第五章『Pure Snow』
 
 

 北国の恐ろしさを表すエピソード、だろうか。
 昨夜七時くらいから、凄まじいまでの勢いで雪が降り始めた。おりしも朝方からの強烈な風はその脅威に
拍車をかけ、幻想的な雪景色が憎らしいまでの吹雪に変わるのは簡単だった。
 そして、一夜明けて。

「ぐぁ……」
 玄関を開けたとたん祐一は凍りついた。寒さのせいではない。今日の最高気温は2℃だということだから、
昨日より5℃も温かいことになる。なにせ昨日は真冬日だった。
 祐一を凍りつかせたのは寒さではなく、冬のもう一つの側面…
「はえーっ、積もりましたねえ」
 後ろから覗きこむような格好で、佐祐理はのんきに声を上げる。そこにあまり驚いた様子はない。舞に至
っては言わずもがなだ。地元の人間にとっては当たり前の光景なのかもしれない、そう感じて、祐一は今一
度、自分がこの街に住んで日が浅いことを思い知らされた。
 

 去年一昨年は暖冬だった.特に一昨年、つまり自分が引っ越してきたときは、雪さえも非常に少なくて困
ったらしい、という話を祐一は後から聞いた。一体社会のどの辺が困るのかピンとこなかったが、あれで暖
かい方だった、ということに祐一は戦慄さえ覚えた。
「いっそクニに帰ろうか…」
 確か去年も同じ事を言った。その時は名雪に対してだったが。
 しかしこの状況は、去年よりも数段激しい。「北国」という印象が「雪国」に変わった…というと少しお
かしな感じだが、祐一の素朴な感想だった。
 中和されたのだろうか。そんなことをふと思う。冬の厳しさが増しても、それほどイヤだと思わなくなっ
たのは。舞と佐祐理さんのおかげなのだろうか、と。
(…名雪が聞いたら怒るだろうけどな)
 「ひどいよ」と拗ねる名雪。その表情を思い浮かべて祐一は思わず笑みをこぼす。今ごろ何をやっている
のだろうか。雪の少ない地方へ行った彼女のこと、そして独りになってしまった叔母のことを考えて、祐一
はしばし雪を見つめた。
 急ぎ足で過ぎ去っていく冬の思い出。長い長い二度の冬を経て、今三度目の…
「祐一さーん、遅れますよーっ」
 聞きなれた佐祐理の声に、祐一は顔を上げる。小さないくつかの足跡の向こうで、佐祐理は笑いながら手
招きしていた。
「ああ、いま行くよ」
 靴紐を結びなおしながら、台所の舞に一声かける。相変わらずのシンプルな返事に苦笑しながらも、祐一
はもう一度大きく叫んだ。
「行ってくるぞーっ!」
「…行ってらっしゃい」
 心なし楽しそうだった舞の声に見送られ、祐一は佐祐理の足跡を辿っていく。
 どっちかっていうとアルカリ性だな。白の中で微笑う佐祐理を見ながら、そんなことを思った。
 
 

 …コツン、コツン、コツン…
 誰もいない廊下に、ブーツの固い靴音が響く。
 コートのポケットに両手を突っ込みながら、わけもなく長い廊下を祐一はぶらぶらと歩いていた。
 午後一時半。特異な時間帯ではない。にもかかわらず人が全くいないのは、単に授業中であるというだけ
の理由だ。祐一にしても空き時間ではない。むしろ必修の英語の時間ですらある。
(…えっと、十一月のラストに一回休んで、それと…)
 少しかさんできたような欠席次数を、頭の中で指折り数える。二学期が始まってからこれで三度目の――
いわゆる「リーチ」というヤツだが――自主休講だった。
 教科書を忘れた。授業を休む理由にしては説得力を欠くが、自分への言い訳としては十二分だろう、など
と多少は自覚しながら、突発的に沸いて出たこの一時間半をどう使おうかと、そんなことを考えながらぶら
ぶら歩いていたのである。
(…とりあえず、タバコか)
 気づけば喫煙スペースはすぐそばだ。祐一はあまり使用することのない場所である。正式な休み時間には
霧のように副流煙が充満していて、とても中に入っていってまで吸う気にはなれないからだ。
 彼は副流煙が嫌いだった。だからきっとタバコそのものもダメだろう、と最近まで思っていたのだが。
 吸い始めたきっかけは何だっただろう。手の中でライターを転がしながらぼんやりと考える。人に薦めら
れたから、ではないような気がした。そう思いたくないだけかもしれないが。まあ、どちらでもいい。もと
もと本気で答えを探そうとしていたわけでもなかった。軽い時間つぶしになればそれで上等だった。
(…そういや、そろそろ切れるな)
 その証拠とでもいうように、するっと思考が流れる。彼の一箱ペースは約一週間だった。今の箱を買った
のが先週の水曜だったから…と、曜日だけのカレンダーをなぞりながら残りの本数を把握する。
(今日あたり買っとくか)
 切れるよりも余っていたほうがマシか、という結論に達した頃、廊下の突き当たりの開けたスペースに出
た。喫煙コーナーの他にもジュースの自動販売機などが並んでいる。そのスペースの一角に、祐一はよく知
った顔を見つけた。
「よお、舞。どうした?」
 軽く声をかけながら、祐一は舞の座っている長椅子に歩み寄る。それは喫煙スペースから最も離れた場所
にあったが、この時すでに祐一の頭からは、タバコのことはさっぱりと消え去っていた。
「…何が」
 急に現れたことには全く触れず、舞はいつもの調子で淡々と返す。祐一はその隣に腰を下ろし、見なれた
が見飽きない小さな顔を見つめた。しかし彼女の今の格好は、とても見なれているとは言い難い。
「いや、何で白衣なのか、ってこと」
 そう言われて初めて気づいたかのように、舞は自分の姿を見下ろした。そしてそのまま何事もなかったか
のように視線を戻し、一言告げる。
「…実験だったから」
「…そうか」
 第三者が聞けば少しピントがズレたやりとりだろうが、祐一はただうなずくだけでそれ以上は聞かなかっ
た。「脱がないのか?」と聞いたところで、まあ「暖かいから」などの返答が帰ってくるのが関の山だろう。
それは「打てど響かず」ではない。響いた音が単に普通の人には聞き取れないだけの話だ。その声を聞き取
ることができるのは、佐祐理さんと自分だけ。そう思うことは、どこか心地がいい。
 しかしたまには、そんな予想通りの答えを聞いてみるのも悪くないかもしれない。そんなことを思いつい
た祐一は、改めて舞に一つ訊ねる。
「…脱がないのか?」
 舞はその問いに再び自分の白衣に視線を落とし、やがて当然のようにこう答えた。
「…少しは暖かいから」
「…そうか」
 あまりに予想通りの返答に嬉しくなる自分を感じながら、祐一は頷いた。もし奇抜な答えだとしても、そ
れはそれで嬉しいのだが。そんなことを考えている自分に気づき、改めて苦笑する。
「…祐一は?」
「…オレか?」
 急に向けられた矛先に少し驚きながらも、祐一は祐一で簡潔に答える。
「オレはサボり」
 ぽかっ。
 いつものようにツッコミが入る。自ら頭を差し出す辺り、祐一の根性ももはや芸人並だ。
「サボりはダメ」
「…オマエ、マジメだかんなー」
 そう言われた舞はどこか得意げで、祐一はまたそれに笑みをこぼすのだが、それに気づいた舞は再び口元
を引き締め、突っ放すように問いかける。
「…で、何をしてるの?」
「いやあ、やるコトなくてな」
「…やることがないなら、授業に出てた方がマシ」
 正論である。
「…まあ、そう言うな」
 しかしそんな祐一にも、困ったような様子は見うけられない。「授業に出ているよりはマシ」だというこ
とは、すぐ近くの鏡のような笑顔を見ればすぐわかる。少なくとも二人にとってはそうだ。だったらそれで
いいのだろう、と自分の内側から声が響き、祐一はいつものように、その流れに体を横たえる。
「でも…たまにはいいだろ」
 本当は「たまに」ではない。舞もそのことは重々承知していた。それでも彼女はうなずいてくれるだろう、
という半ば身勝手な期待は、報われた時、すなわち彼女の微妙な表情の変化だけで不思議と満たされるものだ。
(なんだかな…)
 それもすでに死語かもしれないが、舞も佐祐理も突っ込むことなど皆無なので、祐一はたいして気にも留
めずに使っている。
「…祐一」
「ん?」
 何気なくかけられた言葉に、祐一も何気なく返す。しかし次の瞬間、舞の鋭い視線が自分の顔を射抜く様
に見つめていることに気づき、思わず彼は手で口元を押さえた。
 そしてやけにゆっくりと、舞の口が開かれる。
「…変」
「るせえっ」
 あまりといえばあんまりな言葉に思わず吹き出しながら、それでも祐一は精一杯悪態をつく。それからダ
ラダラとぼやきながらも、その照れを隠すようにツッコミをいれる。
 ぽかっ。
「…むっ」
 ぽかっ。
「………」
 ぽかっ。
「…参った。降参」
 ぴたっ。
 ツッコミ合戦は、結局いつものように舞に軍配が上がる。もともと祐一も勝つ気で仕掛けているわけでも
なかったし、得意げな舞の顔というのは見ているほうとしてもかなり微笑ましいものだったから、祐一も、
そしてたまに相手になる佐祐理も、これがベストの形だと思っていた。
(…やれやれ、だな)
 心の中で苦笑を浮かべ、こっそり小さな息を吐く。いい時間じゃないか。今更ながらそんなことを思い、
自然とその手はポケットに伸びる。
(……ん?)
 無意識に突っ込んだ右手に、四角く軽い感触が思い出したように広がった。
(…そっか、タバコ吸いに来たんだっけ)
 今となってはその気もなかったが、ただイメージだけが彼の頭の中で目の前の白衣と重なっていく。
(これは…面白いかも)
「…なあ、舞」
 ふと思いついたように、祐一は軽く呼びかける。舞はその視線が自分の白衣に向けられていることを意識
しながら、いつものように無言で先を促した。
「ちょっとコレくわえてみてくれ」
 祐一はポケットから少し歪んだ箱を取り出し、軽く振ってタバコを一本差し出した。露骨に嫌そうな顔を
する舞に、祐一はさらに笑って薦める。
「火ぃつけなくていいからさ。くわえるだけくわえてみてくれよ。なっ?」
 空いている方の手で拝むようなリアクションを取る祐一に、舞は疲れたように息を吐き、その指からタバ
コを抜き取った。何故か興味津々といった面持ちの祐一を横目で見ながら。舞は一度睨むようにタバコを見
つめ、やがて意を決したように口にくわえる。
「…おっ!?」
「………」
 祐一の、なんともとれない声が上がる。舞は努めてそちらを見ないようにしながら、わざとつまらなそう
に口先でタバコを弄ぶ。
「舞、ちょっとコッチ向いてくれ」
 それを言われるまでにどれだけかかっただろうか。永遠にも近い一瞬を感じながら、鼻先をかすめる独特
の匂い、それに誘われるように舞は振り向く。タバコの煙は大嫌いだったが、匂いのほうはそうでもないと
いうことに初めて気づいた。
 祐一はそんな舞の姿をてっぺんからつま先まで眺め終えた後、感心したようにもらした。
「…いやー、やっぱり似合うなあ…」
 偏屈な研究者みたいだ、という余計な一言にはツッコミを入れ、舞はタバコを祐一に返す。
(…似合うって言われても、うれしくないし)
 そんなことを考えていた舞の視線が、ふと祐一の手元に落ちる。
「…祐一」
「ん?」
 何事もなかったかのような素振りの祐一。その手にはまだよれよれの箱が握られたままだ。
「さっきのタバコ…しまったの?」
「ああ。こん中」
 言ってカサカサと箱を振る。異様に軽い音がした。
「…吸うの?」
 あまりにも素朴にぶつけられる疑問に少し戸惑いながらも、祐一は至極当然のように答えを返す。
「? まあ……うん。吸うな」
 しかしその当たり前の返答に、何故か舞の表情からは困惑の色が消えない。祐一も少し困ったような顔で、
まるで小さな子供をなだめるように言葉をかける。
「だって、舞吸わないだろ? だったらオレが吸うしかないじゃないか」
「…捨てるとか」
「そんな『もったいないオバケ』には会いたくないからな」
「……私も会いたくない」
「じゃあ、解決だな」
 そう言って祐一はタバコをポケットに戻す。その一部始終を黙って見つめていた舞は、自分の視界から箱
が消えたとたん、彼女しては珍しいくらいの大きなため息をついた。
「……はぁ…」
「だーらなんなんだって!」
「…なんでもない」
「………はぁ」
 それからも幾度かそのやり取りを繰り返した後、祐一は改めてその黒を見つめた。白衣とのコントラスト
から作られる、より強いイメージ。「舞の黒は白に映える」そんな御伽噺のような光景は、確かに降り積も
る雪の中に、その漆黒の瞳と髪を宿していた。
「……なあ、舞」
 朝から数えると三回目だな、と自覚しながら、祐一はあえてそうやって呼びかける。舞はいつものように、
黙って先を促すだけ。
「今日の放課後…ヒマか?」
 彼女はその言葉に視線をつと中空へそらし、何かを考えるような素振りを見せる。おそらく自分の時間割
でも反芻しているのだろう。やがて祐一に視線を戻した舞は、静かに大きく頷いた。
「…よし。じゃあ、どっかよって帰るか」  
 
 
 
 

 冬の学校は暖かい。夏の暑さへの無力さに比べると雲泥の差だ。
 バス停からの道のりを震えながら歩いてくると、暖房の効いた校舎がまるで天国のように思える。これが
比喩無しで実話だ、ということも、祐一は二年前の冬に知った。
 もう一つ祐一が冬について学んだことは、地元の人間ほど寒さに敏感だ、ということである。
 観光客が開口一番、「涼しいね」という温度でも、地元の人間は体が震え出す。
 これは寒さに「弱い」ということではない。ただ敏感なだけだ。この寒さが当たり前の彼らは、逆にこの
寒さがいかに恐ろしいかも知っている。「涼しいね」などとのんきに感想を漏らしている場合ではないのだ。
放っておけば死ぬ――これもあながち嘘でもない。実際毎年何人もの酔っ払いが、道端で眠り込んだあげく
凍死するというケースで亡くなっている。
 そう、元来、北国の冬とは恐ろしいものなのだ。
 しかし…
 

「…こういうのがあるから、誤解されやすいんだよなあ」
 色とりどりの雪の中、舞に歩幅を合わせながら、祐一は踏み固められた路面をゆっくりと歩いていた。
 路の表面に薄く降り積もる雪は、ちょっとした寒暖の差で溶けたり凍ったりを繰り返し、その上を人間が
次々と行き過ぎる、ただそれだけでちょっとしたスケートリンクの完成だ。もっともこのいびつなリンクは、
その生成仮定によって非常に人を転ばせる能力に長けている。まさに「滑る」ためにある、冬の道路はそん
な場所でいっぱいだった。
 足元に神経を集中しながら、そんな悪路を祐一は進む。舞のことも気にかけねばならない自分は少し不利
だ、などと考えてから、何も勝負などしていないことに気づき、独りかすかに苦笑を漏らす。

 大学のそばにある中央公園でホワイトイルミネーションをやっていると聞いたのは、交通手段を自転車か
らバスに変え、コートを着始めた頃だった。
 なんでも佐祐理の話によると、この公園では毎年クリスマス前の半月ほどの期間、二百メートル四方ほど
の敷地内に結構大掛かりなライトを据え付けたイベントが催されるらしい。
 これは祐一にとって初めて聞くニュースだった。この街に引っ越してきた時は一月なのでもう終わってい
たし、去年は去年で受験に追われて、それどころではなかった。いや、知ってて誰も教えてくれなかったの
は、気を回されていたのかもしれない。そんなに自分は必死に見えたのだろうか、という考えとともに、あ
の頃の切羽詰ったような心情の一部分だけが、頭のどこか遠いところでリフレインする。
(…まあ、頑張ってはいた…な)
 そんな風にどこか控えめに思いながら、祐一は改めて下ばかり向いている舞に目をやった。
 葉など一枚も残っていない木にくくりつけられた緑のライト、鉄柱の上で回転する赤いライト。そんな光
たちがさまざまな色を真っ白なキャンパスに投げかける。そんな光に照らされていると、まるで自分たちが
その中に迷い込んでしまって、否応無しに色をつけられているような、不思議と居心地の悪い感覚が体の表
面をなぞっていく。
 カメレオンがその色を変えるのは、保身と狩りという二つの目的がある。
 では人間はどうだろう? 自分たちの意思とは無関係なところで色を塗り変えられる、その目的は、いったい…
「……祐一」
 凛とした声でその名を呼ばれ、祐一は我に返った。
 誘われるように隣を見ると、そこにはすでに追いついてきた舞が、怪訝そうに自分の顔を覗いている。
「…どうしたの?」
 言葉とともに、その瞳の色がかすかに沈む。目は口ほどにものを言う――まるで舞のためにあるような言
葉だ。以前と比べると、格段と言っていいほどその口数は増してはいたが、やはり細かなニュアンスを伝え
るのはまだ瞳に頼っているようだ。おしゃべりな自分にはない感覚だろう、と思う。ちなみに佐祐理の場合
は、笑顔そのものがそれにあたるだろうか。どちらにしても不器用だ。そんな時は、自分の塗り変えられた
器用さが少し哀しい。
「いやあ、舞の顔が真っ赤だな、と思ってな」
 ぽかっ。
「…赤いライトが当たっているから」
「いや、その前から赤かったな」
 ぽかっ。
「……寒いから」
「暖めてやろうか?」
 ぽかぽかっ!
「……二刀流か。ウデを上げたな」
 もうオマエに教えることはなにもない。そんなセリフを最後まで聞かず、舞はふてくされたように独りで
スタスタと歩き出す。
「お〜い、そんなに急ぐと…」
 …つるっ!
「あっ!」
 すてんっ!
「………」
 言わんこっちゃない。祐一はあきれたようにため息をつくと、しりもちをついたまま呆然と雪の上に座り
こんでいる舞の元に近づき、すっ、と手を差し出した。
「ほら、立てるか?」
 舞は雪を見つめるように俯いたまま、答えない。もしかして足首でも捻ったのだろうか、と少し心配にな
り、祐一もその場で膝をかがめてしゃがみ込んだ。
「どした? どっか痛いのか?」
 その問いには、ふるふる、と首を振って答える。意地を張っているという可能性もないことはなかったが、
どうやら痛いところはないらしい、と祐一は経験的に感じた。
「んじゃ…ほら。いつまでもそんなトコに座り込んでたら、カゼひくぞ」
 言いながら再び立ちあがり、先ほどと同じように手を差し伸べる。舞はまだしばらく逡巡している様子だ
ったが、やがてその手を取って立ちあがり、おしりについた雪をぱんぱん、と払う。
「歩けるか?」
 こくり。
「んじゃ、行くか」
 そのまま手を引いて歩き出そうとした、その刹那。
 ぐいっ。
 逆に手を引かれる感覚に、祐一は立ち止まって振り向いた。
 舞は同じ場所に立ち尽くしたまま、祐一の手を引きとめ、俯いている。
「…どうした? やっぱりどっか痛いのか?」
 ふるふる。
「じゃ、どうしたんだ?」
 その問いには、答えない。祐一は手をつないだまま改めて向き直ると諭すように言った。
「あのなあ、何か言いたいことがあったら、言わなきゃダメなんだぞ。オレや佐祐理さんは…まあ…だいた
いのことならわかるけど」
 伝わるのを待ってたんじゃあ、いつまでたっても受け身だぞ。
 要はそんなことを言いたかったような気がする。しかしやはり慣れないことはするものではない、という
ことだろうか。途中でどうにも照れくさくなって、最後まで言い切ることはできなかった。
(…これじゃあ、舞と一緒じゃないか)
 我ながら情けない、そんなことを思ってわずかに苦笑する。しかし次の瞬間、その笑みは凍りついた。
「……ダメ」
 そう言いきった、舞の瞳は真剣だった。伏せていた瞳でしっかりと祐一を見つめ、そのあっけにとられた
ような顔に、もう一度繰り返す。
「…言わなくても、わかってくれないとダメ」
「……あのなあ…」
 やっとの思いで口を開いて、無意識のうちに、大袈裟なくらい軽く返そうとする。
「そんな不条理な話はないだろ? 何も言わないでわかってくれなんて」
「……でも、そうじゃないとダメ」
 その強情さに、それでも光を失わない瞳に、祐一は思わず空を仰ぐ。凍りつく空気の中、別世界のように
ただそこにある空。
 こんな夜は、重力が小さくなる。
 それは幼い錯覚。夢の中でだけは、自由に空が飛べた頃。
 今ではもう、そんな夢さえ見なくなった。
「…なんでだよ」
 そのままの姿勢で、祐一は問い直す。今も自分を見つめている彼女の視線と、つないだままの右手から伝
わってくる温かさだけが、自分を大地につなぎとめているような気がした。
「……祐一は、私のことが嫌い?」
 彼は思わず視線を戻した。目の前にある舞の真っ赤な顔。それはライトのせいでも、寒さのせいでもない。
 彼女の言葉をどこか軽く考えていた自分を、深く恥じた。
「……いや。そんなことはない」
「…だったら…」
「わかってくれ、って?」
 その言葉に責めるような匂いは全くなかった。だがそれでも舞は顔を伏せ――もしかしたら、単に頷いた
だけだったかもしれないが――そのまま押し黙ってしまった。
 

 それからただ、時間だけが、流れる。
 自分たちをかすめていくライトの光も、好奇心だけで二人をじろじろ見ながら通りすぎていくカップルた
ちも、数え切れないほど行き過ぎて――

 そしてやがて、雪が降り出した頃。
 

「……どうした?」
 囁くように優しく、相手を雪から守るように体を寄せて、祐一は訊いた。
「…寒いのか?」
 …ふるふる。
 その腕の中で、舞がちょっとだけ、でも確かに首を振る。祐一の胸に頭をこすりつけるように。
「……寒いんじゃない」
 喉そのものを震わせるような声で、懇願するように舞は続ける。
「……寂しい…」
 祐一は愕然とした。舞の瞳は何も映してはいない。胸元に預けられた華奢な心が、揺れて、響いて…
 
 

 二度と戻れない、あのきらめきの残像を
 タマシイが漏れていくような浮遊感と
 消えてしまわないように、あの夏の日に

 それが現実だった、あの日の写真はもう色褪せて
 バランスを取るように染まり始めた姿と
 染まりすぎた心で抱きしめる、セピア色の彼女

 それは誓い
 とてもとてもわがままな、でも誰にも責められない
 責めさせない

 願いたいと
 自分をも映して、輪郭だけの青写真を
 それは強く…
 
 
 
 

 恋人たちがロマンチックなひとときを過ごす、スノーイリュージョン。
 だがそれは、その名の通り幻影で、何も知らない真っ白な雪を、騙して、奪っていく。
 本当に綺麗な雪は、今も降り続いている雪だけだ。
 そしてそれに包まれている間だけは、自分たちも…

 なぜこんな特異な感情に襲われたのか、祐一はわからなかった。
 ただ震えていた舞の瞳が、モノクロとフルカラーの狭間で停滞している記憶を刹那的な幻とともに呼び起こす。
 それは嫉妬だったのかもしれない。彼のわずかな心の揺れを、敏感に察してしまっただけなのかもしれない。
 だが、違う。それは理由の一つであったとしても、すべてではない。

 『…言わなくても、わかってくれないとダメ』

 …そういうことなのか、舞…?
 怖いのか…?
 何かに怯えるように震え続けるその体を、祐一はただ、かばうように抱きしめてやることしかできなかった。
 そんな二人のシルエットを、回転する赤いライトは周期的に照らしていく。
 

 白色光に照らされた街灯の下でだけ、光の粒が舞っていた。
 
 
 

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