第四章‐『Merry-Go-Round』
 
 

 1999年も、残すところあとひと月を切った。もういくつ寝ると、お正月。もう少しで2000年。
 それでも学生の生活に特に変化はない。授業のカリキュラムにミレニアムは関係ない。
(語感的には、ちょっと似てるけど)
 そんなことを頭に浮かべながら、佐祐理は家路に着いていた。
 道路は黒く湿っている。まだ白くはない。時折吹きつける冷たい風は、彼女の長い髪を容赦なくさらって
いく。首筋が少し冷たい。マフラーをしてくればよかったかな、と少し思う。次の信号が赤になっているの
を見て、佐祐理はそのまま視線を空へと向けた。
 黒く低く沈殿している分厚い雲は、まだその重さの源を放出してはいない。
 こんな天気をなんて言えばいいのだろう。雨の日は憂鬱。雪の日は幻想的。一般的にはそんな感じだろう。
むしろ晴れ日を表すほうが難しいかもしれない。さわやか? ほがらか? それとも…
「…不安そうな空ですね」
 信号待ちの交差点。ぼんやりと空を見上げていた佐祐理は、突然後ろからかけられた声に驚いて振り返る。
「こんにちわ。倉田さん」
 ウェーブのかかった長い髪。どこか力に満ちたまなざし――それは自信だったのだろうか。彼女の瞳に宿
る光が、何故だか佐祐理を惹きつけて離さない。
(……あれ…?)
 だからだろうか。佐祐理はしばし違和感を覚えた。
 自分はこんな人を知っているのだろうか、と。
 意識の海にぽっかり浮かんだそんな疑問も、しかし彼女はいつもの笑顔とともに、あっという間に溶解さ
せる。
「こんにちわ。香里さん」
 その笑みに、彼女――香里も品のよさそうな笑顔で返す。
「私のほうが後輩なんですから。『さん』なんてつけなくてもいいですよ」
「じゃあ佐祐理も、佐祐理でいいです」
 そう言ってお互いに見詰め合う――信号が青に変わり、二人は並んで歩き出した。
「…栞。傘持ってってたかな…」
 ずいぶん低くなった雲を見上げて、香里が呟く。佐祐理もつられるように空を見上げた。心なしかさっき
よりもよどんでいるような気もする。実際もうすぐ落ちてくるのだろう。そこまで考えて、彼女の思考は一
瞬にして跳躍する。
(舞は、傘持ってたかな…)
 ちなみに佐祐理は持っていない。そして確かではないが、隣の香里も持っていないのだろう、と彼女は思
っていた。
「…寒くないですか?」
 横断歩道を渡り終えたところで、香里は不意にそう訊ねる。質問の意味がわからず立ち止まった佐祐理の
後ろを、タクシーがすごい勢いで走り去った。
「…なんか、すごい薄着のような気がするんですけど…」
 そう言って、香里は佐祐理の服装を眺める。だがすぐに失礼な行動だと悟ったのか、バツが悪そうに視線
をそらした。
(…ああ、そういうことなんだ)
 佐祐理は不思議に納得して、改めて自分の姿を見下ろす。うん。そう言われれば確かに薄いかもしれない。
でもそれを言うなら、香里だって似たようなものだ。彼女が羽織っているのは薄手の黒いロングコート。そ
れが彼女が生来持っている大人びた雰囲気を助長しているように思えたが、やっぱりお世辞にもあったかそ
うには見えない。
(…コート……あ、そういえば)
 なぜか突然、この前祐一がコートの話をしていたのを思い出した。今度雪が降ったら買おうか、と言いい
ながら、結局去年のコートをまた着ている。
 『受験の頃を思い出すな』
 そう言って笑った祐一の姿を、佐祐理もどこか懐かしく感じて…
「…どうしたんですか?」
「ふえっ!?」
 突然かけられた言葉に、佐祐理は思わず声を上げる。その顔をのぞき込むように見つめていた香里も、少
し驚いたように体を離した。
(……どうしよう。もしかして笑ってたりしなかったかな…)
 楽しかったはずの回想シーンも、いざ思い返してみると妙に恥ずかしい。それが顔に出ていたかもしれな
い、と思うとなおさらだ。
(…もしかしてもしかして、声になんて出てたら…) 
 さらに最悪の事態を想定して、佐祐理の頭は軽いパニックになった。そんなことはまずないとは思うが、
なにしろそれは祐一の得意技だ。同居生活に慣れるうちに、知らぬ間に伝染ってしまっている可能性も…
「…倉田さん?」
「…え、あ、あははーっ。なんでもないですーっ」
 慌てて手を振る佐祐理を、香里はしばし不思議そうに見つめていたが、何を思ったのか、やがて笑ってう
なずいた。
 
 

 香里は医学部の一年生になっていた。もちろん現役ストレートでの合格である。先生方が大喜びしていた、
という話を聞いて、佐祐理は無意識のうちに自分のことを思い出していた。
 佐祐理は教育学部だった。決めたのはずいぶん前である。おそらく三年に上がる前だろう。はっきりと憶
えていないのは、それ以前からずっと、おぼろげに思い描いていたからかもしれない。
 佐祐理は、自分としてはその決定に満足していた。父親は話を聞いて、「そうか」と一度頷いたきりだっ
た。理由を聞くことも、彼女のほうから言い出すこともそれ以上はなかった。
 しかし黙っていなかったのは教師陣である。なにしろ入学以来、三年連続で学年トップを維持してきた彼
女だ。少しでも上の大学、上の学部(「上」の基準はわからないが、要は医学部に行け、という話だった)
を薦める彼らに、佐祐理は何度も呼び出されていた。舞はいつもそれに付き合ってくれたが、後から聞いた
話だと、彼女は彼女でアベという先生に毎回つかまっていたらしい。もっとも「つかまっていた」というの
は舞の言葉なので、真偽の程は定かではないが。舞がその話をすることは全くと言っていいほどなかったし、
アベのほうから佐祐理にコンタクトをとることもなかったからだ。

 そんなことがありながらも、佐祐理は結局教育学部を受験し、合格した。
 舞も無事に薬学部に合格。その翌年には祐一が工学部に入学し、晴れて三人での同居生活が始まった、と
いうわけである。
 
 

「…それじゃ、私はここで」
 十分ほど歩いた先の小さな十字路で、香里は右を指差した。佐祐理は微笑んだまま、元気よく頷く。
 香里と話したのはたった十分ほどだったが、佐祐理にとっては充分楽しかった。考えてみれば、こうやっ
て二人で話すのは始めてだったかもしれない。それを忘れさせてしまうほど、二人は不思議とウマが合った。
「今度勉強教えてくださいね」
「あははーっ。香里さんなら全然大丈夫ですよーっ」
「ありがとうございます」
 大仰にお辞儀を返した後、二人は顔を見合わせて笑った。
「それじゃ、さようなら。…佐祐理さん」
「……えっ?」
 佐祐理は思わず声を上げた。香里の顔をじっと見つめた。「倉田さん」から「佐祐理さん」に変わった理
由を、その表情から読み取ろうとするかのように。
 呆けたような自分の顔を、香里はまっすぐに見つめている。口元に薄く浮かんだ、でも決して不快感は与
えない笑み。
 その瞳に宿るものは自信ではないと、佐祐理は気づいた。
「…はい。また、お話しましょうね」
 佐祐理もゆっくりと、いつもの笑顔を返した。それは「香里さん」に向けたものではない、ということを、
彼女たちはお互いにわかっていただろう。
 その言葉に楽しそうに微笑んで、香里は右の道へと入っていく。
「…あ、そうだ」
 二、三歩進んだところで、香里はクルッと踵を返し、再び佐祐理と向き合った。コートの裾が膝元を舞う。
佐祐理は一瞬それに気を取られた。
「どうしたんですか?」
 聞き返した言葉に香里はつと視線をそらし、わずかにその笑みを濃くした。
 佐祐理は思わずそれに見とれた。惹きつけられた。彼女は迷っている、確信に近い思いで…いや、そう確
信した。少しだけ心がざわつく。静かに胸を吹きぬける風が、彼女と自分の髪をさらって…
「…相沢君にも、よろしく」
 呟くようにそう言った、香里の表情はひどく母性的だった。
 泣いているようなその瞳は、それでも何かに満ちていて、佐祐理はわけもなく唇をかみしめる。
 毅然と立ち去ってゆく、その後ろ姿から目を離せないのは何故だろう? 残り香から思い出されるその笑顔
が、鏡の中の自分を連想させるのはどうしてだろう?
 自分は彼女ほど美しくない。佐祐理はそう思っていた。彼女の尺度に外見の美しさ――主に男性一般の主
観的な――はない。あるのは輝きだけだ。思えば舞の時にも、同じ想いを抱いた。何故だろう。
 彼女のようになりたい、と思ったのだろうか。わからない。すでにすり抜けていった感覚を引き戻すこと
はできない。
「……あ…」
 空から舞い降りた一枚の花びらに、佐祐理は天を仰いだ。薄くけぶった雲はついにその雫を解放したのか、
頼りない白い花弁が堰を切ったように降り注いでくる。
 手のひらで溶けてゆく雪を見つめて、彼女は再び香里の去った路地に視線を戻した。
 香里も立ち止まって空を見上げていた。その口から吐き出される白い吐息が見えたような気がした。
 二人の間を遮るように降る雪は、晩秋の街に降る雪は少しアンバランスで、夢のようで、佐祐理は彼女と
の距離がわからなくなる。
 近いのか、遠いのか…冷たい白は黒いコートを隠しきれない。
(舞は…剣だ)
 ふと、そう思った。なめらかに輝く両刃の剣。けれどその刃は鈍くて、何一つ斬ることはできない…
 そんな剣に意味はあるのだろうか。あるとすればなんだろう。
(香里さんは…なんなんだろう)
 ループする思考は、ブーメランのように自分に還る。母性というウェイトを手土産に。
 母性とは哀しいものなのか、と、無意識のうちに佐祐理は思った。
 
 
 
 

「…ただいまぁ」
 少し薄暗い玄関に、自分の声だけがこだまする。誰の返事も返ってこない。自分でカギを開けて入ってき
たのだから、当然と言えば当然なのだが。それでも佐祐理は寂しげに息をつく。
 靴を脱いでリビングに入ると、佐祐理はまず電気をつけた。部屋中を照らし出す明かりに少しホッとしな
がらカーテンを閉め、ついでにテレビのスイッチも入れる。見るつもりはないのだが、何か音がかかってい
れば少しは気がまぎれるからだ。少し不経済だとは感じながらも、佐祐理はリビングをそのままにして台所
へ向かった。明かりもつけ、パンパンに膨れ上がった買い物袋を二つ、テーブルの上に並べる。
「よいしょっ…と」
 よいしょはおばさんくさいぞ、と祐一に言われたことを思い出した。開いた手で思わず口元を押さえる。
誰も聞いていないことに今さらながら苦笑いして、佐祐理は着替えようと自分の部屋に戻った。
 

 三人の通っている国立の総合大学では、入学して二年間、全生徒が共通のカリキュラムに従って学ぶ。俗
に「一般教養」といわれるもので、専門部分以外はほとんど学部間での差はない。授業自体も「旧教養」と
呼ばれる校舎でほとんど一括して行っている。その期間を経てやっと、三年次以降からそれぞれの学部に配
属され、専門分野の研究に取り組むことになっているのだ。
 さて、大学の場合、進級に必要なのは単位数である。奨学金などがからんでくると、単位そのものの内容
にもチェックが入ることもあるが、おおむね「不可」でなければいい、というのが学生一般の認識である。
いや、「可」をとればいい、という方がより近いだろうか。内容的には同じなのだが、スタンスが僅かに違
う、と佐祐理は感じていた。

 進級のための単位のほかに、教養全体で取得しなければいけない単位数、というものまた存在する。しか
しこれはせいぜい「一年次進級のための単位数×1.5」くらいのものだったので、平均的な学生なら、二
年の一学期くらいで楽々バーを越えてゆく。一年の時に頑張れば、二年になった時楽になる、というわけだ。
実際佐祐理もそのバーは簡単に越えていたし、祐一はちょうど来年のために稼いでいるところだった。
 そして、舞。
 舞も規定の単位数には楽に到達していた。あとは二学期の必修さえ落とさなければ進級には問題ない。
 しかし舞の時間割は、ほとんどいっぱいに埋まっている。
 「どうしたの?」と問いかける佐祐理に、舞はいつものように一言「大学は勉強をするところだから」と
だけ答えた。それで議論は終わりだとでも言わんばかりに背を向ける舞に、佐祐理は言葉を持たなかった。
 それが正論だということは佐祐理にもわかっていた。自分の怠け心を指摘されたようで何も言えなくなっ
た、というのもまた事実である。しかし彼女はその時すでに、舞が口に出さなかったもう一つの理由にも察
しがついていたのである。
 舞は悩んでいる。それを感じ取ったのはいつだっただろう。
 少なくとも、空白のほとんどない彼女の時間割がきっかけになったことだけは確かだった。
 
 

「……はぁ…」
 佐祐理はベッドで横になっていた。コートを脱いではいるが、それ以外はそのままの格好である。時折強
い風が窓を叩き、その度に彼女は舞のことを考えた。雪が降ったら軽い吹雪になるだろう。大丈夫だろうか、
と…。
 しかし舞のことを思い浮かべると、待ってましたとばかりに先ほどまでの問題が付随してくる。
(……舞は、悩んでる…)
 そのことはもう疑いようがない。いや、改めて考えると、舞が悩んでいない時などあるのだろうか、とす
ら思える。
 佐祐理は天井の木目を見つめた。舞の顔がそこに浮かぶ。正面、横顔、斜め…すべて無表情。しかし今は
その中にも、たとえ自分と祐一にしかわからなくても、たくさんの感情が浮かんでいることを知っている。
 舞のガードが甘くなったのか、それとも自分たちが鋭くなったのか。きっと両方だろう、と思う。それは
うれしいことだ。三人の距離が、また少し縮まったという証。
 そして自分が、舞の悩みに気づいたということは…
(…それも、気づいてほしい、という舞のサイン?)
 意識的なものかどうかはわからない。舞の不器用さを考えると、むしろ「隠しとおせなかった」というニ
ュアンスの方が強いだろうか。それは舞の優しさだ。だからこそ少し寂しい。
 悩んでいるのなら、その悩みを分かち合いたい。それは贅沢な、自分勝手な望みだろうか。大切な誰かと、
たとえそれが痛みでも共有したい、と思うのは。それはおせっかいなのだろうか。
「……はぁ…」
 わざと大きな声とともにため息をつく。その波が行き過ぎた後には、再びテレビの音が遠くに聞こえる。
 これは自分の悪いクセだ、と佐祐理は思う。ため息とともにすべてを保留してしまう。ときには何らかの
理由も添えて。自覚し出したのは、舞と一緒に暮らし始めてからだろうか。舞のそのあまりにも理系的な、
自分の奥深くまで潜って問題と真っ向から向き合うような、佐祐理はそんなタイプではない。彼女はもっと
ファジーだった。問題を、あるいは矛盾をそのまま保留できる能力は、はっきり言って長所なのか短所なの
かもわからない。精神的に余裕があるんだよ、と言われれば長所なのだろうが、真っ向からぶつかるだけの
集中力や思考力に欠けている、と言われれば短所だろう。実際のところ彼女はどちらでもよいとさえ思って
いたが、それがすでに彼女の性質の一面を表わすエピソードの一つだ。
(…で、祐一さんは…)
 あたりまえのように浮かんできた思考の続きに、佐祐理は思わずぎょっとした。
 何故いきなり…自然とそういう流れになっていたんだろうか…
 耳元で繰り返される疑問は聞き流し、佐祐理は記憶の糸をわずかに辿る。連想ゲームのようにキーワード
をさかのぼる。そもそもの始まりはなんだったっけ…
 天井の木目に舞の顔が映る。
(……あ、そうか)
 思い出した、そう思った次の瞬間、浮かんだ映像がフラクタルに動き出す。まるでそこにだけ魔法がかけ
られたかのように、色のついた幻影が生命的にその輪郭を変化させてゆく。
(……あれ? 舞が…)
 舞の黒髪が揺れる…それが香里の黒いコートに変わって…膝元で薄くたなびくコートの裾…振り返った笑
顔…それは母性的な…そして、その口が言葉を…

 『…相沢君にも、よろしく』
 
 

 長らく呼吸を忘れていた気がして、佐祐理は大きく息を吐いた。
 スイッチバック…重症だろうか。
 そんなことを問いかけても答えはない。ため息をついても映像が消えない。
(……重症だ)
 そう確信した、それだけで体が少し軽くなった気がするから不思議である。つまりはそれだけ重かったと
いうことか、と考えて、堂々巡りに陥っている自分に気づいた。
(どうどうめぐり…)
 始まりは一月以上も前。二人で乗った観覧車。
 …いや、それはきっかけに過ぎない。本当の始まりはもっともっと前。もしかしたら、三人で暮らし始め
た時から。…ううん。ひょっとしてひょっとすると…
「…はぁ……」
 ごろん、と体を転がし、うつぶせになって顔を枕に埋める。シャンプーの匂いがした。
 きりがない。考えるからいけないのだ、やめよう、と思っても、「やめよう」と自分に言い聞かせている
時点でもうドツボにはまってしまっている。まるで手品のようだ。気づかないうちにはまっている。たった
一つの、些細なはずのきっかけで…
(…きっかけ…)
 このきっかけはなんだっただろう? この答えだけは、あっけないほど簡単に見つかってしまう。
(………舞だ…)
 ドツボについに止めが入って、佐祐理は思わず目を閉じた。
 このまま眠ってしまいたい…と思う自分に、どうせロクな夢は見ないよ、と自分が応える。それに今夜の
食事当番は佐祐理だ。寝ている場合ではない。それに少しでも体を動かしたい気分だった。
「ふぇ〜〜」
 やれやれ、といった表情で、佐祐理は再びごろん、と転がる。スクエアなスクリーンに、舞の顔はもう見
えない。
「…よい…しょっ、と」
 大きく後ろに反動をつけ、マット運動の要領で起きあがる。頭に昇っていた熱気がわずかでも下がったよ
うな気がした。
 部屋を出て台所に向かう途中、今の「よいしょ」はわざとかな、という声が一瞬行き過ぎたが、やっぱり
答えは出なかった。
 
 
 
 

 そんな日でさえ、夕食後のダラダラした時間はいつもと何ら変わらなかった。
 ほとんど見てもいないテレビをとりあえずつけて、ほうじ茶なんかをすすりながら、とりとめもない会話
を延々と楽しむ。
 誰かが見たら、「無駄な時間だな」と言うだろうか。初雪の中ではしゃいだ自分たちを、あの光景を見て
いた人達と同じ視線を送られるのだろうか。
 それでもいい、と佐祐理は思う。「だって、楽しいですから」そう胸をはって言えると。
 いつもそうだった。「佐祐理さんは優しいな」祐一にそう言われるたびに、彼女は「違いますよ」と答え
る。心の中でもそうもらしている。自分は好き勝手にやっているだけだ、そう自覚してもいる。だがそれは
苦ではなかった。彼女がしたいことは舞のしたいことに同じで、その逆もまた成り立っていたから。
 だから、「苦しい」と感じたことは一度もなかった。舞と二人で、二人のやりたいことをやる。そこには
不満の欠片もなかった。目をつぶったままでも歩いていけると、そう信じて疑わなかった。
 二人が三人になっても、何も変わらないと。
 
 

 外には雪が降っている。
 雪の降る夜は暖かい。何故だろう、と佐祐理は思う。確かに晴れた日は冷え込みが厳しい。放射冷却――
とか言っただろうか。暖かく感じるのも、単に相対的なだけかもしれない。
(相対的、か…)
 使いなれない単語を頭の中で転がしながら、佐祐理は白く流れる窓の外を見つめていた。
 サイドテーブルの上のカップには、乳白色の液体がなみなみと満ちている。ミルクを温めてハチミツを加
えたもので、誘眠剤としてはわりとポピュラーだろう。彼女は窓に寄りかかるように立ったまま、まだ温か
そうに湯気がたちのぼっているカップを両の手のひらで包み、口へ運ぶ。半分曇ったガラスに、そんな自分
の姿が映った。
 ハーフミラーに映った自分。夜の中に浮かぶ自分。その瞳が見つめる。客観的な自分。
 覗き込まれている、と感じる。
 そう思う自分は主観的なものなのだろうか。主観と客観。それもおそらく、相対的なもの。
(窓に映るな自分を主観としたら、今の自分は客観になる…?)
「……う〜ん…?」
 わからない。もうやめよう、と思い、熱いカップを一口傾ける。
「はぁ……」
 ため息には少し遠い、そんな吐息。ガラスの白がわずかに濃くなる。それは半ば意図的な、ささやかな抵抗。
 そう、考えるべきことは他にある。もっと大事な、いや、もっともっと、ず〜〜っと大事なこと。
(…どうして…)
 不意に湧き上がるシーンの断片が、彼女の心を騒がせていく。
 小さく頷いた自分。ベッドの端に腰掛ける自分。そんないくつもの場面たちが、パジャマを彩るチェック
の柄のように織り込まれ、重なり合い、一つの形を作り上げていく。
 完成形をイメージせずにモノを作ることなど、佐祐理には初めてだった。料理でも、編物でも、求めてい
る何らかの「形」があるから、それに向かっていくことができるのだ。少なくとも彼女にとって、「モノを
作る」とはそういう作業を指していた。
 しかし今は違う。何が出来上がるかわからないのだ。デタラメに材料を切って、調味料を加えて…そんな
料理が美味しいとは思わない。そういう作り方をするべきだとも思わない。でも…
(…それなのに…)

 どこかで鳥が鳴いていた。一つだけ突き出した高い高い木のてっぺんで、ハヤブサが一羽、鳴いている。
 ハヤブサ、それは渡り鳥。放浪者であり旅人。そう、旅に目的地などあるのだろうか…
 
 

 窓の外では、白い花が咲いている。静かに降り積もる雪は音と寒さだけを吸い込んで、ほのかに光る。
 しかしそんな景色も、彼女の瞳には届かない。映っているのは果てしなく続く森林であり、突き出た巨木
であり、その上で世界を見下ろしているハヤブサだったから。
 表層的な感覚はほとんどシャットダウンされていた。足元から忍び寄る寒さも、すでに温かさを失いつつ
あるカップの感触も。
 そして、控えめにかけられたその声にさえ、佐祐理は最初気づかなかった。
「…佐祐理」
 それは三度目の呼びかけ。聞こえた、と思うと同時に、内なる窓が一つずつ閉じていく。それを感じなが
らも、佐祐理は微笑って振り向いた。
「…ごめんね。起こしちゃった?」
 その言葉に、ふるふる、と舞は首を振る。そんな様子がおかしくて、佐祐理も思わずくすっと笑った。
「…まだ起きてるの?」
「ううん。これ飲んだら、もう寝るよ」
 そう言って、右手のカップを軽く示す。舞は小さく頷いて、窓の外へと目をやった。
 

 雪は、まるでそれが永遠かのように、降り続いている。
 アリストテレスだっただろうか、そんなことが頭に浮かぶ。事象に意味の相を考えようとしたのは誰だっ
たっけ…。
 そして、今この瞬間も雪が降っているのは、いったい…
 

「…おやすみ」
 あくびまじりの舞の言葉に、佐祐理はもう一度振り向いて、うなずき返した。その黒髪が布団の中に潜っ
ていくのを見届けて、佐祐理はカップの中の液体を飲み干す。ハチミツが底にたまっていたのか少し甘い。
 流しに向かおうとドアを開ける、その寸前で佐祐理は動きを止めた。すぐ近くで静かな寝息を立てている、
大好きな子供のような寝顔。もう一度起こしてしまうのは忍びなかった。明日起きた時でいいかな、と思い
直し、佐祐理はカップをテーブルに戻した。
「…おやすみ、舞」
 その言葉は、きちんと口に出ていただろうか。
 まっすぐ舞を見ていただろうか。
 考えをそこで打ちきるように、佐祐理は静かにベッドに入った。
 
 
 
 
 
 

 どうすればいいのだろう
 今まで死に続けていた自分は
 どうしたいのだろう
 今まで死に続けていた私は
 霧のように立ち込める雪の中で
 何も斬ることのできない刃をかざして
 届かない言葉をかざして
 自分だけを傷つけて、その血で雪を染めようとした
 そうまでして前を向いていた少女に
 私は何と言えばいいんだろう
 自分の中に降り積もった
 大好きだった欠片に埋もれて
 助けを求めることさえしなかった
 私の言葉は遠い

 私の願いは白い花のようで
 降り注ぐ太陽の光と、冷たい風の前には儚く
 だから、私は

 願ってはいけない
 私のために、願ってはいけない
 哀しみたくないでしょう?
 哀しませたくないでしょう?
 囁くココロ
 白い花と、孤独なハヤブサ
 それは温めたミルクの膜のように、無表情に私を包み

 そして私は、短い眠りにつく
 
 
 

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