第三章『In My Room』
 
 

「いただきま〜す」
「いただきまーす」
「…いただきます」
 挨拶とともにすぐさま箸が動く。一般家庭ではいざ知らず、この家ではこれがあたりまえの風景だ。
 …いや、挨拶より先に動いている箸があった。それも二組。面白いほどの速度で食卓を縦横無尽に荒らし
回り、皿の上に乗ったありとあらゆるものを主の口へと運んでいる。
 がちっ!
 硬い音がする。ちょうどテーブルの真ん中に置かれた皿。そのすぐ上で四本の箸がからみあっていた。
 ちなみに皿の上に載っているのは、卵焼きの…最後の一個。
「…オレが先だろ」
「…わたしが先」
 緊張を崩さぬまま二人は睨み合う。もちろん腕の力は抜かない。単純な力なら祐一に分があるだろうが、
逆に舞は相手の力を受け流すことに長けている。もっとも彼女の相手といえば、魔物か祐一くらいのものだが。
「…なあ舞。昨日の焼鳥の最後の一本、オマエに譲ってやったよなぁ?」
「…今朝のタコさんウィンナー、祐一いくつかつまみ食いした」
「ぐっ……なぜソレを」
「…佐祐理に聞いた」
「あははーっ」
「佐祐理さん……」
 祐一が思わず脱力する。わずか一瞬。しかし彼女にとっては、その一瞬で充分だった。
(…ヤバいっ!)
 舞の箸が自分の箸をすり抜けていくのが、指先の感覚でわかった。それと同時に彼は悟る。
(…終わった…)
 無様に中空に留まったままの自分の箸。その下を舞の箸が、まるでスローモーションのようにゆっくりと…
 ひょいっ。
「……あ」
 声を漏らしたのは舞だった。祐一も声さえ漏らさなかったものの、その箸先を凝視した。
 最後の卵焼きをつかんだと、そう思っていた舞の箸先に…それはない。
 では、最後の一切れは…
(まさか…)
 考えるより先に体が動いた。バッと祐一が振り返る。向かいの席でも、舞が同じ対象を見つめている。
 二人の視線の先にあるのは…佐祐理の笑顔。
「みんなで仲良く食べましょうねーっ」
 ぱくっ。
「…あ…」
 舞が名残惜しそうに息を吐く。卵焼きの最後の一切れは…今、佐祐理の口に消えた。
「…佐祐理さん、いつの間に…」
 信じられないものを目の当たりにしたかのような驚きが、祐一の口から吐き出される。佐祐理の笑顔から
目が離せない。
 そう。まるで悪夢のようだ。佐祐理が自分たちのバトルに参加して、あまつさえ最後の獲物をかっさらっ
ていくなんて…。
 毎日のように、いや、毎食のように繰り返されるこのバトルに対して、佐祐理は傍観者であり公正な審判
だった。ほとんどの場合彼女は戦いの一部始終を笑顔で観戦していたが、ひとたび身を翻すと厳しい目で裁
定を下し、獲物を二つに分けることさえあった。
 しかし、それに彼女自身が参戦したことなど、ただの一度もない。まるで人が変わってしまったようだ、
と祐一は思う。
(…人が変わった?)
 何気なく浮かんだそのフレーズが、意識の川の中でひっかかる。
(……まさか…)
 火花のような閃きが彼の頭を襲った。それは一つの仮説。
 彼女は偽者なのではないか、と。
 祐一はもちろん専門ではないし、たいして興味もない話だったが、現在のクローン技術というのは飛躍的
に進歩しているのだという。人間への使用は許可されていないというが、もしかしたら…
 冷静に考えて、本物の佐祐理が参戦する確率と、偽者の佐祐理が食卓に紛れ込む確率、どちらが高いか?
(…後者だな)
 考えるまでもなかった。
 しかしこの佐祐理が偽者だとして、次に自分が考えるべきことは何か…
(…偽者、ニセモノ…)
 …では、本物は?
 そこまで考えればもう十分だ。彼は勢いよく席を立った。
 ガタンッ!
「貴様! 本物の佐祐理さんをドコに隠した!?」
「ふぇ?」
 すぱんっ!
 ごつんっ!
 舞の振るったハリセンに打ち抜かれ、祐一はそのままテーブルに突っ伏した。
「何すんだ舞! 一大事だぞ!」
 慌てて飛び起きる祐一に、舞は疲れたように目を閉じる。
「……はぁ」
「ため息ついてる場合じゃないぞ! タイヘンなんだ!」
「何がですか?」
「佐祐理さんがニセモノなんだ!」
「ふぇー…本当ですか?」
「ああ、間違いない…ってオマエだぁ!」
「あははーっ。でも、どうやって佐祐理のニセモノを作ったんですか?」
「それは…えっと確か…」
 興奮しているのか、祐一は一瞬言葉に詰まる。向かいの舞はハリセンを手にしたまま、あきれながらも助
け舟を出す。
「……クローン」
「そうそう…って何故それを! さてはお前もニセモノだなっ!?」
 すぱんっ!
 本日二発目。祐一は再びテーブルに突っ伏した。
「途中から声に出てた」
「…くぅ…」
 お約束、というヤツらしい。
 そうすると、今まで自分が考えていたことも、面白いように的外れなのだろう。祐一は即座にそう悟った。
何故ならそれが「お約束」だからである。
「佐祐理は本物」
「…まあ、もっともか…」
 テーブルとキスしたまま、祐一は疲れたようにそう言った。
「あたりまえ」
 考えるまでもない。
 
 
 
 

 …カチャ、カチャ…

 軽く触れ合う食器の音に、絶え間なく流れる水の音が重なる。
 静かだ、と佐祐理は思った。わずかに開いた台所の窓からは、何の音も届いてこない。風もほとんどない
ようだ。音を立てているのは自分の手元だけ。それは自分で作った音だ。そして自分で消せる音。
 静かだ。もう一度思う。
 それを確認するために音を立てているのではないか。そんなことまで思う。
 時刻は午前零時を回っている。明日の朝が早い舞はもう眠ってしまった。祐一は部屋でレポートを書いている。
 こんな時間に洗い物をするのは久しぶりだった。いつもは食事の後すぐ片付けに入るのだが、今夜は三人
でテレビを見ているうちに遅くなってしまったのだ。
 佐祐理は夜は苦手だった。彼女は完全な朝型である。
 日の出とともに目が覚める――とまで極端ではないが、太陽の下にいるほうが頭が働く気がした。暗いと
どうもダメなのである。考えが闇の中に発散していく、というと少しオーバーだが、実際そんな感じなのだ。
 洗い物をしていてもそうだ。頭と体は別々に動く。主に手と目が…表面では仕事に集中しているそんな中
で、思考は窓から外に抜け、闇の果てを覗いてくる。
 いや、それはメビウスの輪だ。覗いているのは自分の心。
 数え切れないほどの瑣末なことがらが、泡のように浮かんでは消える。
(…イヤなことを思い出すからかもしれない)
 ぬるま湯に手を浸しながら、ふと思いつく。
 彼女にとって、夜は過去だった。眠りについて見る夢は過去である。未来の夢は見ない。見たとしても、
それは少しニュアンスが違う。
 多くの人間がそうであるように、彼女の過去も常に微笑みに彩られていたわけではなかった。いや、むし
ろそれは深い悔恨に根ざしている。まるで沖合いの波模様のようだ。太陽の光に輝く、盲目的に美しいと思
われる海でも、底は決して見えない。
 その青は澄んでいながら濃く、深く、そして潜ると冷たいのである。
 

 …カチャ。
 小さな、いや、大きな音を立てて、最後の茶碗がその手を離れる。
(…終わった)
 そう気づくのはいつも半歩遅れである。そう認識した時、彼女はすでに手を洗っていた。
(…そういえば)
 窓を閉めようとして、佐祐理は不意に夕食でのことを思い出した。
 自分が最後の卵焼きをつまんだこと。
 これもまあ、どうでもいいことである。単に食べたかっただけかもしれない。二人をビックリさせたかっ
ただけかもしれない。
 そんな疑問を抱く前に、卵焼きは自分の口に入っていた。だから彼女はそのことを考えようとはしなかった。
(…じゃあ、今は?)
 何故そんなことを思い出したのか。彼女には皆目見当もつかない。
 強いて理由をあげるとすれば、それは時間によるものだろうか。夜の深さとともに乱雑さを増してゆく自
分の思考パターンを、彼女は本能的に理解していた。
 だがその乱雑さから生まれたそんな疑問も、皮肉にもその乱雑さゆえに答えは出ない。考えがどうもまと
まらないのだ。だからいつもこのような疑問が、消化不良のままに残される。だから彼女は夜が苦手なのか
もしれない。
(…考えたって仕方がないかな)
 もともと答えなどないかもしれないのだ。考えることに意味はあるかもしれないが、それもヒマつぶし以
上のものにはならない。時間があるときに、まだ憶えていればその時また考えよう。
 佐祐理は割りきるように一度首を振り、窓を閉めてカギをかけた。
 
 

「……くぁあ」
 大きな瞳を眠そうに細めて、佐祐理はあくびをかみ殺す。彼女はすでにパジャマに着替えていた。チェッ
ク柄のそのパジャマは少し大きめで、実際袖も裾も余っている。
 玄関のカギも確認した。ガスの元栓も閉めた。あとは明日の講義の準備をして、布団に入れば今日も終わる。
(……ちょっと寒いな)
 リビングの電気を消そうとして、佐祐理は小さく体を震わせた。しかし十一月ももうすぐ終わろうという
時期の夜では、それが当たり前なのだ。最近では道路はいつも濡れている。朝露がおりるのと同じ理屈なの
だろうか、と少し思う。
 雨が降ることなどはもう数えるほどしかないだろう。十日ほど前にうっすらと積もった雪はもう溶けてし
まったが、今度積もったら根雪になるかもしれない。
 彼女はカーテンをめくって外を見た。木々の葉っぱはもうほとんどが散ってしまっている。色彩に乏しい
世界だ、と思う。街灯の明かりは何も照らしてはいない。
(…寝よう)
 彼女はカーテンを戻して息を吐いた。それと同時にもう一度震える。今日は暖かい方だったので、一日を
通して火は入れなかった。
 …カチッ。
 軽い音を立ててスイッチを切る。とたんに部屋は闇に包まれ、漏れる光はカーテンの輪郭と…
(…あれ?)
 窓とは反対側のドアの下から、かすかに明かりが漏れている。そういえば祐一さんがまだ起きていたんだ、
と思い出し、それに連鎖するように卵焼きのことが再び頭をよぎる。

 『貴様! 本物の佐祐理さんをドコに隠した!?』

 祐一の真剣な形相までもが目の前によみがえって、佐祐理は思わずくすくすと笑った。
 あれは祐一の特長だろう。多少勢いがつきすぎるきらいはあったが、突っ走ってしまう思いこみの強さは
うらやましいと思う。単純なだけだ、と祐一は笑うが、佐祐理はそんなところが好きだった。
 彼女自身「すなおないいこ」という言葉をかけられたことは何度もある。物心ついた頃から、それこそ今
に至るまで。両親の知り合いは彼女のことをそう誉めた。
 「誉められている」と自覚したのはいつごろだろう。笑いかけてくれる大人たちに、にっこりと微笑みを
返す。それだけではダメだ、と思ったのはいつからだろう。
 相手が自分を見ていないと知った時からか。
 大人たちが求めているのは、「すなおないい」お人形だと、知った時からか。
 祐一のまっすぐさは自由だった。彼はまっすぐでいながら曲がることができる。しなやかだ。自分があっ
さりとぶつかってしまうような壁でも、彼は難なくよけていくだろう。その視野の広さがうらやましかった。
(…そういや、舞の積分はどうなのかな…)
 意識は一瞬遠くへ飛び、再び光の漏れるドアへと戻る。
 時刻はもうすぐ一時になる。お腹減ってないかな、と佐祐理は少し心配になった。夕食からはすでに五時
間以上も経っている。夜中にモノを食べるのは胃にもよくないと知っていたが、空腹で眠れないというのも
かわいそうだ。
(…台所に柿があったはず)
 果物なら消化もいいだろう。佐祐理はそう自分を納得させ、踵を返して台所へと向かった。
 

 それから約五分後。祐一の部屋からは相変わらず明かりが覗いている。
 佐祐理はそのドアの前で立ちつくしていた。胸元には柿の載った皿を抱えている。まだ少し固めだったの
で、切るのにそれほど難はなかった。
 しかし本当の「難」はここからである…少なくとも、佐祐理はそう感じていた。
 それほど非常識な時間ではない。部屋に入る理由もまあ、適当だろう。なにしろ同居生活を始めて半年以
上経っているのだ。よっぽどのことをしない限り、いまさら不自然なことは何もない。
(…よっぽどのこと?)
 佐祐理はかぁっと頬が上気するのを感じた。その熱を追い払うように、目を閉じてぶんぶんと首を振る。
(何を考えているんだろう、私は…)
 おぼろげな形の罪悪感を追い払い、佐祐理は冷静に事態の把握に努めようとする。
 …そう、本来ならば何も問題はない。寝る前にちょっと寄って夜食を持っていく。極めて自然な流れだと
思う。ただ、一つだけひっかるところがあるとすれば…
 問題は自分の格好――パジャマである。
 別にパジャマ姿を見せるのが初めてだというワケでもない。寝る前はいつも三人ともパジャマで、だらだ
らとテレビを見たりおしゃべりをしたりしているからだ。
 しかし、パジャマのまま一人で祐一の部屋に入ったことは、佐祐理にはなかった。
(…どうしよう…)
 困った――そう。彼女は困っていた。
 しかし実際のところ彼女は、自分が何故困っているか、ということに困っていたのだ。複雑な話である。
(…でも、祐一さんお腹空いてるだろうし…)
 自分は何故こんなに悩んでいるんだろう? 無意識のうちに問題がスライドしていることに彼女は気づいて
いただろうか。
 少し前なら――ほんの一ヶ月前までなら、なんのことなく入っていけたのかもしれない。
 だが今はダメだ。頭の中で繰り返し点滅する光景。あの日、観覧車での光景が、鮮やかにフラッシュバック
を繰り返す。その周期はどんどん短くなっていた。
(…どうしよう…どうしよう…)
 シーンの点滅に心臓の鼓動が重なる。それはどんどん速度を増して、ぎゅっとつぶったまぶたの裏にまで
鮮明に映し出されて…
 心臓が破裂する、そう思った瞬間、
「…佐祐理さん?」
「ふえぇっ!」
 急にかけられた声に、佐祐理は思わず奇声を上げた。手に持った皿を落とさなかったのは奇跡的だった。
「……あ、祐一さん、ですか…」
 驚きに思わず丸くなった、その瞳の焦点がやっと合う。
 同じように目を丸くしたその人物も、どこか戸惑いながらもゆっくり声を絞り出す。
「…お、おう。祐一さんだけど…」
 彼女を驚かせたその声の主は、まあ当然といえば当然だが、この部屋の主である祐一だった。さすがに部
屋も寒いのか、パジャマの上から半纏を羽織っている。パソコンと向かい合っていたせいか、目が少し充血
していた。
「…どうしたの? こんな遅く…」
 目が疲れているからか、それとも単に眠いのか、目をしぱたたかせながら祐一は訊ねる。彼も佐祐理が朝
型だということは充分承知していた。
「…あ、えっと…」
 佐祐理はしばしうろたえながらも、なんとか胸元の皿を差し出す。
「これです」
 祐一の視線が下に落ちる。その顔がほころぶのが佐祐理にもわかった。
「あ、柿だ」
 祐一は梨の次に柿が好きだった。
「サンキュー、佐祐理さん」
「…いえ…」
 佐祐理はそう言って俯いた。両手を前で組んだその姿は、何かを待っているようにも見える。祐一は、彼
女がパジャマ姿だということに気づいた。
「…えっと、その…」
「………」
 何か言わなければいけない気がして、祐一は必死に言葉を探す。だが長時間パソコンと格闘してぼやけた
頭では、気の利いた言葉など見つかるはずもない。俯いたままの佐祐理の沈黙は、その焦りに拍車をかけた。
(何を焦ることがある?)
 冷静な意見はもはや彼の耳には届かない。パジャマ姿がやけに可愛い…今日初めて見たワケでもないのに…
(…って違うっ!)
 これでは観覧車の二の舞だ、と心の中で呟く。その時初めて、自分がそのことを必要以上に意識していた
ことに気がついた。
(…ヤバい…よな。なんか…)
 夜の夜中にこんなことをやっていては、何を言われても文句は言えない。祐一はそう感じた。
 実際は何も起こってはいないのだが。そう思うのは、半分は佐祐理が憧れる祐一のまっすぐさのせいであ
り、もう半分は単にフインキのためだろう。
 とにかく、この場所はマズい、と祐一の本能が告げていた。自分の部屋のドアの前。
(…アヤしい。客観的に見て非常にアヤしい)
 ここはとりあえずお礼を言って、お互いに寝るのが一番だ、と祐一は思った。レポートはまだ途中だが仕
方がない。こっちの問題のほうが、今はとびきり重要だった。
「…えっと、コレ、ありがとう」
 佐祐理から受け取った皿を掲げて、祐一は不器用に微笑む。しゃべり方もどこかおかしかったかもしれな
い、と少し焦ったが、俯いたままの佐祐理は気がついていないようだった。
「それじゃあ…」
 その言葉がキーだったかのように、佐祐理は突然顔を上げた。
 わずか数センチの距離で、お互いの顔を見詰め合う。
 「おやすみ」次に言うはずだった言葉。
 それを含めて、祐一の頭の中からすべてが消えた。
 それでも、まるで惰性に従うかのように口だけが動いて…
「…入る? なんもないけど…」
(……え?)
 口に出してから、なんてマヌケなことを言ったんだろう、と思う。まるで女の子を家に誘うようなセリフ
ではないか。
(…女の子…?)
 間違ってはいないな、と思う。それはやや消極的な肯定だったが。
 しかしそんな認識は何のフォローにもならない。咄嗟に祐一は、笑ってごまかすのが一番だろう、と結論
を下した。
 そうだ。すべて冗談だったことにして、笑ってごまかせば…
 そう、口を開きかけたとき… 
「…はい」
 消え去りそうなほど小さな声で、佐祐理はポツリと答えた。
 
 
 
 

 ……カタカタッ…カタッ…

 六畳ほどの広さのフローリング。この形式の床は冬がつらい。小さめの安い絨毯でも買おうか、などと思
いつつ、祐一はまだ慣れていない、キーボードを叩く作業に集中しようとする。

 情報処理の授業がカリキュラムに組み込まれるようになってから、レポートの提出方法もずいぶん様変わ
りした。今や九割以上の学生が自分のユーザーIDを持ち、学内のコンピュータに自由にログインすることが
できる。個人用に立ち上げられる内容にはメールアドレスも付属するため、外部との交信も自由だ。教官た
ちもそこに目をつけたのか、今ではレポートは電子メールで送って来い、と指示を出す者も少なくなかった。
 祐一が今取り組んでいるのもそんな課題の一つだ。とはいってもコンピュータがらみでは全くない。物理
の実験結果とそれに対する考察である。担当の教授は理学部付きだったので、旧教養まで来るのがめんどく
さいのではないか、というのがもっぱらのうわさだったが、真偽の程は定かではないし、祐一もたいして興
味はなかった。

 …カタンッ。
 わざと大袈裟にリターンキーを叩き、祐一は大きく息をついた。時計の針は二時を回っている。明日は二
限からなので、これからすぐベッドに入れば七時間は寝ることができるだろう。しかしそれはあくまでも、
非常にスムーズに眠りにつくことができたら、の話だ。実際状況は全く逆だったし、布団の中で二時間は悶
々とすごす自信が祐一にはあった。
(…ま、それを自信と呼べば、のハナシだけどな)
 心の中で笑い飛ばす。しかしその仕草も表情には出ない。それを冷静に分析している部分が、自分を凝視
しているのがわかった。
(……くそっ…)
 彼はおもむろに机に載った集計用紙を手に取り、ディスプレイと見比べる。自分に向けられている視線を
他のところへそらしたかった。それがどれだけ意味のないことだったとしても。そうしていれば多少は楽だ
った。
 
 

 レポートに大きなミスはなかった。多少おかしな数値が二、三コ見うけられたが、送信時に他の奴のを見
せてもらえばいいだろう。祐一はパソコンの電源を落とすと、イスの背もたれに体を預けて大きく一つ伸び
をした。
 ギシッ、と軋むような音を立て、背もたれは後ろへ倒れる。限界まで反り返った時、視界の端に誰もいな
いベッドが映った。
 …ギシッ。
 心なしかさっきよりも重い音とともに、背もたれは元の位置に戻る。祐一は立ちあがると、かけてあった
コートの内ポケットに手を伸ばし、タバコと携帯灰皿を取り出した。ソフトタイプの箱は、中身がほとんど
ないせいで無残にひしゃげてしまっている。祐一はまず突っ込んであったライターを取り出すと、軽い箱を
振って飛び出た一本をくわえた。無意識に視線がベッドに落ちる。足のほうに残っている、人が座った形跡。
そこから目を背けるように、祐一はカーテンをめくってくぐりぬけ、二重窓を静かに開いた。とたんに冷た
い夜の風が体を包むが、オーバーヒート気味の頭を冷ますにはちょうどいい。
 祐一はタバコを抱え込むようにして火をつけ、細く長く吐き出した。白い煙は留まることなく、すぐに風
に流されて消えてゆく。
(…なんなんだろうな)
 思いのほか冷静に、祐一は自分に問いかける。タバコの最初の煙には頭の中をリセットしてくれる作用が
あるようだ、と祐一はかねてから感じていた。
 だがまだ質問が曖昧だ。もう少し考えよう、と思う。
(…なんなんだろうな、オレは…)
 さっきの質問と同じだ。曖昧な言葉。曖昧な態度。
 ベッドの端に座った佐祐理さん。
 あの時、その顔をとても近く感じた…
 観覧車の時とどっちが近かっただろう、と思う。どちらもたった数センチの距離。その気になればいつで
も届いてしまう、それでも決してゼロではない距離。ゼロにならない距離。
 ……はぁ…
 煙とともに吐き出された、かすれた声にならない声も、風に乗って夜の彼方へ連れ去られる。
 夜の彼方。夜の果て、向こう…
 それはやがて、朝と交わる場所。
(……寝るか)
 最後に大きく一つ吸いこんで、祐一は灰皿でタバコを消した。星のあまり見えない空を見上げて、名残を
惜しむようにゆっくりと吐き出す。少しノドが痛かった。
 この星空に観覧車を見たのはいつだっただろう。今は円のほとんどが欠けてしまっているけど。
(観覧車、か……)
 窓を閉めようとしたその手が、不意に止まる。彼はまだ星空を見つめていた。
(アレも結局、最後はスタート地点に還るんだよな)
 フィルターを通さずに取り入れた空気も、吐けば同じように白かった。
 
 
 

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