14才の別れ 

(心象風景画 Picture1)(恋はいつだって唐突だ 番外編)


その頃、わたしは幸せなのだと思っていた。
忙しくはあるが、可愛がってくれる両親。
毎日、他愛もない話に付き合ってくれる友達。
ただ毎日繰り返される日常の中で、
わたしは今、幸せなのだと、ぼんやりとそう考えていた。

それは夏の夕方だった。
雷が鳴り響き、激しい夕立が降っていた。
あの時、わたしが雨宿りをしていたら、
あの時、あの歩道橋を渡らなかったなら、
わたしは今でも変わらず、日常を繰り返していたかもしれない。
でも、わたしは走って歩道橋を駆け抜けようとした。

それが、出会い。

歩道橋の上で出会ったのは、小さな震えるかたまりだった。
それが人であることに、一瞬、わたしは気付かなかった。
でも、それが雨に濡れ、寒さに震える小さな女の子だと気付いたとき、
わたしは声をかけずにいられなかった。

『どうしたの?』
優しく触れたつもりのわたしの手に、少女は濡れた顔を上げた。
少女の顔は、脅えていた。
わたしの手から逃れようと、あわてて飛び下がった少女は、歩道橋の欄干に激しく体をぶつけてしまい、逆にわたしの目の前に、ふらりと崩折れた。
あわてて抱き起こしたわたしは、他にどうしようもなくて少女を家まで連れ帰った。

あの時の、濡れた少女の軽い体の温もりが、今もわたしの手に残っている。

わたしは少女を医者に見せた。
少女は飢えと疲れが重なって、弱って風邪をひいていた。
やがて意識が戻った少女に、わたしは名前を尋ねたが、少女は覚えていないと言った。
名前だけではなく、少女は何も覚えていないと言った。
ただ、誰かを探しているのだと、それだけははっきり答えたが、
それが誰なのかも、少女は覚えていなかった。

帰ってきた両親が、少女を警察へと連れていった。
少女の捜索願いは出されていなかった。
わたしが、家族が見つかるまでは、と両親に泣きついたので、
渋る両親も少女をしばらく家に置くことにしてくれた。

名前も覚えていないので、少女の名前をわたしがつけた。
わたしの一字をとって、美宇にした。
少女はその名が気に入ったのか、何度も口にしてはうれしそうな顔をした。

それが、美宇との生活のはじまり。

美宇はあまりしゃべらなかった。
ただ、誰かを探さなきゃいけない、それはよく口にした。
誰を探すのかは、全く思い出せなかったが。

美宇はショートケーキが好きだった。
ショートケーキを食べる時、なんともしあわせな表情をした。
それを知ってから、学校の帰りに駅前のケーキ屋でショートケーキを買って帰るのが、わたしの日課になった。

美宇はボールが好きだった。
家にあったテニスボールを、どこにぶつけるわけでなく、床に転がしてはその様子を、にこにこと、ただ眺めて時間を過ごしていた。
でも、わたしが美宇にボールを転がしてやると、あわてて拾ってわたしのもとへ転がして返す、そんなたわいもない遊びの方が、もっと好きだった。

美宇は絵本が好きだった。
わたしが捨てずに取っておいた、古い絵本を引っ張り出しては、わたしに読んでくれとせがんだ。
特に「人魚姫」の絵本が大好きで、最後のページに来るといつも、かわいそうだと泣いていた。

そして、なによりも美宇は、わたしと一緒にいるのが好きだった。
わたしのまわりに意味もなくまとわりついては、わたしを呼ぶのが好きだった。
『おねえちゃん』
一人っ子のわたしは、そんな美宇の呼ぶ声が、なんともくすぐったかった。

そんな美宇の姿を見るのが、わたしは、大好きだった。
美宇の家族が見つかる様子もなく、わたしは、こんな日々が、いつまでも続くのではないかと、そう思いはじめていた。

でも

それでなくてもしゃべらない美宇が、だんだん無口になっていた。
大好きなショートケーキも、ちゃんとフォークで食べることができず、口のまわりを真っ白にしてかぶりついてしか食べれなくなった。
絵本を読んでくれと、だんだんわたしにせがまなくなった。

ただ、思い出したように、誰かを探さなきゃということと、
そして、『おねえちゃん』の一言だけは、変わらなかった。

不安になったわたしは、美宇が病気になったのではないかと両親に訴えた。
でも両親は、医者に見せるほどではないと考えた。
だから、わたしは自分で美宇の病気を治そうと思った。
そのために、医学書を読みふけった。
家や学校の図書館にはその手の本はなかったので、わたしは学校の帰りに遠くの図書館を探した。
それで帰るのが遅くなったが、ほとんどしゃべらなくなった美宇は、黙ってわたしを家で待っていた。
ただ、わたしが帰るとうれしそうに言った。
『おねえちゃん』
わたしは、必ず頭をなでて、美宇は、いつもうれしそうな顔で笑った。

その日も、わたしは学校帰りに図書館に行くつもりで家を出た。
寝坊をしたらしくふとんの中にいる美宇は、出かけようとするわたしに、ふとんから手を振って、笑みを浮かべながら、言った。
『おねえちゃん、ばいばい。』

それが別れだなんて、わたしは思っていなかった。

図書館に寄っていたので、わたしは遅く家に帰った。
家に帰ってみると、めずらしく両親が家にいた。
でも、美宇がいなかった。

美宇の行き先を尋ねたわたしに、両親は奇妙な顔で言を左右にし、ようやく話してくれたのは、1時間近くしてのことだった。
美宇は、熱を出して倒れたのだという。
偶然、早く帰った母が、病院へ美宇を連れていったのだという。
そして

止める両親の言葉を聞かず、わたしは家を飛び出した。
もう暗くなった道を、わたしは走った。ひたすら、走った。

病院についたわたしは、美宇の居場所を聞いた。
ここでも、看護婦たちは奇妙な顔で言葉を濁していたが、
やっと一人に病室を聞き出した。
その看護婦が止めるのを聞かず、わたしは病室へ向かった。

でも

そこは無人の部屋だった。
跡を追ってきた看護婦が、ただ一言、消えたと言うと姿を消した。
わたしはベットに近寄って、美宇の跡を探したが、髪の毛一本も、かすかな匂いすらもなく、
シーツのかすかな乱れだけが、人がいたらしい痕跡だった。

わたしは、お別れすらできなかった。

図書館なんか、学校なんか、行かなければよかった。
今日だけじゃなく、最初から、ずっと
ただ、美宇を抱きしめていてやれば
遊んで、本を読んでやって、ケーキを一緒に食べてやれば
『美宇』と何度でも、何度でも呼んでやれば
そうしてやればよかったのに。
それなのに

美宇のいたはずの、病院の冷たいベットにすがって、わたしは、泣いた。

美宇
あなたが探していたのは、いったい誰だったの?
その人に会えなくて
一日の長い時間をひとりぼっちにされて
それでも笑ってわたしを呼んでくれたあなたに
わたしがしたことは
そして、わたしがしてあげられたことは
いったい、なんだったの?

いつの間に家に帰ったのか、覚えていない。
泣いて、泣いて、涙が枯れ果てても泣いて。
朝が来ても、わたしは泣いていた。

その朝は、わたし、天野美汐の、15才の誕生日だった。

<to be continued>

元のページ >Next>

inserted by FC2 system