舞SSのようでそうでないような…Kanonパラレルワールド系SSもどきです。

では、どうぞ
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   声がする
   夢から覚める前
   白い光の中

   声がする
   優しい
   だけど悲しい

   だけど

   思い出せない
   その声も
   その言葉も

   なぜ思い出すことができないのか
   なぜ思い出してはいけないのか
   思い出せない
   僕には

   思い出せない
 
 

    いつか会えるから、きっと

 

        3.今日もいい日だね 前編

 

 

1月 8日 金曜日
 

わずかに開けた目に映った風景は、見知らぬ、でも見知った風景。
二日目の目覚めは、少しだけこの部屋にも慣れた気がする…吐く息が白い気がするのは、さすがにまだまだ慣れないたわけじゃないが。

「…よしっ」

声を自分にかけて、布団から出る。
布団の中に比べれば、部屋は無茶苦茶寒い。でも、おかげではっきりと目が覚めたオレは、とりあえず窓のカーテンを開けた。

シャッ

「……はあ。」

思わずため息が出たのは、変わらない白一色の景色のせい。
分かってはいるが…戸を開けるまでもなく染み込んでくる寒さに、自分が雪国に来てしまったことを嫌でも実感する。
選択肢を間違えた…一昨日より何度と無く浮かんでくる考えを、オレはちょっと震えながらも頭を振って追い払った。
他に選択肢なんて無かったんだし…それに、前にも何度か来たこともあることだし、きっとそのうち…多分…

オレはとりあえず伸びをしながら、ベッドに振り返った。
そして、ともかくも時間を確かめようと、枕元の腕時計に…
 

ピピッピピッピピッピピッ……
 

と、小さな電子音。多分、めざましの音。
音からすると、多分、その音は隣の名雪の部屋の…
 

ピピピピッピピピピッピピピピッピピピピッ……
 

音は次第に大きくなってくる。
とりあえず、名雪の目覚ましだとすれば、時間的にはちょうどいい…
 

ジリリリリリリリリリリリリリリ
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
 

…二つめ?
あいつ、時計を二つ使ってるのか?
まあ、昨日の様子といい、秋子さんの話からしても寝起きが悪いのは分かるが、でも2つも…
 

ジリリリリリリリリリリリリリリ
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
ピンポン ピンポン ピンポン ピンポンピンポン
 

…玄関のベル?
いや、でも、音は確かに隣からしている。
ていうことは、3つ…
 

ジリリリリリリリリリリリリリリ
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
ピンポン ピンポン ピンポン ピンポンピンポン
ジリリリリリリリリリリリリリリ
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
 

…いや、3つというか…音が重なってるけど、多分4つ…いや、5つ…いや…
って、数えてる場合かっ

「こらっ、名雪っ!」

オレはあわててイスにかけておいた上着を羽織ると、とりあえず廊下へと飛び出した。
そして、隣室のドアを叩くと

「おい、起きてるんだろっ?近所迷惑だ、目覚ましを消せっ!!」
「………」
「名雪っ! うるさいぞ、消せよ! 起きてるんだろ?」
「………」
「名雪っ!!」
「………………」

この騒音(?)で聞こえないんだか、あるいはまさか…
オレはとりあえず、名雪の部屋のドアノブを引っ張ってみた。

カチッ

ドアは案に相違して鍵が掛かってなかった…まあ、あいつのことだから、掛けてないと思ったが。
オレはドアを開けると、いっそう増した騒音の中、部屋に首を突っ込んだ。

「おい、名雪っ」
「………くー」

寝てるよ…ぐっすり…
呆れたことに、名雪はこの騒音の中、全く起きる様子もなくぬいぐるみ…多分、カエルらしい大きなぬいぐるみを抱えて安眠の真っ最中だった。よく見れば、ベッドの周りには、目覚ましが4つ…いや、5つ…6…
…そんなことはどうでもいい、とりあえず6つ以上の目覚ましが、けたたましく鳴り響いていた。

「こら、名雪っ!起きろってばよっ!!」
「…うにゅう」
「うにゅう、じゃない! 朝だっ!」
「…くー」
「くー、じゃないっ! 朝だっ!」
「…すー」
「すーじゃないっ、このっ…ボケ名雪っ!!起きろっっっっっ!!!!!!」
「…………ふわぁぁ」

おれのその声がさすがに大きかったせいか、はたまたこの騒音がようやく功を奏したのか、名雪は布団の中でその目をゆっくりと開いた。そして、ゆっくりゆっくり体を起こすと

「………祐一?」
「そうだっ」
「うにゅ…おはようございまふぁ〜」

答えているその声も、途中から台詞があくびにとって代わられる。

「…いいから、目覚ましを切れっ」
「…え? なに?聞こえないよ?」
「目覚ましを切れっ、目覚ましをっ!」
「……え?」
「目覚ましだ、め・ざ・ま・し!」
「…ん」

やっと会話の意味が通じたらしく、名雪はゆっくりと、それでも慣れた様子でひとつひとつ目覚ましのスイッチをオフにしていく。
そして、ようやく目覚ましの音が全て消えたところでオレに振り返ると

「どうしたの…祐一…?」
「…どうしたのじゃないぞ、名雪…」

思わず脱力しながら、とりあえず、オレは名雪に事情を説明して

「人が気持ちよく起きてたっていうのに、隣からどう考えても近所迷惑な騒音がしたから飛んできたんだ。」
「…騒音? わたしの部屋から?」
「そうだっ。あれだけの目覚ましがいっぺんになったら、それは騒音というもんだ。」
「…あ、そうか。」

ようやく名雪は納得したのか、ポンっと手を叩くとちょっと目を伏せた。

「うー…ごめんね…わたし…ふわぁ…朝、弱くて…」
「言ってるそばからあくびになってるだろうがっ。 ったく、弱いったって、限度があるだろ。」
「でも、弱いんだもん…」
「…まあ、それはよーく分かったよ。」
「…うん。」
「あと、神経が鈍いってこともな。」
「……うー」

名雪はちょっと不満そうな顔をしたが、すぐにちらっと時計を見ると

「あ、えっと…」
「……?」
「まだ、大丈夫なんだけど…すぐに支度するから、先に朝ご飯食べてて…」
「…そうだな。」

時計を見ると、確かにそう悠長にはしていられない時間だった。

「わかったから、急げよ」
「…うん」

名雪はこっくりうなずいた。
オレはとりあえず、着替えようと自分の部屋に…

…いや、待て。
今、何か変な音がしなかったか? 音ていうか、何か…

「………くー」
「…おいっ!」

オレはあわてて戻ると、まだあいていたドアから中を覗き込んだ。

「名雪、寝てるだろっ!」
「……んっ?」

…やっぱり眠ってるし。

「…あれ?」
「あれ、じゃない。」
「…うにゅ?」
「………いいから、早く着替えろよ。」
「あ…うん。」
「…ちなみに、寝たままじゃ着替えられないと思うが。」
「……も、もちろんだよ。分かってるよ、祐一。」
「………」

ようやく起き上がって答えた名雪に、オレは肩をすくめただけで自分の部屋に戻った。そして、またも静かになった隣室の様子に思わず息をつきながら、思った。

…とりあえず、名雪はあてにしないでおこう。
まあ、学校までの道は分かってるんだし…
 
 
 

「…おはようございます、祐一さん」

ダイニングに入ると、すぐに秋子さんの声。秋子さんはテーブルの前に座り、湯気の上がるカップをちょうど置いたところだった。

「…おはようございます。」

オレは秋子さんに小さく頭を下げながら、あたりを見回した。
…やっぱり…

「…名雪は、やっぱり起きなかったんですね。」
「…え? あ、ああ…」

秋子さんの言葉に、オレは肩をすくめるしかなかった。
オレが着替えを終わって部屋を出た時には、また隣室は静かになっていた。ひょっとしたら先に降りたんじゃないかと思っていたが…

「…やっぱりオレには無理でした、名雪を起こすのは。」
「ええ。分かってます。」

秋子さんはニッコリうなずくと、カップを抱えて立ち上がった。
そしてそのまま、キッチンへ歩きだすと

「朝食は、トーストでいいですか?」
「…え、ええ…」
「朝ですから、やっぱりコーヒーの方がいいんですよね?」
「はあ…」
「すぐにできますから。」
「…ええ、でも…」

悠々とオレの朝食を作りだした秋子さんに、オレは思わず聞いてみた。

「…名雪、起こさなくていいんですか?」
「…わたしが、ですか?」
「はい。」
「……それで起きるなら、起こしますけど…」

そういいながら、秋子さんは軽くナイフでスライスしたパンをオーブンに入れながら

「…無駄ですから。」
「……はあ。」
「…でも、あの子、学校に送れることは滅多に無いんですよ。」

そういって、秋子さんはオレの前にカップを置くとコーヒーを注いだ。
…この時間で起きてこないのに、間に合うとは…名雪の足が、オレの想像以上に早いのだとしか思えない。
にしても、それでいいのか?もうちょっと…
オレはそんなことを思いながら、またキッチンに戻った秋子さんの後ろ姿を見た。
秋子さんは変わらずゆっくりとオーブンからトーストを取り出すと、振り向いて

「バタートーストがいいですか? それとも、何かジャムでも…」
「…あ、いえ、バタートーストにしてください。」
「はい。」

秋子さんはうなずくと、バターナイフで軽やかにバターを切りだしてパンにわずかに音をたてて塗りだした。

「………」

名雪を本当に起こさなくていいのか…オレはもうちょっとそのことを秋子さんに聞こうと思いながら、そんな秋子さんの姿を見ていた…そして、そのサラサラという音を聴いているうちに、いつの間にかそんな気持ちがなくなっていくのを感じていた。
多分…この内はいつもこんな感じなのだろう。オレがいても…オレがいない時も…

「…はい、どうぞ。」

気がつくと、秋子さんの声とともに目の前に皿。
オレの前に置かれた皿には、バタートーストが載っていた。

「…あ、どうも。」
「さめないうちに、どうぞ。」

目の前のトーストからはバターと焼けたトーストの甘い臭い、そしてコーヒーの苦い匂い。それに混ざるように、かすかに昨日のハーブーティーの不思議な香り…

「いただきます。」

さっそくトーストをかじる。

「…どうぞ。」

秋子さんはにっこり笑うと、ゆっくりと机の向こう、オレの正面に腰をおろす。その手には、多分例のハーブティーらしいカップ。
コーヒーもいいが、あのハーブティーでも良かったかもしれない…

「…おかわりに、このお茶は?」
「あ、いや…そこまでは、時間が…」
「…そうですね。」

うなずく秋子さん。でも、まだ名雪は起きてきてないんですけど…
…まあ、あいつは何とかなるんだろう。秋子さんの言葉のせいか、なぜかそんな気になる。
多分、大丈夫。多分…

「…前からでしたかね、名雪の寝坊は…?」
「…そうですね。」

オレの問いに、秋子さんは微笑みながら大きくうなずいた。
多分、そのせいなのだろう。
多分、前にもこんなことがあって…いや、こんな朝が前にも…多分…

「…変わらないんですよね…」
「…え?」

思わず、オレはそんなことを口に出していたらしい。秋子さんが少し不思議そうにオレの顔を見つめていた。

「…あ、いや…」

オレはなんて言っていいか、思わずトーストをもう一口。

「その…きっと、この家の朝の風景って、いつもこうなんだろうな…ってなんか思ってしまったもので。で、思わず。」
「…そうですね。」

我ながらちょっとおかしな答えに、でも秋子さんはまったくかわらず微笑んだまま

「ええ。変わらないです。」
「何だろうなと思いました。なんか、それがホッとするというか…なんか、不思議に落ち着く感じで…」
「………」
「…なんか、前から知っていたような、前にもあったような…」
「……前から、そうですから。」

少しだけ、『前から』のところに力をこめて秋子さんが言った。そして、なぜか目を落とすと、カップのお茶を一口飲んで

「…前から…あの頃から、変わってませんから。でも、祐一さん、あなたは…ホッとする、そう感じるのですか…?」
「……え、ええ…」
「…そうですか…」

なぜか真剣な眼差しの秋子さん。
オレは、でも感じたとおり答えるしかない。

「…では…」

そんなオレに、秋子さんは真剣な顔のまま、続けて

「…祐一さん、あなた…本当に覚えていないのですか?あの時のこと…」
「………」
「……あの時、あなたがなぜ、ここに、この家に来ていたのか…それも…?」

オレが…あの時?
あの…
 

夕暮れ
落ちてゆく夕日
なぜか悲しい
なぜか懐かしい

夕日
風の音

そして、その先にオレンジの
オレンジ色の……
 

「…思い出せません。」
 

頭の中は、霞がかかったようにはっきりしない何か。
それ以上は…思い出せない。
いつの間にか、オレは目をつぶっていた。
目をつぶったまま、オレは首を振っていた。

「…そうですか。」
「ええ。オレは…思い出せないです。まだ…」

…まだ…
多分、まだ、オレは…

「……おはようございまーふ」

間の抜けた声が後ろから聞こえた。
振り返ると、名雪がパジャマ姿のまま、寝ぼけ眼でダイニングの入り口に立っていた。

「…うにゅ」
「…いきなり、それかい。」
「…おはよう、名雪。」
「…おはようございまーふ」

秋子さんにもう一度あくびをしながら答えた名雪は、そのままオレの隣のイスに座った…というか、崩れ落ちた。

「…くぅ」
「いきなり、寝るなっ!」
「……寝てないよぅ」
「寝てない目か、それがっ」
「……もともとだよ、祐一…」
「嘘つけっ」
「…ふわぁ」

寝ぼけ眼の名雪は、全くオレの言葉なんて聞いてない風にまたあくびを一つすると

「…お母さん、トーストお願い。」
「はいはい。」
「イチゴジャムね、イチゴジャム。」
「ええ、分かってますよ。」

秋子さんはうなずくと、席を立った。
名雪は寝ぼけ眼のまま、それでも幸せそうな顔で

「いちごっ、いちごっ」
「…はい、どうぞ。」

すぐにトーストとイチゴジャムらしいビンを持ってきた秋子さんに、名雪はにっこり微笑むとビンを開け、スプーンをどっぷり突っ込んだ。

「ジャム〜、イチゴジャム〜」

そして、妙な歌を歌いながらジャムをトーストにどっさりとつける。
…というか、ジャムがトーストの上、1センチとか積もってないか?

「……つけ過ぎじゃないか、それは。」
「…だって、イチゴジャムだもの。」

意味不明な事を言いながら、名雪はとろんとした目で、ジャムのたっぷりとのったパンを口に持っていく。
はぐ、とパンの隅っこをかじる。

「おいしい…」

そして、本当に幸せそうな顔になって

「わたし、イチゴジャムがあったらご飯3杯は食べられるよ」
「…ていうか、それはトーストだ。」
「でも、食べられるもの。」
「普通は食べないと思うぞ。」
「…だって、イチゴジャムだもの。」
「………そうか、そうか。よかったな。」

そんなことを言いながら幸せそうにゆっくりトーストをかじる名雪の顔を見ながら、オレは思わず苦笑しながら立ち上がった。

「じゃあ、オレは行くからな。」
「え?」

トーストを咥えたまま、名雪は初めて目を見開いてオレの顔を見上げた。

「…もう?」
「ていうか、とっくに行かなきゃならない時間だろ。」
「…そんなことないよ。」

そう言いながら、名雪はダイニングの時計を振り返って

「大丈夫だよ、まだ。」
「…走ればな。」
「ちょっとだよ。」
「…オレは朝から走るのは好きじゃないんだ。」

ちょっとどころか…これから朝食の名雪に付きあっていては、多分全速でギリギリが関の山だろう。朝っぱらからそれは勘弁してほしい。

「ともかく、オレは行くからな。」
「…でも、初登校だもの、一緒に行けば…」
「学校への道はもう分かってるから。」
「…もうちょっと待ってくれれば…」
「……もうちょっとって、あと何時間だ?」
「…そんなには掛からないよ。」
「じゃあ、あと10秒。」
「…それは無理だよ。」
「食パン1枚くらい、10秒あれば食える」
「それ、無理…」
「じゃあ、パンをくわえながら登校。」
「嫌だよ」
「漫画とかではおなじみのシーンだろ」
「そんな恥ずかしい人、現実にはいないよ」
「そんなことはない。オレはたまにしてたぞ。」
「それは祐一だけだよ…」
「いや、きっとお前にもできる。ガンバレっ」
「そんなことで頑張りたくないよ…」
「………クスッ」

その時、今まで黙ってみていたらしい秋子さんが、クスクス笑いながら

「…それより、行かないんですか、祐一さん?」
「あ…ええ。」

あわてて時計を見ると…
危ない、危ない。もうそろそろ余裕がない時間だった。

「じゃあ、行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい。」
「…冷たいよ、祐一…」
「だったら、もうちょっと早く起きろ。」
「…うー」

まだ唸っている名雪を無視して、オレはダイニングを出ていった。
出るまぎわ、ちらっと見た秋子さんの顔は…さっきの真剣な顔とは違う、いつもの笑みが浮かんでいた。
 
 
 

「…行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
「…行ってらっしゃい。」

ダイニングからの秋子さん、そして名雪の声を背に、玄関のドアを開ける。

「………はあ」

思わず出るため息は、もちろん、広がった白一色の雪景色のせい。
…吐く息も、例によって白いけどな。

まあ、そんなことを言っててもしょうがない。第一、そこまでゆっくりしてられるほど、余裕があるわけでもない。これで走る羽目にでもなったら、名雪を置いてきた意味がない。
オレは小さく頭を振りながら、白い雪の中に足を踏みだした。

サクッ

凍った雪の、ザラメのような感触。道路の雪は車と人に踏み固められて凍りつき、気をつけていないと時々滑りそうになる。
思えば、昨日、雪用の靴を何か買ってくれば良かったのに、忘れていたことが悔やまれる。
このまま行くしかないか…
…いや、待てよ。

サクッサクッサクッ

道の端、まだ踏み固められていない雪の上を歩いてみる。
何か、新雪を喜んで歩いてる子供みたいだが、こっちの方が滑らなくっていいかも。
というか、まあ子供の頃にこんな雪、踏んだ覚えはないけれど…

サクッサクッサクッ

とりあえず、まぶしさに目を細めながら、雪の上に足跡をつけて歩き出す。空は快晴。雪は朝の光を受けて白く輝いている。
水瀬家の前の細い路地から広い通りへと歩いていくと、通勤中のサラリーマンや通学中の学生らしい姿がぽつぽつと現れた。学生たちの中には、オレが行く高校と同じ制服の姿もちらほら見えるが、もちろんその中にオレの知った顔はない…ていうか、あるわけがない。

もう慣れたとはいえ、例によって全てがゼロから始まる毎度毎度の転校生活が、また始まったんだな…そう思うと、思わずため息が出てしまう。
いつものように知った顔の一人もいない教室で、とりあえず名前を覚えてもらうことから始まる転校生活。なんとか友達を作った頃には、また転校になったりして…
思えば、本当に親友と呼べるような、今でも手紙や電話で付き合いのある奴が、何人いるだろう?まして、恋人なんて…
…まあ、別にほしいとは思わずに来たんだけどな。いや、負け惜しみだけじゃなくて。
なぜかだろう?どこへ行っても、別に女の子が嫌いなわけじゃないし、好かれなかったわけでもない。だけど、深く付き合った、いわゆる恋人って奴はできなかったし、そうなりたいと思った女の子も別にいなかったんだよな…なんでかな…
……ひょっとしたら、オレってやっぱり、マザコン…
 

「…おはよう、祐一くん!」
 

いきなり、耳元で大きな声。
びっくりしたオレは、思わず2、3歩後ずさって…

「……!!」

下がった足の下、ふいにザラメ雪の感触が消え、固い氷の感触。
す、滑るっ!

「キャッ」
「ぐはっ」

…セーフ。
誰かが支えてくれたお蔭で、オレは危うくコケずにすんだ。
思わず一つ息をつきながら、オレは支えてくれた人の方を振り返った。

「ど、どうもすいません。」
「…いえ、どういたしまして。」

オレの言葉に、同じくホウッと息をつきながら答えた人は……柔らかい感触、細い腕、腰までの長い栗色の髪、緑のチェックのリボン…

「…く、倉田さん…」
「…危なかったですね、相沢さん。」

倉田さんはにっこり笑いながらそう言った。
でも、まだオレの腕を支えるように持っているその細い腕は、わずかに震えていた。
その上、ちょっと顔色が赤いような…

「あ、ど、どうもすいません。」

オレは言いながら、柔らかい感触のまだ残る腕を…
…柔らかい感触?
えっと…

「………」
「………」

オレは自分の腕の方を、ゆっくりと見やった。
オレの腕は…佐祐理さんが腕で支えるように…抱きかかえるように…
…抱きかかえる…

「……いつまでそんな…祐一くんのスケベっ!」
バシッ

その時、大きな音とともに後頭部に痛みが走った。

「痛ってえ…」
「いいから、離れなさいっ! スケベっ」

そんなことを言いながら、目の前がチカチカしてるオレを誰かが引っ張る。
…ていうか、誰かは分かっているけどな…

「…って、痛いってばよっ、舞っ!」
「当たり前でしょ! スケベへの天誅よっ!」
「て、天誅…」
「ま、舞…よしなさい、舞」

まだぐいぐいと引っ張っていこうとする舞を、倉田さんが止めた。

「もう…どうしてそういうことを言うの。」
「だって…祐一くん、スケベなんだもの。」
「ス…って、別に相沢君は悪気があったわけじゃないでしょう?」
「ううん。あったに決まってる。」
「おいっ」
「ね、佐祐理も被害にあったわけだし」
「わたしは別に…不可抗力ですから。
「…顔、まだ赤いよ、佐祐理。」
「………」

確かに、倉田さんの顔はまだ少し赤い。

「…そ、そんなことはいいとして」

倉田さんは、まだ少し赤い顔をぶんぶんと振ると舞に向き直って

「だいたい、元はと言えば舞が相沢さんを驚かせたせいでしょう?」
「…祐一くんが、ぼーっと歩いてるから。」
「別にぼーっと歩いてたわけじゃない。」
「歩いてたよ。」

舞はオレの顔を見ながら、小さく首を振ってみせて

「だって、じゃなきゃどうしてわたしが追いついて、追い越したのに気がつかなかったのよ?」
「…そ、それは…」
「ほら。やっぱりぼーっとしてたんだ。」

まあ…ぼーっとしてたつもりはないが、少し考え事をしていたことは確かだ。
確かだが…しかし…

「…だからって、痴漢呼ばわりはないだろ?」
「だって…現に佐祐理にしたじゃない。」
「……あのなあ。」

オレは舞の顔を見つめると、大きく一つ、息を吸い込んで

「だったら、考えてみろっ! ぼーっとしててお前が追い越したのも気がつかなかったようなこのオレが、どうして倉田さんにわざと痴漢行為ができるんだ? え?」
「…それは…」
「倉田さんが後ろにいるのが分かってないと、わざと倒れかかったり、そういう行為をしたりはできないんじゃないのか?」
「…それは…」
「それは、なんだっ?」
「……それは……」

舞は口ごもった。
オレはそんな舞を睨みながら、思わず詰め寄るように

「それは?」
「………祐一くんが、スケベだから。」
「おいっ!」
「…あ、あの…ちょっと、舞…相沢さん?」

その時、思わず舞に詰め寄ろうとしたオレ、そして舞に、倉田さんがうつむきながら小さな声で

「……みんなが、見てます…」
「………え」
「………あ」

あわてて振り返ると、そこには少し困った顔でうつむいた倉田さんと、そしてその後ろ、くすくす笑いながらおれたちを見ている人たち…その中には舞や倉田さん、そしてオレと同じ制服、つまりは同じ学校の生徒たちの姿があった。
…ぐはっ

「……さて、さっさと学校行かないと。ほら、行くぞ、舞。」
「そ、そうね。急がないと遅れちゃうかも。」
「え、ええ。行きましょう。」

オレ達は、何事もなかったように…自分でもわざとらしい言い方になってるのは分かっていたが…うなずきあいながら、さりげなく学校へと歩きだした。
…いや、さりげなくじゃなく、早足で、だったが…
 
 
 
 

「……恥ずかしかった。」
「それはオレのセリフだっ!」
「本当に…」
「誰のせいだと思ってるんだ、舞っ」
「……祐一くん。」
「おいっ」
「…ふふふ」

倉田さんのクスクス笑いに、オレは溜め息をついて肩をすくめるしかなかった。
ていうか、なんか昨日もおんなじような会話してたような気がする…

あれから3人とも無言で、しばらく歩き続けた頃。あたりにはまだ人影はあったが、さっきよりは少ない。
オレ達は取りあえず雪道を歩きながら、その足を少しだけ緩めていた。
あたりは先ほどの人通りの多い通りから一つ曲がって、学校へと続く少し細い道。とはいえ、生徒たちが多く踏み固めたせいか、凍った路面は気を抜けばまた滑ってしまいそうだ。

「…靴、要るよな…」
「…みたいだね。」

オレの足下を見ながら、舞が大きくうなずいて。

「昨日も思ったけど、その靴じゃここの冬は無理だよね。」
「そうですね。」

うなずく倉田さん。
二人の足元を見ると、二人とも黒いブーツを履いていた。

「やっぱ、ブーツか。」
「祐一くんは、ゴム長靴が似合いそうだけどね。」
「……ありがとうよ、舞。」
「…ふふっ」

また笑う倉田さん。
同じく学校へと行くらしい生徒たちの足下を見ると、女の子たちはみな黒いブーツをはいていた。ひょっとしたら、校則で色や形が決まっていたりするのかもしれない。
校則といえば、通り過ぎる制服を見ていてやはり気がついたのだが、同じ制服でも女の子の制服は3種類あるようだった。つまり、胸のリボンと、なんかひらひらした襟なのかなんなのか、その色が緑と赤、そして舞や倉田さんたちと同じ青色。単に各々ファッションという可能性もないわけじゃないが…

「ひょっとして、女子の学校の制服って、リボンと襟の色が学年で決まってたりするのかな、舞?」
「そうだよ。」

舞は大きくうなずくと、自分の青のリボンを持ち上げてみせながら

「今年は1年生が緑で2年生が赤、わたしたち3年が青だよ。来年は1年が青になるんだけど。」
「ふーん。ということは、繰り上がるってことか?」
「うん、そう。」
「…でも、もう少しの間だけですけどね、わたしたちがこの色のリボンをしているのも…この制服を着ているのも。」
「…そうだね。」

しんみり言った倉田さんに、舞も倉田さんの顔をマジマジと見ながらうなずいた。
二人のそんな顔を見ていると、きっと二人が学校にいい思い出がたくさんあるんだろうな…ということはオレにも想像がつく。

「…楽しいこと、あったんだな。」
「……そうだね。」

舞はオレの言葉に、笑みを浮かべて倉田さんの顔を見ながらうなずいた。
倉田さんは、少しはにかむような顔でそれに答えた。

「相沢さんも、前の学校…いろいろ思い出があるんでしょうね。」
「……いや…」
「………?」

そのまま、オレのほうに話を振ってきた倉田さんに、オレはどちらかと言えば苦笑で答えるしかない。
転校を繰り返してきたオレには、前の学校を含めて、一つの学校に対して思い入れができるほどいたわけでもなし、まあ今も連絡を取る友達がいるくらいだ。学校のことは、思い出しはするが懐かしさはそんなに感じるところはない…

「…別に、特には思い出なんてないですよ。前の学校も…その前も。結局、友達はできたけど、まあそれだけで、あとはどこだって似たようなものだし、学校なんて。」
「…そうですか?」
「まあ、オレの場合は、ですけど。オレ、何度も何度も転校してるから。」
「…なるほど。」

オレの言葉に、倉田さんは少し首を傾げながらつぶやくように言う。
その隣、舞はなぜだか黙ったまま、オレの顔を…真剣な顔で、見て…いる?

「……?」
「……でもね」

と、急に舞は2、3歩早足でオレと佐祐理さんの前まで出たと思うと、くるっと振り返って

「わたしはやっぱり、この制服を着なくなるのは寂しいよ。だって、この制服、気に入ってたし。」
「…でも」

いきなり元に戻った話に、でもオレの転校の話なんて別にして面白い話じゃない。オレは舞の話で思い出したことを口にした。

「最初見た時から思ってたんだけど…」
「なに、祐一くん?」
「……その制服、変じゃないか?」
「……な」

オレの一言に、舞、そして倉田さんまでがその足を止めると、オレの方に振り返った。

「なに言ってるの、祐一くん。この制服の、どこが変なのっ?」
「そうです。わたしもこの制服は好きですし、どこもおかしいとは思いません。」
「あ、いや…でも、セーラーでもないし、ブレザーでもない、その上なんか、その襟っていうのかなんていうのか…そのヒラヒラとか。」
「これが、可愛いんだよ。」
「そうです。市内のすべての高校の中で、女子中学生が高校に入って着たい制服No.1なんですから。」
「そうだよ。なのに、それが分からないなんて…センスないんじゃない、祐一くん?」

マジで食ってかかる二人に、オレはちょっとタジタジとなってしまう。
…そうか? 本当に、これが…女生徒に人気ある制服なのか?
まあ、確かに普通のダサい制服たちからみれば、ずいぶん違っていることは確かだ。だが、確かにオレはセンスがある方とは自分でも思わないが、にしても…やっぱり、そんなに二人がいうほど、可愛いとは…

「で、でも」
「でも…なに?」
「…でも、全体にヒラヒラ過ぎて、その上、スカートも短いし…」
「…祐一くん、やっぱりスケベ。」
「違うっ」

またも眉を顰めていう舞に、オレはあわてて手を振りながら

「そうじゃなくって…」
「じゃあ、どんな意味?」
「…だから、その…まあ、スケベな奴らなんかにそう見られそうだなと…」
「やっぱり、祐一くんがスケベなんじゃない。」
「それに、そこが可愛い所なんです。」

倉田さんまで、またもそう断言する。

「いや、そうかもしれないけど…」
「けど、何よ。」
「……いや…」

…言えば言うほど、泥沼ってやつだな。
自分でもちょっと苦笑しながら、オレは

「…少なくとも、運動はしにくいかなと。たとえば、その制服で走ったり…」
「そんなことはないよ、祐一。」

とその時、後ろから誰かの声。
振り返ると、そこには家においてきたはずの従姉妹の姿があった。

「はあ。やっと追いついたよ。」
「…ていうか、走って来たのか、名雪?」
「うん。もちろんだよ。」

少し赤い顔で、でも息を切らしたようでもなく名雪は答えた。

「だって、陸上部だから。」
「…答えになってないって。」
「それに、結構走りやすいんだよ、この制服。」
「そうそう。」

名雪の言葉に、舞が大きくうなずいた。
…そうか? 確かに、走るだけなら走りやすいかもしれないが…
思わず、オレは目の前の名雪の、短いスカートを…

バキッ

「…祐一くん、やっぱりスケベっ!」
「…痛いってばよっ」

オレは頭を抱えながら、振り返って犯人、舞に

「あのな、こういう話になったら、普通見るもんだろうがっ!」
「ふんっ」

舞はわざとらしく鼻を鳴らすと、ぷいっと横を向く。
オレは続けて舞にかみつこうとした、その瞬間、

「……あ」

名雪が何かに気づいたように声をあげた。
振り返って見ると、名雪は小さくうなずきながら

「おはようございます。倉田会長、川澄先輩。」
「ええ、おはようございます。」
「おはよう、水瀬さん。」
「って、挨拶始めるな、名雪っ」
「…でも、朝は『おはよう』だよ、祐一。」
「そうですね。」
「そうだね。」
「………」

…いつもながら、マイペースと言うか何と言うか…
気勢をそがれたオレは、思わずため息。
一方、挨拶を終えた名雪は、にっこり笑うと倉田さんと舞に

「いつもこの時間に登校するんですか?」
「うーん…そうでもないです。いつもはもう少し早いですね。」
「そうですよね。あまりお見かけしないですから。」
「そうですね。」

倉田さんは、さすがは生徒会長(?)、落ち着いた物腰でにっこりと微笑むと、舞に向かって

「舞、お見かけしたことありますか?」
「…多分、ないよ。」

佐祐理さんの問いに、なぜか少しぶっきらぼうに舞は答えた。
一方、名雪はあわてたように手を振ると

「あ、いえ、わたし、いつも走って登校しますから、あんまり周り見えてないので…」
「ていうか、いつも周り見えてないよな、お前は。」
「…祐一、それ、どういう意味よ?」
「そのままの意味。」
「うー」

名雪は不満そうに口をとがらせてオレを見た。
そんなな雪に、倉田さんはまたクスクス笑いながら

「仲がいいんですねー、お二人は。昔からのお知り合い?」
「まあ、そう言ったらそうかな…」
「……ていうか、ただのいとこです。」

名雪の変な誤解を招きそうな答えに、オレはあわてて説明した。
ただでさえ一緒に住んでいるという誤解を招きやすい状況を、これ以上ボケた名雪の言葉でこの二人に知られたら、どんな噂がたつか、分かったもんじゃない…というよりも、この二人は黙っててくれるかもしれないが、それがどっから漏れるか知れたもんじゃない。

「それも、まともに会ったのは一昨日が7年ぶりって感じで…なあ、名雪?」
「そうだね。」

名雪もうんうん頷くと、オレを横目で見ながら

「祐一、わたしの名前も忘れてたくらいだもんね。」
「……忘れてたわけじゃないぞ。ちゃんと覚えてただろ。」
「でも、最初は『お前…誰?』とか言ったよね。」
「それは…」
「わたしはちゃんと祐一、一目見て分かったのにね。」
「…それは祐一くんが昔とあんまり変わってないってことだよね。」

その時、なぜか舞がちょっと笑みを浮かべながら話に割り込んできた

「…確かに、そうかも。」
「おいおい」

いくらなんでもそれはないだろう…
オレは苦笑しながら二人にツッコミを入れた。

「そんなわけないだろ。」
「でも、あの頃から祐一、ぼーっとした感じの変な男の子だったし。」
「お前に言われたくないわっ! ていうか、誰が変なんだよ、誰がっ」
「確かに変だよね、祐一くん」
「おいっ」
「うんうん。」
「こらっ」
「……あははは」

と、その時それまでクスクス笑いながらオレ達を見ていた倉田さんが、笑いながら口をはさんできた。

「でも、本当に仲がいいんですね、お二人は。」
「そんなこともないです。」
「だって、今日も待ち合わせして学校に来るとこだったのでしょう?」
「いえ、そうじゃなくって祐一がさっさと家を……」
「そうですっ」

不穏なことを言い掛けた名雪に、オレはあわてて遮って言いながら名雪を睨んでおく。

「まだ学校までが不案内だから……なあ、名雪?」
「…あ、えっと……うん。」

オレの目に、思い出したのか名雪はあわてて頷いた。
すると倉田さんがちょっと首をかしげて

「でも、初めてお会いした時は、学校でしたよね?」
「あ…え、ええ。」

鋭いツッコミに、オレはちょっとあわてつつ

「でも、帰りはずいぶん暗かったので…」
「ていうか、祐一くんが方向音痴なだけなんじゃない?」
「違うわっ」
「……そういえば、その気があったよね、祐一。」
「……名雪、お前に言われたくないぞ…」
「…それは違うよ、祐一。」

名雪はちょっとむっとしたようにオレの顔を見た。

「昔、家に泊りに来てた時、勝手にあっちこっち行って迷いそうになったじゃない、祐一。で、いつもわたしが探さなきゃならなかったんだよ。」
「……ほんとかよ?」
「本当だよ。それで一人で出かけると、1つも夕方遅くに帰ってきて…覚えてないの、祐一?」
「………覚えてない。」

名雪の言葉にオレは首を振るしかない。
昔のこと…特にこの街のこと。
オレの記憶にはない、子供のころのオレ。
オレンジ色の靄が掛かったような、記憶の奥底を探る…
…オレは…昔、この街で…

「そろそろ行かないと、時間ないよ。」

と、黙っていたオレに、舞がちょっとそっぽを向いたまま言った。
それから振り向くとにっこり笑って

「まあ、祐一くんがやっぱり方向音痴だったってことでいいじゃない。」
「…いいじゃない、じゃないぞ、舞。それは濡れ衣…」
「そういえば、歩いてギリギリかも。」
「そうですね。行きましょう。」
「………」

オレの言葉を誰も聞いてないし…
まあ、いいけどな。
とりあえず、歩き出した3人の後ろを、オレもついて歩き出す。
また名雪がボケてまずいことを言わないように…そう思って聞き耳を立てていたが、3人は黙ったまま雪の上を早足で歩いていた。そしてオレ達の他にも同じ制服を着た生徒たちが、やはり早足で歩いているのがぼちぼち見える。
遅刻したら、何か罰があったりするんだろうか…

「……間に合いそう。」
「だね。」

そんなことを考えているうちに、前を歩いている名雪と舞が角を曲がったところで小さく息を吐きながらつぶやくのが聞こえた。
オレも角を曲がると、向こうに学校の校舎が見えた。
そして…時間は8時26分。

「いつもよりはちょっと早いかな。」

名雪も自分の時計を見ながら、うんうんと頷いていた。
オレは思わず肩をすくめて

「…よく遅刻しないよな、お前。」
「わたし、遅刻したことないよ。」
「奇跡だな、それは…」
「……うー」

不満そうに口をとがらす名雪。
そんな名雪に倉田さんがクスクスと笑って

「…朝が弱いんですか、水瀬さんは?」
「……はい。」
「そうですか…」
「佐祐理も弱いよね。」

ちょっと右掌を頬に当ててため息をついた佐祐理に、舞がニコニコしながら頷いた。

「そんなことは…」
「ないとは言わせないよ。いっつも玄関で待たされるのは、わたしだから。」
「………」
「って、川澄先輩はいつも倉田会長の家に迎えに行くんですか?」
「…そういうわけじゃないけどね。」

驚いた顔で聞く名雪に、舞はちょっと肩をすくめて苦笑した。

「行く途中で待ってても、埒があかないから。」
「それほどではないと思いますけど…」
「ううん。」

舞はしょうがないという風に首を振ってみせて

「多分、わたしが行かなかったら…佐祐理、いつ遅刻してもおかしくないと思うよ。」
「それはないと思いますけど…」
「あるある。きっとね。」
「……もう……」
「……そうなんだぁ…」

ちょっと顔をしかめた倉田さんに、名雪は驚いた顔のままその横顔を見た。
確かに、美人で生徒会長、いつも元気そうに見えるいわば完璧って感じの倉田さんに、そういう弱点があるというのは…まあ、完璧な人間なんていないんだろうけど、ちょっと親しみを感じてしまうのは確かだ。同じく寝起きの超悪い名雪は、特になのだろう。

「倉田会長も、わたしと同じなんですね…」
「って、それは失礼だと思うぞ、名雪。」

いくら倉田さんが朝が弱いといっても、さすがに名雪ほどとは思えない。
そんな名雪に、オレは思わずツッコミを入れた。

「お前の朝の弱さは異常だと思うぞ。」
「…そんなことないよ。」
「いやいや。」
「だって、お母さんに起こされなくてもちゃんと自分で起きるし。」
「ていうか、秋子さん、あきらめてるだけだって。起こしに行っても無駄だって。」
「…なんで分かるの?」
「だって、秋子さん、言ってたからな。『それで起きるなら起こしに行くけど、無駄だから。』って。」
「……うー」

名雪は口をとがらせるが、本当だからしょうがない。

「…そんなに弱いんですか、水瀬さんは?」
「へえ…」

そんな名雪に、倉田さんも舞もちょっと微笑みながら顔を覗き込んだ。

「…でも、自分で起きてるもの。」

そんな視線に、名雪はまた口をとがらせて反論し

「遅刻もしたことないし。」
「それはお前が毎日走ってきてるからだろ。」
「……走るのが好きだから。」
「好きかどうかは知らないけど、時間がないことは確かだろうが。」
「……うー…でも」
「それに、あんな目覚まし時計6つ鳴ってる騒音の中で起きないような人間を、自分で起きてるとは言わないぞ、普通。隣で寝てるオレなんか、1個で目が覚めたくらい大きな音の目覚ましばっかりだって言うのに。」
「で、でも……」
「………隣で……寝てる?」
「…………え?」

とその時、小さな…おずおずとした倉田さんの声。
オレは倉田さんの顔を見た。
大きく目を見開いて、倉田さんはオレと名雪の顔を交互に見ながら…その顔が、みるみる赤く染まって……

………しまったっ

「あ、いや、その…と、隣っていうのはですね、隣の部屋ということでですね、決してその、そういう意味じゃないんです…な、名雪?」
「あ、え……え?」
「だ、だから、オレと名雪は隣どうしの部屋で寝てただけで、だから……」
「……隣の部屋…水瀬さんの家は、アパートなんですか?」
「…いえ、一軒家です。」
「…………」
「……あ、いえ、だから、その………」
「………同じ家の隣の部屋、なんですか、お二人は?」
「………えっと……」
「……いとこ、なんですよね? 兄弟とか、家族じゃなく…お二人は…?」
「………」

気がつくと、あたりの通行人…というか、同じ制服を着た間違いなく同じ学校の生徒たちが、立ち止まってこちらのほうを見ている気配。
そして、目の前には目を丸くしてオレを見ている倉田さん、小さく首を振っている名雪……なぜかクスクス笑っている舞……

…ぐはっ…自爆……

「い、いや、オレはただ…」

キンコン…

それでもオレが更に説明をしようとした瞬間、無情にも予鈴らしきチャイムの音が辺りに鳴り響いたのだった……
 
 

<後編へ>



ちょっとした注意書き
1.この前編は元々ここまで書いてアップするべきものを書けただけ適当にアップしてありました。
 今後はそんなことはしないようにします。
2.本シリーズは構成をするだけでほぼ書き上げられる程度にメモは完成しています。
 これからは定期的にきちんとアップしていきますので、どうか見捨てずお読みください。
 これがわたしの最後のKanonSSとなると思います。
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