舞SSのようでそうでないような…Kanonパラレルワールド系SSもどきです。

では、どうぞ
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   赤い夕焼け
   吹き過ぎる風
   ざわざわと
   ざわざわと

   思い出せない思い出
   きっとどこかで見た風景
   なぜだかうれしくて
   なぜだか涙が出る

   あれはどこだろう
   どうしても思い出せない
   思い出したくて
   でも
   思い出してはいけない気がする
   あの風の渡る場所
   遠い赤い空
   そして

   ぼくを呼ぶ声
   ぼくを呼ぶ
   あれは
 

   あれは…
 
 
 

    いつか会えるから、きっと

        1.遠い夕焼け

 

 
 
 

1月 6日 水曜日
 

夕焼けはいつだって、なぜだかうれしくて、そして悲しい気がする。
それはいつだって…

そう、思い出せないずっと前から、オレは感じていた。
どこの街角でも、それは感じていた。
父親の転勤に付き合わされ、何度も移り住んだ見知らぬ街角の夕暮れ。
初めての町でさえ感じる、デジャヴのような奇妙な感じ。
いつの間にか、小さな頃から感じていたことは間違いない。

多分、駅を降りた時、感じたのもそれだったのだろう。
だから、柄にもなく駅前のベンチに座って、ぼんやり夕焼けを眺めていたのだろう。
この見知らぬ街の駅前で。
オレがこれからしばらく住むことになる、見知らぬ街の駅前のベンチで。

見知らぬ、と言ったら、本当は嘘になる。
オレはかつてこの街に、何度か来ているはずだから…オレには、どうにも思いだせないのだが。
間違いなく、オレはここに来たことがある…それは間違いない。
だって、この街には秋子さん…オレのおばにあたる人が住んでいるわけだから。
そして、それこそがこの街にオレが今いる理由…

「……ったく…」

思わず吐いたつぶやきは、真っ白に凍っていた。
オレはコートの襟を立て、肩をすくめて身震いをした。

だいたい、オレは寒いのは好きじゃない。
それに、親父の転勤につれて日本中を渡って来たんだから、そろそろ外国に、しかも暖かいところに…なんて、願ってもないところだと思っていたのだ。
なのに、親父…そして、母さんと来たら…

『…祐一さん。高校は、やっぱりこっちで出た方がいいと思うの。』

分かってる。
それは母さんが言ってるんじゃなくって、親父が言わせていることは。
いつのころからか、親父がオレとほとんど口を利かなくなってから、お母さんが親父の言葉を代弁するようになった。多分、オレが思春期真っ盛りだった頃からだろう…あるいは、その前からか?

まあ、いい。別に親父と話すことなんて、この年で何があるじゃなし。
ただ、せっかく帰国子女になれるチャンスだったのに…

『…またそんな…ふざけないで真面目に考えて下さい、祐一さん。』

…母さんを困らせるのは嫌だったしな。
まあ、それが親父の手だってことは分かっていたけど。

それに、母さんの言いたいことは、オレにも分かってはいたのだ。
ただでさえいい方じゃないオレの成績が、言葉も分からない外国でどうなるかは、行く前に想像はつくし、その状態で帰って来ても、行ける大学もなくなってしまう…
といって、母さんとオレが日本に残るんじゃあ…ちょっと…まあ、もう気まずいことはないにせよ、やっぱり…
それに親父は一人で生きて行ける方じゃないしな…

「……はあ。」

息を吐きながら、オレは足下からの冷え込みに思わず肩をすくめる。

…何こんなところでいつまでもこんなこと、考えているんだか。
凍死するかもしれないぞ、こんなところに座ってたら…

ともかく、今日の寝床を確保しなきゃな。
オレはとりあえず足下の荷物に手を伸ばした。
そして、バッグの柄を掴むと、もう一度空を見上げた。
真っ赤な空。
夕暮れの街の景色。
誰か、母親が子供を呼ぶ声…
 

…お母さんが生きていたら、一人でこんなところに来なくてもすんだのかもしれない…
 

思わず浮かんだ、そんな感慨をオレはあわてて首を振って頭から消した。
そして、ともかくバッグを持ち上げると、ベンチを立って駅前の道を…
 

「……わ、びっくり。」
 

……なんなんだ、こいつは?

目の前に、いつの間にか人影が立っていた。
オレをびっくりしたように見上げる大きな瞳…
…寒いのに、何だか涼しそうな体操着…

「……怒ってる?」

「………はあ?」

「………ごめんね」

謝っているようだが…まったくそんな感じには聞こえない、ぼんやりした感じの声。
オレはなんのことやら分からず、オレに話しかけて来たその目の前の人影…少女を見ていた。
高校生くらいのその少女は、そのポニーテールに縛った長い髪を揺らすと、ちょっと首を傾げてオレを見上げながら

「3時だって聞いてたんだけど…」

ちなみに、オレが列車でこの駅に来たのは4時だ。

「…でも、1時間くらいの遅れだと思うけど」

ある意味では、これはぴったりと言うべきだろうか…今、5時なのだから。
……違うな…

大体が、この少女は誰だ?
馴れ馴れしそうにオレに話しかけているが、オレにはこんな少女、覚えが…
 

…覚えが……
 

……かすかに覚えがある…というか、ひょっとしたら…
…いや、でも、オレの思えているあいつは、もっとこう…痩せたチビのガキだったはずだ…

「……お前…」
 

オレが目の前の少女の顔を見ながら言いかけると、少女はその大きな目をいっそう見開いて、オレを見つめたまま

「……うん」
 

「………誰?」
 

「………え?」
 

一瞬、少女の体が凍ったように動きが止まった。
その次の瞬間

「……嘘でしょ?」
「……何がだよ」
「……そういえば、昔からそういう冗談が好きだったよね…」
「そんなことはない。オレはこれでも真面目で通っているからな。」

「………」
「………」

「…はあ」

少女は肩を落とすと、真っ白な息を吐いた。
…いや、多分こいつだろうという名前が、浮かばないでもない。
だが、オレが覚えているその少女には、オレはもう…かれこれ7年ほど会っていない…
そして、その少女の面影が、目の前の少女にはほとんどなかった。
だから、とりあえず様子を見てみたのだが…

「……ひょっとしたら、そうかと思う名前が浮かばないでもない。」

オレが言うと、少女はちょっと伏せていた顔をパッとほころばせた。

「……じゃあ…」
「…でも、そういうお前も…本当にオレの名前、知ってるのか?」
「もちろん!」

少女は大きく頷いた。
そして、にっこり笑うと

「祐一」

「花子」

「違うよ〜〜」

「……次郎」

「わたし、女の子…」

「……じゃあ、キャサリンだな。」

「……日本人だよ…」

「何?そうか、残念だな…せっかく外国人の女の子と友達になれたと思ったのに」

「……もう…」

「う〜〜〜」

「……ウーさんという知り合いはいないはずだが。」

「……う〜〜〜」

困ったように眉を寄せる少女。
その顔は、紛れもなくオレの記憶の中のガキ…いや、少女の面影が…

「……さてと…」

「う〜〜〜」

まだうなっている少女を尻目に、オレは空を見上げた。
真っ赤に染まった空は次第にその色を濃くしていた。
もうすぐ、夕暮れから夜に変わる頃…

「……ここにいてもしょうがないか…」
「…う〜〜〜〜」

オレはその場から3歩、歩いた。
そして、振り返って

「……何やってるんだ、日が暮れるぞ。早く行こうぜ……名雪」

「……あ…」

夕日に染まった少女…オレのいとこ、名雪の顔がパッとほころんだ。

「……うんっ」

そして、名雪はオレに向かって駆け寄ると、顔を見上げてように微笑みながら

「えっと、祐一。帰る…うちに行く前に、ちょっと…」
 
 
 
 
 
 
 

「……でも、この辺は昔から見たら、ずいぶん変わってるから。」
「……だろうな。」

名雪の説明に、でもオレはほとんど聞いていなかった。

『…部活の途中で、あわてて出て来ちゃったんだよ。』

それがこうなった発端の、名雪の言葉。
…オレとしては、だからどうしたというしかないことだったが、名雪はどうしても自分と一緒に帰ろうと言って聞かなかった。
その上…これだ。

『…だから、一度学校に行って、それから帰ろうよ。ね?』

名雪はそう言って、オレの顔色をうかがうようにオレを見上げたが…
はっきり言って、オレとしては一緒に秋子さんの家に行く必要はなかった。
秋子さんの家の記憶はない…だが、そんなこともあろうかと詳しい住所と地図は手に入れていたので、名雪と一緒に行かなければ行き着けないということはなかったのだ。
だから、そんな名雪の言葉にとりあえず同意したのは、これからお世話になる家の住人である名雪に対するちょっとした気遣い…そういう意味でしかなかった。

だが、オレの同意をどう誤解してか、何やらうれしそうに名雪と来たら歩きだしてから、あそこは昔はこうじゃなかったとか、あの辺は変わらないとか、多分オレに気を使ってもいるのだろうが、ともかく街の案内をついでにやってくれているのだが…
はっきり言って、オレに取ってそんな案内は退屈なだけだった。
なんたって、オレには元々、この街の記憶なんてないのだから。

名雪と秋子さんには、多分7年前…お母さんの3回忌に会っているが、この街自身に来たのは、多分そのお母さんが生きていたか…あるいは、死んだ前後くらいだと思う。
だから、オレの中にこの街の記憶なんてほとんどない…というか、全くないと思う。辺りを見回しても、全く感慨のかけらも沸いてはこないのだから。感じるのは…

「……寒いな。」
「……冬だから。」

オレの唯一の感慨に、さっきから何度目かの答えを名雪が返す。
…確かに、冬だろうさ…でも、こう寒い…というか、下からじわじわと這い上がって来るような冷たさは、しばらく雪の降らない都会でくらしてきたオレにとっては、結構堪える。
だというのに…

「………元気だな。」
「……部長さんだから。」

オレの問いに、名雪は笑顔を絶やすことなく答えを返す。
部長だったら、この寒さの中、体操着の上下だけで、コートも着なくても大丈夫なのか?
かなり疑問が沸くが…

疑問といえば、名雪が陸上部…しかも、その部長だというのがオレには信じられない。
オレの覚えている名雪は…オレの家に数日泊っていった時のおぼろげな記憶では、とうてい陸上だの、そういう体を動かすことが得意ではない、ぼんやりした内気な少女…という感じだったように思う。
しかし、今、目の前にいる…嬉々としてオレに話しかけながら歩いている健康そうな高校生の名雪…時折見せるオレを見上げる瞳に、何やら昔の面影が見えるような気がするが…
それ以上に、変わってしまった名雪の姿に、オレはちょっと自分の…いや、親の安易な計画を、もう一度考え直した方がいいと思わないではない。
海外転勤について行けないから、おばさんの家に下宿…確かに、最も安易で、しかも確実な方法だと思う…いや、オレも思ったのだ。
でも、それはそこにいる名雪が、もうちょっと…その、むかしの名雪を大きくしたような、そんなイメージでオレもOKしたのであって、まさかその名雪が、こう…結構魅力的な女の子になっているとなると……なあ……

「…なあ、名雪…」

オレがそろそろ説明をやめて後ろ手を組んで歩いて行く名雪に声をかけると、名雪はその格好のまま、振り返って

「……うん…なに、祐一?」
「…あのなあ、名雪…」
「…うん?」
「……オレが秋子さんの…お前の家にしばらく下宿するって話…知ってるよな?」
「うんっ」

名雪はうれしそうに頷くと、ニッコリ微笑んだ。

「よろしくね、祐一。」
「…いや…」
「ちなみに、祐一の部屋、わたしの部屋の隣だから。」
「……は?」

…マジか?
オレはマジマジと名雪の顔を見つめた…

…冗談には…見えない…

「…秋子さんはそれで…」
「お母さんがそう決めたんだよ。空いてる部屋の中で、そこが一番日当たりもいいしね。ほら、昔、祐一が泊った部屋だよ。」

…だから、そんな古いこと、オレは覚えてないんだって…
オレは一抹の頭痛を感じながら、

「……お前…気にならないのか、そういうこと…」
「…え?なんで?」

名雪は、しかし変わらず無邪気に笑みを浮かべると

「昔に戻ったみたいで、楽しいよね。ほら、おばさまが…」
「………」
「……あ、えっと…」

名雪はちょっとあわてて口を閉じると

「……じゃなくって…」
「………」
「……えっと…」
「………」

一緒に住むということにではなく、オレのお母さんのことを口にしたことの方であたふたしている名雪。
普通の女の子だったら、逆になるところだろうが…

…そういえば、名雪って何となく…そんな感じだった気がする。
なんとなく、ボンヤリした…いとこの少女。
そう、オレの数少ない、血の繋がったいとこ…お母さんの妹、秋子さんの娘…

「……ま、気にしなくていいぞ、名雪。もう、昔の話だから…」
「……う、うん…」
「…ともかく、下宿する件だけど…」
「あ、うん。」

頷いた名雪の顔を、オレは覗き込んで

「…とりあえず、学校の方には黙っておいた方がいいと思うぞ。」
「…それは無理だと思うよ。」

名雪は小さく首を振ると

「転校する書類、お母さんが保証人になってるもの。」
「……確かに。」

そりゃ、そうだ。
まあ、先生たちはそれでしょうがないとして…

「……でも、名雪…おい?」
「……うん?」

頭を掻いて顔を上げると、いつの間にか名雪は小走りに少し先、塀の角を曲がりかけていた。オレはそんな呼びとめながら

「…お前、友達とか、そういう連中には…言わない方がいいぞ。」
「………」

名雪はちょっと不思議そうに首を傾げた。
それから、ポンっと手を叩いて

「…そうだね。そうしとくよ。」
「……ああ。」
「でね、祐一…」
「なんだ?」

ホッとしたオレに、名雪は手招きをしながら

「早く来て、祐一。」
「…なんだよ?」
「いいから。」
「………?」

オレは言われるまま、白い塀の角を曲がった。
そして、先に言った名雪の方を見ると

「…ほら…どう、祐一。」
「……?」

いきなり、手を広げてオレに振り返る名雪。
オレはなんのことやら分からず、

「…普通の体操着だと思うぞ。まあ、できれば女の子はブルマーの方がいいと思うけどな。」
「……エッチ。」

名雪はちょっと膨れたが、すぐにさっと後ろを向くと行く手…夕日の落ちていくさきを指差した。

「…あれが、わたしの…そして、明後日から祐一が通う学校だよ。」

名雪が指差した先、思ったより近くに、真っ赤な夕日に染まった白いコンクリートの建物が立っていた。
新築ということはないが…建ってからそれほど経ってはいないと思うその校舎は、ちょうど道の先、真っ正面に思ったよりも大きなその姿を見せていた。
その向こう、真っ赤な夕日は校舎の後へとそろそろその姿を消そうとしていた。

「……なるほど。」

「……それだけ?」

オレがあまり驚きも感動もしなかったのが不満だったのか、名雪はちょっと首を傾げてオレの顔を見た。

「……ああ」
「………」
「……それが、何か?」
「………」

黙っている名雪に、でも、オレとしては答えようもない。
転校は、これが初めてじゃない…というか、しょっちゅうのことだったから、そうそういつもいつも校舎一つで驚いてはいられない。
まあ、今まで転校した中でも、結構きれいな校舎ではあったが…

「……まさか、この校舎が…変形してロボットになるのか?」
「………」

…受けなかった…かな?
まあ、オレ自身、面白くは…

「……ププッ」

と、いきなり名雪は吹き出すと、口を手で覆いながら笑いだした。
そして、そのまま笑いながら途切れ途切れに

「……あはは…変わらないね、祐一…」
「……そうか?」
「………うん」

体を折って笑う名雪の姿を、オレはちょと苦笑いしながら見ていた。
やがて名雪はやっと笑いが収まったのか、手を外すと大きく息をした。

「……はあ。笑わせないでよ、祐一。」
「…そんなに面白くはない、と思ったがな。」
「自分で言わないでよ…」

名雪はまたくすっと笑うと、一つ、また大きく息を吸った。
そして、赤から黒に染まる空に、白く、赤く染まる息を吐きだすと

「…じゃあ、わたし…部室、戻るね。」
「…おう。」
「祐一、とりあえずこのへんで待ってて。」
「……おう。」
「……うん。」

名雪はオレの顔に小さく頷いて見せると、駆け足で校門から校庭の方へと向かった…思ったより早く。陸上部の部長というのは、確かに嘘じゃないのかもしれない。
その後ろ姿は、またたく間に校舎の横からグラウンドのほうに消えた。

……さて。

「……ふう」

オレは息を突きながら、あたりを見回し…

…見事に、知らない場所だった。
ただでさえ覚えのない街…その上、本当に知らない学校の前。
…待ってて、と言われても…

心細い感じはなかった。
たぶん、それはもうこういうシチュエーション…転校に馴れてしまっているせいだろう。
だが…
 

…時間の潰しようがない…
 

オレは見知らぬ街の見知らぬ高校の前で、しばらく立って待ち…

「……寒い…」

…ますますあたりは冷えてきていた。
冷たい地面の雪から這い上がってくる寒さ…そして、夕暮れの冷たい風。

…凍死するな…このままぼーっと立っていたら。
まあ、それは言い過ぎとしても…せめて風を避けるような…

オレはとりあえず、あたりに風を避けることができそうな場所を捜した。
といって、そんなことができそうな場所は…

見たところ、そんなところは一つしかなかった。
オレはとりあえずコートの前をしっかり握りしめて、その場所…校舎の玄関の方へと歩きだした。
 
 
 

校舎の玄関は、どこも変わらない構造だった。
立ち並ぶげた箱…そして、入ってすぐに階段。その階段の向こうにはずっと続いて見える廊下が、夕暮れの真っ赤な日の中にわずかに沈み、いつもなら響いているはずの学生たちの声は全く聞こえない。
グラウンドを見ても、まだやっているのは…運動部の一部、野球部くらいだろうか?
そんな人気のない校舎の玄関で、たたずむ自分…
…女の子だったら、これはこれで絵になるかもしれないが…野郎のこの姿は、ひょっとしたら間抜けかもしれない。
といって、勝手に行けばいけるのだが…まあ、名雪にはこれからお世話になることだし…媚を売るわけじゃないが、恩は売っておくにこしたことはない。
…って、こんなのが恩になるかというと、激しく疑問だけどな…
さて…

そろそろ帰ってこないかと、グランドを眺める…
…全く来る気配はなく、ただ冷たい風が渡ってくるだけで…

…寒い。
今までこんな寒さ、多分スキー場くらいしか感じたことはないというくらい寒かった。
北海道に転校したことだけは、なかったもんな…

などと考えてる場合じゃなく、オレは態度を決めるしかなかった。
それに、まあ…明後日からお世話になる校舎を見てみるのも悪くはないだろう。もう生徒もいないみたいだし…名雪が帰ってくるまでに出てくればいいし。
…上ばきがないし、スリッパのありかも分からないから、まあ、土足で…いいよな。
オレはそそくさと玄関に入ると、そのままリノリウム張りの廊下へと上がり込んだ。
 
 
 

タン、タン、タン
オレの歩く足音が、次第に赤から黒へと変わっていく廊下に響く。
下足だから響くのか、はたまたこの床がそういう床なのか…ウグイス張りかと思うほど響く足音は、でもひょっとしたらあたりがあまりにも静かだから大きく感じるだけなのかもしれない。
校舎の中は人の声どころか、物音一つしない、ひょっとしたら、実は廃校だと言われても本当かもしれない…そう思ってしまうほどの静けさだった。
わずかに、窓に吹きつける冬の風の音…そして、真っ赤な窓に映るわずかに揺れる木々の枝だけが、この世界がまだ死んでいないことを知らせている…そんな感じすらするような…

…何を考えているのだろう。
オレは思わず苦笑した。
ただの見知らぬ校舎の、夕暮れの風景…生徒たちはほとんど帰って、戸締まりされるちょっと前。
そんな、ある意味ありふれた…実際のところ、似たような学校は前にもあったし、雰囲気だってどこも似たようなものだ。
なのに、なぜそんな変な気持ちがするのだろう?
なんだか、一人この場所に置いてきぼりをくらったような、不思議と切ない気分…

いつの間にか早足になりそうなのを、なんとか堪えながらゆっくりと廊下を歩く。
カツン、カツンと響く足音は、廊下の端に消えて帰っては来ない。
何だか、それが悲しいのか…いや、それとも次第に暗さを増す、夕焼けの色のせいだろうか?
暮れていく夕焼けの赤…次第に黒を増していく窓の外。電気のついていない廊下は、既に薄明かりという程度の明るさでしかなかった。
もうしばらくしたら、多分足下も見えなくなる…

…なぜか、不安感。
そして…同じくらい感じる、暖かな感じ。
例えば、真っ暗な闇の中を一人、歩いているような。
けれど、そばに誰かがいて、手を握っていてくれるような。
それはいつも感じる…夕焼けを見ると感じる気持ち。

分かっている。
これはオレのかすかな記憶の底。
共働きだった両親を待っていた夕暮れ。
帰って来るお母さんを待っている部屋の中。
夕暮れに染まる窓。
やがてドアを開けるお母さん…

きっと、そうだ。
そう、それだけなのだ。

いや。
これは…

いつもにも増して感じる、不思議な不安感…安心感。
行く先に何かが待っているような…行くことが恐いような。
 

……恐い?
オレが?
なんで…?
 

ゆっくりと、意識してゆっくりと、オレは廊下の角を曲がる。
目の前に、二階へと繋がる階段が現われる。
階段の上、踊り場の窓からわずかに夕日がさし込んでいる。
細く差し込む陽…揺れる枝に、揺れる光。

…デジャヴ
オレはこの風景を見たことが…ある。
いや…ない。こんな風景じゃない。
オレはこんなところに…この校舎になど、来たことはない。来たはずはない。
だけど…

不思議な懐かしさと、不思議な恐怖感と共に、オレはゆっくりと階段を上がる。
登りたくはない…でも、登らなきゃいけない。
相反する気持ち。そして…階段に響く、小さなオレの足音。
 

カツン、カツン、カツン…
 

どこかで聞こえる風の音。

いや、そんな音は聞こえない。
だのに、なぜか聞こえるその音は…

…オレを呼んでいる?
誰だ?
オレを…
……ぼくを呼ぶのは…
 

おかあ……さん……?

いや、違う…
でも、暖かい、その声は…
 
 
 

カツン、カツン……カツン
 

やがて、階段は終わりを迎え……
 
 
 

「………」
 
 
 

それは唐突な光景。
今まで誰もいなかった、静かな校舎の中。
いや、静かなのは変わらない…真っ赤から真っ黒に染まっていく階段は、今も静けさの中にある…
…しかし、そこには誰もいないのではない。
オレ以外に誰もいないと思っていた校舎の中、それも階段の行き止まり、真っ赤に染まった屋上へのドアの前、踊り場にたたずむ、黒いシルエット。
オレは言葉もなく、ただ見上げた。

シルエットはやがて、ゆっくりと動きだした。
そして、オレに振り返った…
 

それは一人の少女。
すらりと背の高い、その姿。
振り返った動きに連れて動く、腰まである髪。その中ほどに多分…紺のリボンが、真っ赤な夕日に染まって揺れていた。
左手には、学生鞄。右手にしているのは…長い、棒のような何か…
その顔は、しかしシルエットになって表情は見えなかった。

オレは何も言えず、ただ黙って少女を見上げていた。

恐かったわけじゃない。それだけは感じなかった。
でも、なぜか言葉を出すことが、オレにはできなくて。
ただ、少女の顔を見上げて…

少女のシルエットは、ゆっくりと動きだした。
踊り場から、ゆっくりと足を踏みだした。
そして、ゆっくりと…

……いや…
 

ダダダダダンッ
 

…いきなり、最後の数段を飛び降りると、その少女はオレの目の前にいた。
思ったよりはないが、オレよりちょっと低いだけくらいの目線…オレを見つめている、大きな瞳。
とはいえ、同じ大きな瞳と言っても、名雪とはちょっと違う…多分、オレより一個上くらいだろうか?少しだけ、落ち着いたような、その表情…
…落ち着いた?いや、多分、それは…
 

「……こんにちわ。」
 

少女の口が開くと、一つの言葉を紡ぎだした。
少し低い声。でも、ハスキーではない。
ちょっと落ち着きのある、その口調…
 

「……こんにちわ。」
 

もう一度、少女の声。
それがオレに向けられていることに、オレはようやく気がついた。

「……あ、こんにちわ」

あわてて、オレは答えた。
…心の片隅で、どこかアンバランスなものを感じながら。
思えば、今はもう夕暮れ…『こんにちわ』という時間じゃないのに…

オレの思いをよそに、少女はオレの言葉に、まじまじとオレの顔を見つめた。
いや、その前から少女はオレの顔をまじまじと見ていた。
そして、少女は、わずかに頷いた。

「こんにちわ。」

少女はもう一度、はっきりと言った。
そして、いきなり手を伸ばすと、オレの手を握った。

バタン

少女が手から離した鞄が床に転がる。
でも、少女は気にする様子もなく、右手からも手にしていた棒のようなもの、何かの入った長い袋を床に落とすと、オレの手を両手で握りしめた。
そして、その手を握ったまま、手を振りだした。うれしそうに…
そう、うれしそうに手を振った。うれしそうに微笑んで、少女は握ったオレの手をぶんぶんと振った。
…はっきり言って、痛かった。
少女は思ったよりも力があって、オレは呆然と腕を…

「……って、ちょっと!」

と、やっと驚きから覚めて、オレは腕を引っ張って少女の手から引き剥がした。
そして、ともかく後ろに下がると

「な、何すんだよ、いきなり…」

「……え?」

オレの言葉に、少女は驚いたように声を上げた。
いや、驚いていた。
ポカンと言う感じで口をあけたまま、少女はオレの顔を大きな瞳で見ていた。

「…だから…」
「………」
「…い、痛いんだけど、急に捕まれると…」
「………」

オレの言葉に、でも少女は口をあけたまま、オレを見つめていた。
と、少女はふいに手で顔を多うと、パンパンっと音がするほど、その手で顔を叩いて

「………そうだったね。ごめんなさい。」
「……あ、いや…」
「…びっくりしたでしょ?」

言いながら少女はにっこりと微笑んだ。
…そうして笑うと、なんだかオレと同じか、一つ下くらいに見えた。

「………ああ。」
「…ごめんなさい。」

少女はもう一度言うと、ぴょこっと頭を下げた。
そして、顔を上げるとまたにっこりと微笑んで

「…えっと、初めまして。わたし…」
 

「……舞…?」
 

その時、オレの後ろから小さな声。
オレはびっくりして、あわてて振り返った。

「………?」

「……えっと…」

その声の主は階段横の廊下の角から、わずかに身を隠すようにオレの方を見ていた。
…いや、正確にはオレの前の少女を見ていたというべきか。

「…ごめんなさい。お邪魔だったみたい…」

「あはは。違うよ、佐祐理…そんなんじゃ。」

そのまま、角から向こうに行きかけた彼女を、さっきの少女がそう言いながら駆けよって止めた。

「でも…」
「だから、いいんだってば。」

さっきの少女は手を振ってそう言うと、ちょっと首を傾げて彼女の後ろ手にした鞄を覗き込むようにしながら

「……忘れ物、見つかった?」
「…あ、ええ…」
「そう。よかった。」

少女がそう言ってにっこり笑うと、彼女も少しはにかむように微笑んだ。
見ると、多分…背は少女の方が少し高いくらいか…同じくらいだろう。
少女と同じくらい長い髪…でも、わずかに残った夕暮れの光に、その髪は真っ黒でなく、わずかに薄く…多分、栗色という感じだろうか?
少女のとは違う、緑のチェックのリボンが、髪をふんわりと縛っていた。
そして、何よりも違うのは、その雰囲気…少女の雰囲気も最初は物静かだったが、それは今となっては…そうは見えなかった。
でも、彼女は…多分、少女に比べると落ち着いた様子…というか、少しとまどうような、そんな表情を浮かべてオレを見ていた。

「……で、この方は…」
「…あ、うん。」

そんな二人はオレの方へと向き直ると、少女の方がオレを見ながらまたにっこり微笑みながら

「…初めまして。わたし、川澄舞。」
「……初めまして。倉田佐祐理です。」

「……あ、ああ…」

オレは自己紹介が始まったということに、その時点でやっと気付いて、あわてて

「…オレは、相沢祐一。」

オレが名前を言うと、なぜだか少女…舞は小さく頷いた。
倉田さんは、そんな舞をやはり不思議そうに見つめると

「…ねえ、舞?」
「…うん?」
「…そちらの相沢さんと、いったい…」
 
 
 
 

「…ゆういち〜〜〜〜〜」
 
 
 

その時、階段の下から小さな、しかし確かにオレを呼ぶ声。
そして、その声に羽織れは、聞き覚えが…

「……あっ」

しまった…
考えてみたら、オレはこの校舎の前で、待ち合わせをしているんだった。
ちょっと時間を潰すつもりが…

「…ゆういち〜〜〜〜」

またもオレを呼ぶ声。
そして、バタバタと下の廊下を駆ける足音。

「………」
「………」
「………」

オレの顔を見ながら、舞と倉田さんはオレの顔を見つめた。
そして次の瞬間、舞がすうっと大きく息を吸うと
 

「……祐一くんなら、こっち」
 

少し低い、でも通る声が廊下に、階段に響いた。
次の瞬間、ばたばた駆ける音は階段の真下から聞こえると、その足音はすぐに間近まで近づいて来た。
そして、すっかり暗い階段の角から、乱れた長い黒髪の名雪の頭が現われた。

「…祐一?」
「……おう。」

角を曲がった踊り場で立ち止まった名雪は、オレを見上げて不思議そうな顔をしていた。
オレはそんな名雪にちょっと手をあげると、肩をすくめてみせて

「…寒かったからな。避難してた。」
「………」
「しかし、よく見つけたよな、こんなとこ…」
「………」

オレは思わず愛想笑いをしながら、上がってくる名雪を待ちうけた。
けれど、名雪はオレを見上げ、不思議そうな顔で首を傾げた。
それから、パタパタと階段を駆け登ると、オレの前を通り過ぎ、舞と倉田さんの前へ進むと、ぴょこっと頭を下げた。

「…こんばんわ、会長。川澄先輩。」
「……こんばんわ。」
「こんばんわ。」

名雪のあいさつに、二人は頭を下げて…

…会長?
えっと…

オレは訳が分からず、名雪の顔を見た。
名雪は頭を上げると、オレにびっくりした顔で振り返って

「…祐一、会長や川澄先輩と…知り合いだったの?」
「……そんな覚えはない。」
「…佐祐理もです。」
「………」

頷く佐祐理さん…一方、舞は無言のまま、名雪の顔を見つめていた。
名雪は驚いた顔でもう一度、オレの顔と倉田さん、そして舞の顔を見比べて

「…じゃあ…?」
「……それは、だな…」

「……そういうあなたは、お名前は?」

と、その時黙っていた舞が、名雪の顔を見つめるようにしながら聞いた。
名雪はあわてて大きく頷くと、ちょっと頭を掻いて

「…あ、はい。わたしは水瀬名雪です。えっと…」
「…陸上部の現部長。ですね?」
「あ、はい。」

倉田さんの言葉に、名雪は大きく頷いた。
それから、オレに振り返ると二人の方を手で示しながら

「えっと、祐一。こちらが生徒会長の倉田佐祐理さん。そして、弓道部主将の…」
「…元、だけどね。」

と、そこで舞が、さっきまでのように笑みを浮かべながら口を挟んで、

「こんな時間まで、水瀬さん、部活?」
「……えっと…はい。」

名雪はちょっと迷ったが、とりあえず頷いて

「お二人は…」
「ああ、わたしたちはね…」

舞は頷くと、倉田さんの方を顎でちらっと差すようにしながら

「…例によって、佐祐理が忘れ物したので取りに来たんだけどね。」
「……ちょっと、舞…」

倉田さんはちょっとあわてて舞に抗議したが、舞はわざと肩をすくめて見せながら

「だって、ホントにいつもだもん。」
「……それは…」
「…言い訳、できる?」
「………」

倉田さんは、ちょっと顔を赤らめて黙り込んでしまった。
…倉田さんは落ち着いた物腰のお嬢様と思ったが、思ったよりもドジな人らしかった。
一方、舞の方は…うーん、なんていうか…

「…さてと」

と、その時、舞が伸びをすると、つぶやくように

「水瀬さん、そろそろ玄関、閉まっちゃうけど?」
「……あっ」

舞の言葉に、名雪は思い出したという風に口を手で覆うと、あわててオレの方に振り返った。

「…祐一、帰ろ。」
「…ていうか、オレが待たされてたんだろうが。」
「……うーー」
「大体が、オレは変えるんじゃなくって、ともかく…」

「…お二人とも、おしゃべりはいいですから、早くお帰りになった方がいいと思いますよ。」

「…あ、はい。」
「……はい。」

静かな、しかし少し威厳を感じる倉田さんの声に、思わずオレと名雪は頷いた。

「…そうします。では…」
「…では、さようなら。」

倉田さんは小さく頷いた。
名雪は、そんな倉田さんに頭を下げて

「さようなら、倉田会長、川澄先輩。」

「……じゃあね、祐一くん。」

舞は、一言そう言った。

「……おう」

オレは頷いて、振り返ると階段を降り始めた。
すっかり夕闇の中、足下も見えなくなってきた階段を降りていった。

「…待ってよ」

名雪がオレの後ろ、パタパタと階段をオレの前まで駆け降ると、振り返った。

「……ねえ、祐一?」
「……ああ。」
「…川澄先輩と…知り合い?」
「違うって。」
「………」

きっぱり言ったが、名雪はオレの顔をのぞき込むように見た。

…まあ、信じないのも分かる。
なぜだか知らないが、舞…あの川澄舞という少女、オレのことを最初っから『祐一』と呼び捨てだからな。
でも、誰にでもそうじゃないらしい…それは名雪のことを『名雪』とは呼ばず、『水瀬さん』と呼んだことからも分かるし、大体がそんな軽い感じの雰囲気の女の子じゃない…

……いや…そうだろうか?
舞は…

…その時、オレは自分があの少女、川澄舞のことを、『川澄先輩』とも『川澄さん』とも呼ばず、『舞』と呼び捨てにしていることに初めて気がついた。
いや、それはきっと舞がオレのことを『祐一くん』と親しげに言っているから…

…でも…
 

オレは立ち止まって、階上を見上げた。
舞と倉田さんは、まだ上の階で何やら話をしているようで、わずかに漏れる声だけが階段に響いていた。
少し高い声…多分、倉田さん。そして、その声には盛るように聞こえる、ちょっと低い通る声…舞。
遠く聞こえるその声は、かすかに、わずかに、でも耳に…
 
 

『……いつか、きっと…』
 
 

闇の中の声。
遠い記憶の言葉。
きっとそれは幻。
いや、それは忘れてしまった思い出の…
 
 
 

「……祐一?」

「……あ……あ?」

声にあわてて振り返ると、名雪が階段の少し下、不思議そうにオレを見上げていた。

「……どうかした?」
「……いや。なんでも…ない。」

多分、何でもない…こと。
多分、いつものデジャヴ。
夕暮れに感じる、それは懐かしい見知らぬ感じ。
そう、いつだって…夕暮れはそう…

「……でも、声が聞こえたから、もしやと思ったらいて…良かったよ。」

オレは階段を降りながら、多分、少しぼんやりしていたのだろう。
名雪の言葉は、オレの耳から入っては、通り過ぎていく。

「それにしても…」

名雪の言葉をぼんやり聞きながら、オレはもう一度振り返ってみた。
見知らぬ校舎を。
見知らぬ夕暮れの景色を。
かすかに聞こえる階段の上の光景を。
そこに立っている舞のことを
 

舞のことを、思い出していた。
不思議な感覚の中、思いだしていた。
初めて会った舞のことを、オレは懐かしく思いだしていた。
なぜだか知ってるような…よく知っているようなその顔を、声を
そう、まるでオレの一部のように懐かしく

オレは思い出していた。
思い出せないまま
思い出していた。
 

<to be continued>

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