第六章‐『How can I say?』
 
 

 もしも私が死んでしまったら
 そんなことが頭をよぎる夜は、いつも眠れなくて
 暖かい布団の中で、その向こうの寒さをおぼろげに感じながら
 何度も寝返りを打って

 そして――
 
 

「まーいーっ!」
 うららかな朝の日差し差す八畳間、舞と佐祐理の二人の部屋に、佐祐理の大声が響き渡る。
「舞ーっ! ほら、起きてーっ」
「……くぅ…」
「くぅじゃないよーっ! ほら、まーいーっ!」
 すでに人の形を失って丸くなっている物体を、佐祐理は根気よく揺すり続ける。
「…あと…ごふん…」
「だーめだよーっ。ほらっ!」
 どこか楽しげな余韻を響かせて、佐祐理は布団をはぎとった。
 

 佐祐理に勝るとも劣らぬほど、舞の生活は規則的である。夜は十一時を回ればまぶたが上がらなくなり、
朝は七時前、朝食当番の時にはもっとはやく目を覚ます。
「…っていうか、子供なんだろ」懲りもせずにそんなことを言った祐一は、案の定舞にツッコミを入れられ
ていた。もっとも最近では「すぐ怒るのは子供の証拠だぞ」と返して答えに窮するところを見て楽しむ、と
いうバリエーションも加わったらしいが。どちらにしろ本人にとっては迷惑な話である。
 そしてそんな舞だからこそ、いくら休日だとはいえ十時を回っても目を覚まさないという事実は、ひとえ
に何かが彼女の眠りを妨げていた、ということを意味していた。
 

「ほらぁ、もう朝ごはんじゃなくてお昼ごはんになっちゃうよ」
 パンパン、とウサギ模様のパジャマの背中を叩きながら、佐祐理は舞を押して部屋を出ると、温かそうに
湯気を立てている食卓に彼女を座らせた。ああは言ったものの、この分だときっとブランチになるんだろう
な、などと思いつつ、佐祐理はその向かいに腰を下ろす。
「さっ、食べよ」
 しかしその言葉にも、舞の瞳は中空の一点を空ろに見つめたまま、動かない。こんな舞を見るのは久しぶ
りだった。きっとよっぽど眠いんだろうな、という同情にも似た思いと、何がそんなに悩ませるんだろう、
という好奇心とが、佐祐理の中でかすかに均衡を保ちながらせめぎあっている。
「舞ーっ、起きてるーっ?」
 そんな思いを薄く覆ってしまうように、佐祐理は身を乗り出すとその顔の前で手をぷらぷらと振った。た
だ機械的にその動きを追っていた、佐祐理が「黒曜石のような」と形容する瞳が、一度確かに光を宿す。
「………うん」
 ワンテンポどころか三拍ほど遅れて、舞はひたすらゆっくりうなずく。もし祐一が見たら「名雪のようだ」
と揶揄していただろうが、彼は朝から知り合いのツテでバイトに出かけていた。
「食べるよーっ?」
「……うん」
 わずかだが反応が早くなっている。もう大丈夫だろう、と判断して、佐祐理は手を合わせるといただきま
すと唱える。舞も誘われるようにそれにならった。
 
 

 昨夜二人が帰ってきたのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
 朝方祐一とホワイトイルミネーションについてを話していたので、きっと一緒に見に行ったんだろうな、
と察しはついたが、玄関まで出迎えた佐祐理は二人のただならぬ様子に、何があったのかすら訊ねることは
できなかった。

 真っ赤な顔で祐一に抱えられるようにして入ってきた舞。佐祐理は反射的にそちらに気を取られた。
 しかし直後、彼女は舞の肩を支える祐一を見て愕然とする。
 後悔と困惑の入り混じったような、厳しくも苦しげなその表情。
 最初に考えたのは、舞が急に熱を出したのではないか、ということだった。しかし祐一はそれを否定した。
 舞をソファに横たえた後、祐一はじっと佐祐理を見つめた。責めるような瞳。しかし佐祐理は、その視線
が彼自身に向けられたものであることにすぐ気づいた。
 しかしそれについて何か言う前に、祐一はその言葉を遮るように口を開くと、自らに言い聞かせるように
こう言った。
「明日、早いから」
 その言葉だけを残して、彼は自分の部屋にこもってしまった。
 残された佐祐理は舞の真っ赤な顔を見つめながら、その額に手を当てて、熱がないということを何度も確
認することしかできなかった。
 
 

「ごちそうさまでしたーっ」
「…ごちそうさま」
 覚醒レベルに大きな差があるものの、食事となれば舞の体は半ば無意識のうちに動くらしい。頭はまだ半
分も起きていなかったが、食べる早さだけは佐祐理とほとんど変わらなかった。
「…それじゃ、一休みしたらでかけようか」
「…ドコへ?」
 下げ物をしながら至極当然のように話す佐祐理に、当然のように疑問が返る。目が覚めてきた証拠だろう
か、などとも考えながら、佐祐理はいつものように笑って答える。
「うん。お買い物」
「おかいもの…」
 その言葉を舞はゆっくりと反芻する。どうやらエネルギーを摂ったおかげで、頭のほうも活動を始めたら
しい。
「…別に欲しいものはないけど」
 しかし舞のその答えを予期していたのか、佐祐理は洗い物の水音に負けないように大声で答えた。
「別にいいのーっ。たまにはウィンドウショッピングもいいんじゃない?」
 そう言われては、舞のほうとしても反対する理由はない。が、それ以上に自分のことを気遣ってくれてい
るという思いが如実に感じられるため、舞は黙ってうなずいた。
「ありがと。付き合ってくれて」
 朝の光は優しい。あの時と同じ世界を見つめながら、改めて佐祐理は思った。
 
 

 十二月も半ばを過ぎると、北国では真冬日と呼ばれる氷点下の寒さが何日も続くことがある。
 そんな日は肌のほうも冷たさを通り越して痛みを覚え、特に指先や耳など末端の部分は、五分や十分外を
歩いただけで真っ赤になってしまう。
 そう、痛い――しかもそれはタチの悪い痛みだ。手や指先の場合だと、表面は冷たさ以外の全てのことを
感じなくなり、力が入らなくなるとともに動きが鈍くなる。このままの状態でさらに放っておくと「霜焼け」
という火傷にも似た症状に見まわれるわけだが、北国の子供にとって、冬とはすべてこの霜焼けとともにあ
るようなものだ。例外と呼ばれる人間ははごくごくわずかでしかない。病気などの身体的な面での理由がそ
のでも大半を占めていたが、佐祐理のような境遇は例外中の例外だろう。
 佐祐理が初めて霜焼けになったのは、去年の冬のことだった。
 初雪がそのまま根雪となってしまった珍しい冬の日に、前も見えないほどの雪のヴェールの中で、息を切
らすまで雪玉を投げ合ったあの時。
 痛かった。佐祐理は今も昨日のことのように思い出す。童話の中のように一面降りそそぐぼたん雪の中、
腫れて熱を持ったような真っ赤な手のひらが、ジンジンと痺れるように痛かった。
 二人の白い頬には紅が差して、分厚い黒い雲と現実感のない雪の結晶に、空の中に落ちていきそうな錯覚
を憶えた。
 自分は今、舞と一緒にいる。そんなことを改めて感じた。それは――

「…佐祐理」

 佐祐理は振り向いた。快晴の空の下、漆黒の瞳に疑問符を浮かべて、舞が自分を見つめている。
「…どうしたの?」
「あ…ううん。なんでもない。ちょっとぼーっとしてただけ」
 あははーっ、とつものように、でも少しだけ照れたように佐祐理は笑う。不思議そうに小首を傾げる舞も、
ただ「そう」とだけ呟いて、道路の先へと視線を戻した。
 その横顔を横目で見ながら、自分たちらしいスタイルだな、と佐祐理は思う。その言葉に潜むささやかな
満足感が、冷たいはずの指先を暖めた。
(…そういえば)
 冷たい冬の空を見上げながら、佐祐理は考えた。
 自分たち、という言葉の範囲が変わったのはいつからだろう。
 二人が三人に変わったのはいつからだっただろう、と。
(祐一さんが…)
 

 あの時も、たしか雪が降っていた。
 合格の知らせを持って、二人の家を訪ねてきた三月の始め。
 電話で事足りることなのに、祐一は雪の中、二人の家を訪ねてきた。
 彼の笑顔の向こうで降る雪が、佐祐理にはいつもより白く見えた。
 

 そんな微笑ましいはずの記憶が、今はかすかな苦さとともに蘇る。
 今年の初雪。固まりづらい粉雪で、三人で夢中になって雪玉を投げ合っていた時には、自分の胸のうちに
こんな感覚はあったんだろうか。
(…まだお昼前なのに。おかしいな…)
 去年のことを思い出したからだろうか。自分の気持ちが不安定になっていると言うことだけは、佐祐理は
はっきりと感じ取っていた。
(…なんだろう…)
 不思議だった。甘美な罪悪感のようなものが、血流に乗って自分の体を巡っているのがわかる。
 何か仕事がしたかった。そう。何かしていれば、それに集中できるのに…
 

 流れる雲をじっと見つめていた。自分が泣きそうな顔をしていたことにも、舞の不安げな表情に気づくこ
ともなく。
 自分の中に他の自分がいるような違和感を、佐祐理は必死に押し留めていた。
 
 
 
 

 土曜日の街はまだ静かだった。今日は第三土曜なので、高校まではまだ授業のある日だ。もっとも昼を回
れば制服姿の女子高生でごっただえすのは目に見えていたので、このフインキもあと一時間、というところ
だろう。
 舞を誘い出してはみたものの、佐祐理にしてもそれ以上の目的などあるはずもない。かといってこのまま
ぼんやりと外を歩いていても寒いばかりだ。とりあえずどこかに入ろう、と佐祐理は辺りの店を見回した。
白いダッフルコートの裾が、彼女の膝下で小さな円を描く。その視線が小さな喫茶店をとらえた。
「ねえ、舞。寒くない?」
 自然な流れに乗るように、佐祐理はお決まりの言葉を口にする。舞は黙って首を振った。
「そう? ならいいけど」
 実際佐祐理も寒くはなかった。
 結局そのままぶらぶらと辺りを散策している間に、予想した通り人の流れに制服姿が混ざってくる。その
数は午後一時を回った辺りでピークを迎えただろうか。
 目も覚めるようなコントラストのメーキャップをし、同じような制服に身を包んだ「じょしこーせー」た
ちの中でも、ノーメイクの舞と佐祐理は明らかに際立っていた。しかし彼女たちの嫉妬と羨望の入り混じっ
たような眼差しも、当然のように二人の意識には上らない。自分たちの高校の制服に思わず目をやってしま
うことはあったが。
(…にぎやかだなあ)
 その中には全く苛立ちの含まれていない感情が、言葉となって脳裏に映る。どこからともなく響く着メロ
の音色、話し声、笑い声…
 それは大学とも、二人が通っていた高校とも違った世界だ。佐祐理は夏のお祭りを思い出した。今の感覚
は、あの時に似ているかもしれない。違うのは、自分たちがその輪の中に入っているかどうか…
 一瞬のうちに倍近くにまでなったような騒々しさの中で、佐祐理は逆に自分の感覚が静かに沈んでいくの
をゆっくりと感じていた。
 
 

 『寒くないですか?』

 不意に誰かの言葉が頭をよぎる。あれは…そう。美坂香里の声だ。
(…あの時、寒くはなかったのに)
 自分が薄着のようだ、と彼女は言った。そんな感じがした、理由としてはそれで充分だろう。深く考える
ことなど何もないのかもしれない。
 それなのに何か気になる。何故だろう。
 一つだけ、佐祐理にわかっていることがあった。
(あの人は、自分に似ている)
 それは性格や容姿などではもちろんない。行動原理、とでも呼べばいいのだろうか。佐祐理には細かいこ
とはよくわからなかったが、もっと根本的なところにおいて「似ている」と直感した。

 『寒くない?』

 それはついさっき、自分が舞にかけた言葉。いつかの香里と同じように、佐祐理には舞が何故かとても寒
そうに見えた。凍えそうになっている、と。

 夕暮れに佇む舞はいつも寒そうだった。自分が暖めてあげなければならない、と切実に感じた。
 駆け寄って、抱きしめて…その震える体をさすってあげたいという義務感めいたものを、彼女はいつも心
のどこかに抱えていた。
 いや、今も抱えている。両手を広げるとそのイメージが見える。
 温かい光の輪。透き通っていく自分の姿。
 それが一瞬鳥籠に重なって見えて、佐祐理は思わずドキッとする。

「……佐祐理」
 
 

「…あ、うん。ごめんね。ぼーっとしちゃって」
「……いいけど」
 いつのまにか街並みは変わっていた。昼間でも人のあまり通らない、喧騒を離れた裏路地。日が落ちてか
らは絶対に女の子だけでは歩けないような場所だ。
 遠くから聞こえてくる雑多な音の名残が、逆に日常というものを再認識させるということに今さらながら
気づいた。佐祐理は舞にそれとはわからないよう、わずかに顔を背けて小さくため息をつく。
 舞に引っ張り上げられたのは今日二度目だった。しかも家を出てからの短い時間の間に二度だ。佐祐理は
自分の不甲斐なさに落ち込むとともに、申し訳ないような気分に襲われる。
 舞の気分転換になればと外に出てきたのに、いつのまにか自分のことばかり考えている。佐祐理はわずか
に自己嫌悪の念を強くした。
「…ねえ、舞」
 そんな思いを押し沈めるように、佐祐理は努めて明るく声を出す。それとともに彼女は路地の一角を指差
した。どこか湿ったフインキ漂うこの場所で、ただその一角だけは空気の密度が低いような気さえした。
「あそこ、入ってみない?」
 それは小さな喫茶店だった。遠目からでもそれとわかるクラシカルな雰囲気。薄汚れたコンクリートが支
配する街中で、木の暖かさが目に優しい。
 舞のほうにも異存はないらしく、こくりと頷くと先に立って歩き出した。
 黒いコートの背中に流れる黒髪が、ビル風になびく。
 寒そうだな。もう一度佐祐理は思った。何故あんなにも寒そうに見えるのだろう、とも。
 三度考えが沈んでいく予感がして、佐祐理は首を振って歩き出した。動いていればいい。とにかく、何か
に思考の先を向ければ…
 

 乾いた軽いベルの音にクリスマスが近いことを再認識させられながらも、佐祐理は舞に続いて心地よい暖
かさに包まれた店内に入った。設備はほとんどすべて木製で、カウンターに椅子が四つ。同じく四人がけの
四角いテーブルが三つと、最高でも十六人しか収容できない、本当にこじんまりとした店だ。しかも今の時
間帯もあいまってか、彼女たち二人のほかに客の姿は見えない。
「いらっしゃいませ」
 低く、それでいてよく通る声がカウンターの中から響く。
 こういう店を経営しているくらいだから…という佐祐理の予想は見事に外れ、そこに立っていたのは三十
を少し回ったくらいの、わりと背の高い男だった。
 指し示されるままにカウンターに座った二人は、そろってコーヒーを頼む。佐祐理はいつもは紅茶派だっ
たが、舞と二人の時はこのように属性が変わる。ちなみに舞は、コーヒーの中でもブラック党だ。
 豆を挽く小気味よい音に続き、独特の香りが鼻腔をくすぐる。おいしそうだな、と佐祐理は思った。こう
いう時の彼女のカンは、ほとんど外れたためしがない。
 やがて二人の手元に、豆の香りをそのまま放っているような湯気をたなびかせる、シンプルなデザインの
カップが置かれた。佐祐理はクリームを少し加えようとして思い留まった。せっかくだからそのものの味を
楽しもうと、舞と同じようにそのまま口に運ぶ。
『……はぁ…』
 美味しい、という言葉より先に、二人はそろってため息を吐く。そんな味だった。感想を一切拒否してい
る、と言えば少し大袈裟だが、今の佐祐理には心からそう思えた。
(…温かいな…)
 そう感じて初めて、佐祐理は自分の体が思っていたよりずっと冷たかったことに気づいた。今になって考
えれば、舞が一も二もなく頷いたのは、単に自分が寒そうに見えたからかもしれない。そんな自分を恥ずか
しく思うとともに、なんともいえない暖かさが喉から全身に広がっていく。
 不意にマスターが店の奥に姿を消した。後払いのはずなのにな、と佐祐理は小首を傾げる。お金を払わず
に出て行こうなどという気は毛頭なかったが、その気遣いがあまりにもはっきりとした形をとって表れたの
で、単に自分が戸惑っただけなのかもしれない。
 とにかく、この小さい、フインキのいい喫茶店で、佐祐理と舞は二人だけになった。
「………」
「………」
 しばし沈黙を保ったまま、二人は淡々とコーヒーをすする。店内に緩やかなバイオリンの調べが流れてい
ることに、佐祐理は初めて気づいた。
「……ねえ、舞」
 その言葉に舞は顔を向ける。佐祐理は黒い鏡に移る自分の顔を見つめたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「…舞は、いま……その…」
 わずかに口元に笑みを浮かべながら、佐祐理は続ける。その視線が鏡に映る自分から、カップを包みこむ
舞の両手へと流れる。
 言おうと思っていた言葉、訊こうと思っていたことが、立ち上る湯気に乗って狭い店内に拡散していくの
が、佐祐理にはわかった。
 
 

 質感のない雪が、舞の視界を埋め尽くしていた。
 祐一に借りてきたコーヒーメーカーのコポコポいう音と、枯れた大地を吹きすさぶよう風音に挟まれて、
窓枠に肘をついたまま外を見つめている。
 二十センチほど開けた窓からはその間も絶え間なく夜の寒さが無遠慮に忍び込み、暖められた空気と混ざ
り合って再び外へと逃げていく。
 こんな時に祐一はタバコが吸いたくなるんだろうか、と舞は思った。もちろん彼女自身には、今もそんな
感覚はもちろんない。
 午前二時。草木も眠る丑三つ時、というフレーズが頭をよぎる。
 佐祐理と祐一はすでに眠りについていた。彼女が一番遅くまで起きている、というのはまれにしかないこ
とだが、これも単に朝起きるのが遅かっただけだろう。一日中バイトに汗を流した祐一は、十時を回った頃
にはもうすでに床についていた。
(…今日はほとんど話していない)
 露出している素肌がかなり冷たくなっていることに気づいた。彼女は誘われるように手を伸ばす。その手
のひらで雪が溶けた。それすらもすぐに肌に吸い込まれて消えていく。
 でも、積もるんだ。抑揚のない調子でそう思う。自分の思考が無意味な方向を向いているのがよくわかった。
 冬は嫌いではなかった。だが理由はわからない。夏は暑いので好きではなかったが、冬が好きな理由は寒
いからではないような気がする。
 そういえば今日は寒かった。祐一のようなパターンだな、と多少自覚しながらも、舞はそれに付随してく
るイメージに、ため息ともつかない白い息を吐いた。
 うれしいことが、一つ。そうではないことが二つ。
 子供のようなうれしさはいつものことだった。悲しいことの一つめは昨日のことのせい。
 そして、もう一つは…
「……はぁ」
 コーヒーメーカーが沈黙して、彼女の耳に届くのは風の音だけになる。
 風はなんのために吹いているんだろう。自分のこんな感触を、佐祐理はどう表現するだろうか。

『風は誰を呼んでいるんだろう』

 こんなところだろうか。どこか寂しげな横顔から発せられるそんな言葉を、彼女は間近で聞いているよう
にすら感じた。

『……なんてね』

 そしてきっと、そう言って自分に微笑みかけるんだろう。舞の知っている、哀しくも強い佐祐理ならば。
(……どうしたの?)
 結局最後までその言葉を口にできなかった、そんな自分をひどく悔やんだ。
 訊いていたらどうなっていたんだろう? 訊かれていたらどうなっていたんだろう?
 こんな時間に、窓際で佇むこともなかったのだろうか。

『言いたいことがあったら、言わなきゃダメなんだぞ』

 それは昨日祐一にかけられた言葉だ。その時感じた反発を、彼女は今でも同じような真剣さで思い返すこ
とができる。

『じゃあ、言いたくないことは、言わなくてもいいの?』
 

 彼を責める気持ちもないことはなかった。いや、きっとあったのだろう。今になって、今だからこそ舞は
思う。
 次の日その言葉が、自分への言い訳に使われることなど考えもしないで。
 
 

 佐祐理はひどく寒そうだった。時折路地から吹きつける突風に、枯葉のように吹き飛ばされてしまいそう
な、それほどに軽く見えた。
 泳いでいるとは言いがたい姿勢で人の波に流され、氾濫する音と埃の渦に飲まれ…
 空ろであることがむしろ安らぎであるような、そんな不思議な危うさが、あの時の佐祐理にはあった。
 人の多い表通りを避けて裏路地に入る。舞は人ごみが嫌いだった。人の多そうなところにも、普段は行か
ない。今日はいろいろな意味で特別だった。だから、少しくらいは我慢しようと思っていた。
 だが、ダメだった。
 ぐいっ、と佐祐理の手を引く一瞬の感覚、その手のひらから伝わってくるような思いの欠片が、舞の足を
向けさせた。
 自分は逃げた、と思う。人ごみを避けるふりをして、佐祐理の瞳から逃げた。
 誰かの姿を無意識のうちに探している、そんな親友の眼差しから逃げ出したのだ。
 
 

「……ううん。なんでもない」
 そう言って佐祐理は笑う。彼女の笑顔の理由は本当にさまざまだったから、舞は佐祐理が何故笑ったのか
考えなければならなかった。
 佐祐理が今日何故自分を連れ出したのか。その理由はだいたいわかっていた。あくまでも、主だった理由
だけ、ではあったが。
 申し訳ない。佐祐理はそう思われるのを嫌がってはいたが、それでも舞は思ってしまう。
 いつまでも心配をかけて、気遣ってもらって、佐祐理にばかり負担をかけている自分が情けなくて、申し
訳ない。
 自分がいるから佐祐理はいつまでたっても独りなのだと、そう思うことすらあった。自分のせいで、周り
に目を向ける余裕などないのだろうと。
 だから、もし彼女に好きな人ができたら、きっと自分は彼女以上に喜べるだろうなと、そう思っていた。
「おいしいね」
 笑う。
(なぜ?)
 耐えきれなくなったように舞は目をそらした。自分に向けられる視線に悲しいものが混じるのがわかる。
 でも、振り向けない。今の自分の眼差しは、佐祐理のそれと全く同じものだ。コーヒーの中から覗きこむ
視線を受けて、舞にはそれが痛いほどよくわかった。
(…見ないで)
 断ち切るようにカップを傾ける。ただ熱いだけの塊が、喉元を滑り落ちていった。
 
 

 風が強くなってきた。舞はかすかに目を細め、ため息とともに身を引いて窓を閉める。
 コーヒーはすでに熱すぎるくらいに煮立っていた。彼女は流しからカップを一つ取ってくると、少し考え
てからそのまま黒い液体を注いだ。これくらいの方が、きっと中和されて飲みやすいだろう。
 何も考えずに一口流し込む。あまり美味しくなかった。ずぼらな祐一にはぴったりかもしれないが、自分
で淹れた方がまだいいかもしれない。当たり前の話だが、どちらにしろあの店の味には到底敵わないだろう。
(…あたりまえ…)
 カップの中に映る自分を見つめながら、舞はあの時逃した思いを取り戻そうと必死になって考えていた。
だが考えれば考えるほど、それとは違う、えもいわれぬ感情が暴れまわって収拾がつかない。考えたくない
のかもしれない、とも思う。
(わからない…)
 わからない、わかれない。どっちなのだろう。わかりたくない。だとしたら何故だろう。
 当たっているのだ。きっと。自分の勘は当たってしまっている。
 自分に何ができるだろう。
 

 その晩、舞は夢を見た。
 少しだけ昔の夢だった。二年前の冬、佐祐理と、祐一と、三人でお弁当を食べていた頃。
 三人は友達だった。とても仲のいい、親友といってもいいくらいの友達だった。
 自分は佐祐理と祐一のことが同じように好きで、佐祐理も祐一と自分のことを同じくらい好きでいてくれ
ると思っていた頃。
 三人は親友で、それ以上でも、以下でもなかった。

 ただただ楽しかった、そんな昔の夢だった。
 
 
 

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