“とどけたい思い”

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 どうして、わたしは忘れていたのだろう。
 こんなに、こんなに大切なことだったのに。
 忘れていなければ、わたしは――
 
 
 
 
 
 

 ――なにかを変えられたかもしれないのに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

           “とどけたい思い”
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 直射日光に目を焼かれて、わたしは軽く顔をしかめた。
 太陽から眼をそらして、立ち止まっていたわたしはまた歩き出す。
 交差点の真ん中。歩行者用の信号は青色が点滅している。慌てて私は横断歩道を駆け抜けた。
 街は、あわただしさに満ちていて、その流れは、全てをゆっくりと、けど確かに押し流していく。
 留まりたい、とわたしは願う。
 流されてゆきたい、とわたしは思う。
 だけど、わたしはどちらもできずにふらふらしている。
 そんな、感じ。
 
 
 
 
 

 ――きぃ

 軋むような音がして、視界が揺れる。
 前に、後に。

 ――きぃ

 何もない。
 全てがキライ。
 はずれた自分。
 「普通」じゃない子供。
 他の人の、わたしを見る眼。

 ――きぃ

 言葉にできないことへのもどかしさ。
 伝えたいことはたくさんあるのに、
 その術をもたない。

 ――きぃ・・・

 重力に引かれて、ぶらんこがとまる。
 いつもまにかついた、下を見るクセ。
 地面に、影が動いた。
 

「なにやってんだ?こんなとこで」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 いつも、何かが足りない。
 そんな日常の中をわたしは生きている。
 いるべきはずの人がいない。
 いて欲しい人がいない。
 光が満ちたこの世界にも、そのことはわたしの心に影を落としている。
 駅に入って、わたしは切符を買う。目的地は――昔住んでいた、わたしの生まれた街。
 切符を見て、一つ笑う。ぽん、と抱えたスケッチブックを叩いた。
 改札を通って、滑りこんできた電車に乗る。田舎へ向かう電車にそれほど人はいない。
 シートに腰を下ろして、わたしはスケッチブックをめくった。
 様々な文字がそこにある。どれも、わたしは憶えている。
 めくった拍子に一枚の切れ端が落ちた。わたしはそれを拾いあげる。
 ちくり、と胸が痛む。

『約束守れなくて、ごめんな』

 ごめんなさい。
 ずっと、ずっと忘れていて。
 あなたは、なにも気に病むことはないんです。
 忘れていたのは――私の方。
 もしも、わたしが憶えていたら、ひょっとして、何かを変えられたのかもしれない。
 そんな後悔が、わたしを苛む。
 そんなことは、意味のないことなのかもしれない。
 わたしが憶えていた所で、なにも変わらなかったのかもしれない。
 だけど、なにかが変わったのかもしれない。
 
 
 

「貸してやるだけだからな、そのスケッチブック」
 一週間。その男の子はそう言った。
 一週間後に、またここで。
 わたしは、確かに聞いていたのだ。
 どうして、忘れてしまっていたのだろう。
 わかったはずなのに。
 すぐにわかったはずなのに。
 
『澪』

 自分の名前を、たどたどしくわたしは受け取ったスケッチブックに書いた。
 それを見て、わたしに、中から外へ思いを出す方法を教えてくれたその少年は、ちょっと照れくさそうに、わたしに名乗ったのだ。
 

「――ぼくは、浩平。折原、浩平――」
 
 
 
 
 
 
 
 

 なにかを変えられたかもしれない。
 あの人が、消えずにすんだかもしれない。
 だから――わたしは、後悔している。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ぷしゅっ、と空気の抜けるような音がして、電車のドアが開いた。シートを立って、通路に出て、忘れ物がないかもう一度見て、わたしは電車を下りた。
 ホームに出た途端、少しの肌寒さを感じて、わたしはあらかじめ用意してあった薄めの白のカーディガンを羽織った。
 小さな駅は、ほとんど人はいない。改札を通り、駅から出て、わたしは大きく息を吸いこんだ。
 見覚えのある景色は、ほとんど変わらないようで。
 でも、どこか違っていて。
 変わらないはずは、ないんだ。
 誰だって、なんだって、変わっていく。
 それが、時が流れるという事。
 でも、変わりたくないと願うわたしがいる。大好きな人と別れたあの日から。
 あの日のままで、帰ってくるあの人を迎えてあげたい。
 でも、変わっていきたいと思うわたしがいる。
 成長したわたしを、帰ってきたあの人に見せてあげたい。
 目の前に広がる景色を自分の記憶の中のものと照らし合わせて、わたしは歩き出した。
 変わっていないようで、でも変わっていて、
 でもやっぱり変わらない、そんな感じが嬉しかった。
 
 
 

 わたしを待たせてばっかりの、ヒドイ人。
 でも、誰よりも大好きな人。
 ここは、初めて逢った場所。
 わたしは、公園の中に入って、まっすぐにブランコに歩み寄った。手でニ三回払ってから、それに座る。
 きぃ、きぃ、と軋むような音を立てて、ブランコは動く。
 ねえ、あなたはいま、どこにいるんですか?
 会いたいよ。
 そんな思いも、ここからは届かないのでしょうか?
 あ・い・た・い。
 口を動かしても、声は出ない。
 もしも、わたしが思いっきり声をだして、あなたの名前を呼べたなら、あなたをこの世界に繋ぎとめることができたんでしょうか?
 もしも、わたしがあなたの名前を憶えていたら、もしかして違う結果が待っていたのでしょうか?
 もしも、そうだとしたら。
 わたしは、とってもダメな子です。
 
 
 
 

 ――きぃ

 ぶらんこも、泣いているように音を立てる。泣いているように感じるのはわたしのせいかもしれない。
 泣いてしまいたい。
 でも、泣きません。
 あなたが、どこからか見ていてくれるような気がするから。
 一人で泣くのにはもう飽きたから。
 泣くのなら、あなたの前で泣きたいから。

 ――きぃ

 結局ここに何をしに来ているのかといえば、あなたのことを忘れないため。
 わたしがあなたのことを憶えている。
 他の誰が忘れても、わたしだけは憶えている。
 それがきっと、残された糸。
 手繰り寄せることはできないけど、きっと、いつか、それをつたってあなたは帰ってきてくれる。
 約束は、破らないですよね?
 どこかで、見ているんですよね?
 きっと、帰ってきてくれるんですよね?

 ――きぃ・・・

 勢いよく、わたしはぶらんこから下りた。スケッチブックを広げて、ポケットから油性ペンを取り出す。
 真っ白なページに大きく文字を書きとめる。
 センテンスは二つ。
 書いた文字を、空に向ける。
 
 

『絶対、わすれないの』
 
 

 信じたい。
 信じよう。
 
 
 

『ずっと、待ってるの』
 
 
 
 
 
 
 

 思いはきっと、とどくのだと――
 
 
 
 
 

-----
ささやかなコメント by LOTH

同じくNAOYAさんに、KanonSSの300本記念に頂きました。
でも、ONEのSS…
とはいえ、わたし自身もONEのSSを書いていますから、ありがたく頂きました。また内容的にも素晴らしいSSですし…
わたし自身、ONEのSSを書く上で思うのですが、茜以外は浩平がえいえんに行ってしまった後も、何が起こったか知らない。
ただ、みんなが浩平のことを忘れている…自分だけが覚えている。そのことを、どう思うだろうか…
わたし自身、澪を書きかけて、そのあたりを旨く自分の中に沈められずに止めていましたので…ちょっとやられた、って感じでした。
それに、澪らしい想い…最後の、スケッチブックに書かれたフレーズ。
でも、その前の、『信じたい。信じよう。』というフレーズに…ちょっとわたしとしてはやられてしまったことを告白しておきます…
ともかく、素晴らしいSSを頂いてうれしいです。 inserted by FC2 system