『運命を変えてはいけないなんて戯言だ。それじゃあ生きる価値もない』
少女は、全てを見通していた。すべてが、見える。そして、すべての物に触れることが出来た。そう、あたかも自分が神にでもなったかのように。
しかし、それはしてはいけないこと。少女が触れた瞬間から、なにかがズレてしまう。
絶対の不文律。しかし。
少女は見てしまった。大好きな少年が誰にも知られずに涙を流す姿を。
少女は見てしまった。ベッドで眠るように、今、死を迎えようとしている少女を。
手を伸ばそう、と思った。伸ばしてはいけない、と思った。まるで並走する車のような相反する思考。右の車が突き放そうと前にでる。そうはさせじと左の車が抜き返す。
眠る少女の瞳から涙がこぼれた。
その一瞬で、手を伸ばしてはいけない、と思っていた方の車が道路をそれて大破した。粉々に砕けてぐんぐん後に遠ざかっていく。手を伸ばそう、と思っていた方の車は、競争相手のいなくなった道を、滑らかに、悠々と走っていく。遮るもののない道を、もうとめようのない道を。
少女は、手を伸ばした。
それが自分の我侭で、さらに残酷な結果を二人にもたらすと、わかってはいたのに。
たった一つの、自分の、思いあがりから。
あるいは、思いこみ――願望といってもいい――かもしれなかった。
“ONE”
相沢祐一は人を待っていた。
春の風が、もう初夏の色に染まろうかという、そんな季節。休日の公園は、主に親子連れで賑わっていた。ぶらんこを大きく前後に揺らしている子供達、砂場で泥だらけになって遊んでいる子供達。共通点があるとすれば、その誰もが例外なく奇声(としか祐一には聞こえない)声を上げていることだろうか。
祐一は一つため息をついて、ここを待ち合わせの場所にした『彼女』をちょっとだけ恨んだ。子供は嫌いではないが、どーもついて行けない。そう胸中で一人言ちて、もう一度ため息をついた。
そう言えばアイツは公園とか好きだよな、そう祐一は思って、なんということはなく真上を見上げた。
木漏れ日が目に眩しい。祐一は目を細めた。この地上の全てのものに――例えば、うずくまる猫の背中や、打ち捨てられたバケツの底や、泥だらけの水溜りにまでも――公平に、まんべんなく日の光が降り注いでいることを確信できるような、そんな穏やかな日だった。
細めた視界に、影が動く。
「祐一さん」
真上を見ていた顔を下ろして左を向くと、そこにはショートボブの美少女――と言っても差し支えないだろう――がいた。走ってきたのだろう、頬が紅潮している。いつもと逆だな、と祐一は思った。いつもならこうやって待っているのはアイツで走ってくるのは俺のほうなのに。
「早かったんですね」
「ま、たまにはな」
その言葉に『彼女』――美坂 栞――は顔を綻ばせた。
「夢?」
今日、ヘンな夢を見たんです、いきなりそう切り出した栞に祐一は訝しげに聞き返した。
駅前の商店街を歩きながら、とりあえず今日の目的である買い物をしようと二人は歩いている。大きなデパートはこの辺りには一軒だけ。まあ、大学周辺の駅だからそんなものだろうと祐一は思う。大学のキャンパスというのは最近は郊外に建てられることが多いらしいから。
「・・・どんな夢だよ」
さして興味もなかったが話の流れというヤツで祐一は栞にそう聞き返してみた。
「えっと・・・ですね」
栞は頬に立てた人差し指を立てて言葉を紡ぐ。これは何かを考える時の彼女のクセだ。高校時代と、初めって会った頃と変わらない仕草に祐一はなんだか嬉しくなる。何故かは、わからないけど。
「四年前の、冬の夢です」
四年前。忘れもしない、十七の冬。出逢いのキセキと、本当の別れの悲しさを知った季節。
「私は、私自身を見下ろしているんです。体中に管をいっぱいつながれた私自信を。その夢の中では――私は私じゃないんです。私を見下ろしている私は私じゃないんです。何故か、それはわかるんです。
見下ろしている私は、泣いているんです。拭っても拭っても、涙が溢れて止まらないんです。お姉ちゃんや、お父さん、お母さんがベッドに寝ている私の側にいるんです。お母さんは泣き崩れて、お父さんはそんなお母さんの肩を抱いていて、お姉ちゃんは――じっと、寝ている私を見ているんです。私が見たこと無いような、強い、哀しい顔で」
「・・・あんまいい夢じゃねえな」
うめくように言った祐一を見上げて、栞は微笑んだ。
「まだ、続きがあるんですよ。私じゃない私は――なんか、ややこしいですね、ベッドに寝ている私に手を伸ばすんです。――何度も、何度も躊躇いながら。何故か、それをしてはいけないということはわかっているんです。絶対に、してはいけない。どうしてかは、わからないんですけど。でも、私は手を伸ばすんです。その手が、ベッドの私に触れて――」
そこで、栞は言葉を切った。
「・・・触れて?」
「そこで、眼が覚めたんです」
「・・・ヘンな夢」
祐一は頭の後ろで手を組んで思ったことを素直にそのまま口にした。栞は苦笑いして答える。
「ですよね」
祐一が持っている買い物篭に栞は必要なものを放り込んでいく。三回生の祐一と入学したばかりの栞。入学したばかりだが、栞はどちらかというと自分のアパートにいるよりも祐一の部屋にいる方が多いくらいだった。同棲、とまではいかないと祐一は思っている。そう思っているのはたぶん祐一だけだろうが。
コレは本当に二人分なのだろうか?何故かいっぱいになっている籠を見てそう祐一は思ったがあまり考えないことにした。
(なんか栞に作ってもらうと食費が余計にかかってる気がする・・・)
そうは思ったけど気にしないことにする。でもちょっとづつ分量の調整もやってもらおうとは思っている。
それは、きっと、慌てなくてもいいことだと思っている。
残り半分を切ったモラトリアム。こんな風に過ごすのも悪くない。
「買うもの、これでいいか?」
手に持ったリストをチェックしながら栞は答える。
「えーっと・・・はい、これでいいです」
答えながら、栞は祐一の方に顔を向ける。そのとき、ぐにゃっと世界が歪んだ。すぐ近くにあるはずの祐一がやけに遠い。
世界が波打つ。
さっきまでいた食品売り場のざわめきが聞こえない。
平衡感覚がなくなる。自分が今立っているのかもわからない。
あれ?買い物袋持っていたばすなのに・・・
プールで耳に水が詰まった時のような音が聞こえる。唸るような、何処か間延びした音。
呼吸が出来ない。
声が出ない。
床はどっち?
天井はどっち?
(死ぬの・・・かな)
それを最後に、全てが暗闇の中に沈んでいった。
最初に戻ってきたのは触覚だった。額にひんやりしたものを感じる。
波が打ち寄せてくるように、感覚が戻ってくる。
私は、仰向けに寝ている。
ゆっくり、ゆっくり瞳を開く栞のすぐ目の前に祐一の顔があった。
がばっ、と栞は体を起こす。額に乗っていた濡れた祐一のハンカチが膝の上に落ちた。
辺りを見回す。
「・・・病室?」
「大丈夫か?」
栞の呟きに祐一の心配そうな声が重なった。栞は祐一の方に顔を向けて、とりあえず一つ頷いておく。祐一はいろんなものを吐き出すかのように大きく嘆息した。
「あの・・・私・・・」
「倒れたんだよ。いきなり。ったく、心配かけやがって。香里になんて言い訳しようかってまで考えちまったぜ」
無事だとわかって安心したのか、祐一に軽口が戻ってくる。
「・・・ごめんなさい」
ぱちん、と祐一は栞の額をでこぴんで弾いた。
「いたっ!・・・なにするんですか?」
「いちいち謝ってんじゃねーよ。たいしたことなけりゃ、いい」努めて明るく、祐一は言う。「入院はしなくてもいいそうだぞ。あ、でももちっと休んでた方がいいな。ここにいてやるからちょっと目瞑ってろよ」
「え?でも・・・」
「いーから休んでろって」
祐一は栞の額に手を置いた。栞はちょっと恥ずかしそうにはにかんで、でも、嬉しそうに、笑った。
「はい」
目を瞑ると、また、栞は夢を見た。
そっちへ行っちゃ、ダメ。
――そっち?
ほら、手を伸ばして・・・
――手?手を?の・ばす・・・
光の回廊と、舞い散る羽根。
ゴメンね。
――何が?なにを謝るの?
小さな天使は涙を流しながら――
空白。
何故かその言葉を強く意識した。
ぽっかり開いた――なにかが欠けた場所。
栞を彼女の部屋まで送った後、祐一は自分の部屋に帰ってきてベッドに横になっていた。「念のため」と医者が言ったので後日、栞に精密検査を受けさせることになった。しぶる栞をなんとか説得して。そう、彼女は病院があまり好きではないのだ。
つけっぱなしのコンポからはラジオが流れている。
これといった変化のない平凡な日常。栞が倒れたことを除けば、だが。だけど、確かに平凡で退屈な日常――の、はずだ。だけど、祐一はどこか平凡、と言いきれない、そう言いきっれる安心感を持っていなかった。いつも、どこかでなにか不安を感じているような気がする。
栞は体が弱い。病気が治ったといってももともと体が弱いのだ。ここ数年で大分変わってきているようではあるのだが。
おそらくそのせいなのだろう、と漠然とは思っている。
祐一は身を起こした。課題のレポートをやってしまおうと机に向かう。鞄の中から図書館でコピーしてきたレポート用の資料を引っ張り出して、机の上に広げる。いつもなら――ラジオやらなにやらはつけっぱなしでやるのだが、今日はやけに気に障った。床に転がっていたリモコンを拾い上げてラジオを切る。とりあえず、資料に目を通す。
ヘンな夢。
栞の見たヘンな夢。
そう言えば、と祐一は思った。ヘンな夢、かどうかはわからないが自分も変わった夢を見た、と。
あゆの夢だ。栞の前で話さなかったのは――まあ、そう言うことだ。うん。
あゆは、ただ泣いていた。それは、悲しいとかそういう泣きかたじゃあなかった――と思う。
なにかに怯えるように。
犯した罪の重さに怯える少女。そんな感じだった。
(なんで今になって・・・)
こんな夢を見るのかわからなかった。
あゆはもう、いないのに。
栞が復学した後、しばらく経ってから秋子さんがオレに話してくれた。
あゆは、もう、死んでいたということを。
それは、栞の誕生日のすぐ後だったそうだ。
オレにすぐに言わなかったのは――たぶん、栞のことでオレが大分堪えてたからだろう。
なんで今になってこんなことを思うんだろう。
栞は、あゆがもういないことを知らない。祐一はそのことを言ってはいなかった。知らなくてもいいと思っている。またいつか、どこかで会えるかもしれない、栞にはそのぐらいに思っておいてもらった方がいいと祐一は思う。自分の知っている人間の死というものは少なからずショックなものだ。――自分がそうだったように。
ショックだ、けれども――祐一にはそれでも実感が湧かなかった。秋子さんに『月宮』とかかれた墓石の前に連れていってもらった時も。ただ、あゆは、もういないんだ。それだけを思った。
あゆを思って泣いたのは、その日、家に帰ってから。
どれだけあゆを思い出そうとしても、どんなにあゆとの思い出を彫り返して見ても、あゆは、いつも、笑顔で、その笑顔しか浮かばなくて。
それが、ただ、悲しかった。
結局この日はレポートはまったく進まなかった。
連休を祐一は図書館で期限の迫ったレポートを書いて過ごしていた。二十枚程度のやつが二本。まあ、ずっと先送りにしていた自分が悪い。一日できればいんだけど。そう祐一は思ったけど、自分の書くスピードじゃムリだろうな、とも思っていた。
遊びに行きたい、とごねていた栞のことを思い出す。今度なんかで埋め合わせしてやらないとな、そんなことを考えながら手を動かす。
休日の図書館の中は静かだった。静か過ぎる、かもしれない。
あれ以来、何度か栞は同じ夢の話をする。よほど印象に残っていて、おまけに何度も見ているらしい。今のところ、それに特に意味を感じることは祐一には無い。ちょっと興奮気味の栞の話を聞いても「ああそうか」と思う程度のことである。
――今は、まだ。
栞はむくれていた。せっかくの休みなのに祐一が遊んでくれないからだ。てっきり祐一が遊んでくれるものだと思っていた。確認しておかなかった自分が悪いと言われてしまえば反論の余地などないが、おかげでヒマだった。とは言っても今日は病院の予約をしている。一度倒れてから精密検査を受けておけと祐一に言われたからだ。病院は嫌い――かどうかはもはやわからない。好きかもしれない。嫌いかもしれない。そこで過ごした時間の長さはそんなものも曖昧にしていく。
ただ、戻りたいとは思っていない。これはやっぱり嫌いというのだろう。そう栞は思った。
枕もとに置いてあるスケッチブックを手に取った。今日、起きてからすぐに描いた絵。よく見る夢。その夢の風景をなんとなく気の向くままに書いてみた物。
一人の(一人、という数え方をするのかどうかはわからないが)天使が描かれてある。色鉛筆で描かれた淡い天使。顔は憶えていないのに、その瞳が紅かったことだけははっきりと憶えていた。
全体的に淡い印象の中で、その紅い瞳がやけに印象的だった。
いい出来だ、と栞は自分で思った。いつも自分の絵をバカにする祐一に見せたらどんな反応するだろう。素直に上手いと誉めてくれるだろうか?それとも誉めるのをいやがって下手な言い訳をするんだろうか?そんな様子も、なんというか、可愛い。そう栞は思う。「・・・物好きね」そう言ったら姉からはそんな無常な言葉が返ってきたのを憶えている。その時はなんて言い返しただろうか?「私だけがわかってればいいもん」そう言ったかもしれない。
栞は立ち上がって、顔を洗って服を着替えた。予約時間が近くなっていたので、外に出て――思った以上に寒くて戻ってくる。クローゼットを開いて、上に羽織るものを探す。その中にある一つのジャケットに目をとめる。ちょっと季節にあわないかな、そう思ったけれども、栞はそれを手に取った。
どうみても男物の、以前に祐一が忘れていったそれを。
検査は終わり、結果が出るのは2週間ぐらいかかるらしい。
別に栞は体に問題があるとは思っていない。それで祐一が安心してくれるのなら、と思っただけだ。病院を出て、進路を駅前の商店街の方にとった。なにか簡単に作れるのものでも買っていこう、そう思ってジャケットのポケットに手を突っ込んで歩き出す。自分一人だけのものになるとどうも手を抜きがちだな、と栞は一人言ちた。
適当に買い物をして、帰路を歩く。
予想通りジャケットは少し暑かったけど、それは別によかった。あまり汗をかくほうではない。
鍵を開けて、自分の部屋の中に入って、買い物袋を放り出したとき、波打つように視界が揺れた。
(あれ・・・?)
ベッドの方に向けて踏み出していた足の感覚が無くなって、重力が重くなったような――それとも軽くなったのかもしれない――感じがして、また意識が遠くなっていく。
倒れた時に、柔かい感触があったので、ベッドに倒れこんだんだな、と栞は思った。
ダークグレイの雲。
そこから落ちてくる白い雪。
雪が穢れなく綺麗だ、なんてウソだと思っていた。大気中の水分にはたくさんの塵や埃が混じっている。それが固まった雪が綺麗なわけがないではないか。
そんな感想を幼い頃に思ったことを思い出す。
今は、その『綺麗』という意味が、幼い頃に思っていたものとは違う、ということを知っている。
また、自分は高い所から下を見下ろしていた。二つの人影が見える。
あれは・・・誰?
一人は・・・見間違うはずも無い。
相沢祐一。
もう一人は?女性?長い髪を三つ編みにして体の前に垂らしている。
知っている。
水瀬、秋子。
なにをしているの?
ごめんなさい。
いつのまにかすぐ側にきていた『天使』が言う。
なにが?どうしてあなたはあやまるの?
ボクは、してはいけないことをしてしまったから――
目が覚めた時、栞はベッドに上半身をうつぶせに乗せていた。倒れた時にぶつけたのだろう、膝が少し痛む。とりあえず起きあがって、体のどこにも異常が無いことを確認する。立ち上がっても眩暈なんかがすることは無いし、ぶつけたらしい膝以外にはどこにも痛む所は無い。
部屋の中でよかった、そう思ったときに一気に恐怖が襲ってきた。
そう、部屋の中でよかった。これが、もしも階段とかで起きていたら――。いや、階段でなくとも、そとの、地面が固い所でも、打ち所によっては大怪我をするかもしれない。でも、本当の恐怖はそんな所にはない。
(・・・どう、なってるの?)
わかってしまったのだ。天使の夢も、何故そんな夢を見るのかも、自分が、どうなってしまうのかも。
そんなことには絶対にならない、なるわけがない。そうは思うのに、この恐怖は拭えない。
そう、自分は逢っていたのだ。あの天使と。実際に、あの雪の街でも会ったし、そして、あの時も――
『死に際には、人間はみんな、自分の肉体はおろか、時間や空間からも自由になる』
なにかの本で読んだ言葉だった。信じているわけではない、けれど・・・
震える手で、栞は携帯電話を手に取った。もう目を瞑っていても押せる番号。迷惑になるような気がしていた。それでも、栞は押した。
(あゆ、さん。あなたは・・・)
今は、一人でいることがたまらなく怖かった。
祐一が栞の部屋に入った時、栞は見覚えのあるジャケットを羽織って、ベッドに座って俯いていた。一瞬後に、ああ、あれはオレのジャケットだ、と気付く。どうしたんだ? と訊かなくても栞の様子がおかしいことは一目見てわかった。
近づくと、栞の肩が震えているのが祐一にはわかった。――涙を、流していることも。
いろんな考えたくもない最悪の想像が祐一の頭をよぎる、が――
「・・・あゆさんは」
ポツリと呟くようにいったその栞の言葉に、そんな考えは全て吹っ飛んだ。
「あゆ?」
「・・・もう、いないんですよね」
栞の口からその言葉が出たことに祐一は驚愕した。誰か、言ったのだろうか?知っているのは、オレと――
「・・・秋子さん?」
弱々しく栞は首を横に振った。そして、横に座った祐一にしがみついた。
一瞬、心臓が止まった。
いない。自分の腕にしがみついたはずの栞がいない。
部屋の中が、全く見覚えのないものに変わっていた。
カーテンの色も、カーペットの色も、置いてある本棚の場所も、その中にある本の種類も。
自分の知っているものと、全てが違う。
足元から、悪寒が駆け上ってくる。
ぎゅっと瞳を閉じて、強く頭を振った。
目を開くと、よく知っている栞の部屋だった。
隣に栞がいて、自分の腕にしがみついている。その感触もちゃんとある。
うすら寒い思いがした。
「・・・どうか、しましたか?」
まさか、おまえの姿が見えなかった、とは言えなかった。ここが、知らない場所に見えた、とも言えなかった。
その言葉はひどく不吉だと祐一は思った。曖昧に笑う。うやむやに、ただの錯覚にしてしまいたかった。
いるじゃないか。
栞はここにいるじゃないか。
いなくなるわけがない。
だけど、自分は知っている気がした。
退化してしまった人間の本能の中で、かろうじてのこっているもの。
野生動物が、地震の予兆を肌で感じ取るように、自分が必要とする人、離れたくない人と引き離されてしまうという、死よりも恐ろしい事実を識別する為のコードが、それを告げていた。
ふと目にとまったスケッチブックの天使の紅い瞳が、祐一の中の何かを揺り動かした。
その晩は、栞は祐一の腕の中で泣きながら眠った。
そして、また、夢を見た。
夢の中で、天使――月宮あゆは泣いていた。それを見ている栞も泣いていた。
ただ、泣いていた。
2週間後の、精密検査の結果が出る日は、祐一も一緒についていった。栞が一人で行くのを嫌がったからだ。あれからも、なんどか『発作』は起こってた。栞と一緒に待合室の椅子に座りながら、祐一は異常が見つかってくれればいい、と思っていた。ややこしいぐらいの――そう、例えば屈折して、一回りしてもとの場所の戻ってくるぐらいの――複雑な理由で、医者が異常を見つけてくれたらいい、そう思っていた。たぶん、栞もそう思っているのだろうと思う。
そうすれば、ああ、治療法のある、ちゃんとした病気だったんだ、そう割り切ってしまえる。
しかし、淡い期待はあっさり覆された。検査の結果は、異常無し。結局軽い精神安定剤をわたされただけだった。
そして・・・
相沢祐一と美坂栞は『月宮』と書かれた墓石の前にいた。
雨が降っている。地上のもの全てに、まるで無くしてしまったものを悼むかのような、そう、まるでお通夜でもしているような、陰気な雨が降り続いている。
祐一は目の前の『月宮』という文字から眼を反らし、足元の水溜りを見た。自分と、自分のさしている黒い傘と、隣にいる栞と、栞のさしている明るいパウダーブルーの傘が映っている。祐一が傘の柄を持ち替え、右肩から左肩に移動させると、それにつれて水溜りの上の映像も動いた。
「こういう話を知っていますか?」
栞が切り出した話に、祐一は耳を傾けた。
「死に際には、人間はみんな、肉体はおろか、時間や空間からも自由になる――という話です」
一言一句、暗唱するように、区切りながら栞は言った。自分でも信じているのかいないのか、微笑をうかべて。
「四年前、きっと、あゆさんもそうだったんです。タマシイが体から離れて、言ってみれば全ての枷をとりはらって、全てを見下ろすことができる状態にあったんです。あらゆる人間の動きの一つ一つを見通すことが出来たんです」
そして、みつけた――
「笑わない祐一さんと、同じように死に瀕している私を」
夢みたいな話だな、と祐一が言った。バカみたいですよね、と栞が言う。
「あゆさんは、してはいけないことをしてしまったんです」
「私は、あの時死んでいるはずの人間だったんです。それを、あゆさんは助けてしまった。動かしてはならない事象の配列を動かしてしまった。もう、決められている配列を。それは、後になってツケを、歪みを産むんです」
だから、何一つ付け加えてはいけない。
だから、何一つ取り除いてはいけない。
――現実が変わってしまうから。
「信じない」
「・・・そうですよね。こんなとんでもない話」
「オレは今ここにいるし、おまえも今ここにいる。それが現実だ。それに――」
「おまえが死ぬべき人間だったなんて、そんなのオレは認めない!」
肝心なのは、二人でここにいることだ、と思った。それが全てで、それ以上でもそれ以下でもない。
そう言うと、栞はちょっと微笑んで「そういうものかもしれませんね」と言った。
「帰りましょう」そう栞は言って、踵を返した。祐一はその栞の背中を見ていた。さっきまでの会話が頭の中でぐるぐると渦巻いている。
栞の背中が、角を曲がって、消える。
後になってツケを、歪みを産むんです――。
「・・・栞!」
我知らず、叫んでいた。
返事は帰ってこなかった。
傘を放り出して、祐一は走り、角を曲がった。
そこには、二つのものが落ちていた。
一つは、さっきまで栞がさしていた傘。パウダーブルーの傘。
もう一つは栞の羽織っていた、ジャケット。栞の羽織っていた、祐一のジャケット。
それだけ。
それだけを残して、栞はいなくなっていた。
影すら残さずに。
どっちが正しい?どれが現実だ?
オレの隣に栞がいたほうか。
それともとうに栞が死んでいるほうか。
祐一を取り囲む生活は、何も変化していない。レポートの提出日は迫ってくるし、学校に行けば慣れた顔ぶれと慣れた会話を交わしている。時々、名雪や香里とも連絡をとる。栞のいたあの部屋は、知らない誰かが住んでいた。カーテンの色は一瞬だけみたあの時の色と同じだった。
いないのは、栞唯一人。
これが正しいのか?これで元通りに運命はつつがなく転がっていきます――そういうことか?
祐一は考えた。泣いて、怒って、狂気の一歩手前で踏みとどまって、考えた。
じゃあ、なんであゆは栞を助けたんだ、と。
栞に死んで欲しくなかったからだろう?
運命を変えてはいけないなんて、誰が決めた。
どうすればいい?どうしたら栞を取り戻せる?
きっと、できる。そう信じる。諦めずに、目を見開いて。
そうすれば、街角で、ショートボブの髪を揺らして歩く、たった一人の女の子を見つけることができるかもしれない。そうしたら、追いかけていけばいい。
かならず、追いつけるはずだから。
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ささやかなコメント by LOTH
ここのTOPページの20000HIT記念として、NAOYAさんに頂きました。
題名はONEですが、内容としては…
わたしは読んだ時、わたしの二つのシリーズ、『Forget
me, Forgive me / Original Side』と『Eine Kleine Naght Musik 2』を思い起こしました。
F,F/OSでわたしが言いたかったのは、「残るのは一人だけ」というKanonのルールへの疑問と怒り…
Eine...2では、救い、救われるという時間線の交差…そして、それは誰が悪いのでもない…ということ。
NAOYAさんがSF的な設定で出された、その答えは…悲しいものです。
ですが…本当に言いたいのは、そのルールを変えられないということへの怒り、なんだと…わたしは感じました。
それを、わたしとは違った筆致で、そのルールへと迫った…素晴らしい作品だと思いました。