シリーズ:この街に天使はいない

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何でもない、かけがえのない日 (この街に天使はいない - Epilogue)



ドアを開けると、真っ青な空が広がっていた。
オレは降り注ぐ眩しい春の日差しに思わず目を瞬かせながら、大きく息を吸った。それから振り返ると、ドアの奥に声を掛けた。

「おい、まだか?」
「今行くから、ちょっと待ってて!」

ドアの奥から海(める)の声が響いた。声はそれなりに急いでいるようだったが、どう考えてもまだダイニング辺りから声がしている。
あいつ、まだ朝ご飯を食べているのか?全く……

オレは思わず溜息をついて辺りを見回した。
辺りはすっかり春の気配に覆われていた。ついこの間まではどこからか散った桜の花びらが春の風に運ばれていたけれど、ここから見える桜ももう葉桜。春の日差しが赤や緑の家の屋根を照らし、眩しく反射している。
そう、もうすっかり春……

「お待たせっ」

と、ばたばたと音がしたかと思うと、誰かがオレの肩をドンッと強く叩いた……まあ、誰なのかは最初から分かっているけどな。

「……待ってかったんだけどな、別に」

オレは叩かれた右肩をさすりながら、肩をすくめて海の方に振り返った。
海はとりあえず飛び出してきたらしく、しゃがみ込んで今さら靴をきちんとはき直していた。そしてすぐに立ち上がると、つま先でトントンっと地面を蹴ってからオレに向き直って

「これで良しっと」
「何がいいんだか……」

オレは苦笑しながら首を振る。

「もう、先に行こうとしてたとこだったぞ」
「何よ、久しぶりに一緒に行ってあげようと思ったのに」
「誰も頼んでないって」
「ふんっ」

海は鼻を鳴らすと、さっさと歩き出した。
オレは更に何か言おうかとも思ったが、海の頭に揺れる小さな尻尾を見ているうちに、その気がなぜだか失せていった。だから、オレは何となく苦笑を浮かべながら、ゆっくりと海の後を追って歩き出した。

「……お兄ちゃん」

オレが追いついたのか、それとも海が足を緩めたのか、歩いているうちにいつの間にか並んで歩いていた海が、ふと首を傾げるとオレの顔をまじまじと見た。

「何か…変わったよね。雰囲気。」
「オレが?」

何をいっているのか分からず、オレはビックリして海の顔を見返した。
でも、海は真面目な顔でオレを見つめたまま

「うん。なんか…おじさんクサくなったよね」
「おいおい」

オレがさすがに突っ込むと、海はちょっと微笑むように振った。でもすぐに真顔に戻るとオレの顔をまじまじと見て

「……でも、悪い意味じゃないよ。うん。なんか…ね」
「……」

悪い意味じゃないと言われても、褒めているようには聞こえないけれど……

オレは苦笑しながら、ふとそんな海の顔から空に目を移した。空には白い雲が、薄く布のように広がっていた。薄く、白く。

白い雪。
雪がカーテンのように降りしきっていたあの日から、もう4ヶ月くらい経っただろうか?
黒い車が、白いカーテンに包まれて消えていったあの夜から……

あの日以来、栞ちゃんがどうなったのか、オレは知らない。知る術もない。
次の日、美坂は暮らすから何もいわないで消えた。先生も「急に私用で」としか言わなかったし、そもそも先生たちはどこまで知っているのかも分からない。ひょっとしたら知っていたかもしれない水瀬は、友人たちに何を聞かれてもあい変わらずぼんやりと笑っているだけで。
そしてもちろん、その友人たちの中には、オレはいなかった。

でも、オレも今は気がついている。知っている。
美坂がこの街に、いや、学校に戻ってきていることを。
クラスは違うが、最初から美坂の名は学校の名簿に入ったままだったし、それが今はもう学校に来ていることを。

実際の所、オレは美坂と顔を合わせたことがある。ついこの間、学食でパンを買っている時に、すぐそばに美坂がいた。
すぐにオレは気がついた。そして多分、美坂もオレがいることに気がついた……いや、その前から気がついていたに違いなかった。なのに。
いや、多分だからこそ、美坂はオレと目線を会わさず、売店の方だけを無表情に見つめていた。気がついた素振りさえ、いや、そもそもそこに誰かがいることさえ気がついていない様子で……完全に、オレを無視して売店の人混みの中にそのまま入っていった。
オレを無視したまま。

でも、それが約束だった。オレと美坂の、約束。舞台の上の。
そして、その美坂の様子から、オレには分かった。オレと美坂の約束が、まだ続いていることを。少なくとも、美坂はそう考えているということを。
そう、栞ちゃんは、ちゃんと手術を受けたのだ、ということを。そして多分、今のところその後の経過も順調なのだ、ということを。
そう、栞ちゃんは……

「……そろそろ急がないと、間に合わなくなりそうだな」

オレは目線を落として腕時計を見ると、まだオレの方を見ている海に顔をしかめて見せた。

「あ……うん」

海は一瞬、オレに何かを言おうかと迷ったような素振りをしたが、すぐに頷いた。
それから、カバンを持ち直すと数歩、歩いたところで不意に振り返ると

「ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」

歩き出しかけていたオレは、足を止めて海の顔を見た。
海はオレの顔を見ながら、ちょっと首を傾げると

「実はね……あたしの友達に、お兄ちゃんを紹介してくれないかって言われてるんだけど。お兄ちゃん、会う気、ない?」
「……?」
「ほんとのとこ、お兄ちゃんは会ったことある子なんだけど……」
「……」

オレはぼんやりと海の顔を見た。海は、ちょっと困ったように微笑を浮かべて

「ううん、ほんとは前から言われてたりしてたんだけどね」
「……それがなんで、今言ったんだ?」

思わず聞くと、海は苦笑を浮かべて黙りこんだ。

「なんかね」

でも、すぐにその顔は真面目になって

「今なら、今のお兄ちゃんなら、いいかなと思って。何となく。」
「何となく……か」
「うん。何となく……ね」
「……」

オレは海の、もう日に少し焼けて黒くなっている顔を見た。昔の面影のある、でももう昔の白い顔ではない、その顔を。

「……今は遠慮するよ。今は」

オレは言って、小さく首を振って見せた。

「……そっか」

海は少しホッとしたように言うと、今度は苦笑ではない笑いを顔に浮かべた。

「じゃあ……行こうか、お兄ちゃん」
「ああ」

振り返って海は学校へと歩き始めた。オレはその後ろ姿に頷くと、もう一度空を見上げて息をついた。
そして、海の後を追って学校へと、今日という日を歩き出した。

いつもと同じ普通の日。
いつも通り、代わり映えもしない、春の陽を浴びた街並み、そして会社や学校へ向かう人たち…オレもその一人。時々、声を掛けてくる知り合い、クラスメート…
何も変わらない、普通の……だけど、きっと2度とない、かけがえのない今日を。

オレは歩き出した。
ゆっくりと、歩いていった。

<END>



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