Labyrinth

(夢の降り積もる街で-18)


あゆSS。

シリーズ:夢の降り積もる街で

では、どうぞ。

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白い

白い雪

一面の白い雪の中
 

泣いている

誰かが

泣いている
 

震えながら

体を震わせて

泣いている
 

泣いているのは

小さな肩を震わせて

泣いている
 

泣かないで
 

手を伸ばし
 

オレは手を伸ばして
 

その肩を
 

その顔を
 
 
 

『祐一くん…』
 
 
 

『……祐一…』
 
 
 

『……約束…だよ…』
 
 
 
 

Labyrinth (夢の降り積もる街で-18)
 

1月28日 木曜日
 

…手を伸ばしたまま、オレは目が覚めた。
伸ばした手で、シーツを掴んだまま…

気がつくと、窓のカーテンのすき間からまぶしいくらいの光がさし込んでいた。
外は、昨日の夜の雪もすっかり止んでいるらしい。
その朝の光が、オレの目に真っ直ぐに入って、オレは思わず伸ばしていた手で目をおおった。

そのまま、目も閉じてしまいたかった。
目を開けているのが、とてつもなく辛い。
このまま、もう一度眠りたい…
眠って、そのまま何もかも忘れたい…

でも、どんなに眠っても軋む体
どんなに眠っても感じる頭の奥の痛み
眠ることなど
心地よい眠りなどもう、オレにはありえない。
あるのは…

オレはなんとか起きあがって、そのまま部屋を出た。
眠る気がないのに、ベッドにいるのは…苦痛だった。
それも…名雪の部屋の横で…

昨晩、オレが帰ってから、名雪は自分の部屋を一歩も出てこなかった。
夕食もとらず、呼びに来た秋子さんにも一言も声さえなく、ただ静まり返っていた部屋。
隣にいるオレにも、何も聞こえないその部屋…

今も何の物音も、名雪の部屋からは聞こえなかった。
でも…いる。確かに、名雪中にいるのを感じる。
音はしないけれど…それは間違いなかった。
名雪は音も立てずに…でも、部屋の中にいるのだ。
きっと名雪は部屋の片隅で、膝を抱えて座っているのだろう。
そんな名雪の姿が…オレにはありありと見える。
名雪は悲しいことがあると、よくそうしていた…
今ははっきりと思い出す、かつての思い出の中のこと。
名雪は膝を抱えて、じっと座っている…声も出さないで、泣いているはずだ。
そして、その涙の原因は…
…オレなんだ…

立ち止まることさえ、オレにはできなかった。
名雪の部屋の前を、オレはただ通り過ぎた。
立ち止まっても…掛ける言葉もありはしない。
オレには…そんなもの、ありはしない…

「…おはようございます、祐一さん。」

「……え?」

階段を降りかけたところで、オレは声をかけられた。
秋子さんが階下から、オレを見上げていた。

「…ご飯、もう出来てますから。」
「……いえ、秋子さん…」
「さあ、どうぞ。」

秋子さんは言うと、オレが何かを言う前にダイニングの方へ姿を消した。
オレはどうしようもなく、階段を降りてダイニングへ向かった。
そして、ダイニングに一歩入った途端

「…今日はトーストにコーヒーですが、それで構いませんね?」

何も言う間もなく、秋子さんはオレの席にコーヒーを置いていた。
そのまま、振り返りもせずにキッチンに入っていく。
その後ろ姿は…何も言えない雰囲気が…

オレはともかく、自分の席に座った。
途端、入ってきたコーヒーの香里に、オレは思わず吐き気を…

「トースト、1枚でいいですか?」

その時、秋子さんがキッチンから出てくると、オレの前にトーストの載った皿を置いた。

「まだ、食べている時間、十分ありますからね。」

「……秋子さん…」

オレは既にバターの塗られたトーストから、目線を秋子さんの顔に移すと

「オレ…」

「……食べないと…困るでしょう。授業中。」
「……秋子さん…」
「………」

秋子さんはわずかに微笑むと、自分の席に腰かけた。
その秋子さんの前には、いつものカップが置かれていた。
オレと名雪が食べているのを見ながら、キッチンから出た秋子さんがときおり座っては飲んでいるカップ…
でも、いつもと違うのは、そこから湯気が上がっていないこと…

「……秋子さん。」

オレは目の前の皿をわずかに横に避けると、秋子さんの方に向き直った。

「……名雪は…」

「………」

秋子さんは小さく首を振った。

「…名雪は…部屋からまだ出てきません。」
「………」
「……学校へは、わたしの方から欠席を届けておきました。」

秋子さんは何でもない様子でそう言った。
オレはただ、黙って秋子さんの顔を見ているだけだった。
秋子さんの顔を、ただ…

秋子さんは…知っているのだろうか?
なぜ、名雪が昨日から、部屋から出てこないのか。
昨日の夜、オレと名雪が、何を…
 

『…わたし…祐一が好きだった。ずっと好きだったんだよ。あの子なんかより、ずっと、ずーっと前から…好きだったんだよ…』
 

あの冬の夜…雪の降る中で
三つ編みの少女が泣きながら言った、あれは…
 

『……忘れないで。約束…だよ。絶対、絶対に忘れないで…』
 

そう、それは約束…
オレと…名雪のした、それは…
 

『約束……だよ…』
 

なのにオレは…
…オレは…
 

『…わたしと…約束したじゃないっ!祐一…約束したじゃない!』
 

…オレが泣かせた少女。
もう三つ編みではない長い髪
白い雪をかぶって
 

『…わたしと…あの、天使の人形に誓って…』
 

白い雪
白い…小さな天使の人形が…
 

「…秋子さん…」

オレは机に肘を着くと、顔をおおった。
目の中の白を追い出すように、固く目をつぶった。

「……オレは…」

もう、分からなかった。
何をしたらいいのか。
何をしたらよくて
何をしてはいけないのか
何をしても名雪を…あゆを泣かせるだけの
そんなオレに…

「………やっぱり、オレ…」

「……あなたは、学校へ行ってください。祐一さん。」

静かな、でもきっぱりとした声。
オレは顔を上げた。

「…でも…」

「……あなたは、学校へ行ってください。今日は…ともかく。」

秋子さんはオレの目を、見たこともないほど真剣な顔で見つめていた。
その厳しい瞳が、オレを見つめながら

「…名雪のことは…わたしが見ていますから。」
「……でも…秋子さん、仕事が…」

オレの言葉に、秋子さんは小さく首を振ると

「もちろん、行きます。」
「じゃあ…」
「…でも、その間に名雪が…どうこうするはずがありません。名雪は…そこまでバカな子ではないですから。」
「……でも…」
「……わたしは、名雪を信じますから。」

秋子さんは言うと、天井を…名雪の部屋の方を見つめると

「…それに…」
「………」
「……あなたがいても、どうにもなりません。それは…あなたにも分かっているはずですね。」
「………」

オレは何も言えなかった。

どうにもならない…
どうすることもできない…

分かっている。
オレには今の名雪には、なにもできはしない。
オレにできることは、名雪を傷つけることだけだ。
分かっている
分かっているけれど…

くそっ!
オレは…

「……勘違い、しないでください。」

と、秋子さんが目を落とした。
オレの顔を、じっと見つめて…

「祐一さん、あなたのことを、わたしは責めているわけではないんですよ。」
「……え?」
「わたしは…今のあなたには、ここにいても名雪に何を出来るわけではない、それを言っているだけで…でも、本当にあの子のことを…救ってやれるのは、祐一さん、あなただけなのです。」
「………秋子さん…」

秋子さんの瞳が、オレを見つめていた。
いつもの優しい瞳が、オレを見つめながら…

「…だから、あなたは学校へ行ってください。」

秋子さんは頷くと、カップを持って席を立った。

「でも…」

オレはそのままキッチンへ歩きだした秋子さんの背中に

「こんな気持ちで…」
「………」
「学校、なんて…」
「……祐一さん」

秋子さんは立ち止まった。
でも、振り返りもせずに

「……わたしは、名雪の…母親です。」
「………」
「でも、わたしは…仕事に行くつもりです。」

そのまま、秋子さんは口をつぐんだ。
オレも何も言えず、秋子さんの背中を見ていた。
秋子さんの背中
その肩が…

カチャッ

秋子さんの手の中のカップが微かに鳴った。
その音はそのまま、カチカチと小さく…

「……必ず…ご飯を食べてから出てくださいね。」

秋子さんの低い声。
何かを押し殺すような…

「……はい。」

オレは目の前のトーストを手に取ると、むりやり口の中に放り込んだ。
口の中に広がるバターとトーストの香り…
襲う吐き気。
オレは、でもカップを取ると、むりやりコーヒーで口の中の塊を流し込んだ。
そして、立ち上がると

「…ごちそうさまでした。」
「……はい。」

キッチンからの秋子さんの声は、もういつもと変わらないようだった。
でも、秋子さんの顔は、キッチンから覗くことはなかった。

オレはそのままキッチンを出ると、階段を上がって自分の部屋に戻って着替えた。
静かなオレの部屋で。
隣からの物音も
いつもの目覚ましの音さえ聞こえない部屋で着替えて

そして部屋を出た。
そのまま廊下を歩いて、階段を降りていった。
立ち止まらずにただ、白い光のさす静かな階段を、オレは歩いて降りていった。

そしてコートを着こむと、静かに玄関を出た。
誰にも見送られることもなく、白い雪に埋もれた街へとオレは足を踏みだした。
 
 
 
 
 
 

頭が重い…
いつの間に、ボク、寝てたんだろ…

ぼんやり、ボクは目を開けた。
…なんだか、目の前に霞が掛かったように…

目をこする。
ごしごし、ボクは目をこすって…

『…お姉ちゃん…泣いてる?泣いてるんでしょ?ねえ、泣いてる…?』

…ダメなボク…
決めたのに。
泣かないって…
ミイちゃんの…みんなの前では泣かないって、ボク、決めてたのに。
ボクはお姉ちゃんなんだから、しっかりしなきゃって…
…決めてたのに…

『お兄ちゃんのこと?祐一お兄ちゃんのせい…なの?ねえ、お姉ちゃん?』

違うよ
そうじゃないんだよ
ただ
涙が出て
ただボクは
ボクは…
 

ダメ
ダメだよ
こんなことばかり考えちゃ。
ボクは…ここのお姉ちゃんなんだから。
園長先生だって…言ってくれたんだもん。
ボクのこと…あんなに…

だから頑張らなきゃ。
頑張って…
 

バタバタバタ
 

「…お姉ちゃ〜〜ん!」
 

足音がした。
小さな足音がこっちへ、近寄ってきた。
もちろん、それは…

「…お姉ちゃん!」
「……ミイちゃん…おはよう。」

ボクは体を起こして、入り口を見た。

「あ、おはよっ!」

ミイちゃんがドアを開けて、顔を出した。
そして、ちょっと心配そうな顔になって

「…お姉ちゃん、体…大丈夫?」

「……うん。」

ボクは頷いた。
体は…大丈夫。
頭は重いけど…
…重いけど…胸の中…

「……大丈夫だよ、今日は。」

「……うんっ!」

ミイちゃん、頷くとハッとした顔をした。

「…って、そうそう、お姉ちゃん。電話だよっ!」
「……電話?」
「うんっ!前にも掛かってきた…香奈美さんだよっ!お姉ちゃんとおんなじ、百花屋のバイトの。」
「…香奈美さん?」

香奈美さん…どうしたんだろ?
ボクは起き上がって、上着を着込んで部屋を出た。
 

廊下の突き当たりが、電話のある部屋。

「…もしもし。変わりました、あゆです。」

置いてあった受話器を取って、ボクは言った。

「…もしもし、あゆちゃん?わたし…香奈美だけど。朝からごめんね。まだ寝てた?」
「いいえ、今、起きたところでした。」
「そう。だったらいいけど…」

電話の向こう、香奈美さん、ちょっと申し訳ない感じで…
なんか、こんなこと、前にもあった気がする…
あれは…

「……あゆちゃん、もしもし、あゆちゃん?」

「……あ、はい。」

…いけない。
ぼーっとしてたみたい…

「えっと…何ですか、香奈美さん?」
「うん…」

香奈美さん、ちょっと黙ってから

「…あゆちゃんに、ちょっと…お願いしたいことがあって。」

電話の向こうの香奈美さんの声。
少しおずおずしたように…

「…あゆちゃん…今日は学校、遅いかな?」
「学校…」

今日は…
学校に行かなきゃ。
学校に行って…今日は…確か…

「…多分、今日は6時間までだから3時半くらいだと思いますけど…」
「…その後、何か予定…ある?例えば…祐一くんと会うとか…」
「………」

香奈美さんの声。
どこかで聞いたことのある言葉…
 

…そうだ。
あれは…あの遠足に行くって約束した日だ…
やっぱり、あの朝、香奈美さんから電話があって…
それでバイト代わって…それで…
…祐一くんと…

「……バイト、ですか?」
「…え?」
「ボクがバイト…香奈美さんと代われないかって…いうことですか?」
「……うん。」

やっぱり。
だったら…

代わってあげなきゃ。
だって、ボク…香奈美さんにはいっぱい、いっぱいお世話になってるんだから。
だから、代わって…

そして
 

あの日とおんなじ…
 

「あゆちゃん、お願い…できるかな?」
 

香奈美さんの声。

代わってバイトに行ったら
ボクがバイトに出たら
あの日とおんなじように

そしたら…
ひょっとしたら

ううん
きっと

きっと…祐一くん…

「……ごめんなさい。」
「……え?」
「……ボク…今日は…」

ボクは断っていた。
香奈美さんの頼み、断っていた。

代わらなきゃいけないって分かってる。
香奈美さんには…いっぱい迷惑かけてるし
店長さんにも…いっぱい迷惑かけてるし
だから…困ってるときは、ボク、代わってあげなきゃいけないのに
ボクがやらなきゃいけないのに…

「……今日は、ちょっと用事が…」

そんなの、ホントは…ない。
用事なんてない。
学校が終わっても、帰るだけだから。
でも…

「……そうなんだ。」

電話の向こう、香奈美さんが息をついた。

「…うん…じゃあ、しょうがないよね。」
「………ごめんなさい」
「あ、ううん、いいのよ。わたしが勝手にお願いしようとしたんだから…」
「……ごめんなさい…」

ごめんなさい、香奈美さん
今は…行けない
百花屋には行けないよ
だって
そこには…

「…あゆ…ちゃん?」

香奈美さん、ちょっと黙った。
ボクも黙っていた。

と、急に香奈美さんが電話の向こうから

「…あゆちゃん…どうかした?」
「……え?」
「元気、ないわよ。どこか悪いの?」
「違います。そんなこと、ないです。」
「でも…」

香奈美さんはまた、黙り込んだ。
受話器の向こうで、小さく息をつく音がした。

「…ひょっとして…」
「………」
「……まさかとは思うけど…」
「………」
「………」

香奈美さんはちょっと口ごもるように

「……昨日、わたし…祐一くんを見かけたわよ。」
「……え?」
「駅前の通りの、ベンチで…夕方に…」

…駅前…
……ベンチ…

夕方
オレンジ色の街

いつもボクが座って、待っていたベンチ。
いつも走ってボクのところ、来てくれる人…
ボクは待っていた、あのベンチで…

「…祐一くん、なんかベンチに座り込んでて。わたし、声をかけたけど…」
 

『よう、あゆあゆ』
 

声をかけてくれるのは
いつも走ってボクの前まで来て、声をかけてくれたのは
 

「…全然聞こえなかったみたい…元気もないみたいで…」
 

それは…

祐一くん…

「…ねえ、あゆちゃん…まさかとは思うけど、ひょっとして…あなたたち…」
「……香奈美さん。」

ボクはそこで、香奈美さんの言葉を切るように

「ボク…」
「…うん?」

香奈美さん、聞いてきた。
ボクは…息を呑みこんで…

「…バイト、やめるかも…しれません。」
「…え?あゆ…ちゃん?」
「………」
「…ちょっと、あゆちゃん、いったい…」

香奈美さんのあわてたみたいな声。

…そうだよね。
こんな急に、こんなこと。
でも…

「…ごめんなさい、時間…だから、香奈美さん、それじゃ」
「あゆちゃん?」
「………」
「…あゆちゃん…?」

ガチャン

香奈美さんの声がする受話器をボクは置いた。

ごめんなさい、香奈美さん。
ボク…勝手なこと言ってるの、分かってます。
あんなにお世話になった百花屋に、香奈美さんに…
勝手なこと言ってます。
分かってます。
分かってるけど…
 

…今は、ボク、百花屋には…行けません。
百花屋には…

百花屋に行ったら
ひょっとしたら
祐一くんが来るかもしれない。
きっと来ると思う。

ううん。
来ないかもしれない。
きっと来ないと思う。

だけど…
 

来るかもしれない
来ないかもしれない

来ると思う
来ないと思う

そんな気持ち、今は
ボクは
今は…
 

握りしめた受話器、ボクは離した。
そして、振り返って…

「…お姉ちゃん…」

ミイちゃんがボクのこと、見上げていた。
何だか首、傾げながらボクを見上げて

「……お姉ちゃん?あの…」

「…何でもないよ。何でも…」

ボクはそのまま、廊下を歩いた。

ミイちゃんの顔、見れなかった。
ボクを見上げている、ミイちゃんの目…

ごめん、ミイちゃん
今は…まだ…

きっと、そのうち…元気になるから。
きっと…

でも、今は…

ボクは冷たい廊下を裸足で、ゆっくりと歩いた。
 
 
 
 

キンコ〜〜ン

4時間目の終わりのチャイム。
教室はあっという間にざわめきに包まれる。
そんなざわめきの中、オレは机に突っ伏したまま、ぼんやりとあたりを眺めていた。
いつもと同じように、弁当を広げる者、食堂へと急ぐ者。
何事もないように、さざめき、笑う少女たち…

何事もない、いつもの風景。
いつもの昼休み。
何の変わりもない。
たとえ、そこにいない者がいても…

オレは隣の席に目を移した。
今朝から誰も座ることのなかった席。
いつもなら、ぼんやりした目で座っているはずの顔…

分かっている。
そういうものなんだ。
風邪で休むという先生の説明で、みんな納得してしまって、一人いないことなど、それで終りなんだ。
いつもと変わらない一日が、それで始まり、終わる。
それだけだ。
分かってる。
きっと、オレが休んだ時も…
いや、その時の方がもっと、何事もない普通の日だったに違いないのだから。
それだけのことなんだ。
それだけの…

「…相沢くん。」

正面から声。
オレは顔を上げた。

でも、上げる前からそこに立っているのが誰かは分かっていた。
朝、来たときから感じていた視線。
授業の終わりに来るだろう、そう思っていたのに今まで来なかったから、不思議に思っていた、その視線…

「……ちょっと…いい?」
「……ああ。」

オレは立ち上がった。
香里は振り向くと、まっすぐ教室を出ていった。
オレはその後を追って教室を出た。

廊下を降りてしばらく行くと、中庭に通じる渡り廊下の鉄のドア。
かすかに軋むドアを香里は開けて出ていった。
後を追ったオレの後ろ、ドアが閉まる音がした。
香里はそんな音を気にもせず、渡り廊下を歩いていった。

「………」

中庭に通じる出口で、香里の足は止まった。
オレも出口を出たところで止まって、香里の方を見た。
香里は何も言わずに、中庭を見ていた。

中庭は一面の白。
雪に晴天の陽が反射して、まぶしく輝いていた。
通り過ぎる風に、わずかに舞い飛ぶ雪のかけら。
その風の冷たさに、オレは思わず体が震えた。
でも、香里はそんな中庭を、身じろぎもせずただ目を細めながらじっと…

「……相沢くん。」

と、急に香里が振り向いた。

「名雪…休んでるわね。」
「……ああ」

香里は言ってくると思った。
言ってこないわけがなかった。
昨日の今日…オレがあんなことを行った香里が…何も言わないはずはなかった。
オレは頷いた。

「……相沢くん…」

香里はオレの顔を見ながら、小さく息をつくと

「…知ってる?」
「………」
「…名雪が休んでることで…噂になってること。」
「……?」

…噂?
オレと…名雪?
…あゆ…

いや、そんなはずはない。
みんながそんなこと…

「…何の、噂?」
「……それが…」

香里はそこで言葉を切ると地面に顔をむけた。
そして、顔を上げると…
…わずかに微笑んだ。

「…笑っちゃうわよ。あたしがね、相沢くん…あなたと名雪とで三角関係になって、それでショックで名雪が学校を休んだんだって。」
「………え?」
「昨日の…みんな、見てたからでしょうね。」
「………」

昨日の…オレの言葉。
香里の手を払ったこと
叫んだこと…

「…ごめん。」

オレは頭を下げた。

「…別に気にしないわよ、あたしは。」

でも、香里は苦笑のような笑みを浮かべたまま

「どのみち、根も葉もない噂だもの。」
「………」
「……でも…」

と、ふいにオレの顔を、真剣な顔で見た。

「…あなたのせいなんでしょう?名雪が…休んだのは。」
「………」
「風邪じゃなく…あなたのせいなんでしょう?」
「………」

オレは頷いた。
オレを見る香里の目は、いっそう厳しく…

「……あの子…あゆちゃんのことなのね?」

と、ふいに香里は大きな、ため息をついた。

「あゆちゃんのことで…名雪…」

「……いや…」

否定しようとしたけれど、香里は小さく首を振って

「…あたし、昨日…あれから教室に戻って、聞いたのよ…名雪から、全部。」

「………」

「…あゆちゃんの事故のこと…名雪が、あなたと約束したことも…なのに、あの子…あゆちゃんがそれを知っていて、あなたに近づいたって
…」

「…違う」

それは…違う。
名雪はそう思っているかもしれないけど…
違う、それは…

オレは首を振った。

「それは…違う。多分…どうしてかはしらない。だけど、あゆは覚えてなかった。だから…あゆのせいじゃないんだ…」

香里はオレの顔をじっと見つめていた。
そして、また小さくため息をついた。

「そんなことだと思った。」

言いながら、香里は首を振ると

「あの子…あゆちゃんは、そんな子じゃないって…あたし、思ってたから。あの子がいい子だってことは、あたしも知ってるから。だから…」

「……ああ」

オレはまた頷いた。

そう
いつも一生懸命で
いつも人のことばかり気を使って
あゆはいい奴なんだ。
悪いのはあいつじゃない。
悪いのは…

「…だから…名雪、追い詰めちゃったのは、あたしのせいもあるのよ。」

「……香里?」

驚いて見ると、香里は小さく首を振って校舎の屋根を…屋根の雪を見上げて

「あたし…あゆちゃんのこと、責めてる名雪に、そんなことじゃないんじゃないかって、言い聞かせようとしたから…名雪、余計に…」

「………」

…ちがう。
そんなことじゃない。
全ては…

「違う。香里のせいじゃ…ない。全部、オレが悪い…オレのせいなんだ。」

「………」

「…あの日の…あの冬の日のオレの罪…」
 

『危ないっ!』

『祐一くん!』
 

『ゴトッ』
 

『あゆっっっっっっ!!!!!!!!』
 
 

「そして、オレの約束が…名雪を…あゆを…」
 

『……忘れないで。約束…だよ。絶対、絶対に忘れないで…』
 

『…そんな…そんなもの、いらないっ!いらないよっ!!』
 

泣いている

名雪

あゆ
 

オレが泣かせた
オレのせいで泣いている
オレが悲しませている
オレが苦しめている
 

オレは名雪に
オレはあゆに

オレは…
 

頭がふらついた。
壁に手をついた。

壁は冷え切っていた。
凍るように冷たかった。
ついた手を冷やす壁
吹き過ぎる身を切る風…
 

「…ええ、そうね。」

つぶやくような声。
オレは目を開けた。

香里はオレを見ずに、中庭を見つめて…

「あなたのせいよ。名雪が…泣いてるのはね。きっとあゆちゃんも苦しんでいるのは…全部、あなたのせいだわ。」

「……ああ。だから…」
 

バンッ
 

出口のドアを香里が、右手で叩いた。
その音に雪が、屋根からわずかに舞った。

思わず、オレは香里の顔を見た。
香里の中庭を見つめていた目が、オレを見据えていた。
厳しい瞳がオレを突き通すように見据えた。

「…って、あたしに言って欲しいの?言って、責めてほしいわけね?」

「……え?」

「そうやって自分だけ責任をかぶって、いい子になりたいのね?そうやって自分を責めるふりして…それで罰を受けた気になって?」

…何を…言ってるんだ、香里?
オレは…

「な…」

「勘違いしないでちょうだい。」

言いかけたオレに、でも香里は続けて

「あの子たちが泣いている…それは確かにあなたのせいよ、相沢くん。それは間違いないわ。でも…それを7年前の、冬の日の自分のせいにしないでちょうだい。あたしはそんなこと、一言も言ってないわ。言う気なんてないわよ。」

香里はオレを見据えながら、髪を右手で払った。
ウエーヴの掛かった髪が、風にわずかに広がった。

「7年前の冬の日の相沢くん…そんなことがあって、悲しんでいたあなた…もしもあたしがその時、そばにいたとしたら、きっとあたしは同情したわ。そして、そんなあなたを慰めて、その悲しみから救ってあげたいって、なんとかしてあげたいって…思ったかもしれない。」

「………」

「だから、そんな子供の…7年前のあなたには、あたしはこんなこと、言わないわ。絶対、言わないわよ。」

「………」

「でも、あなたには…今のあなたには、慰めなんて言わない…言えないわよ。」

香里はそこでオレの顔を、厳しい表情で見つめた。
キッと見つめる厳しい瞳の奥、オレを責めるように…

「…だって、あなたは卑怯者だから。あなたは本当は自分が可愛いだけで、あの子たちのことなんて全然考えてない、卑怯者だからよ。」

「……香里…」

「…名雪が言ったような、もちろんあゆちゃんじゃない…でも、名雪でもない。卑怯なのは…あなたよ。」

卑怯…

『だって、卑怯だもの!あの子、卑怯だもの!祐一の気持ちにつけこむなんてっ!だから…』
『だから…祐一ももう、会っちゃダメだよっ!だって…卑怯だよ、卑怯なんだよ、あの子…あゆちゃん、卑怯なんだよ…そうでしょ?祐一…そ
うでしょ?ね?ねえっ!?』
 

叫んだ名雪
泣きながら

でも
あゆが悪くない
卑怯なんじゃない

卑怯なのは
 

でも
 

「…だから…なんだよ。」

「………」

「お前は…」
 

オレが卑怯…

ああ、そうさ。
オレは卑怯かもしれない。
でも、だからって…

オレは香里の顔を覗き込んでいた。
気がつくと、オレは香里に近寄って、香里の顔が目の前に…

「…赤の他人だから、そんなことが言えるんだ。お前に…何が分かるって言うんだよっ!名雪にちょっと聞いただけの、それだけのくせにっ」

「赤の他人…?」

目の前の香里の顔が、青ざめるのが分かった。
その瞳に怒りの炎がかすかに瞬いて…
 
 

「……そうね。」

でも、香里は小さく一つ、息をした。
小さく頷きながら、肩をすくめると

「ええ。あたしは…赤の他人だわ。」

「………」

「…でも」
 

と、香里はオレの顔を見上げて

「赤の他人だからこそ…これだけは言えるわよ。相沢くん、あなたは最低だわ。今のあなたは最低よ。最低の卑怯者…同情の余地もないわ。」

オレは香里の瞳を覗き込んでいた。
香里は目線を外さず、そのままオレを見返した。
厳しい目がオレを、瞬きもせず見つめていた。
 

ドサッ
 

その時、小さな音。
雪が屋根から落ちる音…

「…最低だわ、今のあなたは。あたしが言いたいのは、それだけよ。」

次の瞬間、香里は振り返って渡り廊下に入っていった。
暗い渡り廊下へ、そしてドアの方へ…
 

バタン
 

鉄のドアは閉まった…香里の姿を消して。

オレは立っていた。
真っ白な雪の中庭
オレは立ち尽くしていた。
黙って香里の消えたドアを、オレは見つめていた。

何も言えずに…
卑怯者のオレは。
 
 
 
 

冬とは思えない強い陽射しが照らす空。
白い雪の照り返しにまぶしく輝く屋根。
それでも風は身を刺すように冷たく辺りを渡る。
その風に、流れていく白い雲。

吐く息は、いつものように白かった。
この街に来てから、もう馴れたと思っていたその白い息を吐きながら、オレは立ち止まって、空を見上げた。

通い馴れた道。
このままもう少し行けば、そこは…商店街。
もう少し、そこの角を曲がれば…

『…わっ、わっ!』

ぶつかった少女の姿。
起き上がった顔は、鼻の頭が赤かった。

そんな偶然を重ねたオレと…あゆ…

『だって…ずるいよ、卑怯だよっ!あの子…酷い子だよっ!』

違う、名雪。
ずるいのは…卑怯なのは
酷いのは…オレだ。
忘れてしまったオレ。
お前との約束を忘れてしまったオレ。

『でも、きっと思いだすよ。』
『…そうかな。』
『そうだよ。』

この角のところで、お前が言った言葉。
お前はあの時も、どんな想いでそれを言ったんだ?
忘れて閉まったオレに、それでも微笑みを浮かべて
あの頃と同じ、長い髪を揺らせて…

『…約束…だよ…』

天使の人形。
白い雪の中、雪に埋もれた人形。

あの人形もこの商店街の、あのゲームセンターでオレが取った物だった。
そう、あれは…

『人形、欲しい…』
『あの人形…』

欲しがったのは…あゆ。
だけど、オレはその時、取ってやれなかったから。
だから、あの日…
 

『…祐一くんっ!!』
 

『……約束だよ…』
 

泣いている少女
二人の少女。
 

オレは酷いやつだ。
オレは卑怯者だ。
香里の言ったとおりなんだ。

オレが二人のことを苦しめている、それは分かっているのに
こうして商店街に立ち、あの冬の思い出を追っている。
クレーンゲームは今日も人の姿はなかった。
以前、あゆと来た時と同じ、そのままだった。
今も同じぬいぐるみが、ガラスの中に転がって…
 

オレは最低だ。
それは分かっている。
オレはこんなところに来てはいけないのに。
こんな所に顔を出すことなど、出来ないはずなのに。
だって…
 

名雪は今朝から部屋にこもったまま、秋子さんの言葉にも部屋から出ようとしない。
昨日の夜…あの雪の中、家に駆け込んでから名雪は…

それはオレのせいだ。
オレの約束のせいだ。
だから…

だからこそ、オレは帰らなきゃならない。
帰って、名雪に、オレは…

…オレは…
 

何を言えばいいのかわからない。
何を言うべきなのかが分からない。
何を言いたいのか、それすら分からずに

こんな所で家に帰ることを遅らせている。
帰って、名雪に対すること…
 

…いや
それだけじゃない。

オレはこんなところに来てはいけない。
こんな所に顔を出すことなど、出来ないはずなのだ。
ここは
この商店街は…

あの角から、ひょこっと現われるかもしれない。
いつものように、頭に白いリボンをパタパタ揺らしながら。

そして、オレに気付くと、いつものようにオレに手を振って、笑いながら…
 

『…そんなはず、ないよね。お姉ちゃん、風邪でお休みだもんね…』
 

泣いているあゆの顔。
多分、名雪とおなじように、部屋にこもっているあゆ…

でも、現われるかもしれない。
だって、ここには…
 
 

「……祐一…くん?」

「………え?」
 

ドキッとして、オレは振り返った。
オレをその呼び方で呼ぶのは、それは…

「………やっぱり、ね。」

オレの目の前には、白いブラウス…ピンクのスカート…そして、ちいさなエプロン。
百花屋のユニフォームに身を包んだ、その姿は…

「…香奈美、さん…」

香奈美さんが百花屋の制服のまま、そこに立っていた。
オレの顔を目を細め、じっと見つめながら…

「……ちょうど良かったわ。」
「……え?」
「祐一くん、あなたに…話、あるのよ。」

香奈美さんの目が、オレを見つめていた。
オレの目をまっすぐ、睨んで…
 

『…最低だわ、今のあなたは。あたしが言いたいのは、それだけよ。』
 

同じ眼差し。
きっと…香奈美さんも、あゆのことで…

「……ここじゃ、なんだから…店、行きましょう。」

オレを見上げながら、言った香奈美さん。
その顔を…瞳を、オレは見返して…


百花屋

…あゆ…

「……嫌、です。」

オレの口から、言葉が出ていた。
小さく、でも、はっきりと。

あの場所は…行きたくない。
行けない。
オレは…

あゆがいるかもしれない。
あゆがいるはずがない。

あゆに会いたくない。
あゆに会いたい。

オレは…

「……それは…」

「……いいから、ちょっと…」

香奈美さんは歯痒そうに言うと、オレの右腕を掴んだ。
細い指で、でも、強く掴んでオレを…
 

…やめろ…
やめてくれっ!
オレは…
 

一瞬、オレはその腕を振り払おうと…
 

『…いい加減にしてくれってんだよっ!!』
『……離せよ。離せってんだよっ!』
 

振り上げようとした手から、力が抜けていた。
オレは…
 

「……百花屋は…嫌なんです。」

「………」

オレは立ち尽くしたまま、香奈美さんに言った。
香奈美さんは振り返って、オレの顔を見上げた。
…香奈美さんは今まで結構身長があるように思っていたが、よく見ると、オレよりも10センチは身長が低かった。
だから、オレを見上げるように…

「……じゃあ、ここでするけど…いいわね?」

オレは頷いた。
香奈美さんはあたりを一瞥すると、オレに向き直った。

「……祐一くん」

「……はい」

「………」

そのまま、香奈美さんは口を閉じると、オレの目をじっと覗き込んで

「……あゆちゃんと、何があったの?」

「………」

オレは何も言えずに黙っていた。

聞かれるべくして聞かれた問い。
分かっていても、でも…

「………」
「………」

香奈美さんの大きな、印象的な瞳が厳しくオレを見つめていた。
オレの心を見透かすように…

「……あの子…」
「………」
「………バイト、やめるかもしれないって…言ってたわ。」
「……え?」

あゆが…バイトをやめるって?
百花屋を…
…あゆが…

「…どうしてだか、祐一くん、あなた…心当たり、あるんでしょう?」

「………」

「祐一くん…」
 

あゆが…バイトをやめる理由…
あゆが…
 

『…そんな…そんなもの、いらないっ!いらないよっ!!』
 

オレンジ色の瞳

あゆが百花屋のバイトをやめる理由
あゆが百花屋に来たくない理由

百花屋にいれば、あゆは…

同じこと…、考えている。

あゆ…
 

「………あるのね。」
 

オレの顔を見つめながら、香奈美さんが小さくため息をついて

「……喧嘩?」

「………」

喧嘩だったら…どんなにいいだろう。
オレとあゆの間には、いつだって小さな喧嘩はあった。
でも、それは本当は、喧嘩なんかじゃなかったんだ。
それは…あの冬も…

「…そうじゃ、ないです。」

「………」

「そうじゃ…」

「………じゃあ」

と、香奈美さんはオレの左腕も掴むと、オレの正面に立った。
そして、オレの目を見つめながら、その腕を思い切り掴むと

「……あゆちゃんの、園のことで…あんた、まさか、それであゆちゃん…」

「ち、違いますっ」

オレは思いきり、かぶりを振った。」

「そんなことじゃない…そうじゃないです。そうじゃ…」

「じゃあ…どうしたっていうのよ?あんなに仲、良かったのに…なのに…」

「…それは…」

「なのに…あゆちゃん、今朝は…あんなに元気のなかったあゆちゃん、わたしは知らないわ。いつだって元気で…無理にでも元気にしてる子なのに、なのに、電話口で…声には出さなかったけど、あの子、きっと…」

「………」

「…何があったのよ?あの子、あそこまで…あなた、何をしたのよっ!」

香奈美さんの爪が、腕に食い込んだ。
コートの上からでも、突き刺さる痛み。
でも…

「……それは…」

それは…

オレの罪
卑怯なオレの罪
あゆを泣かせて

名雪を泣かせて
 

「……それは…」

「………」

香奈美さんはオレを見上げたまま黙っていた。
でも、その瞳がオレを刺すように睨んでいた。
そして、腕に食い込んでくる爪が…

「………」

「……祐一くん…」
 
 

「あ、香奈美お姉ちゃん!いた、いたっ!」
 

と、ふいに香奈美さんの背中から、甲高い声。
香奈美さんは振り返って、声の方を見た。
オレも目をこらすと、香奈美さんの肩の先、小さな白い物が…

「お店に行ったら、買い物に出たって言ったから…」

息を切らしながら、大声を出し続ける小さな姿。
赤いコートに黒い鞄。
そして、鞄には白い小さな羽が、パタパタと揺れながら…

「…美衣子ちゃん?」

「香奈美お姉ちゃん…あたし、ちょっと相談が…あっ」

と、不意にミイちゃんの足がぴたりと止まった。
白い羽だけがパタパタと、風に揺れた。

「………?」

香奈美さんは小さく首をかしげてミイちゃんを見た。
ミイちゃんは…

いや、その目が見つめるのは…
 
 

ドカッ
 

足に…痛み。
駆け寄ってきたミイちゃんが、オレの足を思い切り蹴飛ばしていた。

「ミ、ミイちゃん?」

びっくりして声を上げた香奈美さんに、でもミイちゃんはオレの顔を見上げながら

「……バカっ!」

「………」

「……お兄ちゃんなんか、ミイ、嫌いになっちゃったよっ!!」

見上げているミイちゃんの瞳。
わずかにオレンジに染まりかけた空を映す大きな瞳が…
 

「…姉ちゃん泣かす、お兄ちゃんなんて、嫌いだよっ!お姉ちゃん…昨日、泣いてたんだからっ!!ミイがお兄ちゃんのこと…言ったら泣いちゃったんだよっ!!」

「……ミイちゃん…」

「お姉ちゃん、あたしの前じゃ絶対泣かないって、だから、あたしも泣かないでって約束したのに…なのに、それなのに、お姉ちゃん…今まで一度だって、ミイの前でなんて泣いたことなかったのに…なのに…」

ミイちゃんの瞳には、涙が浮かんでいた。
大きな瞳に涙が、いっぱいに浮かんで…

…落ちて…
 

「…嫌いだよっ!お姉ちゃんを泣かせるお兄ちゃんなんて…ミイ、嫌いだよっ!!」
 

ドカッ
 

足にもう一度、小さな衝撃。

ミイちゃんは泣きながら、振り返ると駆けだした。
 

…痛い

痛かった
とても…
 

「……ミイちゃん…」
 

香奈美さんが呆然とミイちゃんを見つめて
その腕はいつの間にか、オレの腕から…
 

オレは振り返ると、商店街から歩きだした。
 
 

「……祐一くん…」
 
 
 

香奈美さんの声が聞こえた気がした。
オレを呼ぶ声がした気がした。
けれど
 

オレは振り返らずに歩いていった。
足を引きずりながら、ただ黙って歩いた。

痛かった。
足が痛かった。
痛みのあまり倒れそうなくらい痛かった。

でも、それは蹴られた痛みではなくて
そんなものではなくて
オレの痛みは
痛いのは
痛かったのは…
 

オレは歩いていった。
オレンジ色に染まりかけた街を、ただ黙って歩いていくしか、オレには…できなかった…
 
 
 
 
 
 

オレンジ色から、赤、そして黒に変わっていく空。
窓から見える空は、いつもこんな風だったんだな…
いつもは…ゆっくり見てることなんて滅多になかったから、知らなかったけど…

ボクはベッドに寝転びながら、窓の外を眺めてた。
学校から帰ってそのまま、転がったベッドの上で…
ボクの大好きな…でも、嫌いな夕暮れの景色…

ううん
ゆっくり見たことがないわけじゃない。
見なかっただけだよ。
だって

夕暮れはいつだって、ボクを不安にさせる。
それはきっと昔、お母さんと住んでた頃、誰もいない部屋でお母さんを一人で待ってた…あの頃、思い出すからだって思ってた。
それに、お母さんと事故に遭った、あの日も夕方で…

オレンジ色の景色
オレンジに染まる雪
初雪が少しだけ積もる街
道の向こうで、手を振るお母さん
手を振りながら道を渡るお母さん
 
 
 

『あゆ〜〜〜』
 
 
 

だめぇぇぇぇぇぇっっっっっ!!!
 
 
 

宙を舞う黒い影
舞う白い雪


 

お母さん
 
 
 

目をつぶっても見える
赤い雪
 

赤い
 
 
 

思い出したくない

思い出してしまうから

だからボクはいつだって、夕暮れは嫌いで

不安で
涙が出そうになって
悲しくて
とても悲しくて
だから
 
 

だから
 
 
 

でも
 
 
 
 
 

悲しくて
涙が出そうになると
ボクは

いつもあの場所へ
どうしてかあの場所に行って

あのベンチに座って
夕焼けに染まる街並みを眺めてた。

真っ赤に染まる街の屋根
ビルのガラスに映る夕日
急いで通っていく人たちを見ながら

泣きそうになっても
でも
何かがやってくる気がして

何かうれしいことがボクに向かってくる気がして
それが何かは分からない
分からなかったけど
でも
きっとやってくるからって
なんだかドキドキしながら

ボクは待っていた。
何かを待っていた。
誰かを…
 
 

『…よう、あゆあゆ』
 
 

『…じゃあ、また明日も…あの場所で。』
 
 

『うんっ!』
 
 

だからボクは夕暮れが大好きで

でも

大嫌いで
 

窓の外の夕日
赤く染まった部屋
ボクはベッドに転がって
ぼんやり、窓の外を見つめながら

ボクは…
 

ダメなのに
こんなことじゃダメなのに

元気になるって
だからいつもどうり学校に行って
いつもどうり授業を受けて
いつもどうりお昼を食べて
いつもどうり遊んで
いつもどうり
 

『あゆちゃん…なんか今日、元気ないけど…』

明美ちゃんがボクの顔、心配そうに見てた。
 

ダメなのに
こんなことじゃダメなのに
ボクは
 

『…ううん。気のせい気のせい。ボク、元気だよっ!』
『……そう…』

明美ちゃん、でもボクの顔、じっと見てた…
 

ダメなのに
こんなことじゃダメなのに

元気になろうって
大丈夫になるって
きっとなるって
頑張ろうって
 

頑張らなきゃ
だって、ボク…
 
 

ドタドタドタドタ…
 
 

遠くから聞こえる、小さな足音。
ミイちゃんの足音が、ボクの部屋に駆けてくる。

ボクはベッドから起き上がった。
なんだか重い頭を、2、3回振った。

ダメダメ
ミイちゃんにはもう、変な顔、見せられないよ。
だって…ボク、約束したんだから…
 

「…お姉ちゃんっ!!」
 

ミイちゃんの元気な声。
ドアが開くのと同時に、ミイちゃんはボクの部屋、駆け込んできた。

「お姉ちゃん、あのね、ミイ…」

「…ミイちゃん、落ち着いて。」

どのくらい走ってきたんだろ?
ミイちゃん、顔が真っ赤だった。
それに、息もずいぶん切らして…

「で、でも…あ、あたし…ごほっ、ごほっ」
「…ほら、息、大きく吸い込んで。落ち着いてから、話、聞くから…」

多分、食べ物のことか、新しいゲームのことか何かだろうな。
そんなの見つけるたび、ミイちゃん、ボクのとこ知らせに来るんだから…
でも、今月の小遣い、もうあんまりないからね。

「…言っておくけど、何か買ってっていうのはダメだよ、ミイちゃん…」
「そんなのじゃないもんっ!」

でも、ミイちゃん、大きく首を振ると、息を切らせたまま

「あたし…ちゃんと、仕返ししてきて上げたよっ!」

「……仕返し?」

…何のこと?
ミイちゃん…わけ分かんないこと言って…

「…ミイちゃん、何言って…」

「…だって、お姉ちゃん…泣いてたから、だから…」

「……ミイちゃん…?」

「だから、あたし…祐一お兄ちゃん、蹴ってやったんだよっ!」
 

……え?
祐一…くん?
 

ミイちゃん、得意そうにボクを見てる。
まだ赤い顔で、にっこり笑いながら…

「……ミイちゃん……?」

「うん!」

ミイちゃん、頷いて

「2回もキックしてやったもん!それに…」

「ミイちゃんっ!!」

「そ…あうっ」

思わず、ミイちゃんの腕、ボクは掴んでた。
ミイちゃん、顔、しかめて

「…お、お姉ちゃん…」

「な、何でそんなことしたのっ!」

でも、ミイちゃんの腕、ボクは離さずに

「そんなこと…しちゃダメだって、人に暴力なんて、ボク…」

「………」

「何でそんなことしたのっ!ミイちゃん!」

ミイちゃん、そんなことする子じゃないはずだよっ
人に暴力なんて
それも…

…ミイちゃん、祐一くんのこと、気に入ってたじゃない…
大好きって言ってたじゃない…
なのに…

「…どうして、そんなことしたのっ!!」

「……だって…」

ミイちゃん、顔を上げた。
ボクの顔、じっと見つめた。

「……だって…」

「……だって…なに?」

「……お兄ちゃん…お姉ちゃん、泣かせたんだもんっ!!」
 

「……え?」
 

「だって、お姉ちゃん、泣いてたじゃないっ!昨日…お兄ちゃんの話したら、泣いてたじゃない!」
 

「…そ…それは…」
 

「お姉ちゃん、ミイがお兄ちゃんのせいなのかって聞いたら…泣いてたじゃない。ずーっと泣いてたじゃないっ!だからっ!」

ミイちゃん、泣き声になってた。
涙、ミイちゃんの目から、ポロポロって…
 

「…だから、だもんっ!お姉ちゃん、ミイの前で泣くなんて…きっと、お兄ちゃん、酷いことしたに決まってるもん。だって…お姉ちゃん…」
 

ミイちゃんの目
ボクを見上げた目

泣かないって言ったミイちゃんの目から落ちる涙が
 

「……約束したもんっ!ミイの前では泣かないって。だから、ミイも泣かない、そういう約束…したもんっ!なのに…なのに泣いてたから…だからきっと、お兄ちゃんが…」
 
 

『ミイちゃん、お姉ちゃんと約束しよっ!』
 

あれはミイちゃんとボクが仲良くなってすぐの頃。
泣き虫だったミイちゃんと、ボクがした約束。
 

『お姉ちゃん、ミイちゃんの前じゃ、絶対に泣かないよ。どんなことがあっても、絶対泣かないから。約束するからね、だから…』
『…ミイも、泣かない…お姉ちゃんの前じゃ、泣かない…』
『……うん。約束。ほら、指切り…』
『…うんっ!』
 

小さな小指に、指切りをした…約束。
ボクの前では泣かない…そしたら、きっとどんどん泣かない強い子になってくれる…
 

『……あゆ。お母さんと約束しましょう…』
 

お母さんとボクも、同じ約束をしたから。
お母さんは泣かなかった。
だから、ボクも泣かないって
きっと泣かないって、思って頑張って…
 

「……ミイちゃん…」
 

破ったのは
約束を破ったのは
ボクの方…
 

「……ごめん…」
 

「…お姉ちゃん…」
 

ミイちゃん
ボクは…
 

「……ごめんね…」

「……お姉ちゃん…」
 

うぐぅ
また…涙…

泣いちゃダメなのに
また約束、破っちゃっうのに
ボク…

「……でも、ミイ…やっぱり、祐一お兄ちゃん、許せないもんっ!」

泣きながら、顔上げて、ミイちゃん…

…ミイちゃん、違うんだよ…

「だから…お兄ちゃんに、言ってやったんだもん!嫌いだって…大嫌いだって、言ってやったもんっ!」

「ミイちゃん…」

「だって…お姉ちゃん泣かす、お兄ちゃんなんて、ミイ、嫌いになるもん。大嫌いになるもんっ!」
 

…大嫌い

ミイちゃんがボクを見ながら頷いて
 

ボクは…
 

「……ダメ、だよ…ミイちゃん…」

「……え?お姉ちゃん…」

「…祐一くんのせいじゃ、ないんだよ…」
 

祐一くんのせいじゃないんだよ
ボクが泣いていたのは
祐一くんが悪いわけじゃなくって
悪いのは祐一くんじゃなくて

たとえ同情でも
たとえ責任でも
ボクに笑ってくれて
ボクを抱しめてくれて
ボクのこと、見てくれた祐一くんのこと…

「…ミイちゃん、嫌いだなんて…言っちゃダメだよ…」

「…お姉ちゃん…」
 

嫌い

好き
 
 
 

嫌い
 
 
 

同情して
責任があるから
ボクのこと見てるフリをして
嘘で笑って
 

でも
 

抱しめてくれた腕は暖かくって

手を握って
おんなじ夕日を見て
笑って
 

ボクにキスしてくれた人
抱しめてくれた人
大丈夫だよって
あの冬の日にも
この間のときも

あれは
 

たとえ嘘でも
 

嘘だから
 
 
 
 
 

嘘でも
 
 
 
 
 
 

嫌い
 
 
 
 
 
 
 

嫌いなの?
 
 

ボクは

祐一くん
 
 

ボクはホントに
 
 

ボクはホントは
 
 
 

まだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「…ダメ、だよ…ミイちゃん、嫌いだなんて…」

「……お姉ちゃん…」

「……だって…」

「………お姉ちゃん…」

「……ダメだよぉ……」
 
 

ボクは泣いていた。
約束を破って
ボクは
ミイちゃんは

泣いていた

ダメなお姉ちゃん
ダメなのに

泣いていた
 
 
 
 
 
 
 

赤く染まっていた空は、もう真っ暗になっていた。
日が差していてさえ冷たい風は、身を切るほどの冷たさに変わっていた。
オレはコートの襟をしっかり握ったまま、月の輝く空を見上げた。
昨日の雪が嘘のように晴れ上がった夜空を。

「……はあ」

吐く息が白く凍り、風に流れる。
踏みしめる雪は、月に白く、淡く…
 

結局、あれからオレはまた、街をさまよった。
まっすぐに帰ることはできなかった。

分かってる。
卑怯者なオレ。
帰って名雪と顔を合わすことが恐くて
秋子さんと顔を合わすことすら恐くて

ミイちゃんに蹴られた足
声のまだ響く耳
 

『…嫌いだよっ!お姉ちゃんを泣かせるお兄ちゃんなんて…ミイ、嫌いだよっ!!』
 


ミイちゃんの瞳から流れていた涙

どれだけの人間をオレは泣かせたらいい?
あゆを泣かせて
名雪を泣かせて
ミイちゃんまで
今度は…
 

誰を泣かせればいい?
誰を泣かせたら、気がすむんだ、オレは?
卑怯者のオレは
最低のオレは…
 

気がつくと、オレは水瀬家の前に立っていた。
足は自然と家の前までオレを運んでいた。
家の門の前
昨日、名雪が…
 

『祐一…約束したじゃないっ!』
 

屋根に白く雪をかぶった水瀬家を見上げて、オレは立っていた。
昨日と同じ場所にオレは立ち尽くして

でも
昨日と違うのは
名雪がそこにいないこと。

名雪の部屋の電気は、付いていないようだった。
階下に降りたのか…

…いや、そんなことはないだろう。
オレには分かっていた。
名雪はきっとあの部屋で
電気も付けない真っ暗な部屋の中
膝を抱えて部屋の隅に座っているんだろう。
子供の頃、よくそうしていたように
悲しいとき
泣きたいとき
名雪はよくそうしていた。
オレはそんな名雪を慰めていた。
慰めていたオレ

でも

今、名雪がそうして暗闇の中
じっと座っているのは
泣いているのは
 

オレのせい
 

玄関の灯の下、オレは手を伸ばした。
玄関の扉
重い扉を、オレはゆっくりと開けて、玄関へ…
 

「……そんなの…わたし、知らないよっ!」
 

名雪の声。
静まり返った家に響いて

「名雪…」

「知らない…知らないもん!そんな、勝手なことっ!」

「でも…」

「…出てってよっ!お母さん…そんなこと言うお母さんなんて…出てって!出てってよっ!」
 

バタン
 

二階から響くドアの音。
そして、ため息…
 

オレは玄関を上がって、階段の下へと急いだ。
暗い電灯が、ぼんやり階段を照らしていた。
でも、そこには誰も…

「………」
 

いや、秋子さんの影が、階段に落ちた。
わずかに振り返ると、頬に手を当てて…

「………祐一、さん…」

「………」

ふいに振り返った秋子さんは、でも、オレを見て驚きもしなかった。
ただ、オレを見おろして、小さく頷くと

「……リビングへ」

一言だけ言うと、階段を降りてきた。
わずかに階段の軋む音が響いた。

「…秋子さん…」

オレは二階を見上げた。
薄暗い灯の先、名雪の部屋の方を…

…今のは、いったい…
 

「…名雪は…」

「………お話が、ありますから。」

オレの言葉に、でも、秋子さんはオレの横を静かに通り過ぎると、ゆっくり振り返って

「……祐一さんも知っておいた方が……いえ、知っておかなければならない、話が…」

「………」

「……ですから…」

それだけ言うと、秋子さんはゆっくりと廊下を歩いていった。
向こうに見えるリビングの灯にその背中が、わずかに細かく揺れながら…

オレは秋子さんの後について、リビングへと歩きだした。

暗い二階からは全く、物音も聞こえなかった。
 
 
 

リビングに入ると、秋子さんの姿が見えなかった。

「……秋子さん?」

「……はい。」

声と共に顔を出したのは…キッチン。

「…ちょっと、待っていてください。」

秋子さんは言うと、顔を引っ込めたかと思うとすぐにキッチンから出てきた。
その手には、大きなお盆…

「…お茶です…どうぞ。」

「……いや…」

「…外は寒かったでしょう。さあ。」

秋子さんは言うと、リビングのテーブルにお盆の上に載っていた大きなポットと、カップを二つ置いた。
そして、ソファに腰かけると、ポットからカップへと、静かに液体を…

「………」
「………」
 

知らない、でもどこか懐かしい香りが、リビングに広がった。

「……どうぞ。」

秋子さんはポットをおくと、オレを見上げた。
オレは…

「…はい。」

オレは向かいのソファに腰を下ろすと、目の前に置かれたカップを持ち上げた。
一口、お茶をすする。
懐かしいような不思議な香り…

「…以前、いただいた物とは違う…でも、懐かしい感じの香り…ですね」

「………」

秋子さんは一口お茶を飲むと、カップを置いた。
そして、オレの顔を見ながら

「…そう…感じますか。」
「……はい。」
「……そうですね…」

と、秋子さんは微笑んだ。

「ならば…よかったわ。」
「……え?」
「………」

秋子さんはそれ以上何も言わず、カップを持ち上げてまた一口、お茶を口にした。
オレも黙って目の前のカップのお茶を飲んだ。

静まり返ったリビング
わずかにカップを置く音
そして、時計の音だけが響いて…
 

『知らない…知らないもん!そんな、勝手なことっ!』
 

名雪の声。

あれは確かに名雪が、秋子さんに言った言葉。
喧嘩なんて見たこともない、秋子さんと名雪
秋子さんに声を上げたことなんてないだろう名雪が
秋子さんに叫ぶように…
 

『…出てってよっ!お母さん…そんなこと言うお母さんなんて…出てって!出てってよっ!』
 

…きっと、それは…
 

「…祐一さん。」

「…はい」

カップから顔を上げると、秋子さんが自分のカップをテーブルに置いてオレに向き直った。

「…祐一さん、あなたが…知っておかなければならないこと、ですが…」

「……はい。」

「………」

秋子さんはオレの顔を見つめると、小さく息を吸って

「……あゆちゃんの…ことです。」

「……え?」

「…あゆちゃんがどうして、あの事故のことを…あの冬のことを忘れていたのか…」

「………」
 

『7年…8年前になるのかな?急いで道を渡ろうとして…ボクの目の前で…』
『…その時、ボクも事故に遭ったんだ、と思う…よく覚えてないけどね。』
『…それから、しばらく…ボクは眠っていたらしいんだ。何ヶ月も…』

あゆはあの時、そう言った。
"しおん"を追ってオレが道路に出ようとした時、オレにしがみついて泣きながらオレを止めたあゆは、自分の事故のことを、あの時…
 

「……秋子さん、どうしてそれを…」

「………」

秋子さんは黙って、目をカップに落とした。
小さく、息をついた。

「……わたしは…あゆちゃんのいる愛育園の園長さんとは、古い…知り合いなのです。」

「……知り合い?」

「ええ。」

「………」

「…大学時代、ボランティアをしていた時の…」
 

ふいに秋子さんは口を閉じた。
カップを持ち上げると、お茶を一口…

でも、その目は…
 

大学時代…

でも、秋子さんは確か、大学を中退して名雪を…
 

「……秋子さん…」

「……それで、ずいぶん会っていなかったのですが…」

と、秋子さんはオレの言葉においかぶさるように続けて

「今日、偶然…お会いする機会があって。」

「………」

「…それで…あゆちゃんのとこ、少し聞いてみたんです。」

秋子さんは言うと、いつものように頬に手をやった。

「…それで…教えていただいたのです。あゆちゃんは…記憶喪失、だったのだと。」

「……記憶喪失?」

「ええ。」

記憶喪失…
それなら説明は…つく。
きっと…

「…あゆは、あの事故で…オレのことを忘れていた。そういうこと…ですか?」

「……いいえ。」

秋子さんはかぶりを振った。

「……え?」

オレは秋子さんの顔を見返した。

「…でも、今…」

「ええ。あゆちゃんが記憶喪失だったと、わたしは言いました。でも…あゆちゃんが記憶を失ったのは…あの事故のときではありません。」

「…事故の時じゃ…ない?」

「ええ。」

秋子さんは頷いた。

「あゆちゃんが記憶を失ったのは、あゆちゃんのお母様があゆちゃんの目の前で事故に遭ったとき…その時、以前のことを全て、忘れてしまったのです。その、ショックで…」

「………」

「……祐一さん、あなたがあの事故の後、あの冬のことを…あゆちゃんのことも、それ以外のことも全て忘れてしまったように…」

オレは秋子さんの顔を見つめていた。

あの冬の記憶
オレの失くしていた記憶

あゆと出会ったこと
あゆと遊んだこと
そして
あゆを殺したと思ったこと…

…名雪との約束…
 

オレは忘れようとした
オレは忘れたかった
あのあゆの顔
赤く染まった顔
赤く染まっていく雪
目を閉じたままの…
 
 

『………あゆっっっっっっっ!!!!!!!』
 
 

そして…
 

「…忘れてしまった…」
 
 

お前も…
 

『……分かんない』
 

始めて会ったあの時
オレがなぜ泣いているのかを聞いた時
 

『…分かんない』
 

…あれは…
 
 

「…ということは…あゆは…オレと初めて会った時…」

「…そうです。」

秋子さんは頷くと

「あゆちゃんは、ショックでお母様のことも、何もかも忘れたまま…祐一さんと出会ったのです。」
 

泣いていたあゆ。
白いリボンを震わせて

あいつはあの時、自分がどうして泣いているのかすら分からないまま
忘れてしまったまま
泣いていたんだな…
 

「そして、あの事故で…今度は、記憶を取り戻したのです。代わりに、記憶を失っていた間のことを、忘れて…」

「……だから…」

「…そう、だから…あゆちゃんは、決して祐一さんの気持ちにつけこんで近づいたわけじゃない。それを…わたしは名雪に説明したんですが…」

「……え?」

秋子さん…
…知ってる?
 

『…だって、卑怯だもの!あの子、卑怯だもの!祐一の気持ちにつけこむなんてっ!だから…』
 

名雪とオレの
白い雪の中
叫んだ名雪の…
 
 

「……ごめんなさいね。用事で玄関に出たら…」

「………」

「…偶然…悪いとは思ったのですが…」

「……いえ」

知ってもらっておいた方が…いい。
あゆのせいじゃない
名雪のせいでも…ないこと…

「…それは…構わないです。」

「……そうですか?」

「…はい。」

オレは頷いた。
秋子さんもオレの顔を見て、小さく頷いた。

「…そう…だから、わたしは名雪に、あゆちゃんのせいじゃないと…」

「あゆのせいじゃ…ないです。もちろん、名雪のせいでも…」

「……え?」

見つめる秋子さんの瞳。
オレは思わず目を落とすと

「…全ては…オレが悪いんですから。」

「……祐一さん…」

「あゆのせいでも、名雪のせいでもない…オレがあゆを傷つけて…何度も傷つけた…そして、名雪を約束で、身勝手な約束で縛りつけておいて…忘れてしまったオレが…全部悪いんですから。オレが…」

「………」
 

あゆ

名雪
 

オレンジの雪

白い雪
 

オレのせいで泣いていた
涙をぽろぽろこぼしながら
オレのせいで

オレに
 

『…そんな…そんなもの、いらないっ!いらないよっ!!』
 

『…わたしと…約束したじゃないっ!祐一…約束したじゃない!』
 

何度傷つければいい?
何度傷つけたら、オレは気がすむんだ?

あゆを
名雪を

オレは何度…
 

「…祐一さん」

「………」

「…祐一さん」

「………」

オレは顔を上げた。

「……はい。」

「………」

秋子さんは初めて見るような、厳しい顔でオレを見ていた。
いつもはぼんやりとした瞳が、オレを厳しく…

「……約束をした…それで名雪を縛った…それは…あなたの勝手です。」

「………はい。」

「わたしも…そう思います。あなたは…勝手…」

「………」
 

そう
オレは勝手な奴だ。
オレは卑怯者だ。
オレは自分の悲しみをなんとかしたくて
それで名雪を利用して
約束をして
名雪を縛りつけて…
 

「……でも…」
 

と、秋子さんは小さくかぶりを振った。
その目が、ふいに優しい光を帯びて

「……約束に縛りつけられるのも、実はその人の…勝手だと思います。わたしは…」

「……え?」

「…約束をして…守るのだって、実は勝手なのでは…ないかと思います。約束を破らずに、約束をずっと覚えていて…縛られつづけるのも、勝手なこと…その人の、勝手なこと…」

「………」

「相手が、本当にそれを望んでいるのか、そんな約束に意味はあるのか…そんなことを考えず、ただただ約束にすがっている…それも、勝手だって…わたしも、思うのです。思うのですけれど…」
 

秋子さんはいつの間にか、オレから窓の外へと視線を映していた。
窓の外は真っ暗で、わずかに雪明かりが…
 

「……でも…」
 

秋子さんの目は、窓を映して
でも、何も映さず…
 

「…わたしたちは、自分が望むことしか…できないのかもしれない。相手が本当にして欲しいことではなく、自分が相手に願うこと…自分の勝手で相手のことを、して欲しいと思っていると思いたい、そういうことをしてしまう…それしか、できないで…そして…」

「………」

「……それが分かってるのに…分かっても、でも…迷って、泣いてしまう…」

「……秋子さん…」
 

秋子さんの言葉。
それは、オレにではなく…
窓の外を見つめる秋子さんの目
揺れる瞳が…
 

「………すいません、変なことを…言ってしまいました。」
 

と、秋子さんは小さくかぶりを振った。
まだ揺れている瞳を閉じてかぶりを振ると、スッとソファから立ち上がった。

「…では…祐一さんは、お風呂に入ってきてください。そしたら、夕食にしましょう。」

「……え?」

オレは秋子さんの顔を見上げた。
秋子さんは手を伸ばすと、テーブルの上のカップをお盆に載せた。

「…でも、秋子さん、オレは…」

「………」

こんな気持ちで…風呂も…食事なんて…

オレはお盆を持ち上げてキッチンへと歩きだした秋子さんの背中に

「秋子さん、オレ…」

「……風呂に入ってください。」

秋子さんはキッチンの入り口で振り返った。
お盆を手にしたまま、オレの顔をじっと見つめた。

「…そして、夕食をきちんと食べて…考えてください。ゆっくり…考えてください。それが、祐一さん、あなたの…義務です。」

「………」
 

オレを見つめる瞳
オレを責めて…
 

「……でも」
 

秋子さんの瞳
オレを責めてはいなかった。
それより、その瞳は…

「それは…つぐないのためでも、あなたのせいだからでも…ありません。そういうことではなく…祐一さんは、考えなくてはならないからです。もっとしっかり…考えなくてはならないから。だって…」

「………」

「…だって、名雪も…そしてあゆちゃんも、泣いて…考えているんですから。そして、それは…祐一さん、あなたのこと、なのです。だから…」

「でも、オレは…」

「そして…そんな二人を…本当に傷つけることも、本当に…救えるのは、結局、あなただけ…」

「………」
 

オレは黙り込んだ。
黙るしか…なかった。

オレはあゆを傷つけた

オレは名雪を傷つけた

そんなオレが

そんなオレに
いったい何が…
 

「……でも、救おうなんて思わないでください。」
 

オレの顔を見ていた秋子さんが、その時、大きく首を振った。

「…救おうなんて…そんなことを思えば思うほど、結局…間違えてしまいますから。何をするべきなのか、何を…自分がしたいのか、それを…本当に何がしたくて、だから何をしたらいいのかを…考えること。何をするべきなのか、しなくてはならないかを考えるのもいい…でも、それをあなたが本当にしたいことと、間違えないで考えて…ください。それがあなたの義務だと…わたしは、思います…思うのです…」
 

そのまま、秋子さんはキッチンに入っていった。
オレは…
 

オレは立ち上がって廊下へと出た。
キッチンからは何かを刻む音が聞こえてきた。
時計の音にかぶさるように響いて…

階段の上からは何も聞こえては来なかった。
わずかな音すらも、二階の名雪の部屋からは聞こえてこなかった。

オレが床を歩く音
わずかな廊下の軋み
窓を揺らす風の音
廊下にはキッチンの音と、それ以外には聞こえなかった。
それ以外、何も聞こえはしなかった。

オレのしたいこと
オレのするべきこと
オレに何が出来るのか
オレに…

オレは、いったい…

廊下をわずかに軋ませながら、オレはゆっくりと廊下を歩いていった。
 

<to be continued>

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…筆者です。
「仕切り屋・美汐です。」
…みんな…優しいよね。優しいから…責めたり、泣いたり…そんなこと、してくれて…
「…それが…この世界?」
…そう。そんな、嘘のような…世界。でも…それが書きたくて、これを書いてるから…
「……書けますか?」
…そうだね…優しくないオレに、どこまでそんな世界が書けるものか…頑張ってみるけどね。あと…もうちょっとだし。3人の…思いに決着をつけてあげないとね…

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