その日、なぜか名雪は浮かれていた。

「うふ……うふふふふ…………うふうふふふふふ………………うふふふふふふ…………
……朝からずっとこんな調子である。
あまりの浮かれっぷりに、授業中でも平然と笑う名雪に対して、教師たちが誰一人何も言えなかったほど……
普通に廊下を歩いていただけでモーゼの十戒の如く生徒たちが避けて歩くほど……
『今日の水瀬さんどうしたの? 電波? 受信中?』とかクラスメートから聞かれるほど……
それぐらい今日の名雪は…………浮かれていた。

そして、昼休み……
「ふふ…………うふふふふふふぅ…………」
多くの生徒で溢れかえり賑わう昼休み時の食堂でも、名雪の勢いは留まるところを知らなかった。
Aランチをいつもと変わらず食べながらも、その笑みはとまろうとはしない。
「あのさ、名雪……」
朝から見てみぬふりをしてきたけれど……さすがに見かねたあたしはとうとう意を決して聞いてみる事にした。
「今日は朝から随分浮かれてるけど……なにかあったの?」
あたしがそう聞いた途端、名雪がぴくっと反応して凄く嬉しそうな顔をこちらに向ける。
「え!? 気になる? 聞きたいっ? やっぱり聞きたいよね!?」
「ごめん、やっぱりいいわ……」
その名雪の様子にそこはかとなく嫌な予感を覚えたあたしは、即座に前言撤回する……けど…………
「もう、しょうがないなぁ……香里だから、特別だよ」
「…………」
既に話す気満々の名雪の耳には届いていないようだった。
「あのね……実はね…………」
「うんうん……」
仕方がなくあたしは適当に相槌を打ちながら、食べかけていたサラダに箸をのばすことにする。
「私ね、とうとう祐一と……」
「え…?」
その名雪の台詞に、伸ばしかけていた箸を思わずとめて名雪の方を見る。
その表情は嬉しさを溢れ出さんばかりながら、どこか照れた様子でもあった……
…………今日の名雪の異常なまでのうかれっぷり…………
…………そして、今口にした相沢君ととうとうっていう台詞…………
この事から導き出される答えは…………まさか!?
「名雪…………もしかして…………相沢君と?」
「うん、そうだよっ」
「やっぱり!? やっぱりそうなの!?」
「うん、そうなんだよ!」
「おめでとう、名雪! とうとう相沢君と結ばれたのね!」
「うんっ! 私、とうとう祐一と結ばれるんだよっ!!」
「………………え?」
あ、あれ…………?
結ばれ『る』…?
結ばれ『た』じゃなくて『る』……?
「名雪……それってつまり……結局はまだ結ばれてないって事……?」
「うん、今はまだね」
「はぁ……そう……」
あたしは無駄に立ち上がってしまった身体を椅子におろすと、再び作業を再開してサラダにむかって箸をのばした。
「わ、なんだか急に反応が冷たいよ…」
そんなあたしの様子に、かなり不服そうな様子の名雪。
「酷いよ、香里。せっかくの私の門出を祝ってくれないなんて……」
「何言ってるのよ。まだ結ばれてないんでしょ。だったらまだ相沢君とは今までどおりの普通のいとこの関係じゃない」
「うー、それはそうだけど……でも、明日には私と祐一は学校一のバカップルになってるはずだよっ!」
……なぜ自分からバカップル宣言するのか、この娘は…………
「なんで今日までは普通の関係で、明日になったら急にカップルになるのよ……」
「それがなるんだよ」
半ば呆れて言い返すあたしに、なぜか自身満々にそういいきる名雪。
「……いったいその自信はどこからきてる訳……?」
「実はね……今日はお母さんが仕事で他の場所に行って、そのままお泊りしてくる事になったんだよ!」
「…………なるほど」
私もいい加減慣れたもので、それを聞いただけで名雪の言わんとする事はおおよそ分かった。
「つまり……これで今夜、あの家には相沢君とあなたの2人きりになるわけね」
「その通りだよっ!」
そう言いながら、名雪がおもむろに席を立ち上がって力説する。
「年頃の男女が1つ屋根の下に2人きり! この状況で間違いが起こらないはずがないよ! っていうか、むしろ無理やりにでも起こすよ!
「…………分かったから…………お願いだから座ってちょうだい…………」
思い切り他の生徒たちから注目を集めちゃってるから…………
「ごめんね、香里。私の方が先を越しちゃう事になるけど」
席に座りなおしながらそんな事を言う名雪……
まぁ…確かにチャンスではあるんでしょうけど…………
これまでだって、いくつもチャンスを逃してる事だし……今回だってどうなるか…………
「………………」
あれ…………ちょっと待ってよ…………
「あのさ、名雪…………1つ聞いておきたいんだけど…………」
「うん、なに?」
「その……今回はあたしは名雪の家にいかなくていいのよね?」
「もちろんだよ。せっかく2人きりになるのに、どうして香里を呼ぶ必要があるの」
「そ、そうよね……そうに決まってるわよね…………」
…………と、いう事は…………
あたしは今回は巻き込まれないで済むのね…っ!
、無意味な苦労を背負い込まず、平穏無事で学生らしい放課後を過ごす事が許されるのねっ!!
ああ、自由ってなんて素晴らしい……!!
「頑張ってね、名雪! あたしは今回は微塵も干渉しないけど、心の中でだけは精一杯応援してあげるからね!」
「なんだか妙に嬉しそうなのが気になるけど……うん、私頑張るよっ!」
「相沢君がぐずぐず言ってるようだったら多少強引な手を使ってでもいいから、三つまでなら法律だって犯していいから絶対に結ばれるのよ!」
「うん、任せてよっ!」
気合十分にそう答えると、再び立ち上がって声高らかに宣言する。
「7年間の辛苦の時を越えて……今夜、私は女になるよっ!!」
その名雪のいきなりの台詞に、近くに座っていた男子生徒は食べていた焼きそばを思い切り吹き出し、また隣の女生徒は飲みかけていたスープを気管にいれてむせていたけれど、既にラブラブハンター状態の名雪は気にもとめていないようだった……
「うふふ……待っててね……祐一ぃ…………」
 




 

名雪まっしぐら、香里まったなし





 
 
 

「祐一ぃ、放課後だよぉ!」
HRが終わった瞬間、やけに気合の入った名雪が開口一番にそう告げた。
「そんな大声で言われなくても分かってるて…」
「うん、じゃあ帰ろっ! 今すぐに!!」
「なんでそんなに気合十分なんだ……?」
「だって、せっかくの記念すべき貴重な放課後なんだよ! そんなの当たり前だよ!」
「……なんの記念なのかは知らないが………今日は部活ないのか?」
「うんっ、今日は陸上部設立記念日でお休みなんだよ」
「……そんなのあるのか?」
「うん、どこの部活にもあるものだよ」
…………どこにもないわよ、そんなの。
あたしが内心でそう突っ込むも、名雪の言葉を真に受けた相沢君が素直に席を立ち上がる。
「そうか。じゃあ帰るか……」
「うん、帰ろっ!」
「よし、それじゃあいこうぜ、北川」
「おう、そうだな。水瀬さん、今日はお世話になるな」
「うん………………え? お世話……?」
名雪が何のことといった様子で顔にはてなマークを浮かべる。
「あれ? 相沢…水瀬さんに話してないのか?」
「いや、今朝言ったはずだけど……名雪、覚えてないのか?」
「覚えてないって……何のこと?」
「……やっぱり聞いてなかったのか……なんか今日は朝からやけに浮かれてたからな……」
「だから、それなんのこと?」
「今日は北川が泊まりに来るって言っただろ」
「え………………え、えええええええぇぇぇぇぇ!!?」
「前々からそういう話はしてたんだけど、秋子さんがいない今日なら気を使わないで済むかと思ってな……もっとも、秋子さんはむしろ自分がいる時に呼んで欲しがってたみたいだけど」
「…………」
相沢君が説明を補足するも、今の茫然自失状態の名雪の耳には右から左に通り抜けてるようだった。
無理もないわね……あれだけ気合入ってた訳だし。
期待が大きかった分、その反動も大きかったんでしょうね…………
「………………私…もう笑えないよ……」
うわ……ものの見事に燃えつきてるわね……しかも小声でなにか呟きながら、心閉ざしかけてるし…………
「……仕方がないわね」
今日は自由な放課後は免除して、百花屋で名雪の自棄イチゴサンデーに付き合ってあげることにしようかしら……
「名雪……」
そう思ってあたしが名雪に声をかけた時だった。
(きゅぴーんっ!!)
あたしの方を向いた名雪の目が、一瞬にして光を取り戻した。
それもとびっきり妖しい光を…………
その目を見た瞬間、あたしの中に名雪に声をかけてしまった事への激しい後悔の念が湧き上がってきた……けど、もう遅かった。
「あのね、祐一!」
そうして、おもむろに顔をあげると名雪がその後悔が間違っていなかった事を決定付ける一言を言い放った。
「実は私も方も今日、香里が家に泊まりに来る事になってたんだよ!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「どういうつもりよ、いったい」
結局四人で歩く事になった水瀬家までの帰り道。
前を歩く北川君たちに聞こえないように、あたしは名雪を問い詰める。
「どういうつもりって、なにが?」
しかし、一方の名雪は糾弾されている事すら気づいてない様子で、首をかしげながら言った。
「だから、なんであたしまで名雪の家にいかなきゃいけないのよっ。今日はあたしはオフで平穏な日常を満喫できるはずじゃなかったの?」
「だって、予定外に北川君が来る事になったんだもん。そうなると、私と祐一が2人っきりになるには、こっちももう1人用意する必要があったんだよ」
「だからって、それをどうしてあたしがしなくちゃいけないのよ。嫌よ、あたしは。これ以上面倒事に巻き込まれるのは……」
せっかくあたしは穏やかな時間を堪能する予定だったんだから……
「いいの、香里? 私と祐一が2人っきりになるっていう事は、香里も北川君と2人っきりになれるって事なんだよ?」
「実は今日、あたしも丁度名雪の家に遊びに行きたいと思ってたのよ」
「うん。香里のそういう分かりやすいところ私大好きだよ」
「名雪に言われるほどじゃないと思うけど」
「とにかく、今日は今までにない絶好のチャンスだよ! 今回でなんとしても2人とも結ばれてハッピーエンドでこのお話に幕を下ろすよっ!」
「ええ、頑張りましょうねっ!」
「香里……思えば、今まで香里には散々苦労をかけたよね……」
「いいのよ、名雪……それも今となっては全て良い思い出だから……」
「…………香里…………私、香里が親友でいてくれて本当に良かったよ……」
「あたしも同じ気持ちよ、名雪……」
「2人の恋が実っても……これからもずっとずっと友達でいようね…」
「もちろんよ…」
「香里っ!」
「名雪っ!」
なんとなく、最終回っぽい雰囲気に流されてそのまま感極まって抱き合うあたしたち。
「お前ら…何をやってるんだ?」
気がつけば前を歩いている二人が不信そうな視線をこちらに向けていた。
下校途中、ふと振り向いてみればなぜか熱い友情劇を演じながら抱き合う女2人……端から見ればかなりシュールな状況そうだった。
今の状況って北川君から見て、いったいどういう光景に見えてるのかしら……
「畜生、相沢……俺たちより、美坂たちの方が面白いぞ」
「ああ……俺たちももっと精進しないとな」
「…………」
……なぜか対抗意識を燃やされていた…………
 
 
 
 

そんな訳の分からないやりとりがありながらも、あたしたちは水瀬家へとやってきた。
あたしは僅かに感慨深いものをかみしめながら水瀬家を見上げる。
ここで……今夜あたしは北川君と結ばれる事になるんだろうか…………
「…………」
正直、とてもそんな展開になるなんて事はありえない気がした。
「ふふ……今夜ここで私は祐一と…………うふふふふ…………」
「…………」
一方名雪は、そんな展開になる事を信じて疑っていないようだった。
そんな名雪の短絡思考を一方では羨ましいと思いつつも、人としてあたしはああはなるまいと密かに心に誓った。

後ろであたしたちがそんなことをしている間に、相沢君が率先してドアを開いて中に入る。
……って、あれ?
秋子さんがいないはずなのに、今、鍵を使わないでドアをあけなかった…?
あたしがそんな相沢君の行為に違和感を覚えていると、相沢君が無人のはずの中へむかって挨拶を告げる。
「ただいま」
「おっかえりぃ〜」
そして、そんな相沢君の呼びかけに元気な声で答えながら、勢いよくリビングのドアを開けて1人の少女が姿を表した。
年はあたしたちよりも1つか2つぐらい下だろうけど、どこかその言動が幼くも感じられるタイプの可愛らしい女の子だった。
でも…………これってどういう事かしら……?
今日は、あたしたち以外にこの家に人はいないんじゃなかったの……?
あたしがそんな疑問をふくんだ視線で名雪の方を見ると、当の名雪は呆然とした様子でその少女の方を見つめていた。
「名雪? どうかしたのか?」
そんな名雪の様子に気づいた相沢君がそう尋ねると、名雪が困ったように眉をひそめながら言った。
「この娘……誰?」
「あぅーっ、なんだか知らないけどいきなり酷い事言われてるぅ〜っ!」
名雪の今の一言に、鳴き声のようなものをあげながら、本気でショックを受けた様子のその女の子。
「お前なぁ…………さんざん一緒に暮らしてる真琴に向かって、今更『誰?』はないだろ……」
「……え? ……真琴…………?」
「そうだぞ」
「まだいたの?」
「あぅーっ!? なんでか分からないけどますます酷い事言われてるぅ〜〜〜!」
名雪の追い討ちに、本気で泣きそうになってる様子の真琴と呼ばれた子。
「あぅ…………真琴って本当はここにいたら駄目な子だったの……?」
「名雪……いくら冗談でも、一緒に暮らす家族に向かってさすがにそれは酷いだろう……」
名雪の今の台詞を冗談だと受け取った相沢君が、落ち込む真琴と呼ばれた子をフォローするためか軽く名雪をたしなめる。
「うん、ごめんね…………確かに今のは私が悪かったよ」
さすがに相沢君に言われたためか、非を認めて素直に謝る名雪。
「あぅ…………名雪…………」
「ちょっと冗談がすぎたけど……でも、私だって本当の家族みたいに思ってるから」
「あぅ……それ、ホント……?」
「うん、もちろんだよ。だからこれからもよろしくね……沢渡さん
「あぅーーーっ!! 本当の家族とか言いながら呼び方が思いっきり他人行儀ぃっ!!」
回復しかかったところにカウンターをくらって、いよいよ回復不能に撃沈する沢渡さんとやら。
「さ、香里も北川君もそんな所に立ってないで。早くあがってよ」
そんな落ち込む沢渡さんをきっぱりと無視して、さっさと靴を脱ぎあたしたちに先を促す名雪…………
…………鬼か、あんたは…………
 
 
 
 
 
 

結局、ショックのためかなにかブツブツ言っていた沢渡さんの横を多少後ろ髪引かれる思いで通り過ぎながら、そのまま名雪の部屋へとやってきた。
「う〜、迂闊だったよ。まさか真琴がいたなんて……」
部屋について扉を閉めた早々、名雪が悔しそうに言った。
「……あの沢渡さんって、どんな子なの?」
「この間、記憶喪失のところを祐一に拾われてそのまま家に住み着く事になった子なんだけど……真琴がいるのすっかり忘れてたよ……」
「この間って……どれくらい前?」
「えっと……もう4ヶ月になるかな」
「4ヶ月も一緒に暮らしてて忘れるんじゃないわよっ!」
名雪の脳みそって、相沢君以外の事象が入るスペースってさぞ極小に出来てるんでしょうね……
「だって、今までに1回も出てこなかったからてっきりもう消えたのかと思ってたよ」
「……なんの話よ……」
「ううん、とりあえずなんでもないよ」
「…………それにしても、沢渡さんがいるんじゃ今日の計画は諦めるしかないわね」
あたしが若干気の抜けたようにそう言いながらベッドに腰掛けると、今度は名雪が燃え上がったように席を立つ。
「甘いよ、香里っ。これぐらいで諦める私じゃないよっ!」
「…………そうは言うけど…………既に2人きりどころか5人もこの家にいるのよ? いくらなんでもこの状態じゃあ……」
「手はあるよ」
「どんな?」
「いい? 今日はお母さんがいない…っていう事は、必然的に夕食は私が作る事になると思うんだよ」
「うん……それで?」
「つまり、この時ならいくらでも一服盛る事が出来るって事だよ」
「い、一服って…………」
「大丈夫。急な事だったからね、盛るっていってもせいぜいハルシオンぐらいしかないよ」
「…というか、どうしてあなたがそんな強力な睡眠薬を持ってるのか疑問なんだけど……」
およそ、名雪に睡眠薬が必要とは思えないし……
「聞きたい…?(ニヤソ)」
「ごめんなさい。やっぱりいいわ……」
馬鹿ね、私も……そんなの聞くまでもなく、まさにこういう時の為に用意してあったに決まってるじゃないの……
「これを祐一と北川君と真琴の3人分の食事に混ぜれば、あとは私たちの思うがままだよっ」
「相沢君と北川君の分にも? 沢渡さんの分だけじゃないの…?」
「そんなの当たり前だよ」
「でも、2人とも眠らせちゃったら……その後はどうするの?」
「そんなの、眠ってるうちに行為を済ますに決まってるよ」
「ぶっ…! こっ、行為って…………まさか…!?」
「もちろん、愛の契りだよ」
「あ、あんたねぇ……!」
「それでね、翌朝目を覚ました祐一の隣で、満面の笑みを浮かべつつもちょっと心配そうな様子を含みながらこう言うの。
『…大丈夫だったのかな、中で出したりして……』って。これでもう責任の名の元に絶対に逃げられないよっ!!」
「名雪……いくらなんでもそれはまずいでしょう…………人として…………」
「大丈夫! 既成事実さえ作れば、愛は後からいくらでもついてくるよっ!!」
「……そんな事ないと思うわよ……それに、そんな事したってそこに相手の意思が伴わない訳だから、そういうのってなんか虚しいし…………」
「だったら、香里はいいの? 北川君とラブラブでウッハウハになれる最後のチャンスかも知れないよ?」
「(ぴくんっ)北川君とラブラブでウッハウハ……?」
「そうだよ。北川君とアツアツな休み時間を過ごして、昼休みにはイチャイチャして、放課後はラブラブに燃え上がるなんて夢のような学園生活を送る事も可能なんだよ」
「……名雪」
「うん?」
「愛にも後付けはあるわよね」
「うん。香里ならそう言ってくれると思ったよ」
「…一応誉め言葉にとっておくわよ、それ」
「さっ、そうと決まれば早速料理を作りにいこうよ。せっかくだから祐一にはうんと美味しい物を食べてもらいたいし」
「そうね…」
その点に関しては同感だわ。
あたしにとってもこれは北川君に手料理を食べてもらう絶好のチャンスだもの……気合入れて作らないと。
もっとも……それがどんなに美味しく出来ても、薬物入りっていうのが悲しいけど……
 
 
 
 
 
 

その後、着替えと軽い打ち合わせを済ました後、部屋を出てキッチンへと向かう。
その途中、階段を下りているときになにか香ばしい匂いが漂ってきた。
「わ、いい匂い……」
「ホントね……」
あたしたちは、まるでその食欲をそそる匂いにつられるように、その発生源へとむかう。
そう、奇しくもその匂いの発生源とあたしたちの目的地は同じだったから……
「わ……」
キッチンに入った途端、再び名雪がどうみても驚いてないんだけど驚いたような声をあげる。
「祐一たちが料理を作ってる…」
そう、キッチンの奥では既に北川君たちが料理を作っている真っ最中だった。
「祐一が…………料理を作ってるよぉ…………」
「ええ、困ったわね…………」
どういう風の吹き回しか知らないけど…………まさか北川君たちが晩御飯を用意するなんて予想外だったわ。
そうと分かってるんだったらもっと早くきて料理するべきだったと後悔しても後の祭りだわ。
「…………それにしても…………」
相沢君はともかく、北川君は随分手馴れてるわね……
作ってるものも割と本格的っぽいし…………もしかして、最初から晩御飯はあの2人が作る予定だったのかしら?
「でも、どうする? これじゃあ計画が…………」
そう言いながらあたしが横の名雪の方を向いた時、なぜか名雪はこの事態に対して呆然としているというよりは、恍惚とした表情をしていた。
「…………名雪?」
「香里…………祐一が料理を作ってくれてるよぉ…………」
「ええ、そうね……だから計画が狂って困った事になって……」
「困る事なんてないよっ!! 祐一が料理を作ってくれてるんだよ!!」
「(びくっ)え…? あ……そ、そうね…………」
なぜか唐突に怒りはじめた名雪にけおされ、とりあえず同意してしまう。
「祐一はね…………私に晩御飯を作る手間をかけさせまいとして、それで慣れない手つきで料理に挑んでるに違いないんだよぉっ!」
「…………は、はぁ…………」
なんていうか…………色々と突っ込みたい事は山ほどあったけれど、どうせ言っても無駄なので素直に頷いておく事にした。
「そんな祐一の作ってくれた料理は、お塩の量を間違えていて味はいまいちだったりするんだけど、その分愛という名の調味料をたっぷり込められていて私には最高の料理なんだよぉ!」
「………………」
「私もそんな祐一の愛にお返しをしなくちゃいけなくて……だから私は食後に、中国四千年の伝統料理『女体盛り』をしながら『デザートには私をた・べ・て(はあと)』って……」
「…………女体盛りは中国の伝統料理じゃないわよ」
あたしは聞こえていないと分かっていても一応突っ込みをいれた後、視線を再びキッチンの奥へと向けた。
名雪の暴走をとめるよりは、1人で事態を改善する方法を考えた方がはるかに早いだろうから。
「それにしても…………」
慣れない手つきの相沢君とは対照的に、北川君の方は随分手馴れてるわね……
こういうのよく家でやってるのかしら?
料理を作る表情もなんだか楽しそうだし……
……きっと……北川君っていい旦那さんになるんでしょうね…………
奥さんが疲れて帰ってきた来たときなんかも、常に暖かい手料理と笑顔で出迎えてくれて…………
くたびれた様子を見とって、さりげなく気遣った台詞なんかもかけてくれて……
それで……あたしはそんな何気ない言葉で、その日の疲れが嘘のように癒されて……
それでもって…………『先にごはんにするか? それともお風呂?』なんてお約束な台詞をきかれて……
だから、あたしも『それはもちろん、あ・な・たっ(はあと)』なんて答えちゃったりして……!!

「それで…………そのまま玄関でする事になっちゃりして……あたしは口では『駄目よ、こんなところでなんて……』とか言うんだけど、身体の方は全然抵抗とかしてなくて…………!!」
「…………」
「……でもって、いつのまにかあたしは自分から積極的に…………はっ!?
あたしがついつい思考をとばし気味になってしまっていると、不意に何者かの視線を感じて顔を向ける。
「あ、あぅ……」
そこには、キッチンの奥から料理を運んできたらしい沢渡さんが、トリップ状態のあたしたちを明らかに『見てはいけないものを見る目』で見ていた…………
「…………」
「…………」
一瞬、時が止まる。
「あ……あのね、違うのよ……沢渡さん……これは……」
「あぅ……」
あたしがなんとか弁明しようと一歩踏み出すと、それに合わせるように一歩あとずさる沢渡さん。
「お願い、落ち着いて話を……」
「あぅ……」
更に一歩詰め寄ると、またも一歩分下がる沢渡さん。
「…………話せば分かるから…………ね?」
「………………」
そのまま一歩ずつ距離をつめていくあたしと、その距離を保つように無言でじりじりと後ずさる沢渡さん。
…なんとなく、殺人現場を目撃されて始末しようとする犯人になったみたいでちょっと悲しかった…………
「あっ……!?」
しかし、狭い家の中なので後ろに下がるといってもすぐに限界が来る。
後ろを障害物に阻まれて退路を断たれた沢渡さんが驚きの声をあげる。
「あのね、沢渡さん……お願いだからあたしの話を…………」
ここぞとばかりに、あたしが手を伸ばしたその時だった。
「あぅ〜〜〜っ!!」
唐突に鳴き声をあげる沢渡さん。
その声にあたしがびっくりして一瞬動きを止めると、その隙にあたしの横を通り抜けながら脱兎の如くキッチンの奥へと駆け込んでいった。

「あぅーっ! 祐一ぃーっ!」
野菜を切っていたところをいきなり沢渡さんに抱きつかれて、相沢君が驚きの声をあげる。
「うぉ!? 真琴、いきなり抱きついてくるなっ! あぶないだろっ!」
「あ、あのねっ、名雪ともう1人のおばさんくさい女がおかしいの!」
そんな相沢君の言う事なんて聞こえてない様子で一気にまくしたてる沢渡さん……って、おばさんくさい女って誰の事よ…!!
「おかしいって…なにがどうしたんだ?」
「だから、2人して何にもないところを見ながらにやにや笑ってたり、ぶつぶつなにか言ったりしながら身体をくねらせたりしてたのよぅ!
黙って見てたら不気味で危ない感じがして凄く怖かったんだから!!」
うぅ……確かに事実かもしれないけど、なにも北川君がいる前でそこまで言わなくてたって……
このままじゃ、あたしの貞淑でおごそかなイメージが誤解されて……!
「ああ、気にするな。よくあることだから
ガビーソ!!
ふ、普通に受け入れられてる!?
「え…そうなの?」
「ああ、そうだぞ。なぁ、北川?」
「そうだな。あの2人にとってはもう癖みたいなもんだよな
ガガガビーソ!!
き、北川君にまで!? しかも日常の範疇的に!!?

「…………真琴…………」
あたしがショックで意識がとびそうになっていると、いつの間にやら復活したらしい名雪が凄い形相でキッチンの奥を凝視していた。
「私の悪口をでっち上げたあげく、それを利用してまんまと私の祐一に抱きつくなんて……いい度胸してるよ」
そう呟く名雪の後ろに、青白い炎が見えたような気がした……
「人に害を及ぼす女狐は、早いうちに排除するべきだよね……」
そうしていつの間に出したのか、その右手に七夜と書かれた小刀を持ちながら奥へと向かっていく…………
「って、名雪! 早まっちゃ駄目よ!」
あたしは慌てて名雪を後ろから羽交い絞める。
「離してよ、香里! ああいう狡猾な女狐はその存在自体を殺す必要があるんだよ!」
「別にあの子は嘘をついたりした訳じゃなくて、単に事実を報告しただけでしょ!」
「それでも祐一に抱きついただけで十分万死に値する行為だよっ!」
どうやら悪口云々よりも、名雪にとってはそっちの方がはるかに重大問題らしい。
「それに、香里だっておばさんくさいとか言われたんだよ?」
「う……」
「あの子さえいなければこの家には私たちだけになるんだよ? 計画がうまくいってウッハウハだよ?」
「うぅ……」
そんな名雪の言葉に惑わされて、あたしがついその力を緩めそうになった時だった。
「なにやってるんだ? お前ら……」
「あ、祐一ぃ」
さっきまでの形相どこへやら、相沢君が来た途端、大魔人の如く表情をころっと変える名雪。
「ん? なんで香里が名雪を後ろから押さえつけてるんだ?」
「え、あ、これは……」
慌てて名雪から身体を離しながらどう説明しようかと考えていると、先に名雪の方がフォローをいれてくれた。
「なんでもないよ。ちょっと香里がわたしに襲い掛かってきただけだから」
「そ、そうなのよ! ついむらむらときたあたしが思わず名雪に…………」
……って、フォローになってないぃーーー!?
「そうか……ま、そんな事だろうと思ったけどな」
思ってたの!!?
「もう晩飯も出来るから、香里もその辺にして、2人とも席に座っててくれな」
そう言いながら料理の盛ったお皿をテーブルに置くと、また奥へと引き返していく相沢君。
そんな相沢君の後姿が完全に奥へと消えたのを見計らってから、名雪がほっとしたように呟いた。
「よかったね、うまく誤魔化せて」
「ぜんっぜん良くないわよ!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

その後は、結局何事もないまま晩御飯の支度が完了し、皆で食事を頂いた。
2人が作ってくれた晩御飯は文句なく美味しかった。
名雪が沢渡さんを睨み続けてその視線に沢渡さんが訳も分からず怯えていたり、名雪が相沢君の作った料理を外国人ばりのオーバーリアクションで美味しさを表現してたり、名雪が睡眠薬を投入する隙を虎視眈々と狙っていて、そのせいで妙に緊張感溢れる食卓になったりと……
全て名雪が原因でこまごまと妙な事はあったけれど、それでも概ね平和に夕食は終わった。
そう、平和に終わったのは確かにいい事なんだけど……
それはつまり、あたしたちが睡眠薬を仕込むのに失敗したという事もあらわしてるわけで…………

「それでどうするわけ? これから……」
夕食の片付けの後名雪の部屋に戻ってきたあたしたちは、最初と同じように座りながら再び作戦を練り直す事になった。
「睡眠薬が駄目になった以上…………今日は諦める?」
あたしが打診するように名雪に尋ねて見ると、名雪はむきになってそれを否定した。
「そんなの駄目だよ! 諦めたらそこで試合終了だよっ! 安西先生に対して失礼だよ!」
まぁ、そういうんじゃないかとは思ってたけど…………というか、安西先生って誰?
「そもそも睡眠薬を使おうなんていうのが人として間違ってたんだよ! やっぱり愛は真っ向からいかないとっ!」
「……名雪が最初に使うって言い出したんでしょうが……」
「あれは若さゆえの過ちだよ」
たった小一時間前の事を若さと言って誤魔化すかこの娘は……
「でも……だったらどうするのよ? 睡眠薬が使えなくなった以上、他になにか作戦でもあるの?」
「こうなったら小手先の作戦なんていらないよっ!」
「え…? っていう事は…………」
「そうっ、正々堂々と夜這いするよ!」
夜這いっていう行為そのものが既に、正々堂々とはかけ離れた行為のような気もするけど…………
でも、とうとう直接的な手段にうったえるのね…………
「でも……夜這いするって言っても、北川君はどうするのよ? 相沢君と同じ部屋にいるんでしょ?」
「……香里。何のために香里をよんだか覚えてる?」
「え……?」
「北川君は、香里にひきつけておいてもらうよ」
「え、えぇ!?」
「まず香里が北川君を呼び出して。私はその隙に祐一の部屋に忍び込むから」
「ちょ、ちょっと待ってよ! いきなりそんなこと言われても困るわよ!」
「どうして?」」
「だって、急にそんなこと言われても心の準備とかあるし……それに、呼び出すにしてもいったいなんて名目で呼び出せばいいか……」
「その事なら大丈夫。ちゃんと私が考えてあるよ」
「……名雪が?」
「…なんでそこで思いっきり不安そうな顔をするの…?」
「だって…これまで名雪がそういう事を考えて上手くいったためしがないじゃない」
「今度は大丈夫だよ。本当ならわたしが使おって思ってたぐらいの自信作だから」
「その自信作っていうところがますます不安なんだけど……」
「そんな事ないよ。これさえ実行すれば香里も北川君と結ばれて、学校2のバカップルになること間違い無しだよ」
「ふうん……そこまで言うなら一応聞かせてもらおうかしら……」
「うん。まずはね、香里をあと一週間と持たない重病人って事にするんだよ」
「…………」
いきなりろくでもない設定だった。
「それでね、最後の力を振り絞って北川君に息も絶え絶えにその事を打ち明けた後、潤んだ瞳をしながら上目遣いでこう言うの。
『抱いて……最後の思い出にあたしを…………壊れるまで抱いてっ!!』って。これでもう、無条件に北川君が香里に手を出す事間違い無しだよ!」
「……………」
「どうかな、この作戦? 気に入ってもらえた?」
「却下」
「わ、一秒……」
「当たり前じゃない! そんな嘘をついて後で病気じゃなかったって分かったときにどうするのよ!」
「そこらへんは『2人の愛が奇跡を起こして病気が治った』とかドラマみたいで素敵な事を言えばそれでおっけーだよ」
「いいわけないでしょっ!」
「いい作戦だと思ったのに……」
「だいたいにして設定が栞と被ってるじゃないの、それ…」
「うん。だから私も今まで使わないでいたんだよ」
「それをあたしに押し付けるわけ…?」
「だって、香里なら一応栞ちゃんと姉妹みたいなものだからいいかなぁって」
……『一応』でも『みたい』でもなく、正真正銘の姉妹なんだけど……
「……とにかく、あたしはそんな作戦に従って北川君に嘘をつくようなまねしたくないわ」
「それじゃあこの作戦は本当にいいの?」
「ええ。そんな風に北川君を騙すぐらいだったら、普通に告白でもした方がましだもの」
「えっ!? 香里、とうとう告白するんだ!!」
「は……?」
「そっか……香里もとうとう北川君に想いを打ち明けるときが来たんだね…………」
「あ、ち、違うのよ名雪! 今のは例えばの話で、別に今すぐ告白するとかいう話じゃ……」
「頑張ってね、香里! 香里の告白が上手くいくように私も心から応援してるからねっ!」
「いや、だからあたしはまだ告白するだなんて……」
「こっちの部屋は自由に使っていいからねっ。ううん、私と香里の仲だもん。今さら遠慮なんてしなくていいからね」
「だからそうじゃなくて、人の話を…………」
「あ、私の事は心配しなくていいよ。私は私で祐一の部屋で初めての夜を熱く過ごすから…」
「…………」
あたしが必死に弁明するも、既に盛り上がった様子の名雪は綺麗さっぱりく聞いてない様子で話を勝手に前に進めていた。
「あ、そうだ。たぶん香里は持ってないでしょ? だから特別に1つ分けてあげるね、『コンドー君』」
そう言ってあたしの掌にのせられた、なにやら平べったい、恐らくは中にゴム状の物質を内在させているであろう物体……
「………………」
「ふぁいと、だよっ」
「ふぁいと、だよ…………じゃなぁいっ!」
あたしはそれを一息に握りつぶすと、そのまま思い切り床に叩きつける。
「わっ、祐一がこの町に帰ってきて以来ずっとお財布の中に仕舞ってあった思い出のあるコンドー君1号が……!」
「やかましいっ!」
「酷いよ、香里……せっかく香里のためを思って特別にわけてあげたのに……」
「その気持ちはありがたいんだけどねぇ…だからってそんなもの渡されてもこっちだって困るのよ!」
「そっか……香里はいきなり子作りねらいでいく作戦なんだね」
「そういう事を言ってるんじゃなくて! そもそも、あたしは今日は告白する気はなんてないの」
「えっ? どうして?」
そのあたしの台詞がよっぽど以外だったのか、やけに驚いた様子であたしの方を見てくる。
「どうしてって……最初からそう言ってたじゃないの」
「…………」
あたしのその台詞を聞いた名雪が、急にその表情を曇らせる。
「な、なによその表情は…………」
「あのね、香里。そうやって想いを伝えるのを先送りにしてるとね……気がついた時には手の届かない所にいっちゃう事もあるんだよ」
「……え?」
唐突にそんな事を言い出した名雪は、これまでとは違ってどこかしんみりした様子だった。
「7年前の私もそうだったよ…………」
「……名雪……」
「あの頃は、祐一と毎年アツアツでラブラブな冬をエンジョイして、いつしか2人は許婚の仲になるっていう事を疑いもしなかったよ……」
「ちょっとは疑いなさいよそんな展開」
「でもね……横からあのたい焼きうぐぅ娘がしゃしゃり出てきたせいで、私と祐一の愛のウインターメモリー計画が台無しになったんだよ! あんな幼児体型の食逃げ娘のせいで……!!」
「…………」
その名雪の言ううぐぅ娘っていうのがどんな子か分からないけど、あまり女としては負けたくない部類に入る人みたいね……
「それからだよ…………私が祐一への愛の為に躊躇いって事を忘れたのは」
つまり……今のまっしぐらな名雪を作って毎回毎回あたしを大変な目に合わせてるのは、その『うぐぅ娘』って呼ばれる子が根底での原因なのね…………
あたしは名前も顔も知らない『うぐぅ娘』にちょっとだけ殺意を覚える。
「だからね……香里には私と同じ失敗をして、私みたいになってほしくないんだよ…………」
「ええ。私も名雪みたいにだけは絶対になりたくないわ
「……そうまではっきり言われるとさすがに複雑なんだけど…………」
「気にしないで。あたしの本心だから」
「……そうは言うけどね、香里。前から思ってたんだけど最近の香里の言動って、だいぶ私に似てきたと思うよ

ガガガガガガガビーーーソッ!!!

香里ちん、大ショック!!
でも、そう言われると確かに心当たりが……さっきの沢渡さんの一件といい……
「……分かったわ、名雪! あたし、北川君に告白するっ!!」
「うん、それはよかったけど…………でも、随分とあっさり決心出来たね?」
「それもすべて名雪のおかげよ。あなたのおかげで、ようやくあたしが人として取り返しがつかないギリギリのところまで来てるんだって自覚出来たんだから…」
「その言い方だと……まるで私がもう人として取り返しがつかないみたいに聞こえるんだけど……」
「…………」
「…………」
「さてと……それじゃあ決意が鈍らないうちに行ってくるわね」
「うー、否定するなりフォローするなりしてよぉ…!」
「それじゃあ名雪、行ってくるわね」
「うー……!」
 
 

なおも不満そうな声をあげる名雪をおいて、あたしはさっさと廊下へと逃れた………と…………
「あ、美坂…」
廊下に出た瞬間に突然かけられた、まさにこれからあたしが向かおうとしていた人の声。
「き、北川君…!?」
タイミングが良いのか悪いのか…………同じようにたった今部屋から出てきたらしい北川君といきなり鉢合わせてしまったらしい。
呼び出す手間が省けたからありがたといとえばありがたいんだけど…………
でもこんなにいきなりな展開だとさすがに心の準備が…………って、あれ……?
「あの……北川君? 1つ聞いていい……?」
「ん、どうした?」
「その……今北川君が出てきた部屋って……そこって確か沢渡さんの部屋だったわよね…………?」
そう、あたしの記憶が確かなら相沢君の部屋はこっちだから、今北川君が出てきた部屋は沢渡さんの部屋のはず……
でも、北川君が沢渡さんに用事があるとはあんまり思えないし…あたしの記憶違いかしら?
あたしがそんな風に考えていると……
「あ、ああ……そうだけど……」
北川君がどこか歯切れの悪い様子で、それでもあたしの記憶が合っていたことを認めた。
「………………」
その返事を聞いて、あたしの中には当然の疑問が浮かんでくる。
いったい、北川君は沢渡さんの部屋になんの用事があったのか……?
そして……どうして北川君は今口篭もった様子だったのか……
口篭もるって事は、つまりはそれに後ろめたい事があるっていう事の表れ…………?
あたしの中で聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが葛藤をはじめる……けど、やはり興味と好奇心には勝てないらしい。
「……沢渡さんに…なにか用事でもあったの?」
聞く事を心のどこかでは怖いと思いながらも、ついそれを口にしてしまう。
「ん……いや、まぁ…………沢渡さんに用があったっていうかな……」
それに対して、北川君の返答はどうも芳しくない。
本来ならこれ以上詮索するのはよくない事なんでしょうけど…………でも、今のあたしはもはや、はっきりした返答を聞かずに済ませられる状況じゃなかった。
そんな風にあたしが絶対に引く気がないって事が分かったのか、諦めたように小さく首を振った後、観念したように口を開いた。
「俺な…………今日はここで寝るんだ」

「…………………エ?」

…………イマ……ナンテ言ッタノ……?
今日ハココデ寝ル?
沢渡サンノ部屋デ? 北川君ガ? 沢渡サント一緒ニ……!!?

「えええええぇぇぇぇぇぇぇ!!!?」

深夜の水瀬家に、あたしのヒステリックな絶叫が響き渡った。
「み、美坂!? どうしたんだ、急に!?」
「ど、ど、どうしたじゃないわよっ! どういう事よそれっ!! どうして北川君が沢渡さんと寝るのよ!!」
「美坂! 誤解だ! 一回落ち着いて俺の話を……」
「見損なったわ北川君! まさか北川君が今日あったばかりの娘に手をだすような、そんな軽薄な人だったなんて……!!」
「だからそうじゃないんだ! とにかく俺の話も……!!」
「だったら…………だったらどうして、もっと前にあたしに手をださなかったのよ!!
「……は?」
「北川君にそんな甲斐性があると知ってれば、あたしだってもっと色々と別の手段があったのに…………」
「…………美坂…………お前が何を言ってるのかはよく分からんが…………とりあえず俺は沢渡さんに手を出したりはしてないぞ」
「今さらそんな事なんて聞きたくないわよっ! 沢渡さんに手を出したりしてないなん………………え?」
「だから……俺は沢渡さんの部屋で寝るとは言ったけど、沢渡さんと寝るなんて一言も言ってないぞ」
「え……? え? え? そんな…………それじゃあ沢渡さんは……?」
あたしが呆然とした表情のままで北川君を見ると、北川君はやれやれといった感じでため息をついた。
「本当は口止めされてたんだけど…………この状況じゃ説明しないわけにもいかないよな」
そんな事を独り言のように呟くと、今度はあたしの方を向いて諭すような優しい口調で言った。
「沢渡さんはな、今は相沢のところで寝てるよ」
「……相沢君のところで……?」
「ああ」
オウム返しにそう尋ね返すあたしに、北川君が首を大きく動かして頷いてみせた。
「俺と相沢が談笑してるところにいきなり沢渡さんが飛び込んできてな……そのまま相沢としばらく言い争ったかと思ったら勝手に布団に潜り込んで、そのまま寝むりこんだんだ」
「そんな事が……」
「ああ。ま、相沢はいつもの事みたいな様子だったから、あの2人の間ではたぶんよくある事なんだろうけど……」
そっか…………そう言えば沢渡さんって記憶喪失って言ってたし、そのせいか言動が見た目よりずっと子供っぽいところがあったし……
相沢君も家族だって言ってたから、あるいはホントに兄妹みたいな付き合いなのかもしれないわね……あの2人…………
「それでも世間体とかがあるからって一応相沢からは口止めされてたんでな……それで本当は美坂達にも内緒にしておこうと思ってたんだけど……」
「…………そうだったの…………ごめんなさい」
我ながら……早とちりとはいえ、みっともなく取り乱しちゃったものね…………
思わずあんな事まで口走っちゃったし…………
…………………………
……って……今思えばあたしの口走った事って、物凄くとんでもない事だったんじゃない……?
「いや、それはいいんだけど…………」
北川君が声のトーン落としながらそこで言葉を区切ると、再び声の調子を戻しながら言った。
「それよりも……美坂がさっき言った事なんだけど…………」
「ぅ…………」
「あの『どうしてあたしに手をださなかったの』っていう台詞…………あれを聞いて俺、もしかしたらって思ったんだけど…………」
や、やっぱりさっきのであたしの気持ちに気づいてる……!?
それは確かに……あの態度であそこまで言って気づかない方がおかしいとは思うけど……でも、超が5つついてもまだ足りないぐらい鈍感な北川君の事だからあるいはって思ってたのに……
「今までずっと気づかなかったんだけど…………美坂って…………」
もう……確実に気づかれてるみたいね…………あたしの長い間秘めてきた想いに……
……ううん、それならそれでいいわ……どうせ今夜告白するつもりだったんだし、むしろ好都合よ……!
あとはそのまま正式に、あたしのありったけの想いを打ち明けるだけだわ……!
「あ…あのね、北川君……!」
あたしがそう決意して、いざその一言目を言い出そうとした時だった。
北川君がなんの悪びれた様子もなく、率直な感想を述べるようにさらりと言った。
「美坂って…………最近の言動、水瀬さんに似てきたよな
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「あれ? おかえり、香里……もう戻ってきたの……?」
「………………」
「わ、すごい顔してる……もしかして、北川君となにかあったとか…………?」
…………いいえ………………とりあえず関係は現状維持ってところかしらね…………
「そうなんだ……その割になんだか声に生気がないように聞こえるけど…………」
「………………」
「でもさ、現状維持って事は結局告白しなかったって事だよね」
「……………………」
「もったいないよ、香里。今日ってせっかくのチャンスだったのに……」
「…………誰の…………」
「え?」
「誰のせいだと思ってんのよぉーーーっ!!」
「えぇ〜!? な、なんで私に怒ってるのぉ〜!?」
「名雪ぃ〜〜〜!!」
「わっ、私に八つ当たりされても困るんだよぉ〜!」
「待ちなさいぃーっ!!」
「うー、なんで私が追いかけられなくちゃいけないの……すごい理不尽だよー、横暴だよー」
結局…………こんなやり取りの追いかけっこは2人が力尽きるまで続いた…………
その結果、当然の如く一度眠った名雪は起きることが出来ずに、今回の名雪の計画も失敗に終わった……

「酷いよ、香里! 私になんの恨みがあるのっ!」
「あたしの人生、返してよっ!!」
 
 




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