第二章‐『空』
 
 

「……それでここにさっきの命題を適用するわけですね。これでもともとの対偶が証明されたわけですから、
定理3の性質がすべて証明されたわけです。そこで次に、先ほどの補題について考えると……」

 ……ふぅ。
 舞は大きく一つ息をつき、軽く目を閉じて上を向いた。
 教卓では担当の教官が先ほどまでとは打って変わって黙々と数式を黒板に列挙している。この人は黒板の
使い方がヘタだ、と舞は思った。左上から右下へ、という意思がもともとないのだろうか。いくつもの線で
仕切られたそれぞれの部分は、しかしそれだけでは意味を為さない。ノートに写すことさえ一苦労だ。きっ
と遅刻してきた生徒は泣きを見るに違いない。
 暗闇の中で聞こえる音は、チョークとシャープが走る音だけ。二、三度首を倒して、そろそろか、と目を
開く。板書の内容はすでに半分近く変わっていた。
 

 十一月も半ばを過ぎて、きれいに紅葉していたナナカマドの葉っぱも、もうそのほとんどが散ってしまっ
ている。舞の席は窓際だ。この授業は席指定がないので、彼女はいつも窓のそばに座ることに決めていた。
 舞はこの教室が好きだった。いや、正確に言えば、この教室の窓から見えるロケーションが好きだったの
である。春には遠くの方にだが桜が見え、秋には赤や黄色に染まる。そんな景色が好きだった。時間割の関
係でこの教室には週に一度しか来なかったから、窓の外がどう変わっているか、というのがこの授業におけ
る密かな楽しみだったというのもまた事実だった。
 そしてもう秋も過ぎた。いろとりどりの世界は姿を変え、今度は一面の雪景色が目の前に広がるのだろう。
それもまた、大きな楽しみだった。
 
 

「舞ーっ。こっちこっちーっ」
 学食の入り口付近でウロウロしていた舞の耳に、聞きなれた声が届く。ほとんど反射的にどちらに目をや
ると、一つのテーブルを陣取って、佐祐理が大きく手を振っていた。
「ごくろうさま。はいっ」
 舞がその向かいに腰掛けるなり、佐祐理は手に持っていたソフトクリームを彼女に手渡した。舞は黙って
それを一口舐め、また黙って佐祐理に戻す。
「どうだった? 積分」
 その言葉に、舞はふるふると首を横に振る。その顔にはすでにあきらめの色が濃かった。
「…向いてない」
「そんなコト言わないのーっ」
 佐祐理は笑ってソフトを差し出す。舞はまた一口舐めてそれを返した。
 「微分積分学U」それがさきほど舞が受けていた講義の正式名称である。二年生だから「U」だというわ
けではない。これは一年の二学期で受けるべき内容だ。
 では、なぜ舞が一年生の講義を受けているのか――
「……もうやめたい」
「あははーっ。大丈夫だよ。『T』だって取れたんだし」
「……それはそうだけど」
 屈託ない親友の笑顔を前にして、舞は疲れたように息を吐く。
 ――なんのことはない。再履である。
 

 薬学部の舞にとって、微積は必修科目だった。二年生の一学期が終わるまでにT〜Vまでの単位を取得し
なければ卒業は認められない。最初の期間に単位を落とした場合、それは次の年に繰り越され、「再履修」
という形で再び顔を合わせることになるのだ。ありがたいのかありがたくないのか、よくわからない制度で
ある。
 そのT〜Vの単位のうち、舞が再履修を免れたのは「T」だけだった。別にサボっていたわけではない。
舞には舞なりに、何か理由があるようだった。
 
 

 佐祐理と一緒に昼食をとった後、舞は一人キャンパスを歩いていた。
 行き交う自転車の数も、一日ごとに少なくなっている気がする。この寒さでは仕方ない、と舞は思う。な
にしろ最高気温が一ケタなのだ。自転車で風を切って走るとなると、体感温度はさらに低くなることだろう。
 特に当てもなく、舞はぶらぶらとその辺りを散歩した。三限を空けてしまったので、木曜の午後は毎週二
時間近くヒマを持て余している。何か入れればよかった、と少し後悔したが、興味の持てる講義がなかった
し、なにより今さら変更もできない。
 何もしない、というのが実は一番難しいのではないか。最近そんなことまで考える。空き時間とは名ばか
りで、むしろどう時間をつぶすかが問題なのだ。いつもは生協の書店で立ち読みしたり、図書館で勉強した
りしているのだが、今日はどうもそんな気分にならなかった。
 原因は、学食で佐祐理に言われた一言だった。
 『だったら、やらなくてもいいんじゃない?』
 精一杯励ましの言葉をかけた後、それでも悩んでいる舞に佐祐理は笑ってそう言った。
 「それで済むなら苦労はしない」きっと他の誰かに言われたなら、そう言い返していたことだろう。いや、
もし祐一に言われたら、だろうか。それ以外の人間相手には、舞は黙って頷くだけだろう。
 なぜ祐一には言い返すのか――それはつまり、彼女が苦しんでいることの証でもあった。
 舞が単位を落としたのは、能力的な問題ではない。極端に言ってしまえば「やる気がおきなかった」とい
うことなのだ。人によっては「ヘリクツ」ととられるだろう、そんな理屈のせいだった。
(なんでこんなことをやるんだろう?)
 それは微積のみならず、学問全体に対して舞がずっと抱いていた疑問だった。
(こんなことをしてどうなるの?)
 高校以上の数学は、実生活では何の役にも立たない。そう誰かが言っていた。中学校を含めてもいいかも
しれない。二次方程式の解き方を習ってからもう五年。日常生活で解の公式を使ったことなどもちろん一度
もない。
(…じゃあ、なんで?)
 そこでいつも足が止まる。それが舞の壁だった。答えの出ない問い。いや、答えは確かにあるのだ。単位
を取り、進級し、卒業するため。それが目的。一つの確かな。
(……目的…)
 舞もそれはわかっていた。単位さえ稼げればいい。「可」をとれればそれでいい――でも、それは周りの
人の言葉。自分の言葉ではない。だから舞は悩んでいた。理解はできても納得できない。それが理由。割り
きることができないのだ。
(…私は……)

 自分は子供だ、とつくづく思う。人の役に立ちたくて、人の命が救いたくてこの場所を選んだ。だったら
卒業することが一番の目的ではないのか。そのために入学したのだから、卒業さえできれば…
(それでいいの?)
 問いかけるのは誰だろう。自分だろうか。自分の中の誰かだろうか。
 それとも、彼女こそが…

 …いや、今はいい。舞はこの問題を保留した。数学うんぬんより数段難しい問題に思えたからだ。
 大学に入る前はどうだっただろう。舞は無意識のうちに下を向き、記憶の糸を手繰り寄せた。高い空では
なく低い地面を見つめたことに何か意味はあるのだろうか、とも一瞬考えたが、それも思考の彼方に消える。
(………そうか)
 答えがわからなくて伏せられたままだった一枚のカード。その裏側に、つまりは彼女の見える側に、高校
までの自分がいた。
 それは考えないこと。いや、過去の自分を弁護するなら、考えられる状況にいなかった、というべきか。
 魔物と戦っていた頃の自分には、そんなことを考えつくきっかけすらなかった。毎日夜の校舎に出向いて、
その他の時間はやることがないから勉強をする。言うなればヒマつぶしだ。祐一がマンガを読むのと一緒。
 ただそれだけが理由であって、それ以上の意味は考えたことも、必要に感じたこともなかった。
 余裕ができたということだろうか? こんなことを考えるのは。
「……わたしは…」
 舞は小さく声をもらした。気がつけばそこは人通りも少ない校舎裏の小道で、道路一面に枯れた葉っぱが
敷き詰められている。その上で舞は足を止め、今度は高い空を見上げた。
 風はない。白い雲が、まるで星の動きのように緩慢に西へと流れていくように見えた。
 さむい、と思った。冬の空気は他の季節とは違った感じがする。硬い空気の粒がお互い反発しあって、そ
れがピリピリした痛みを与えるのだと、舞は昔から思っていた。
 その硬さに、震える声が反射する。自分の声が大きく聞こえた。
 口に出すことのなかった、次の言葉さえも。

 私は何で大学に来たんだろう?
 
 
 
 

 四限が始まる時間になっても、舞は校舎に戻らなかった。
 彼女は図書館にいた。とはいっても、北分館と呼ばれるこじんまりとしたところである。
 この大学の構内には図書館が二つ建っている。南端にそびえる本館と、やや北よりであろうか、くらいに
位置している北分館である。彼女の校舎からは分館のほうが近かった。実際本館には、入学してからこのか
た数えるほどしか足を運んでいない。
 分館は四階建てで、おおまかに分けると一階が一般閲覧室、二階が自然科学、そして三階が人文科学を中
心としたラインナップになっている。四階は確かゼミ室のようなつくりになっているはずだ。舞はそこには
行ったことがなかった。
 舞たちが入学する直前に改装されたというこの建物では、インターネットまで楽しむことができる。彼女
が知っている限り、数少ないパソコンはいつも満員。いずれ本棚のスペースが全部パソコンに占拠されたと
しても何ら不思議はないだろう。いや、その方がより多くの書物に触れるチャンスが増えるかもしれない。
 まあ、どちらにしろ自分には関係のないことだ。二階の室内を一瞥して彼女は階段を上った。もちろん、
という言葉は不適切かもしれないが、舞はパソコンは苦手だった。
 三人の家には、一台だけパソコンがある。祐一の父親のお下がりらしいが、まだまだ現役で動いていたし、
祐一や佐祐理にとってはそれで充分すぎるほどだった。舞はほとんどいじることはなかったが、これからは
そうも言っていられなくなるかもしれない。三階の床に足をかけたところで、彼女は息をついて目を閉じた。
 

 三階から見る景色が舞は好きだった。理由はわからない。これ以上高くなると、少し足元がすくむ気がす
るが。祐一ほどではないにしろ、軽い高所恐怖症なのかもしれない。それともこれが普通の感覚なのだろう
か。彼女にはわからなかった。
 本棚の間を一通り巡り、タイトルから何冊かの本を見繕って椅子に座る。ここでも席は窓際だった。
 すでに裸になった木々は、吹きすさぶ寒風に低く軋むような音を立てる。まだ雪は降らない。その景色は
ひどく寂しい。夏のように躍動しているでもなく、冬のように眠りにつくわけでもない。この情景をなんと
表現すればいいのだろう。
 舞は半ばうつろな感じで、じっとページに目を落としていた。心理学かなにかの本だっただろうか。三章
くらい読み進めたところで、彼女はただ字面を追っている自分に気づき、ため息をついた。意味など何一つ
頭に入っていない。唯一わかったことといえば、自分がタイトルの意味を取り間違っていたということだけ
か。本と一緒に目も閉じて、舞はもう少し考えてみることにした。
(私はなんでここにいるの?)
 ここ、とは図書館のことではもちろんない。「大学」という一つの世界。
 舞はもう一度窓の外に目をやった。景色は変わるはずもない。伝わってくるのは寂しさ。
 でも今度は、それに暖かさのエッセンスが重なる。
(このキャンパスのどこかに…祐一と佐祐理が…)
 そう思うだけで、目の前の景色から受ける印象はずいぶん違う。いきなり華やぐ、などということはさす
がにないが、それでも少し好きになれるような気がするから不思議である。
(……こういうことかも)
 誰かが頭の中でささやく。甘い声。思わずうなずき返してしまいそうになるほど、優しく響いた。
「……そうかも」
 舞は小さくそうもらした。それは肯定だったのだろうか。それとも彼女なりの精一杯の抵抗だったのだろ
うか。甘い言葉で誘惑する、深いところにいる自分に対しての。

 『一緒の大学に行けたらいいね』

 それは佐祐理の言葉だった。三年になる前から、もしかしたら一年の頃から言われていたことかもしれない。

 『川澄は、進路については考えてるのか?』

 それは誰の言葉だっただろう? ……そうだ。確か進路指導の先生だ。指導室付で一人だけ、彼女に対して
も変わらず接してくれる教師がいた。名前は確か……そう、アベだったと思う。漢字はわからない。誰かが
そう呼ぶのを聞いて、音で憶えているだけである。
 舞が一人で進路指導室に行くことなど滅多になかった。ほとんどが佐祐理のお供である。佐祐理自身も本
当は大学調べの必要などなかったのだが、どうしても上の大学に行かせたいらしい教師たちが、よく説得の
ために彼女を呼び出していたからだ。
 佐祐理が教師陣に囲まれている間、舞はいつも部屋の外で待つことにしていた。これは佐祐理が望んだこ
とである。父親のことなど、雑多なことを聞かせたくなかったのかもしれないが、真意のほどはわからなか
った。佐祐理は言わなかったし、舞も聞かなかったからだ。
 あれはまだ夏のことだっただろうか。模試の過去問を調べに来た佐祐理が、「いつものように」二、三人
の教師たちに囲まれた。佐祐理の申し訳なさそうな視線を受けて、「いつものように」舞が廊下に出ようと
すると、

 『えーっと、川澄さん、だっけ?』

 変わった先生だった。今になって改めてそう思う。
 年の頃は三十半ばといったところか。舞の知らない顔だった。まあ、廊下ですれ違ったことくらいならあ
るかもしれないが。少なくとも舞のほうに面識はなかった。

 『好きなものはあるかい?』

 そう聞かれたのはいつ頃だっただろう。なぜそんな話になったのかもよく憶えていない。
 彼女が憶えているのは、自分が確かに頷いたことと、それにアベが満足げに笑みを返したことだけだ。
 ただ、彼女にとっての「好きなもの」が、佐祐理をさしていたことだけは、さすがに気づかなかったに違
いない。
 それにしても、「触らぬ神にたたりなし」――それが舞に対する反応の全てといっても過言ではなかった
頃の話だ。卒業するまでの三年間、例外だったのは佐祐理と祐一、そしてこのアベという教師だけだった。

 『川澄の力なら、結構面白いところに行けると思うんだがなぁ』

 それは最初に会った時、舞が部屋を出る時に言ったセリフだ。
 面白い、とはどういう意味なのだろう。舞は思ったが、その時は訊かなかった。
 
 

 ぼやけてゆく景色に、舞はふと我に返った。
 目の前にあるガラス窓に、大粒の雨が叩き付けられている。突然のことだった。さっきまでは晴れていた
のに…と、舞は壁にかかった時計をみて驚いた。すでに四限も終わろうという時間だったのである。物思い
にふけっていたつもりで、実は眠っていたのかもしれない。
(…昔の夢を見たのかもしれない)
 白く曇った半透明なガラスに、アベの笑顔が映し出される。舞がアベに対して特別な感情を持ったことは
一度もなかった。アベの方もそんな素振りは見せなかった。もしかしたらただの好奇心だったのかもしれな
い。だがたとえそうだったにしても、彼を責める気持ちは毛頭なかった。それはきっと、彼女の今の気持ち
に似たものであっただろうから。
(……訊いておけばよかった)
 それは後悔だったのかもしれない。アベの言う「面白い」とはどういう意味だったのか。
 でもそれは、今だから思うことだ。あの時は全く興味がなかった。「面白い」と思うことなど、考えもつ
かなかったからだ。
(…今の私なら……)
 アベの姿は消えていた。曇りガラスに映っていたのは、見なれた自分の姿だった。
 その顔が和らいでいることに少し驚いて、舞は本を持って席を立った。次は確か……と考えて、今朝見た
掲示板の映像が頭をよぎる。今まで座っていた机を見た。すでに大雨になった外を見た。
(……お昼で帰ればよかった)
 帰りの道のりを思って、彼女は思わずため息をつく。
 今日の五限は休講だった。
 
 
 
 

 さ―――――っ……

 雨足はいくぶん弱まったようだ。それとも風が止んだからだろうか。想像していたよりずっとおとなしい
空模様の下、舞は少し早足でアパートへの道のりを歩いていた。
 舞がさしているのは、大学の売店で買った百円のビニール傘だった。彼女はもともと傘を持ち歩くような
タイプではない。佐祐理に渡された折り畳み傘は、この前の雨の時に使ったきり、仕舞うのを忘れてしまっ
ていた。
 いつもならまだ明るさの残っている時間だったが、この雨のせいで辺りはずいぶん暗くなってしまってい
る。ヘッドライトをつけている車を見ると、余計にその暗さを思い知らされるから不思議だ。
 舞は雨が嫌いだった。
 理由はよくわからない。
 例えば雨の午後、部屋の中からじっと外を見つめているのは嫌いじゃなかった。
 寝る間際に降る雨の音は、子守唄のように心を落ち着かせてくれた。
 それでも、彼女は雨が嫌いだった。
 いや、正確に言えば、雨の日に外を歩くことがイヤだったのだ。
 さしている傘は、隣の人との距離をいやがおうにも広げるし、
 静かで単調な雨音は、そのまま自分を隔離してしまいそうな響きに聞こえる。
 強いてあげればそんな感じだろうか。雨は孤独のにおいがする。独りで歩く雨の夜など、もう最悪だった。
 何故だろう? 赤信号で止まりながら、ふとそう思う。
 「孤独のにおいがする」――そう、自分はずっと孤独だった。十年の時、夜の校舎、ずっと自分は独りだ
った。もう慣れたと、いや、そんなことすら感じなくなっていたのに…
(寂しい?)
 寂しいのだろうか。きっとそうだろう。独りがイヤ、ということは、寂しいのがイヤ、ということではな
いか。
(…寂しい……私は……)
 

 信号が青に変わって、舞は歩き出した。
 

 雨に濡れた横断歩道。その白黒の模様が、そのまま彼女の脳裏に映る。
 白、黒、白、黒……
 まるで二進法のようだ、と思う。自分の心もそうならどれほど楽か。
 交互にやってくるモノクロの両端。点滅するイメージ、振り子…イメージはデジタルからアナログへ移行する。
 停車する車のヘッドライトが、彼女の姿を照らす。
 私は子供になったのだろうか?
 それとも大人になったのだろうか?
 独りが寂しい、というのは子供の証拠なのかもしれない。
 それに気がついた、というのは大人の証拠なのかもしれない。
(……わからない…)
 堂々巡りだ。答えは見出せない。
 ……はぁ。
 彼女は白い息を吐いて、傘をずらして空を見上げた。歩道に入ってすぐのところ。赤に変わった信号機も、
水を跳ねて行き交う車に遮られ、その光は見えない。
 決して大きくはない雨粒が、次々と彼女の顔を打ちつける。冷たかったが気持ちよかった。火照った頬を、
頭を冷やしてくれる感じがした。
(……わたしは…)
 自分はきっと弱くなったのだろう。それだけははっきりとわかった。今の自分には、独りで夜の校舎に立
っている勇気などない。怖いからだ。何かではなく自分が。自分が独りだということが、途方もなく。
(怖い……)
 あの頃の自分に、そんな感情はなかった。内なる魔物と戦っていた頃。怖いものなどなかった。それは若
さの証拠だろうか。それとも愚かさのか。
 舞はそれを否定することはなかった。強いことは認めても、ただ、哀れだ、と思った。「怖いものがない」
それは失うものがないからこそ言えたセリフだ。そして実際その通りだった。自分に大事なものなどないと
思っていた。それが自分の命でさえも、失うことが怖くなかった。
 でも、今は違う。失うものができた。大事なものができた。
 だから、怖い。
 これは矛盾しているだろうか。大事なもののために弱くなって、弱さゆえに失うことを怖れる。
 きっとおかしな話だろう。
 でもあの二人なら、決して笑わないと、舞は信じていた。
(……ぬるま湯…?)
 雨は冷たい。
 舞は再び傘をもどした。ビニールに雨が打ちつける。
 今ささやいたのは誰だろう?
 散歩道で、図書館で…善意か悪意かわからない、けれども純粋な思い。

 『君はなんで大学へ?』

 それは「彼女」の言葉か、それともアベ先生のものか…
 どちらにしろ、頭に浮かぶのは大好きな二人の笑顔。
 自分に目的はないのかもしれない、と思う。ただ二人のそばにいたいだけなのかも、と。
 でも、それはいけないことなのだろうか。彼女にはまだわからなかった。
 
 

 大学から家までは、本当にあっという間だった。
 独りで歩いていたのにこんなに早く感じるとは、きっとずいぶん考えていたに違いなかった。
 でも、それでも、やっぱり答えは出ない。
 そんな中で結局辿り着いた思いは、ふりだしとも呼べるものだけだった。

 『私が大学を選んだのは、こんな時間のためかもしれない』
 
 
 

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