
 ちょっと周りを見渡せば、楽しそうに歩いている親子連れだっていっぱいいる。みんながみんなあくせく
しているわけでもない。
「人は自分の見たいものを見る」それは誰の言葉だっただろう。その思考も、肩にぶつかってきた男性の
低い謝罪の言葉が中断させる。
(…そうだ。今日の人口密度は異常だったんだ…)
 ちらっと振り返ると、舞と佐祐理はいまだ楽しそうにしゃべっている。まあ、舞のほうを見て「楽しそう」
とわかるヤツなどまずいないだろうが。それがわかるのがちょっとうれしい。
 祐一は思わず頬が緩むのを感じ、慌てて目の前に意識を戻した。そう、自分はいわば先導車なのだ。後ろ
の二人が休日の会話を楽しむために、オレは人の波を泳ぐように道を作る。二人はそれに続くのだ。
 

 特に買いたいモノがあるわけではなかった。祐一はせいぜい頭の中で自分の冬物を並べていただけだった
し、佐祐理にいたっては今晩のメニューが一番の関心ごとだった。
(…なんか、世間と離れてしまった感じがするな)
 意識はそんなところまで飛んで、結局「似合わないな」と苦笑する。
 後ろの二人はともかくとして、自分は完全に平凡な人間だ。テレビはなくても苦じゃないだろうが、人間
関係を断たれるというのは正直つらい。まあ、舞と佐祐理さんさえいればいいんだけど。いったん答えが出
たところで、今度はその答えにまた苦笑する。
(結局、オレたちみんな同類ってワケか)
 かすかに自嘲的な笑みが鼻からもれた、その時、
「……あ」
 もっとも浮世離れした感のある舞が、何かに目を取られて立ち止まる。
「…ん? どうした? 舞」
 ポケットに手を突っ込んだまま、祐一は来た道を戻る。舞はピンク色の機体に顔を寄せていた。どうやら
ゲーセンの店先に置かれたUFOキャッチャーらしい。
「…ぱんださん」
「…パンダ? どこにパンダなんかいる?」
 少なくとも祐一には、パンダらしき物体はどこにも見当たらない。
「…たれぱんださん」
「……ああ。たれぱんだか」
 そう言われてみると、ぬいぐるみの山の少しへこんだところから、パンダともタヌキともつかない物体が
じっとこちらを見つめている。背中にちっちゃいのが乗っているのは、おんぶのつもりだろうか。
「…しかし、舞」
「………?」
「おまえ…詳しいな」
「…そうでもない」
 心なしか少し恥ずかしそうに、舞はそう言ってガラスに両手を当てる。
 一番浮世離れしてると思った奴が、どうやら一番こだわりがありそうだ。
「あははーっ。舞、最近はたれぱんだに凝ってるんですよーっ」
 ぽかっ。
 同じようにガラスに顔を張り付かせた佐祐理の頭を、舞のつっこみが襲う。佐祐理は大袈裟に頭を押さえ、
退散した。
「最近一緒に寝てるのもたれぱんだだもんねーっ」
 ぽかっ。
 機体から離れ、舞が真っ赤な顔でつっこみを入れる。佐祐理はおおはしゃぎで逃げ出した。舞もすかさず
後を追う。
「あははーっ。祐一さーん、助けてくださーい」
 ぽかぽかっ。
「あははーっ」
(やめときゃいいのに)
 きゃあきゃあ言いながら走りまわる佐祐理を見て、祐一は心の中でつぶやく。しかしそれも本心ではない。
(…まあ、見てて楽しいし)
 なにより当人たちが楽しそうなので、本来口を出すいわれなどまったくない。ただ…

「あははーっ」
 ぽかぽかっ。

 …ざわざわ…ざわざわ…

(…ぐあっ、目立ってる…)
 今度は声に出さずに、祐一は本日三度目のうめき声を上げた。
 そう、これが家の中だったのなら何も問題はない。せいぜい自分が巻き添えをくうくらいのものだ。
 しかし今は…
(…まいったな…)
 ただでさえ今日は人が多いというのに、道の真ん中でいい年の女の子が二人で追いかけっこだ。しかも二
人ともどこかズレている(祐一談)となれば、野次馬の集まらないほうがおかしいというもの。

 …ざわざわ…ざわざわ…
 …ざわざわ…ざわざわ…

(…うぁ、増えてきた…)
 一重だった人の輪も二重に…そして三重、四重と…きっと外の輪の人間は、何があったのかもわからない
のだろう。
 しかし何はともあれ、これで脱出が難しくなったというのは問題である。当の本人たちがこの騒ぎにまだ
気づいていない、というのが実のところ一番の問題ではあったが。
(…しかし…)
 黙って見物していた観客の中から、なにやらヒソヒソ話がもれてくる。こんな時ウワサの発信源はだいた
いオバチャンで、しかもよくないウワサであることが多い。そのうち一人のオバチャンが、ロコツに祐一を
目で指した。それに合わせるかのように、取り巻きらしい数名がいっせいにうなずく。
(…オイオイ…どうなってんだ、オレよ…)
 どうにもヘタを打つと犯罪者にすら仕立てられかねない。祐一はいよいよ本気で脱出策を練らなければな
らなくなった。
 最初は他人のフリをしてキャッチャーに興じていようかとも考えたが、佐祐理がことあるごとに自分を見
て、「祐一さーん」と叫ぶので却下。
(…う〜ん、困った…)
 ちなみに「困った」と言った時でもあまり困っていないように見えるのは、半年の同居生活で自然と身に
ついてしまった、一種の耐性のようなものだろう。
 もっとも他にも理由はあるのだが、普段は祐一の意識の中には昇ってこない。
 しかし今回ばかりは勝手が違う。「困った」というより「弱った」といった方がいいかもしれない。
(…弱った…)
 「類は友を呼ぶ」…いや、「人の不幸は蜜の味」だろうか。
 すぐ隣のキャッチャーのガラスには、舞の手形と白い息の跡がぼんやりと消えずに残っている。そのさら
に向こうからは、いかにも「何も考えておりません」というような「ぱんだ」の視線。
(オマエのせいだ…)
 たれぱんだにあたったところで仕方がない。祐一はしぶしぶ覚悟を決めた。
「あははーっ」
 ぽかぽかっ。
 周囲の状況などまるで気にしていないように、二人は依然走りまわっている。ここまでくると一種の才能
だな、などと思いつつ、祐一は二人に近づいた。見物人の視線も自ずと彼に集まる。
 そして…

 むんずっ!

「ふぇ!?」
 ぴたっ。
 情けない声とともに、佐祐理は不意に足を止める。舞も振り上げた手をそのまま留め、同じように立ち止
まった。
「祐一…さん?」
 佐祐理は動きを止めたまま、おそるおそる、といったふうに自分の首元に伸びている腕を見る。
 「我ながら絶妙」と後に語るほどのタイミングで、祐一の右手は佐祐理の首を後ろからがっちりつかんでいた。
 そう、それはまるで猫のように。
(……猫さん?)
 と、このような発想があったのかどうかはわからないが、振り上げたままの右手の落ち着く先を舞はやっ
と見つけたようだった。
 ぽかっ。
「……祐一が悪い」
「…ごもっとも」
 つぶやくようにそう言って、祐一は右手をぱっ、と離す。佐祐理は爪先立ちになっていた足を戻し、複雑
な笑みを浮かべて振り返る。
「ふえ〜。どうしたんですか? いきなり…」
 祐一はそれには答えず、横目でちらっ、と舞を見た。祐一への「おしおき」が済んだことに満足なのか、
その視線はすでに「たれぱんだ」に戻っている。
「そういうこと」
「………?」
 佐祐理もそれ以上聞かなかった。その代わりとでもいうに、彼女も無意識に舞に目をやる。
 周りを囲んでいる人ごみには、佐祐理はついさっき気づいていた。ちょうど祐一に首をつかまれた時だ。
 しかし彼女は、どうしてこんなに人が集まっているのかなどちんぷんかんぷんだったし、ましてやそれが
自分たちのせいだなどとは考えもつかなかった。せいぜい「このゲームセンターは人気があるのだろう」
くらいにしか思わない。主語が例えば「たれぱんだ」に変わったとしても、「自分たち」に変わることなど
まずないのだ。
「……さてと」
 騒ぎも何とか一段落つき、野次馬の熱もだいたいおさまってきたようだ。これをチャンスとばかりに祐一
は人の山をぐるり見まわし、いまだたれぱんだと見つめ合っている舞を手招きした。
 二人の顔を近くに寄せ、祐一は耳打ちするように小声で告げる。
「……逃げるぞ」
「……はぇ?」
「………?」
 案の定二人はわかっていないようだった。しかし今はそれでもいい。祐一は再び顔を上げ、さっき見つけ
た人垣の薄いところを目で確認した。
(……よし)
 一人で勝手に納得して、祐一は再び二人に目を戻す。相変わらず二人は事情を飲み込めていないようだ。
(結局、オレの一人芝居か)
 そんなことも考えて、思わず苦笑をもらす。この場合は考えそのものではなく、「一人芝居」という単語
に対してであろうが。
(…まあ、いいさ)
 再度そうやって自分を納得させると、祐一はいよいよ「脱出」の準備にとりかかった。
「…舞、佐祐理さん、手ぇ出して」
 二人は言われた通りに片手を差し出す。向かって左側に立っている舞が左手、右側の佐祐理が右手。要は、
お互い相手に近いほうの手を出した、というワケだ。
(さっすが♪)
 祐一は内心口笛を吹いた。そのまま二人の手をとって、それらを重ねる。ちょうど手を握った格好だ。
「…あのー」
「…祐一」
 珍しく舞が口をはさむ。やはり不思議に思ってのことだろう。しかし祐一はそれにも答えず、半ば無意識
に佐祐理の空いているほうの手を取った。
「逃げるぞっ!」
 さっきと同じ言葉。違うのは言葉が向けられる対象と…行動が伴っているかどうか。
「はい! ちょっと通してください!」
 人ごみのわずかな隙間を祐一は泳ぐようにすり抜けた。後ろの二人も引きずられながら続く。
 人の中を掻き分け…時々浴びせられる文句すらも高揚感に変えて。
「よし、走れっ!」
 つないだ手をほどくとともに指令は変わった。まだ事情を理解していないだろう二人も、今度は黙って走
り出す。そんな些細なことが、祐一にとってはうれしい、というより楽しかった。
 
 

「さて…と、ここまで来れば…」
 少し走ったところで振り向くと、舞と佐祐理が並んで走ってくるのが見えた。それほどの距離ではなかっ
たので、二人もすぐに祐一に追いつく。
「ふぇ…一体どうしたんですか?」
 疲れたように息を切らす佐祐理とは対照的に、舞はいつもと変わらず無表情のまま。そのコントラストが
祐一にはやけにうれしかった。
「さてと、買い物に戻ろうか」
 何事もなかったかのように笑う祐一に、佐祐理は一瞬呆けたように口を開き、やがていつもの笑顔でうな
ずいた。
「…そうですね。行きましょうか」
 こういうところはさすがだな、と祐一は思う。
「……たれぱんださん」
 …これも、まあ…「さすが」だろう。うん。その笑みにちょっとだけ苦いものが混じる。
「帰りにとってやるから」
「…ほんと?」
「ほんと」
 その言葉にやっと満足したように、舞も頷く。それに佐祐理ももう一度笑った。
「んじゃ、行こうか」
 そういった直後、ふと後ろ髪を引かれた気がして、祐一はさっきの現場を振り返った。
 そこにあったのは、人込みの残骸とでもよべばいいのだろうか。あれだけたまっていた人ごみが、まるで
クモの子を散らすように四散していくのが見えた。
(……なんなんだ、ありゃ)
 さっきまでは夢中で気づかなかった怒りが、ふと込み上げてくる。よくよく考えてみれば、あんな理不尽
なことがあるのだろうか。
(二人は…ただ遊んでただけなのに…)
 そこまでいって、祐一はその考えを収めた。二人の心配そうなまなざしのせいもあったが、原因はもっと
根本的なことだった。
(…理不尽なのはオレも一緒か)
 冷めた自分がふと気づく。もともと彼らに何か期待していたわけでもない。それで怒るというのもきっと
理不尽なのだろう。もちろん、程度の差こそあれ、だが。
(…どうでもいいか)
 祐一はその光景から目を背けた。これ以上考えても気が滅入るだけだ。忘れようと思った。
「……あれ、二人とも…」
 じっと自分を見つめている二人の姿を見て、祐一はふと声を上げた。
 佐祐理は不思議そうに小首を傾げる。舞も表面上は変化がなかったが、かすかに口元が「?」の形になっ
ていた。
(…って、オレくらいにしかわからんだろうな)
「…いや、なんでもない」
 何事もなかったように顔の前で手を振り、祐一は先頭に立って歩き出す。舞と佐祐理はなぜかまだ手をつ
ないだままである。祐一がさっき注目したのはここだった。
 きっと祐一が何も言わないからであろうが、これはこれでいいように思えた。少なくとも悪くはない。
 喉のあたりにあったつかえが少しだけとれた気がして、祐一は笑った。
「えっと、何を買いにきたんだっけ?」
 
 
 
 

「……何を買いにきたんだっけ?」
「さあ、なんだったんでしょうね」
「………」
 恨めしそうな祐一の言葉にも、佐祐理はあっけらかんとした笑顔で答える。
 時刻はすでに午後の四時。夕焼けが西の空に広がっている。
「…なんだったんだろうな。本当に…」
 夕日を見ながら一言つぶやく。今日は暖かい方なのだが、息が曇らないことはもうないようだ。
 結局今日の収穫といえば、佐祐理と祐一が一つずつ抱えているスーパーの買い物袋だけである。なぜこれ
だけの買い物に四時間近くもかかったのかがわからない。
「きっと混んでいたからですね」
 違うだろう、と思いつつも、祐一はそれを口には出さなかった。
 舞は少し後ろを歩いていた。右手に流れる川を眺めながら、両腕で何かを抱きしめている。祐一が千円か
けて取ってやったたれぱんだだった。
 黒髪がオレンジの風にたなびく。静かな瞳に波が見えた。
(……ここは…どこだ?)
 一瞬、祐一は本気でそう思った。周りの風景がどこかへ消し飛ぶ。残されるのは自分と舞だけ。
 そして、流れていた風景が止まる。色がつく。オレンジ一色に。
 これは初冬の景色ではなく、本当は夏の景色で…
 二人がいるのは麦畑で…

 どこか遠くで、舞が微笑う。

 …いや、よそう。祐一は心の中で苦笑いを浮かべる。
 それはもう過ぎたことだ。大事なことだが昔のことだ。とりあえず今は今。それでいい。
 刹那的か、とも思ったがそれとも少し違う。気になるのはもっと別のことだった。
(…なんで、いまさら…)
 十年も前の記憶が、なぜ今になってフラッシュバックしたのだろう?
 その時やっと気づいたように、舞がこちらに顔を向けた。そして、祐一にとってはそれで充分だった。
 じっと見つめる舞の瞳。
(……あ、そうか…)
 祐一は微笑んだ。遠い景色がもう一度、今度は立ち止まることなく通りすぎる。祐一にはそれが見えた。
もちろん、正確に「見えた」わけではない。だがそんなことは些細なことだ。今の笑顔のわけとどちらが些
細なことだろう、と祐一は少し考える。
 クールに言ってしまえば、プラスとマイナスの足し算で、プラスが残ったから祐一は笑ったのだ。マイナ
スの項は自分自身に対する思い。プラスの項は舞への想いだ。恋愛感情とは少し違う次元の話。それはどこ
か憧れにも似ていた。単純な、幼き憧憬。
(オレは…計算できてしまうからな)
 さっき微笑ったのがいい証拠だった。いや、正確には笑った理由が。
 舞はきっと今のように、自分の数歩後ろを歩いているのだろう。彼女が見ている光景を、祐一は鮮明に思
い出すことができない。しっかり目に焼き付けなかったからだ。
 しかし舞にはそれができる。自分の速度で歩いてゆける。それがうらやましかったのだろう。いまさらど
れだけスピードを調整しても、戻ることだけは祐一には不可能だ。
「………?」
 目を合わせたまま、舞は不思議そうに小首を傾げる。祐一は笑って首を振った。そしてそこで改めて、異
様なまでに感傷に浸っている自分に気づく。どうしてだろう? 今日に限って…
 商店街でのいざこざのせいか。そう思って正面に向き直った、その目に飛び込んでくるのは、太陽。
 死にゆくような真っ赤な太陽。
(…赤……オレンジか……)
 そのせいにしておこう。思い出のかけらを軽くそよいでいくような風と一緒、とにかくこの色彩のせいだ。
それ以外の何物でもない。
 太陽に勝手に責任を押し付け、目を細めながら、祐一は夕日を見つめて数歩歩く。ふと隣に目をやると、
楽しそうな佐祐理の笑顔がそこにあった。
「どうしたんですか? 浮かない顔して」
「…いや、ベツに…」
 そう答えながらも、さすがだな、と思う。一日に何回でも思う。
 人の心を見透かしたような微笑み。それでいて嫌味でないのは、きっと彼女の人柄によるものだろうか。
(…そういや、あの時は…)
 夕焼け空の向こうに、もう一つの空が見える。
 それは今よりずっと近い。いや、そう感じるだけか。空に近づいたといってもたった数十メートルの話だ。
冷静に考えてそんなはずはない。
(でも…あの時は…)
 祐一は思い出していた。半月ほど前の遊園地でのこと。観覧車でのこと。佐祐理の…
 …いや、やめよう。祐一は小さく首を振った。考えたって答えのでない問いもある。答えに意味のない問
いもある。
(どっちの方が意味があるんだ?)
 その問いすら意味がない。少なくとも、今の祐一にとっては。
「…祐一さん?」
 すぐ近くから聞こえる声に、祐一は慌てて意識を戻した。佐祐理が心配そうに顔を覗き込んでいる。知ら
ぬ間に歩く速度も遅くなったのか、逆側の隣にはもう舞が追いついていた。
「…いや、なんでもない」
 どちらからも顔を背けるように、祐一は一人早足で歩き出した。二つの乱れた足音がそれに続く。それを
聞きながら、祐一は今夜の夕食のことなんかをぼんやりと考えていた。
 
 
 

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