第七章‐『涙のカギを開けて』
 
 

 水色の空が広がっている。最近水曜日は晴れ続きだ。祐一はそんなことを思いながら、今年最後の授業を
聞き流していた。
 高校時代に好きだった物理の授業は、大学に入って数学概論と化した。教官がさも当然のように操る未知
の手法にはみな眉をひそめるばかりで、最初の頃は逐一質問していた根気のいい生徒も今ではすっかりおと
なしくなってしまった。とりあえず解法を丸暗記しておけばいい――そう考えているかどうかはわからない
が、この教官に質問しても無意味だということだけは悟ってしまったのだろう。ああいう奴がきっと大学に
残るんだろうに、もったいないと思う。
(明後日は、クリスマスイブか…)
 授業が始める前には、何人かの友人から今夜の合コンの誘いがあった。最後には断るつもりで話だけは聞
いていたが、珍しく時間通りに教官が来たため返事は保留になっている。なんとかこの講義内に適当な言い
訳を考えなければならなかった。
(正直に言ってもいいんだけどな…)
 ごく親しい友人たちは、祐一が三人で同居生活を送っていることを知っている。今回誘われたグループと
は今まであまり親しくはなかった。そうやってきっぱりと断るのが一番手っ取り早いのだが、今はなんとな
くそういう気分にもなれない。
 何かがズレてきている。漠然とした不安の残り香のようなものが、祐一の心を悩ませていた。
 その原因がおそらく、自分にあるだろうということも。
(バイトがあることにしようか…それとも北川の名前でも借りようか…)
 動かない雲を見つめながら、祐一は再び言い訳の内容を考えていた。
 少なくとも、こちらのほうが簡単な問題だった。黒板で展開されている授業の内容より、さらに。
 

 三限の積分は、先週で授業を終えていた。夜については北川から誘われていることにして、空いてしまっ
た午後、祐一はひとり生協の書籍部をブラついていた。
 特に当てがあるわけではなかったが、平積みにされている本の一冊に目がいった。『青の炎』という、哀
しみを連想させるブルーのカバーが印象的な本で、作者の名前には見覚えがあった。煽り文句の「せつない」
というフレーズが妙に頭に残る。
 買おうかな、とも思ったが、最近浪費癖がついてきたようなので、今はやめておくことにした。一週間ほ
ど経っても気になるようだったら、その時には買おうと思う。
(クリスマスって、なんだっけな…)
 自分は恵まれてるな、と感じた。必死になって(少なくとも祐一にはそう見えた)合コンなんかを企画し
ているヤツらを見ると、なんとはなしにそう思う。しかしだからといって、何の不安もないというわけでは
もちろんない。

『それでも、恵まれてるんだよ』

 北川あたりならそう言うだろうか。もっともアイツに言われても、全然説得力はなかったが。
 つまらないな、と思うことは、そう思うことで考えることから逃げている。
 でも、大事なことだ、と思うことは、自分にひたすら鞭を入れるばかりだ。足はもう動かないのに。
 ペース配分を考えないバカな騎手は、自分の無知を馬のせいにする。オレはどっちだろう、と祐一は思っ
た。そしてもう片方は誰なのだろう。
 一瞬自分で自分に鞭を入れる光景を想像して、祐一は思わず苦笑をもらした。
 だがきっと、それが一番真実に近いのだろう。
 目隠しをされた馬と騎手が、どこにあるのかわからないゴール目指してバカみたいに走る。併走する馬は
他にいない。
 そんなひたむきさがあればまだいい方だろうか。今の自分にはとてもそんな気力があるとは思えない。

 書籍部を出て、隣の購買部でタバコを一箱補充した。ワンランク強いタバコだった。
 
 
 
 

 香里は一つあくびをした。口元を手で隠しながら、今日は暖かいな、と素直な感想をもらす。
 時計を見ると午後一時を過ぎていた。ちょうど三限が始まった頃である。そろそろ食堂も空いただろうか
と、つるつる滑る細い道を足元に視線を落としながら慎重に歩く。冬の間のこんな陽気はもちろん嫌いでは
なかったが、雪が溶けて氷になってしまうことだけはいただけないなと思う。
 学食前はこの時間にしては珍しく人気があった。かすかに行き過ぎるイヤな予感を押し出してドアを開け
た彼女は、先ほどの予感がまだ頭の中に住みついていたことをはっきりと思い知らされた。
(……何、コレ?)
 テーブルの八割がたを埋め尽くす人の数とその倍くらいの口が一斉にしゃべっているような喧騒に、彼女
はしばし呆然と立ち尽くした。今日って水曜よね、と思わず確認する。目の前の風景はいつもの姿とは全く
違っていた。しかし彼女はその原因にもすぐに思い当たる。
(…そっか、今日でガッコ終わりだったんだ)
 最終日ともなれば休講の授業が多くても不思議ではない。おそらくは四限までの時間つぶしが目的の生徒
が多半なのであろうが、それにしてもこの人数はどこから沸いて出たのだろう。外の陽気ともあいまってか、
彼女は一瞬めまいを覚えた。
(……二階にしよう)
 急に重たくなった気がする体を引きずるように、彼女はゆっくりと階段を上っていった。食堂の二階には
小さな軽食喫茶がある。そことて空いているとは限らなかったが、少なくともこの状況よりはマシだろう、
と香里は自分に言い聞かせるように考えていた。
 

 水曜の午後は優雅な時間だ。かすかな自己満足も含めて、佐祐理はそう思っていた。
 授業は午前中で終わり、午後のひとときを適度に騒がしいこの喫茶店で過ごす。舞が一緒の時もあるが、
一人の方が圧倒的に多かった。家に帰る、もしくは街に出るまでのしばしの間、だらだらとこの店で紅茶を
飲む。特に何をするわけでもない。何もしないでぼんやりと無駄な時間を送るのが、彼女にとっての「優雅」
なのだった。
 そしてそんな時間も、今年は今日で最後だった。向かいの席に舞の姿はない。授業がないのはわかってい
たが、来ない理由まで特定することはできなかった。おそらくは昨日、もしくは一昨日の出来事が関係して
いるのだろう、という邪推だけで。
 仕方ないかな、という思いが半分に、ほっとしているのも半分。何故ほっとしているのかは考えないこと
にした。
 目を閉じて、紅茶を一口すする。すでに少しぬるくなり始めているが、香りは損なわれていないようだ。
そんなことを思いながら目を開けた時、テーブルの上に僅かに影が落ちていた。
「こんにちわ。佐祐理さん」
 顔を上げて確認する――その前に、言葉が佐祐理の口をついて出た。
「こんにちわ。香里さん」
 相席いいですか、と微笑みながら告げる香里に、佐祐理も頷いて答える。テーブルに置かれたブラックコ
ーヒーに、舞の顔がダブって浮かんだ。
「お久しぶりですね」
「そうですね」
 当たりさわりのない会話だ。おそらく二人とも感じていたことだろう。
 紅茶を一息で飲み干して、佐祐理は一度席を立つ。しばらくして戻ってきたその手には、香里と同じコー
ヒーカップがあった。
「香里さんは、冬休みは?」
「いつもと変わらないですね。もともと自宅通いですから」
 それは気まぐれな天秤のようだった。重さの釣り合ったコーヒーのカップ。それにミルクを入れるか否か―
―当たりさわりのない会話が続くかどうか、すべてがそれで決まる。
「……香里さん」
 微妙にトーンを下げて、佐祐理が呟くようにもらす。
 少しだけ佐祐理はミルクを垂らした。それは奇妙なシンパシーによるものだったのかもしれない。
 とにかく、天秤は傾いた。
「香里さんは今…好きな人は?」
「唐突ですね」
 言葉とは裏腹に、さして驚いた様子もなく香里は答える。
「えっと……ごめんなさい」
「あ、いえ、別にそういうワケじゃないんです」
 かえって萎縮してしまった佐祐理を気遣うように、香里は慌てて顔の前で手を振る。
「ただ、佐祐理さんがそういうことを訊くなんて…」
「意外ですか?」
 おかしいほどに真剣な面持ちで、佐祐理は覗きこむように訊き返す。そんな姿に不思議と親近感を増しな
がらも、香里はあえて微笑んだ。
「正直言って、少し」
 その答えに、佐祐理もわずかに表情をやわらかくする。それを嬉しく思っている自分がいることに、香里
は気づいた。
「……定義によりますよね」
 へっ? という顔をしている佐祐理に、失礼だとは思いながらも苦笑をもらしつつ、香里はゆっくり言い加
える。
「好きの定義っていうか、範囲です。ほら、同じ『好き』でもやっぱりピンからキリまであるじゃないですか」
 そう言って、にっこりと笑う。しばし呆然とその笑顔を見つめていた佐祐理の表情も、だんだんと笑みに
変わった。
「そうかもしれませんね」
「そうですよ」
 香里は一口コーヒーをすする。佐祐理もそれにならった。あの喫茶店の味がほのかに舌によみがえる。
 しばしの沈黙の後、少し遠い窓の外を見つめながら、香里が静かに口を開いた。
「あたしの場合…佐祐理さんのことも、まあ、相沢君のことも。好きと言えば好きです。
 ……でも、きっと……」
 香里はそこで言葉を切った。そして佐祐理をじっと見つめる。
(こういうことじゃ、ないんですよね?)
 香里は無言で問いかける。佐祐理はわずかに目を伏せた。香里はかすかに罪悪感の匂いを感じた。
(……やっぱり…)
 自分の中で何かが確信に変わるのを香里は感じた。遠い果てに抱いた罪悪感。質こそ違えど、今佐祐理が
抱いているものと根本的なところで似ている。
 突き詰めてしまえばそれは、生きていること。そこから始まる二重螺旋のような罪の意識。
 だからだろうか。香里はこの人に話そうと思った。
 二年前の冬に自分が犯した罪と、受けたかった罰と、降ってわいたような赦しのこと。
 相手から話を引き出そうとか言う意識の前に、何かが彼女を突き動かしていた。
「…もしかしたら、相沢君から聞いているかもしれませんけど…」
 
 

 佐祐理は時計を見た。午後四時。今日が冬至だということには関係なく、すでに空は薄暗い。
 今年最後の優雅な時間を想いながら、佐祐理は街のほうに向かって歩いていた。
 頭の中が爆発しそうだった。できることなら一度くらい爆発させたいとすら思う。
 おしゃべりというにはあまりにも重い展開が、自分の中で所狭しと暴れまわっているのを感じた。

 『…あたしには、妹がいるんです』

 そこから始まった彼女の記憶。自分の思い出話を聞いているようなかすかなデジャヴとともに、耐えがた
いほどの痛みが自分の体と心をさいなんでいるのがわかった。

 『あたしは、幸せになっちゃいけないんだって思った』

 それが自分の罰。彼女はそう言った。
 そして笑顔のまま、それは赦しの裏返しだった、と。

 『栞はあたしを赦してくれました。こんな姉を、赦してくれたんです』
 『ただ、それだけです』

 それだけではないことを、佐祐理はわかっていた。香里もあえてそれ以上は言わなかった。
 一弥のことを話したときも、香里は顔色一つ変えなかった。

 『あたしには、わかりません』

 冷たい、とすら思えるほどの無表情で、香里は淡々と言葉を紡いだ。

 『……わからないですけど…』
 

 メインストリートにぽつりぽつりと燈る街灯の光が、たくさんの自分の影を生み出す。
 佐祐理は走ることは嫌いではなかった。特に街灯を背に走るとき、自分の影すら追い越したような錯覚に
浸る一瞬、あの言葉では言い表せない感動にも似た感触が大好きだった。
 あの時の恍惚が彼女の体をすり抜けていく。佐祐理はわけもなく泣きたくなった。
 今の自分は、どの影を追い抜いていけばいいのだろう。
 
 

 クリスマス・ソングの流れる街並み。赤と緑に飾り立てられた世界。
 画一化された、すくなくとも何かしらのルールの支配するこんな空間では、自分の存在がやけに希薄に感
じる。
 ここは自分の居場所じゃない。ドミノ倒しのように自分で自分を追い込んでいく、そんな強迫観念にも似
た何かを漠然と感じながら、祐一は夕暮れの街を歩いていた。
 大学を出てからもう何時間経っただろうか。ポケットに突っ込んだだけの両手が冷たい。
(…寒いな…)
 街頭に設置された温度計を見る。氷点下五度だった。コートの中の体がぶるっと震える。
 今朝かけられた言葉がふと頭をよぎる。今ごろあいつらは合コンの真っ最中だろうか。行ってもよかった
かもしれない、と少し思う。少なくとも、一人で震えながら街をブラついているよりはマシだっただろう。
(……いや、同じか…)
 少しだけかじかむ右手で胸ポケットをまさぐる。くしゃくしゃの箱から百円ライターを出して軽く振ると、
残りはわずかに二本だった。補充しておいてよかった、と口元がかすかに笑みの形になる。こんなことの繰
り返ししかないんだろうか、と自分に問いかけながら、祐一は立ち止まってタバコに火をつけた。
 黙っていても燃え進んでいく火種が、数センチの紙と草の塊をじりじりと灰にしていく。
 たくさん煙を吸い込めば、その分消耗も早い。逆に自然に燃え進むままに任せていれば、少しは長持ちす
るということになる。
 自分はどちら側だろう、と思う、それを人間にそっくり当てはめることができたなら、自分は一体どちら
側の人間なのだろう。
 自分は、どちら側でありたいのだろう。
(……オレは…)
 大河ドラマのような肖像画がふと頭をよぎる。好きだった日本史の内容もほとんど忘れてしまった。
 覚えることが上手くなったのはいつからだろう。きっとその頃から、忘れることも上手くなったんだと思う。
 夕闇を切る風のような鋭さで自分の感情すら切り捨てていけたら、どんなに簡単なことだろう。
 曖昧さと言うぬるま湯のなかでぬくぬくと目を閉じていた自分が、本当は泥沼の中に沈み込んでいたとい
うことを、祐一は痛いほど感じていた。
(…オレのせいだ)
 寂しい、と告げた舞の中で渦巻いていた葛藤も、何も言わずに部屋に戻っていく自分の背中に向けられて
いた、迷いをはらんだ佐祐理の視線の理由も。自分の見えない、見ようとしなかったところで、どれだけの
思いが宙に投げ出されていたことか。
 それがただのうぬぼれであってほしい、そう強く願った。しかしその願いが強くなればなるほど、皮肉に
もそれは硬くもろくなっていく。
 たった一つの亀裂から倒壊するダムのように、きっとそれは抱えきれないほどの思いにあっけないほど簡
単に崩れ落ちるだろう。
 自業自得。そう、きっとその通りだ。
 いつまでたっても青に変わらない信号機を見つめながら、祐一は煙を吐いた。
 
 

 街はクリスマスプレゼントであふれ返っている。佐祐理には素直にそう思えた。
 ショーウィンドウに並ぶ品物のすべてが、この時期になるとその意味を変える。
 冬の空気は恋人たちに優しい。お互いを暖め合うようにくっついているカップルを見ると、そんな表現ま
でが自然に浮かんでくる。少しだけそんな光景をうらやましく思う、そんな自分がイヤになって、彼女は自
分のつま先に視線を落とした。
 佐祐理は自分が好きではなかった。舞と出会ってからもそうだった。
 祐一に出会って、三人で暮らし始めて、自分が好きでいられる自分というもののおぼろげな姿が、やっと
見えてきたかもしれないという矢先だった。
 歌声や話し声、音だけのクリスマスが耳に届く。
 自分は自分を嫌いでなければならなかった。そうでなければ許されなかった。
 自分には人に好かれるだけの価値はない。そう思わなければ、あまりにも感じすぎる彼女の心が安らぐこ
とはなかったのだろう。
 宙にぼんやりと浮かんだままでは、眠ることもままならない。苦しみながらでも土の上で眠るためには、
手足に重りをつけなければならなかった。それが今までの彼女だ。
 それでも最近は、自分を突き動かす浮力がずいぶん弱くなったと感じていた。枷の痕は一生残るとしても、
いつかは普通に歩ける日が来るかもしれない。そう信じさせてくれる日々を、自分は破り捨ててしまった。
(…まだ、足りないと言うの?)
 重りが足りなかったのだろうか。気づかないうちに浮かれていたのだろうか。
 佐祐理は首を振った。わからない。涙がこぼれてきそうだった。

 『愛の形って、一つじゃないとは思いますけど』

 学食の二階の小さな喫茶店で、香里は最後にそう言った。
 そしてそれこそが、佐祐理のウェイトを取り去り、彼女が宙に浮かんでいることを告げた。
(この気持ちは、なんだろう…?)
 佐祐理の胸の奥で、二つ大きな感情が揺れていた。一つはずっとそばに感じていた思い。舞が祐一に向け
ていた、それときっと、同じ形の思い。
 それだけでもう、彼女を苦しめるには充分過ぎるほどだった。抱いてはいけない、許されることのない思
い。舞への思いと、舞が与えてくれた思いを踏みにじるに等しいひどいこと。
 それなのに、彼女の思いはまだ彼女を許してはくれない。
 形のない霧のようなもやもやが、彼女の中できらきらと輝く、舞の笑顔を隠していく。
 その思いの先にある、祐一の笑顔さえも。
(…これって…なんで……!)
 きつく閉じたまぶたから涙がこぼれた。
 道行く人が心配と好奇の入り混じった視線を次々となげかけるが、彼女の意識にはのぼらない。
 自分は舞に嫉妬している。
 その事実だけが、彼女の胸をさいなんでやまなかった。

 タバコの自動販売機を見つけた、それだけで祐一のことを考えてしまう、そんな自分がたまらなく嫌だった。
 
 

 夜の闇を逆に包み返してしまうほどの明かりが、街の中には満ちていた。
 そこかしこに見うけられるサンタクロースの衣装を身にまとった売り子が、声も高らかに自分の店のケー
キを宣伝している。
 寒いんだろうな。
 …自分だって同じか。
 そんな皮肉めいた言葉が何につけても浮かんできて、そのたびに祐一は今の自分の情けなさ、自己嫌悪の
かたまりのようなものが体中を支配しているのを感じた。
 どうしたらいいのだろう、という問いにも、どうしたいのだろう、という問いにも答えられない。
 少なくとも後者には答えなければいけなかったのだ。「自分は舞が好きだ」そう胸を張って言えれば、ど
んなに救われることだろう。
(……言えるわけがないじゃないか…)
 中途半端に優しくして。
 思わせぶりな態度をとって。
 そんな自分になにが言える?
(急に手のひら返したように、冷たくあしらえってか?)
 本当はそうするべきなのだろう。きっと誰に聞いても同じ答えが返ってくることはわかっていた。
 でも、そんなことはできない。したくない。
 できるものならとっくにやっているさ、と悪態まじりに吐き捨てても、誰の耳にも届かない。
『よろしくおねがいしまーす』
 不意にかけられた声に驚いて振り向くと、その視線の先には二人組の女のサンタが笑顔でケーキを勧めて
いた。
「今年は1000年台最後のクリスマスということで…」
「チョコレートケーキに雪の意匠をあしらった…」
 祐一はしばし呆然と、その仮面のような笑顔を呆けたように見つめていた。
 しかしやがて、その見知らぬ表情の中に大好きな笑顔が見え隠れする。
「X'masの文字の下にご希望のお名前を……」

 『祐一さん』

「こちらはお子様などにも人気のチョコレートで作られた……」

 『祐一』

 祐一はその二人に哀しそうに微笑みかけると、再び下を向いて歩き出した。
 逃げ出す気にもなれなかった。あの二人が一緒に微笑みかけてきても。自分は逃げ出すこともできない。
(クリスマスプレゼント、どうしようか…)
 いつのまにか祐一はそんなことを考えていた。
 二人にそれぞれ何を買うか、もうだいたいは決まっていたはずなのに、なぜかそれではいけないような気
がしていた。
(……どうしようか…)
 オトコの理想じゃないか。そんな声が沸きあがってくるのが一番イヤだった。
 しかしそれでも、自分に二人を同じように愛せるほどの甲斐性があったならと、そう考えてしまうのも仕
方がないのだろう。
(仕方がない、か…)
 仕方がないことなんてない。そう言い張れるだけの気力ももう、ない。
 堕ちてしまおうか。堕ちるところまで堕ちるのもいいかもしれない。
 聖なる夜を前にして、祐一はそう思い始めていた。
 
 

 自分はきっと強いのだろうと、佐祐理はずっとそう思っていた。
 愛していながらあれほどまでに冷たくなれた、そんな自分は強いに違いないと。
 それは彼女のアイデンティティだったのかもしれない。感情すら自分から引き離し、主観を客観に置き換
え、誰よりも自分に冷たくあろうとした日々。
 それがどうだろう。今の自分のこの弱さは。
 どこにいるとも知れない、いや、そもそもいるのかどうかすらわからない後ろ姿を、すがりつくように懸
命に探している。
 一瞬、この自分なら好きになれるかもしれない、と思う。彼女が知っているのは強い自分ばかりだった。
そんな自分が嫌いだった。
 だから、弱い自分なら、もしかしたら好きになれるのかもしれない。
 ほんの一瞬、まるで夢を見るようにそう思った。
 だがそんな夢はすぐに覚める。ぶつかってくる人の波。無遠慮に鳴り響く車のクラクション。
 死んでしまいたい。死んだほうがきっと楽だ。そんなことまで思う。
(苦しいよ。ねえ、舞。苦しいよ。たすけて…)
 逃げ出したい。放り出したい。どうしてこんなにつらいんだろう? どうしてこんなに苦しいんだろう?
 もう、答えはわかっている。今まで何度も問い掛けてきた言葉。答えがいつか変わるのではないかと、そ
んな淡い期待を込めて自分を痛めつづけてきた。

 『私は、応援しますよ』

「香里さん…」
 「何もわかっていないのに、無責任なことを言わないで」
 なぜそう言えなかったのだろうと、後悔にも似た思いで佐祐理は再び問いかける。
 彼女は自分にそう言わせたかったのだろうか。罵られてまで、このこの苦しみを取り除こうとしてくれた
のだろうか。
 だとしたら、答えられなかった自分は一体なんなのだろう。
(……わたし、は…)
 舞が、祐一が、死ねと言えば死ねる。そんな自分を佐祐理は自覚していた。
 ただ、あの二人がそんなことを言うことこそ死んでもないと、痛いほどわかりすぎている自分がひどく憐
れだった。
 
 
 
 

 世界はこんなにも可能性で満ちている。
 そんな言葉を信じてもいい気にさせられる、そんな出来事など滅多にない。
 だが、それがどんなに安っぽい形でも…
 日常ではありふれた出来事に過ぎなくても…
 もし、二人がそう思ったのなら……
 
 

 気づいたのは、佐祐理が先だった。
「…祐一さん」
 その声に、弾かれるように祐一が振り向く。
「……佐祐理さん」

 クリスマスはまだ二日後だということを、二人だけが忘れていた。
 プレゼントもケーキもない、ただ向かい合った二人がいるだけのそんな空間で、祐一は、佐祐理の瞳が赤
く濡れているのを見た。
 口を開くように、手を伸ばす。今まさに失われようとしている、誰にもわからない一瞬の輝きを、自分の
心の中だけには留めておきたいという、純粋で、切ない望み。
 自分の体が浮き上がるような錯覚を覚えた。足はただ空気の波を蹴って、ネオンサインの下で溺れている。
 それは彼女の魔法だ。
 隔離された世界で、何物かが支配するタイムリミットを強烈に意識しながら、祐一はただ、その魔法が続
く限り、彼女の瞳から目を逸らすまいと思った。
 もし逸らした時には、それこそ一瞬にして――

「…祐一さん」

 無機質に佐祐理は口を開いた。やつれてしまったようにボロボロの顔は、それでも不思議と、しかし素直
に美しいと思える。
 人形のように伸ばした腕が、彼女のその細い体を抱きしめる形に変わる。抱きしめたい――今にもばらば
らに壊れてしまいそうなこの子を、崩れないように抱きしめてあげたい。そう思った。
 しかし――

「ゆういちさん……」

 泣きそうなくらい歪められた口元。思わずそこに目線がいく。祐一は目を見開いた。
 ……魔法が――

「……好きです」
 
 
 
 

 鐘が鳴っていた。
 果てしなく広がる麦畑の向こう、金色の波間に見え隠れする教会で、切ない音色を奏でていた。
 クリスマスの街並みは、はるか記憶の中に消え去り――
 

 祐一は涙を流した。
 ただただ、哀しかった。
 
 
 

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