雷雲

〜あなたを待つ間に 4〜


ONE SS。
里村茜&上月澪

シリーズ:あなたを待つ間に

では、どうぞ
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雷雲 〜あなたを待つ間に 4〜
 

「あ、え、い、う、え、お、あ、お」
「か、け、き、く、け、こ、か、こ」
「さ、せ、し…」
部室に響く声。
開かれた窓から、よく晴れた空へと窓を越えて抜けていく演劇部員たちの声。
私もようやく、その中に響く自分の声に違和感を感じなくなっていた。
 

『…入ります、演劇部に。』

思えば、始まりはあの一言。
自分でも驚いたあの一言に、長谷川部長も言葉もなかった。
澪さんもビックリして、いつも手にしているあのスケッチブックが手から落ちたのもしばらく気がつかないほどだった。

『…もちろん、雑用だけですけど。』

自分でも驚きながら、でもスラスラと出てきた言葉の続き。
驚いた顔の長谷川部長は、そこでようやく息を一つ、大きく吐きだすと私の顔をのぞき込みながら

『…本気、なの?』

『…はい。』

頷いた私に、長谷川部長はもう一度私の顔をじっと覗きこんで…

くいっ

『……?』

ふいに制服の裾を引かれて、私は振り返った。

『本当なの?』

そこに、真っ白な紙の上に大きく書かれたそんな文字。
そして、お腹を空かせた子犬の前に食べ物を置いてやったときのような期待に満ちた小さな顔。
…いいえ、そんな言い方は悪いとは思ったのだけど、三尾さんの顔を見たとき、本当にそんなことしか浮かばなくって。
だから、私はちょっと微笑みながら頷くしかなかった。
澪さんはそんな私の顔を見上げたと思うと、急に私に抱きついてきた。

『…み、澪さん?』
『………』
「…あ、あの…』
『………』

ぐいぐい抱きついてくる澪さんに、私はちょっと困惑しながら聞いた。
でも、澪さんは何も言わず…いいえ、何も説明せずに抱きつくばかり。

『…里村さん』

とその時、長谷川部長の声。
私は向き直った。

『…一つ、聞いてもいい?』
『…なんでしょう?』

私が聞き返すと、長谷川部長は私の顔をのぞき込みながら、一言、言った。

『…入部したいと言うのは…澪ちゃんのため?』

長谷川部長はそのまま、私の顔を見つめていた。
少し、けわしい目で私を見つめていた。

…澪さんのため?

自分でも驚いた、自分の言葉。
演劇部に入る…今さら入るのは、それは…

『…たぶん、そうです。』

私は頷いた。
そして、私に抱きついたままの澪さんの顔を見た。

澪さんは、ぶんぶんと頷くと、ニッコリ微笑んだ。
私はそんな三尾さんの喜ぶ顔に、もう一度長谷川部長に向き直ると

『そうですけど…ですけど…』

だけど…それだけでもない気もしていた。
ただ澪さんのためではなく…ひょっとしたら…

『…それだけではない…かもしれません…』

でも、確かな事は何も言えない。
自分でも分からない。
私は何のために演劇部に…

『………』

…私は…
 

『……分かったわ。』

しばらく黙って私の顔を見ていた長谷川部長が、ふいにそう言うとまた小さく息をついた。
そして、ゆっくりと私の方に手を差し出すと、微笑んで

『…じゃあ、お願いするわ。よろしくね、里村さん。』
『……はい。お願いします。』

私がその手を握ると、長谷川部長は軽く私の手を握った。
それからその手をほどくと、澪ちゃんの頭に手を伸ばし、その髪にぽんぽんと触れると

『…よかったわね、澪ちゃん。』

『はい、なの』

急いで書きこまれた紙と共に、澪ちゃんのにっこり笑った顔が私を見あげた。
そして、私の出したままの右手を掴むと、ぶんぶんと上下に振って…
 
 

あれから、もう2月近く。
初めは気恥ずかしく、それに自分でもうまくできていないのが分かった発声練習も、今は大分馴れて、それなりの発音になってきた気がする。
大きく息を吸い、しっかりと口を開いて、ゆっくりと発音する。
一人でやっているとちょっと恥ずかしい感じだけれど、部員全員でやっているとそれなりに気にならなくなるのが少し不思議なくらい。

 『必ず、なの』

雑用の身には発声練習は必要ない、そう最初は思っていた私に、澪さんが少し頬を赤くしながら書いて見せた言葉。
その意味が、今なら分かる気がする。
そういう澪さんも、声は出ていないけれど、いつも発声練習の時にはみんなに合わせて一生懸命口をぱくぱくさせている。
その姿は、まるで本当に声が出ているようにさえ見える…いや、きっと澪さんは声を出しているつもりなのだろう。みんなに合わせて…

「………?」

思わずそばの澪さんに目をやった私に、ちょうど振り向いた澪さんの目。
澪さんはちょっと不思議そうに首を傾げた。
私が少し微笑んで、何でもないと首を振ってまた前を向いた時

「…これで発声練習は終りです。」

川上副部長の声。
急に静かになった部室は、でもすぐに部員たちのざわめきで満たされる。

「…どうします、澪さん?」

今日もいつものように、私は澪さんに聞いてみる。
夏のコンクールのため、雑用係として演劇部に入ったつもりだった私だったけれど、まだ台本が決まらずにいるため、入ってからずっと発声練習と、基礎体力向上のための運動。それを、私はいつも澪さんと一緒にすることにしていた。

「………」

澪さんはまた首を傾げると、すぐにスケッチブックを開いて大きく時を描く。

『劇の練習がしたいの』

「そうですね。」

私が頷くと、澪さんはほうっと小さな息をつき、もう一度スケッチブックに

『台本が決まってほしいの』

「そうですね。」

今回の劇に関しては、長谷川部長のたっての希望で、部長の好きな本を決め、自分で台本を書くという…それも、それがどんな本かさえまだ部員の誰にも教えてくれない。
だから、もうコンクールまで2月を切ったというのに、みんな基礎練習しか出来ない状態だったのだ。

しかし、その部長がここ数日、部活どころか学校も休んでいた。
どうやら、それは病気ではなく、台本のためだという話で…
だから、部員はみんな、もうすぐ台本が上がって劇の練習が出来るのだろうと、少し期待をしながらここ数日を過ごしているのだ…私以外は。

「きっと、もうすぐ…」

「………!!」

『部長が台本を書いて…』と言おうとしたその時、澪さんが私のスカートをぐいぐい引っ張った。
その目は、部室の開け放しの入り口の方をしっかり見つめていた。
私も澪さんの視線を追い、入り口を見た。

「……長谷川部長。」
「…久しぶりね、里村さん…澪ちゃん。」

長谷川部長が少し頬のこけた白い顔で私と三尾さんに小さく手を上げた。

「元気だった?」
「…私は元気ですけど…」
「………」こくり

その様子に、私たちは思わず心配そうに長谷川部長を見ていた。
長谷川部長は、その白い顔にわずかに笑みを浮かべた。

「…大丈夫。それよりも…」

そして、足元に置かれた大きな布製カバンをゆっくりと持ち上げて前に持ち直し、

「ずいぶん遅れたけど…やっとできたわ。」

「……え?」

一瞬、なんのことか分からなかった私。
でも、すぐに澪さんは目を輝かせた。

『台本なの?』
「…ええ。ようやく、上がったわ。」

長谷川部長は澪さんにうなずくと、カバンから2冊のコピーの束を取り出した。

「部長、台本ですか?」
「できたんですね?」

そんな部長の姿を部員の皆も気付いて、口々に言いながら駆け寄ってきた。
部長はそんな皆にまた小さくうなずくと

「とりあえずみんな、読んでみて。話はそれからにしましょう。」
「はいっ」

うなずいた部員のみんなに、部長はカバンから一冊づつ、台本を手渡し始めた。
あっという間に部長の周りにできる人だかり。
そして手にした台本を開いては、口々に何かを言いながら読みはじめていた。
でも、私は黙ってそんな様子を見ながら立っていた。
だって、私は…

ツンツン

「……はい?」

上着の裾を引っ張られて、私は目をやった。

「…澪さん?」
「………」こくり

澪さんが私の顔をにっこり笑って見上げていた。
その手には、台本が…2冊。

『茜さんの分なの』
「いえ、私は…」

あわてて振ろうとした私の手に、澪さんはグイッと台本の一冊を押しつけた。
そしてもう一冊はしっかりと自分の胸に抱きしめると、またにっこりとほほえんだ。

『………』ぎゅっ
「………」

うれしそうにもう一度、台本を抱きしめるとそのページをめくりだし、キラキラした瞳で読み始める澪さん。
澪さんは昔の台本をいつもスケッチブックと一緒に持ち歩いては、もうぼろぼろになるほど読み返しているくらいで…その本で役を始めてもらったことがよっぽどうれしかったのだということは、澪さんは言わないけれどすぐに分かった。
だから…

今回は、澪さんはどんな役になるのだろう。
私は澪さんから手渡された台本を見た。
その表紙に書かれていた題名は

  「Kanon〜ものみの丘の奇跡〜」

聞いたことのない題名…元になる本があるのだろうか、それとも長谷川部長のオリジナルなのだろうか?
そんなことを思いながら、私は本のページをめくって…
 
 
 

…いつの間にか最後まで読み通していた。
最後まで、止まることができなかった。
内容は、幻想的な…でも、ある意味でシンプルな話だった。
登場人物は、雪の街に転校してきた少年と、その少年をなぜか憎んでいる謎の記憶喪失の少女。そして、そんな二人を見守る少年の居候先の従姉妹とその母親。そして、もう一人、謎の少女を見守る物静かな少女…

『………』ほうっ

静かなため息が聞こえた。
気がつくと、澪さんが私の隣、本をしっかりと抱えて立っていた。
その大きな瞳に、いっぱいの涙。

『………』はぅ

澪さんはもう一度、大きく息をついた。
そして私の顔を見上げると、あわてて右の袖で瞳の涙をぬぐった。
それから、にっこり笑ってスケッチブックを広げて

『いい話なの』
「……そうですね。」

私は曖昧に頷くしかなかった。

確かに、いい話。
それは私もそう思う。
だけど…

私は澪さんの顔を見た。
そして…
 

「…そろそろいいかしら?みんな、読み終わったかと思うけど。」
 

長谷川部長の声。
見ると、長谷川部長は部室の黒板の前に立ち、部員の方に向き直っていた。

「どうかしら…この話で、やれる?」
「もちろんですっ」

川上副部長の言葉。
その目にも少し涙が浮かんでいた。

「部長、いいです! ぜひ、これでやりたいです!」
「……みんなは、どう思う?」

長谷川部長は、その蒼ざめた顔に少しだけ笑みを浮かべながら部員たちの方に向き直った。

「これで…」

「いいと思います!」
「ぜひ、やりましょう!」

何人かの大きな声。そして、一斉に頷く部員たち。
みんな、例外なく頷いていた。澪ちゃんも、そして、私も。

「…そう。」

そんなみんなの様子に、長谷川部長の顔からは逆に笑みが消え、真剣な表情に戻った。

「…でも、こんなに遅れてしまったことは、どうしようもない事実だわ。今からでは、もうすぐにでもセリフ覚えに入らないと間に合わないと思う。」
「…部長…」
「だから…」

長谷川部長は言葉を切った。
そして、部員たちの顔をゆっくりと見回すと

「…役は、私に決めさせてほしいの。今、ここで。」
「……え…」
「いいえ、決める、じゃないわ。もう決めてきたから…それをここで発表します。それでやってほしいの。いい?」

一瞬、部室に沈黙が流れた。
部員たちはみんな、隣の部員の、そして部長の顔を見やった。

その気持ちは、私にも分かる。
これだけ素晴らしい話…誰でも自分で演じてみたいと思うのは当然だと思う。
だけど、主役、そして脇役にしても、なれる人は…この場合は5人。少ないとはいえ、20人近い人間の中で、5人だけ…
だからこそ、それを競うためにこれから努力をして、役を…そう思っていたみんなにすれば、長谷川部長の言葉はすぐに納得できるというわけにはいかなかったのだろう。
長谷川部長も、当然それを分かっているはず…

「…それにね」

みんなの沈黙の中、長谷川部長は真剣な顔で、もう一度部員みんなの顔をぐるりと見渡した。

「実はこの芝居…誰がどの役をするか、それを考えながらセリフ回しや細かい進行を考えてあるの。だから、私としては、どうしてもそのキャスト通りでやりたいの。」
「………」
「みんなは納得行かないのは、それは分かるわ。でも…」
「………」
「…お願い。今回だけは…私の思うとおりにさせて。お願い。」

長谷川部長はそう言って、深々と頭を下げた。
静まり返った部室。

ある意味、部外者の私には何も言えなかった。
私は…確かにこの台本でやりたいと思う。
でも、私は裏方で、またそのために入っているわけだから、配役にあれこれ言う権利もないし、そのつもりもない。
でも…

その時、静まり返った教室に、パタパタと小さな音が響いた。
見ると、澪さんが手にいつものスケッチブックを持って、長谷川部長の方に振っていた。
その白いスケッチブックの紙に、黒いサインペンで大きく書かれていた文字は

『部長に任せるの』

一斉に澪さんを、スケッチブックを、そして文字を見た部員たち。
その場に何か、ホッとしたような雰囲気が流れる。

「…お任せします。部長。」
「部長の思うとおりに」

次々、長谷川部長に向き直ると、賛意を口にする。
にっこり笑いながら、スケッチブックを降り続ける澪さん。
やがて、口々に賛成する部員たちの顔をゆっくりと見回した部長は、澪さんの顔にもちらっと目をやったけれど無表情のまま、また小さく頭を下げると

「…じゃあ、これから配役を発表します。」

そのまま黒板に向き直って白いチョークを手にした部長は、その黒い板面に大きく題名『Kanon〜ものみの丘の奇跡〜』と書き綴った。
そして、次にその横にチョークを走らせると、登場人物の名前を書き並べた。

『相沢祐一

 沢渡真琴

 天野美汐

 水瀬名雪

 水瀬秋子』

そこで部長の手は一度止まった。

そう、この劇の登場人物は、この5人。
その他は、ほとんどセリフのないちょっとした役だけ。
そして…

私は澪さんの方を見た。
澪さんは先程振っていたスケッチブックを胸に抱え、ニコニコしながら黒板の方を見ていた。
私は声をかけようか、どうしようかと思いながらその小さな横顔を見つめていた。

さっきのような行為が、自然と出来る…それが澪さんのすごいところだと思う。
多分、自分でもよくわからないけれど、だからその役に立ちたいと私は思ったのかもしれない。あの、私がまた迷い道にいた雨の中、私に傘を貸してくれた澪さんに。
でも…
 

「…相沢祐一役、加藤陽一」
 

長谷川部長の声が響く。
ちょっとだけ、どよめき。
でも、それは順当な配役。数少ない男子部員の中でも、加藤さんはいつも主役級の配役だったから。
うれしそうな加藤さん、そしてそんな彼に声をかける外の部員たちにを長谷川部長はちらっとしか見ないで、その名を黒板に書いていく。

澪さんは大きな目を開いて、そんな部長の姿を、その手の動きをジッと追っていた。
私はそんな澪さんに、やはり聞きたいことがあった。
それは…
 

「…沢渡真琴役、川上美奈子」
 

ほんのちょっとのざわめき。多分、それはあまりに順当だったからだろう。
川上副部長は実力からしても、そして台本から読み取れる役の雰囲気からしても、その役にはぴったりだった。
川上副部長は静かに頷くと、台本を胸にギュッと抱えた。
長谷川部長はそんな姿にも、ちらっと目をやっただけでまた黒板にチョークを走らせる。

結局、役は順当に決まっていくらしかった。
本番も近いことだし、部員の数も、その実力もみんなよく分かっているのだから、それしかないということかもしれない。
だからこそ…

私は澪さんの顔をマジマジと見た。
まだ長谷川部長の黒板に走らせる手を見つめている澪さんの顔を。

部長に任せる…澪さんはどんな思いでそれを決めたのだろう?
澪さんにも、分かっているはずだ。
この劇には…5人しか主要な登場人物はいない。
そして、その5人全てには、セリフがある…セリフがあるのだ。
だから、この劇…この台本では、澪さんの役は…

「…澪さん」

私が澪さんに、小さな声をかけたその時。
長谷川部長の声が、部室に響き渡った。
 

「…天野美汐役、里村茜」

「……え?」

あたりがハッと息をのむ気配。

聞き違い…だろうか?
いや、きっとそうに違いない。それしか考えられない。
だって…

私は急いで長谷川部長の方に目をやった。
彼女は部員たちに背を向けて、ゆっくりと黒板にチョークを走らせていた。
そして、黒板に白く書かれた名前。
紛れもなく、それは…
 

『里村茜』
 

<to be continued>

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