天使たちの伝言 前編

(夢の降り積もる街で-19) 前編


あゆSS。

シリーズ:夢の降り積もる街で

では、どうぞ。

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天使たちの伝言 (夢の降り積もる街で-19)
 

1月29日 金曜日
 

昨日と変わらない朝が今日もやってきていた。
昨日と変わらない、窓から射し込むまぶしい光
昨日と変わらない、静まり返った家

重い体を引きずって、オレは廊下を歩いた。
静まり返った廊下には、オレの足音だけが響いていた。
白い光に包まれた、二階の廊下に響く…

オレは廊下を歩いた。
物音もしないドアの前を黙って通り過ぎた。

…今日は名雪は早く家を出たのかもしれない。
頭の中の誰かが、オレにささやく。
最近、部活が忙しいと名雪自身が言っていた。
だから、今日は早くに家を…

…違う!
そうじゃない!
もう一人のオレが叫んでいる。
目をそらすんじゃないっ!
名雪は今も部屋の中で、膝を抱えているんだ。
きっと泣きながら、名雪は部屋の隅で…

オレは頭を振った。
痺れるように重い頭。
何も考えられない、愚かなオレの頭

何も考えられない。
何をすべきなのか。
何をしたいのか。

名雪のため
あゆのため
オレ自身のため

香里の言葉
香奈美さんの言葉
秋子さんの言葉
みんな理解できる
みんな分かっている
だけど

オレには…

オレはわずかに軋む階段をゆっくりと降りていた。
足だけは何も考えずに動く。
階段を降りて、ダイニングへ向かう。
見上げると、二階の廊下は明るく光って…

もう一度、オレは首を振ると、廊下を歩きだした。
そして、ダイニングへと入って、イスに腰かけた。

「…おはようございます。」

オレが席についたとたん、目の前に置かれた白い皿。
皿の上には、キツネ色に焼けたトーストが一枚、既にバターが塗られていた。

「…おはようございます。」

言いながら顔を上げると、秋子さんはもうキッチンの入り口まで歩いていっていた。
そこで秋子さんは振り返ると

「トーストよりもご飯がいいのでしたら、そうしますけど?」
「……いいえ。」

オレは秋子さんに言うと、トーストを手にとって一口かじった。
味はしなかった。
味わうという感覚なんて、オレにはもうなくなっていた。
トーストをかじるのは、秋子さんのため。
今日も変わらずオレのことを心配してくれる秋子さんのため。
そして…

「……秋子さん…」
「……はい。」

オレが呼ぶと、秋子さんはキッチンから顔を出した。
それから手をエプロンでぬぐうと、テーブルのところまでやってきて

「何ですか、祐一さん?」
「………」

オレは秋子さんの顔を見上げていた。
いつもと変わらない、秋子さんの顔。
少しぼんやりした瞳が、いつものようにわずかに笑みを浮かべながら…

「…秋子さん…」

「はい。」

「……名雪は…」

「………」

秋子さんのその瞳が、わずかに曇るのが分かった。
そのエプロンに置かれた手に、わずかに力がこもるのが…

「…あの子は…」

秋子さんは言いながら、ふと天井を見あげると

「……今日も…休むつもりのようです。」

何でもないように、そんな言葉を口にした。
何でもないように…

…でも…

「………」

秋子さんはそのまま、目を下に落とした。
そのまま、キッチンへをまた戻っていった。
その後ろ姿…
 

何でもないはずはない。
何も感じないわけがない。
二人っきりの親子…娘のことを気にかけない親なんて、いるわけがない。
だけど…

「…コーヒー、今、入れますね。」

キッチンに消えた秋子さんの姿。
声はいつもののんびりとした口調。
いつもと変わらない…
 

変わらないわけはない。
秋子さんだって…

でも
 

『……わたしは、名雪の…母親です。』

『でも、わたしは…仕事に行くつもりです。』
 

わずかに震えていた肩。
見慣れた、でも思ったよりも小さい背中。
二人きりで暮してきた親子。
その娘のことを心配していないはずはない。
それなのに…
 

『……必ず…ご飯を食べてから出てくださいね。』
 

オレの心配をしてくれて
娘を傷つけたオレのことを

オレが名雪を傷つけて
オレが秋子さんを苦しめて

それなのに
 

オレは
 

オレにできること
オレがしなければならないこと

結論は…出ていない。
出せるのかどうかも分からない。
全ては白い闇の中
あの雪の中…

…でも…
 
 

ピーーーーーーーーー
 
 

甲高い音。
甲高い笛のような音が、ダイニングに響いた。

聞き覚えのあるその音は、キッチンからダイニングへと響いてきていた。
それはたしかに聞き慣れた、ヤカンの沸く音。
でも、この家に来てからは、久しく聞いたことがない。
この家ではいつだってその音は一瞬で止んで、すぐに甘い香りがあたりを包んでいたから。
甘いお茶の香りと、優しい笑顔が。

でも、今朝は…
 
 

オレはテーブルから立ち上がった。
 
 
 
 
 
 
 

手を握りしめて、オレは一つ、息をついた。
二階の廊下はひんやりと寒く、裸足の足の裏は冷たいを越えて痛い。
窓からさす朝日は、あたりを明るく、白く照らしていた。

目の前のドアの中からは、やはり物音一つ聞こえなかった。
…まだ眠っているのかもしれない。いつもなら…

いや、そうじゃない。
多分…いや、間違いなく起きているはずだ。
オレには分かっている。よく分かっているはずだ。
なのに、そんなこと…
それは逃げだ。
オレは…

…これ以上、卑怯には…
 

オレは目の前のドアのプレート、『なゆきの部屋』と書かれたプレートをしっかりと見つめた。
そして、目をつぶると、大きく息を吸いながら、手を伸ばしてドアを小さくノックした。

「……名雪」

「………」

中からは何の反応もない。
オレの声とノックの音だけが、廊下に響く。

オレは少し待って、また

「……名雪…」

「………」

「………起きてるんだろ?もう…」

「………」

「…名雪?」

「………」

やはり、何の答えもない。

でも、名雪が起きていることは、オレには分かっている。
そして、今も黙ってオレの声を聞いていることも…

「……名雪…」
「………」

オレはドアに手をついた。
そして、そのままで多分部屋の隅、膝を抱えて座ったまま、耳をすましているだろう名雪に

「…学校…行こう。」
「………」
「…香里…心配してた。お前のこと…」
「………」
「…自分のせいもあるって、だから…」
 

『…最低だわ、今のあなたは。あたしが言いたいのは、それだけよ。』
 

白い雪
中庭
オレを見つめていた香里の瞳
厳しい瞳…
 

『そうやって自分だけ責任をかぶって、いい子になりたいのね?そうやって自分を責めるふりして…それで罰を受けた気になって?』
 

そうかもしれない
香里
お前の言うとおりかもしれない
でも

じゃあ、オレはいったい…
 

「…責めるなら、オレを責めてくれ。思う存分…責めてくれていいよ、名雪。でも…」
「………」

オレは無言のドアに言葉を続けた。
物音一つしない部屋のドアに向かって、オレは手を強く握りしめたまま

「だから……だけど、みんなに心配…かけないでくれよ。香里に…クラスのみんなに、部活のみんなに…そして…」
「………」
「…そして、秋子さんに…」

カタン

ドアの向こうで小さな音がした。
何か小さな物が床に転がるような、そんな音。
オレはしばらく耳をすませた。

名雪の部屋の中からは、それっきり音はしなかった。
オレはもう一度、ドアを見つめた。

「…秋子さん…名雪、お前に言うことじゃないけど…お前の方が、あの人のこと、一番知ってる。それはよく分かってるけど…けどな」
「………」
「…いつもと変わらないように、オレの面倒を見て…お前のこと、黙って見てて…オレのこと、心配してくれる…いつもと変わらない、本当に優しいよ、秋子さんって人は。でも…」
「………」
「…でも、秋子さん…本当に心配してるぞ。お前のこと…黙って見てようって、それが一番いいって思うから、だから何も言わないけど…だけど…」
「………」
「本当は、秋子さん…家事も手につかないほど、心配してるんだ。それを他の人に見せないように、必死に振る舞ってるけど、本当は…」
 

家事に関しては完璧な秋子さん。
あの人が失敗することも、手抜きをしたこともオレは見たことがない。
なのに、今朝は…あのヤカン…
 

『そして…そんな二人を…本当に傷つけることも、本当に…救えるのは、結局、あなただけ…』
 

あれを言った時、本当は秋子さんはどう思っていたんだろう?
自分の娘を、自分が救えないって言った母親の気持ち…
オレには分からない。本当は分からない。
だけど…
 

「…秋子さん…これ以上心配させるなよ。このままじゃ、お前だけじゃなく、秋子さんも…」
「………」
「…名雪…」

オレは無言のドアに頭をつけた。

オレが言うセリフじゃない。それは分かっている。
名雪がこうなったのは、もとはと言えばオレのせい。
そのオレが名雪にこんなことを言うなんて、あきれ果てた無責任な、卑怯なことだって。

オレにだって分かってる。
こんなことを言いながら、名雪のことをとやかく言う資格なんてオレにはないことくらい。
全てはオレのせいで始まったこと
そして
オレにはまだ、全てを終える事なんてできそうにないことも

何をすべきなのか
何をしたいのか

オレにはまだ見つかってないくせに
名のにこんなこと、名雪に言うなんて

でも

「…名雪…」

「………」

「…オレはこんなこと、言う資格ないのは分かってるんだ。だけど…言わせてくれよ。」

「………」

「名雪…みんな、心配してるよ。だから…」

「………」

「…オレのこと、責めていいよ。いや、責めてくれ。オレのこと、恨んでくれ。オレが悪い。全部、オレが悪い。全てはオレのせいなんだ。だから…」
 

「………」

「名雪…」

「………」
 

オレは顔を上げた。
物音のしないドアを見つめた。
そして、大きく息を吸うと、そのドアのノブを…
 

カチャッ
 

小さな音。
オレの伸ばした手の先、ドアが動いた。
それはそのまま、音もなく開いて…
 

「……名雪…」

「………」
 

ドアのすき間、薄暗い部屋から顔がのぞいた。
青ざめた顔
少しこけた頬
赤く充血した瞳がオレを見つめていた。

「………」

「……祐一」

名雪は口を開いた。
かすれた、小さな声がその乾いた唇から漏れた。

「……じゃあ…約束、してくれる?」

「……約束……?」

オレは名雪の顔を覗き込んだ。
名雪の蒼ざめた、真剣な顔。

赤い瞳がオレを瞬きもせずに見上げていた。
もう枯れ果てるまで流したのだろう、涙すら見えない瞳が、オレのことを真剣に見つめていた。

「……オレに…出来ることなら。」

オレは頷いた。

オレにできることなら。
オレが約束できる…
 

『…約束…だよ…』
 

…オレの約束に、意味があるのなら…
 

「…オレと…」

「……祐一にしか、約束できないこと。」

名雪はかすれた声のまま、オレに言った。
真剣な瞳で、オレを見つめたまま

「だから…約束…して。そしたら、わたし…学校、行くよ…」

「………」

オレは…
 

頷いた。

「……ああ。」

「………」

名雪は一瞬、目を下にやった。
それからキッと顔を上げると、オレの目を見つめて

「……約束して。あの子と、もう会わないって。」

「……え…」

「もう二度とあの子と…絶対会わないって約束して。約束してくれたら、そしたら、わたし…」

「………」

オレは黙って、名雪の顔を見つめていた。
オレを見上げている名雪の顔。

名雪の顔は青白く、頬も少しこけていた。
でも、頬には少し血が登って…赤い。
そして、赤い瞳が…オレを見つめて…

…分かってる。
全ては…オレのせい。
名雪との約束を忘れて…

いや
名雪との約束を利用したオレ。
名雪の言葉に、オレは救いを求めた。

『約束…だよ…』

そう言ってくれた名雪の言葉に、オレは思い出を封印した。
名雪に全てを負わせて、オレは…

だからオレは

オレは…
 

『…わたしと…約束したじゃないっ!祐一…約束したじゃない!』
 
 
 
 

オレは…名雪に…
 
 

それに…
 
 
 

『…そんな…そんなもの、いらないっ!いらないよっ!!』
 
 

あゆには会えない
会ってはいけないんだ
だから

だから…
 
 
 
 

「……ううん。」

ふいに、名雪は小さく首を振った。
その赤く充血した大きな瞳
視線を下に落とした。

「……そこまでは…言わないよ。わたし…」

「………」

「……祐一もまだ、結論、出せないんだよね…」

名雪は言いながら、オレの顔を見上げた。
大きな、赤い瞳でオレを瞳の奥を覗き込んだ。

「…オレは…」

「………」

「……オレは…」

名雪に瞳が揺れていた。
赤く染まった瞳の奥、オレの顔を映して、揺れて…

オレは何かを言わなきゃいけないと思った。
言わなきゃいけなかった。
何かを
名雪の求める何かを
オレは
 

でも
 

「……だから…」

「………」
 

何も言えないオレに、名雪はもう一度首を振った。
そして、それから小さく頷いた。

「…そんなことは言わない…言わないから…」

「………」

「だから…」
 

名雪は微笑んだ。
無理して笑っていた。
赤い瞳をわずかに細めながら
青白い顔で微笑んで
 

「…結論、出して…」

「……名雪…」

「……もう一度、約束…だよ…」

「………名雪…」
 

名雪の瞳から、わずかに涙が落ちた。
もう涙が枯れるほど泣いただろう名雪の瞳から、小さな涙の滴、流れて…
…落ちて…

「…でも…」

「………」

「……お願い…今日は…」

「………」

「…今日だけは…会わないで。あの子と、今日だけ、会わないで。会わないって…」

「……名雪…」

「約束…して。してくれたら、わたし…」

「………」

「…約束、して…」
 

名雪の赤い瞳
流れ落ちる涙
 

涙に濡れていた
真っ赤な瞳が揺れていた
あの時の
あのあゆの瞳も
 

『…そうなんだ。祐一くん…そうだったんだねっ!』
『…そんな…そんなもの、いらないっ!いらないよっ!!』
 

オレは…
 

「………ああ」
 

名雪の赤い瞳を見つめて、オレは頷いた。
頷いた。
 

オレは…
 

「………」
 

名雪はオレの瞳を見上げていた。
オレの瞳の奥を見つめていた。
その奥の、オレの…
…揺れる瞳…
 

「…わたし…着替えてくるね…」
 

パタン
 

ドアが閉まった。
オレの目の前で、ドアが閉まった。

オレは…
 

『…今日だけは…会わないで。あの子と、今日だけ、会わないで。会わないって…』
 

会わない
 

会えない
 

会えるわけがない
こんなオレに
 
 

あゆ

オレが
 

オレは
 

あゆ
お前に
 
 

オレは…
 

ゆっくりと
ゆっくりとオレは廊下を歩いていた。
階段の手すりに手をかけて…
 
 

秋子さん…
 

秋子さんが階段の下、オレを見上げていた。
朝の光が秋子さんの顔をシルエットにして
オレを見上げている秋子さんの…

「………」

秋子さんは無言で頷いた。

いや
小さく頭を下げた。

オレは何も言わなかった。
オレは何も言えなかった。
ただオレは

ゆっくりと階段を降りた。
朝の光に白く輝く階段を、オレは黙って降りていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

朝の光が部屋の中、明るく照らしていた。
今日も晴れ。
カーテンのすき間からさし込む光が、天井を白く光らせていた。

ボクはベッドに寝転んで、ぼんやり、そんな光る天井を眺めていた。
多分、時間は…そろそろ起きないといけない時間。
今日は…
 

今日は頑張ろう。
昨日もまたボク…約束、破っちゃったから。
ミイちゃんとの、約束…

『…だから、だもんっ!お姉ちゃん、ミイの前で泣くなんて…きっと、お兄ちゃん、酷いことしたに決まってるもん。だって…お姉ちゃん…』
『……約束したもんっ!ミイの前では泣かないって。だから、ミイも泣かない、そういう約束…したもんっ!なのに…なのに泣いてたから…だからきっと、お兄ちゃんが…』

『…ダメ、だよ…ミイちゃん、嫌いだなんて…』
『……お姉ちゃん…』
 

約束、したのに…
ボク、また…
 

『……ダメだよぉ……』
 

ダメなのは…
…ダメなお姉ちゃんは…ボク…

両手で目を覆った。
真っ暗な闇

目の奥に痺れる赤い闇

ダメ…だよ…

頑張ろうって思ってるのに
頑張らなきゃって思うのに
気がつくとこうして、ボク…

ダメ、だよ…

ボク、約束したんだから。
ミイちゃんと約束…

…お母さんと…

『……あゆ。お母さんと約束しましょう…』

……ダメ、だよ…
 

ボクは起き上がった。
ベッドから降りて、タンスを開けた。

今日も…学校に行かなきゃいけない。
そろそろ、ミイちゃん、起こしに来るかもしれないし。
その時、ボクが…

…タンスの裏、鏡に映った…ボク。
小さくて…童顔で…
…頭、ガタガタ…

…あはは。いつもと変わらない、ボク。
確かに、高校性には見えないよね。
どうせ、ボクなんて…
 

『じゃあ、気をつけて帰れよ。小学生が、あんまりうろうろしてるんじゃないぞ。』
 

『そりゃあ、お前…小学生にしか見えないだろ。』
 

どうせ、ボクは…
 
 
 
 

『オレは……どうしたら償えるんだ…』
 
 
 
 

……ボク…なんて…
 
 
 
 
 

『……あゆさん。』

『どうか、これだけは忘れないでください。あなたは…あなたのお父様とお母様は、立派な方でした。あなたは…その娘であることを、忘れないで…誇りに思ってください。』

『そして…あなたは、あゆさんは…わたしにとっても、誇れる…娘だってことを。そう、わたしは思い…あなたがこの先どうなっても、どんなことがあっても…わたしはそう思っているということを、どうか…心の片隅でいいですから、覚えていてください。どうか…覚えていてください。』
 

…ボク…は…
 

『……でも、ミイ…やっぱり、祐一お兄ちゃん、許せないもんっ!』

『だって…お姉ちゃん泣かす、お兄ちゃんなんて、ミイ、嫌いになるもん。大嫌いになるもんっ!』
 

……ボク…
 

鏡の向こう、へんちくりんな女の子が、目を真っ赤にしてボクを見てた。
ちっこくって、頭ガタガタで…小学生みたいな、女の子…

……でも、ボクは…
 

…やめっ!

パンっ

ボクは一つ、自分のほっぺたを叩いた。
…ちょっと力、入れすぎちゃった…
痛たたた…

…あはは。
こんなこと…考えてちゃ、ダメっ!
ボクは…ボク。
月宮あゆは…お父さんとお母さんの子供で…この園の、お姉ちゃんなんだからっ
こんな顔してちゃ…

…うん。
よしっ!

ボクは目をごしごし、こすって頭を振った。
タンスの中、制服を取りだした。

さ、頑張ろう!
月宮あゆは、今日も元気。
そうじゃなきゃ…
うんっ

ちらっと見た時計は…もう朝食の時間。
そのまま、手早く着替えてボクは部屋を飛びだした。
朝食貫で学校行ったら、お腹、鳴っちゃうよっ
そしたら、恥ずかしいもんね。
それに、そろそろミイちゃんが、心配して見に来るだろうし…
だから、ボク、急いで廊下を…
 

ドン

「きゃっ」
「あ、ご、ごめん…」

事務所前の角で、あわててたボク、誰かにぶつかっちゃった。
うぐぅ…またどじっちゃった…

「…だ、大丈夫…あれ?」

「…お姉ちゃ…ん…?

ぶつかったはずみで廊下に座り込んでたのは…ミイちゃん。
ミイちゃん、びっくりした顔でボクを見上げていた。

「ミイちゃん、ごめん。ボク…」

「………」

「大丈夫?怪我…ない?」

座ったままのミイちゃんに、ボク、手を伸ばした。
だって、いつもだったらミイちゃん、
『お姉ちゃん!ちゃんと前、見てよねっ!」
って、うるさいくらいにいうのに、今日は…

「………」

「……ミイちゃん…大丈夫?ねえ…ホント…」

「…あ、あ…う、うんっ!」

と、急にミイちゃん、大きな声で言った。
そして、ピョンっと立ち上がって、ボクに思いっきり首を振って

「だ、大丈夫。なんでもないよっ!」

「……でも、ミイちゃん…」

「大丈夫っ!ほら、ミイ、こんなに元気、元気だからっ!」

その場でピョンって跳んでみせるミイちゃん。
確かに、足は大丈夫…他も何でもないみたい。
でも…

「…ミイちゃん…?」
「うんっ!」
「…どうか…した?さっきからボクの顔、なんか見てるけど…」
「え…」
「……ボクの顔、何かついてる?」

なんか…変なのかな?
涙、ちゃんと拭いたし…目はまだちょっとだけ、赤いけど。
それに、出る前に鏡で、格好、大丈夫だって…

「…ミイちゃん?」
「ううんっ!全然っ!何にもない、何にもないっ!」

また思いっきり首を振るミイちゃん。

…なんか…やっぱり変だよ…
だって…

「…ミイちゃん…」
「…う、うんっ」
「……どうしてまだ、パジャマなの?」
「えっ…」
「もう、着替えないと…間に合わないよ?」
「え、えっと…」

ミイちゃん、あわててる。
そうだよね、あわてなきゃいけないよね。
だって、いつもだったらミイちゃんの方が、着替えてボクの部屋に来る時間だもん。
『お姉ちゃん、遅れるよっ!』って。
なのに、今日はまだミイちゃん、パジャマで…
それに、そんな格好で、どうしてこんなところ…

「…ミイちゃん、何か事務所に用事でも…?」
「え、えっとね、あの…えっと…」

ミイちゃんはわたわた、手を振った。
ボクを見ながら、ぶんぶん、頭を振って

「な、何でもないっ!」
「……そう?」
「そ、そうっ!何でもない…何でもないよっ!」
「………」
「あ、あたし、着替えてこなくちゃっ!」

ミイちゃん、あわてて駆けだした。
何か…

…うぐぅ…ボクに隠しごと…

「…あ、お姉ちゃん!?」

と、ミイちゃん、立ち止まってボクの方に振り返ると

「ねえ…お姉ちゃん…」

「……うん?」

何か今度は、急に甘えた声…
いったい…

「…どうかした、ミイちゃん?」

「……うん…」

ミイちゃん、ちょっと黙った。
それから、小さく息をついた。
そして

「…お姉ちゃん…」
「……うん。」

「…今日…放課後…」

「……うん」
 

「………あのね、お姉ちゃん…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

キンコーーン

4時間目の終わりのチャイム。
教師が出ていくのと共にざわめきにつつまれる教室。
思い思いに、あるいは集まって弁当をひろげ、あるいは食堂へと笑いさざめく生徒たち…
昨日と同じ光景が、オレの目の前に広がっていた。
そして、オレはそんなざわめきの中で、昨日とおなじようにぼんやりあたりを眺めていた。

何事もない、いつもの風景。
いつもの昼休み。
何の変わりもない。
そう、変わらない…

…いや、そうじゃない。

オレはそのまま目を隣の席に移す。
昨日は空いていた席…名雪の席。
名雪は今日はそこに座り、机の上に突っ伏すように頭を机に載せたまま、全く動かない。
それは今日、学校へ来てから、ほとんど同じ様子だった。授業時間も…休み時間も…

…そして、それはその後ろの席でも変わらない。
きっといつもなら休み時間ごとに名雪の席に近寄って、他愛もないおしゃべりをしているはずの姿も、今日は席に座ったまま、全く動かない。
まるで名雪など、その場にいないように…
 

『…だから…名雪、追い詰めちゃったのは、あたしのせいもあるのよ。』

白い雪の中
つぶやいた香里の顔を、オレは思い出していた。

『あたし…あゆちゃんのとこ、責めてる名雪に、そんなことじゃないんじゃないかって、言い聞かせようとしたから…名雪、余計に…』

曇った香里の顔。
白く凍ったため息…
 

今も同じ顔で、香里は席に座ったまま。その目は横を向いたまま…席を立つ様子などない。
朝からずっと名雪のことを、まるで見ないように…

オレに何が言える?
二人がそうなったのは、オレのせいなのに。
オレに…
 

『赤の他人だからこそ…これだけは言えるわよ。相沢くん、あなたは最低だわ。今のあなたは最低よ。最低の卑怯者…同情の余地もないわ。』
 

そうさ
その通りだから
だから

オレに何を言える?

オレにだって分かってる。
本当は香里も…名雪も…

…でも…
 
 

オレに何が…
 
 

「…相沢…」

「……うん?」
 

背中を突っつかれて、オレは振り返った。

「……行かないのか?」
「……え?」

後ろの席、北川が座ったままでオレの方、身を乗り出していた。
そのまま、オレに顔を寄せ、声をひそめて北川は

「…食堂さ。お前は…行かないのか?」
「………」
「…弁当…じゃないよな…」
「………」
「でも、だったらもう行かないと、ホントにめん類くらいしか食べられなくなるぞ?なあ、相沢…」
「………」

オレは黙って北川の顔を見た。
北川はオレの顔を、少しいぶかしげに見ていた。
オレは…

オレ自身、食欲は…ない。
だけど…

「…じゃあ…」

と、北川はオレの顔から、ちらっと隣の席に目を移すと

「……相沢、まさかあの噂、まさか…あれ、本当じゃないよな?」
「……え?」

…噂?
オレが…
 

…ああ、思い出した。
昨日香里が言ってた、あの…

「ほら、あの…お前と水瀬さんと、その…香里が…」
「…違うって。」

オレは思わず苦笑した。
 

『…笑っちゃうわよ。あたしがね、相沢くん…あなたと名雪とで三角関係になって、それでショックで名雪が学校を休んだんだって。』

香里が苦笑しながら言っていた、噂の話。
あれは本当にクラスで話題だったらしい。
香里自身、どうせ根も葉もない噂と笑っていたけれど…
 

「…違うって。」

オレは苦笑しながら北川に首を振ってみせた。

「でも…」
「…そんなんじゃ、ないさ。そんなんじゃ…」

オレは言ったが、北川は納得できない顔で

「でも…昨日休んだ水瀬さんが学校に来たのに、香里、全然話しもしに行かないし、水瀬さんだってなんだか…」
「……それは…」
「……それどころか、たまに顔合わせたら、なんだか気まずいような…不自然に目、そらすような…そんな感じだしな。だから…」

オレの顔を見ながら言いつづける北川。
何も見ていないような顔をしていながら、よく見ている。

…いや、クラスのみんなもきっと、気がついているんだろう。名雪と香里が…気まずい雰囲気なのは。
でも、それは…

「…それは…」
「……やっぱり、例の噂のこと…」
「……いや…」
「……なあ、やっぱり…」

何も言えないオレに、北川が身を乗り出して言った時。
 

「…バッカじゃないの、北川くん。冗談も休み休み言ってよね。」

「……え?」

北川はびっくりして後ろを振り向いた。
オレもその声に振り返って、その主の顔を…

「……香里…」

「…バカらしい。そんなこと、あるわけないじゃない。」
 

その声の主…香里はオレたちを見下ろして、いかにもあきれた顔で首を振った。

「あたしが相沢くんを好きに…なんて、そんなことあるわけないじゃないの。北川くんじゃあるまいし。」
「…だよなあ。オレもそうだって……って、おいっ!」

と、北川はあわてて香里にかみついて

「何でオレが相沢のことを好きにならなきゃならないんだよっ!」
「…あら、違ったの?」
「違うわっ!オレ、その趣味はないぞ。」
「……そうだったのか、北川…」
「……おい、相沢…」
「…ごめん、北川。オレ…お前のその気持ち、答えられない…」
「………おい…」

北川は思わずマジな顔になってオレを睨んでいた。
オレは思わず笑いながら香里の顔を見た。
香里もやはり口の端、微笑を浮かべながら…

「残念だったわね、北川くん。これで失恋、決定ね?」
「……香里ぃ…」
「悪いな、北川。今までどうり、香里で我慢してくれ。」
「……ちょっと、相沢くん。」

と、香里は顔をしかめると、オレの顔を見た。

「今までどうりって何よ?それじゃ、まるであたしが北川くんと何かあるみたいじゃないの。」
「……違うのか?」
「…違うわよ。失礼な。」

香里は言うと、ふんと鼻で笑って

「こう見えてもあたし、面食いなんだから。その点、だからこそ、あたしは相沢くんだって好きになるわけがないって言ってるんだから。」
「……おい」

「……ということは、それって…わたしが面食いじゃないって言いたいの、香里?」

と、そのとき、オレたちの馬鹿話に割り込んできた声。
少しのんびりしたような、特徴のあるその声…

香里は声の主の方を見た。
そして…
 

微笑んだ。
 

「…あら。名雪にもそれくらいは分かったの?」

「…うーーー、わたしのこと、ひょっとしてばかにしてない?」

「あら、バカになんてしてないわ。正当な評価よ。」

「うーーーー」

名雪はちょっと口をとがらせたが、すぐににっこり笑うと

「…でも、残念でした。わたしもこう見えても面食いなんだよ。」
「…そうだっけ?」
「そうだよ。」
「……じゃあ、残念だったわね、北川くん。あなた、名雪も絶望だわ。」
「…そうか…って、おい、香里っ!」
「なによ?」
「何よ、じゃないぞっ!真顔でそういうこと言うなっ!」

北川は口をとがらせてかおりに食ってかかると、名雪に振り向いて

「なあ、水瀬さん?」

でも、名雪はそんな北川の顔をじっと見つめると、小さく首を振った。

「……ごめんね、北川くん…」
「…み、水瀬さん…」
「……世の中、ちゃんと見てる人は見てるってことだな、北川。」
 

と、わざとニヤニヤしながらオレは北川に言うと

「なあ、香里…?」
「…あら。相沢くん。あなたは違うとでも思ってるの?」

と、香里はしれっと

「もともと、あなたの話なのよ?冗談じゃないって言ってるのは。だから、もちろん、あなたも却下。」
「…おいっ」
「…ごめん、祐一。あたしも面食いだから…」
「こらっ、名雪っ!」

「……あははは」
「……ふふふ」

思わず顔をしかめたオレに、香里と名雪が笑った。
オレは北川の顔を見て、そして二人で肩をすくめ…

…いつもの光景。
いつもの美坂チームの、昼食時の光景がそこに…
 

「…さ、こんなどうでもいい話は止めて行きましょう?もうランチは無理かもしれないけど、他のメニューはまだまだ間に合うかもしれないわ。」

「…うーー、Aランチ…」

「ていうか、どうでもいいって何だよっ!おい、香里っ!」

「……行くの?行かないの?あたしはどっちでもいいのよ、北川くん?」

「……行くぞっ」
 

こうして馬鹿話をしながら食堂へ行き、4人で昼食を食べる…
いつもの光景。
いつもの昼食時の風景が、ここでは始まっていた。
北川と…香里と…
…名雪と…

…オレ…
 

何事もなかったような光景が広がっていた。
何事もない、いつもの光景。

このまま、いつもの風景が戻ってくるのかもしれない。
何もなかったように目が覚めて
何もなかったように朝食を食べ
何もなかったように登校し
何もなかったように授業を受けて
何もなかったように昼食をこうして笑いながら食べて…

何もないかのように帰って
何もないかのように眠る
そんな日常がこれから広がっていくのかもしれない。
何事もなかったように日常が…
 

何もなかったように
そう、何もないかのように忘れてしまえば。
オレがここへ来た時のように、何もかも忘れてしまえば…
同じ日常が戻ってくるのかもしれない。
こんな日常が…
 

オレが忘れれば

忘れてしまえば…
 

あゆのことを
あゆとのことを
あの冬の日を
そして
この冬の日の…
 

…いや
それは逃避。
それは幻影。

何事もない日常なんて、もうどこにもありはしない。
オレにはよく分かっていた。
そして、それはオレだけじゃなく、もちろん…
 

わずかに名雪の顔を、ちらちらと見ている香里の瞳。
そして、何でもないようにオレを見る、名雪の瞳…その奥…

もう同じ日常なんてない。
オレたちにはそんな物はないんだ。
それを望むのは、それは…

そして、オレが…望むのは…
 
 

…あゆのことを忘れて
オレが忘れて…
 

オレは忘れて
オレはもう会わないで
今日は会わないで
明日会わないで
これからずっと…
 
 

オレは…
…それを…
 
 

「…行かないのか、相沢?」

「……え?」
 

見上げると北川が、立ち上がって廊下へ向かって歩きだしていた。

「……行かないなら、置いてくわよ。相沢くん。」

出口近くまで歩いていた香里が、振り返って肩をすくめながら

「あなたのために今日はうどんだけ、なんてのは…あたし、ごめんだから。」

「……そうそう。わたし、Aランチ…」

「…もう、あるわけないだろ、名雪。」

オレは香里に同調して頷いた名雪に、思わず突っ込みを入れながら立ち上がった。

「…うー…でも…」

「だったら、早く行くわよ、名雪!」
「…あ、うん」

名雪は歩きだした香里の後ろ、パタパタと早足で追いかけていった。
そして、その後ろを北川が

「…お〜い、待てよ、水瀬さん…香里…ほら、行くぞ。相沢っ」

「……おう」

オレは早足で廊下へと出ていった3人の後を追っていった。
教室のいつものざわめきの中、オレは歩いていった。
まるで、いつものように。
だけど…
 
 
 
 
 
 
 

   雪
   白い雪
   降り続く雪

   白い雪のカーテン
   音も聞こえない
   白く輝く雪の中

   泣いている
   誰かが泣いているのが見える
   あれは…

   白い雪
   頭に積もらせて

   冷たい雪
   震える肩から滑り落ち

   雪
   伏せた顔
   おおった掌
   その腕を伝って落ちる
   雪

   こぼれ落ちる
   涙
 

   泣いている
   きみは
   泣いているんだね
 

   きみは真っ赤になった小さな手で
   きみは顔をおおったまま
 

   泣いている
   きみは
   泣いているんだね
 

   泣かないで
   ねえ
   泣かないで
 

   オレは言いたいのに
   きみに言いたいのに
   なのに

   声が出なくて
   どうしても
   声が出なくって
 

   だから
   せめてこの手を伸ばして
   その髪に触たくって
   ただ慰めたくって

   大丈夫だよって
   オレはここにいるからって

   言いたいのに
   言いたくって

   伸ばした手
   白い雪
   降り続く雪
   いつまでも
   いつまでも降り続く雪

   オレの手は
   きみの肩を
   その小さな肩に
   もうちょっと
   もう少し
   あと少しで届く

   オレの手は
   きみに
   きみの
   きみは

   きみは

   ゆっくりと手を外し
   ゆっくりと顔を上げる

   きみは
 
 
 

   だれ……
 
 
 
 

キンコーン
 

…うっすらとした意識。
伸ばした手を…握る。
ここは…
 

耳に聞こえるざわめき。
目の前で立ち上がる学生服の背中。
黒板消しを持って、白いチョークの文字と格闘する週番。

ここは…教室だ。
そして、さっきの音…チャイムは、放課後のチャイム…
 

いつの間に眠っていたのだろう?
4人で食堂に行った昼休み…それは間違いない。
でも、それから…次の授業…それとも…?

全てはおぼろげな記憶の中
眠っていたのは…10分?それとも、1時間?
それとも…

いや
そんなことに何の意味がある?
どれだけ眠っていたとしても、この体の重さ…心の重さが軽くなることはない。
オレにはあの日から…本当の眠りなんてないんだから。

そう
あの日…
 

『…そんな…そんなもの、いらないっ!いらないよっ!!』
 

白い雪の森
木漏れ日の中
泣いていたあゆの顔
落ちる涙…
 

顔をおおった手を伝って落ちていた涙

さっきの夢
夢の中の少女泣いていた少女

あれは
あゆ?
それとも…
 

少女の上げた顔
夢の中で見た顔
オレは見たはずだ…夢から覚める前。
確かに、見たはずだ。なのに…
…なのに…

思い出せない。
顔を上げたことは間違いないのに
その顔を見て
それはオレが知っている少女だと
オレがよく知っている少女だと
オレには分かったのに
なのに

あれは誰だった?
泣いていた少女は
その瞳からぽろぽろと大粒の涙を流して
白い雪の上にこぼれ落ちる涙
おおっていたその手を外して
涙で濡れたその顔を上げた
あの少女は…
 

あゆ?

それとも
 

「………」
 

目の端で動く、黒く長い髪
机に広がっていた髪がさらさら音をたてながら
かつてその髪を三つ編みにしていたいとこの少女
オレがよく知っていた
でもオレが本当に走らなかった少女が顔を上げた。

ぼんやりした顔
その奥にわずかに眠そうに揺れる瞳
だけど本当の奥に秘める、その光…
 

『…わたしと…約束したじゃないっ!祐一…約束したじゃない!』
 

オレの知らなかった
いや
知ろうとしていなかったのかもしれない
本当の名雪の姿
涙を流しながら
ぽろぽろと落ちる涙
白い雪の上に落ちる涙をぬぐいもせずに、オレを見つめていたその瞳
 

あの少女は…
 

名雪?
それともやっぱり…
 
 
 

「………」

名雪の瞳が、オレを見た。
ぼんやりとしていたその瞳が、次第にしっかりと焦点を合わせた。
そして、オレの顔をまじまじと見つめた。

大きな瞳
ぼんやりとして
でも揺れる光を宿した瞳
オレを見つめて

名雪は何も言わなかった。
ただオレを見つめていた。
オレを見つめて
ただわずかにその瞳を揺らして
オレを見つめたまま
 

何も言わなくても
その瞳がオレに言っていた。
オレには分かった。
名雪は…

「……さあ…」

ゆっくりと立ち上がると、にっこり笑いながら

「部活に行かなきゃ。」

「…大変ね、部長は。」

そしてオレの後ろから、よく知った声。
まるで名雪が立ち上がるのを待っていたかのように、香里が鞄を持って席を立っていた。
…いや、多分、香里は本当に…

「…よくやってられるわよね、名雪は。」
「…でも、わたし、走るの好きだから。」

呆れたように言った香里の言葉に、でも名雪は笑みを浮かべながら

「だから…」
「…はいはい。それは聞き飽きました。」

苦笑しながら、香里は手をひらひら振った。
名雪はそんな香里にちょっと頬を膨らませると

「うーーー」

うなりながら、ふと何かを思い出したように手をポンと叩いて

「でも、明日は部活、休みなんだよ。」
「…そうだっけ?」
「土曜日、部活、休みじゃないだろ?いつも名雪、土曜日だって部活に行ってなかったか?」

オレが聞くと、名雪はちょっと肩をすくめて

「そうだけど…明日は久しぶりに休みなんだよ。」
「……ふーーん」
「うん。だからね…?」

不思議そうに首をかしげた香里に、名雪は頷くと

「…明日、みんなでどこかに行こうね。」
「……え?」
「……みんな?」

オレと香里は、思わず顔を見合わせた。
名雪はにっこりしながら、オレと香里の顔を…

オレには分からなかった。
名雪が何を考えているのか。
出かける…みんなと?
それは…

「…そうね。それもいいかもね。」

と、香里が名雪に頷いた。

「みんなで何処かに行ったことなんて、そういえばないものね。」
「うんうん。」

名雪はうれしそうに首を縦に振る。
そして香里と名雪が、オレを見ると…

いつもの何でもない会話。
でも、それは…

…名雪の瞳
香里の瞳…

オレは…
 

「…そうだな…」

オレは頷いた。
その瞳に…オレを見つめる、4つの瞳…
 

「…で、その『みんな』に俺は入るんだろ?」

その時、オレの肩を叩きながら北川が

「そうだよな、もちろん?」

「………」

北川は言いながら、オレたちの顔を見回した。
でも、名雪と香里は顔を見合わせて、肩をすくめると

「……忘れてたよ。」
「水瀬さんっ」
「…いたんだ、まだ…」
「…おい…」

北川はオレたちの顔を見まわした。
その情けない顔に、思わずオレたちは笑ってしまって
 

「…あはは、うそ、うそだよ、北川くん。」
「しょうがないから、ついて来てもいいわよ。」
「おい、香里っ」
「あははは。」

名雪はまだ笑いながら、鞄を持ち直した。

「じゃ、今日はわたし、もう行かなくちゃ。」
「…そうね。バカなことで遅くなっちゃったわね。」
「何がバカなことだっ!」
「……じゃあ、バカの相手で遅れたって言ってあげてもいいわよ。」
「…おいっ」
「…もう、香里…あんまり北川くんいじめちゃ、ダメだよ。」

名雪がさすがにやれやれという感じで香里に言うと、香里もちょっと肩をすくめた。

「…まあ、こんなことしてる場合じゃ、あたしもないのよね。」
「うん?香里…何か?」
「あたしも、今日は部活よ。」
「あ、そうなんだ…」
「だから…詳しくは、明日決めましょう。それでいい?」
「……そうだね。」
「ああ。そうするか。」

名雪と北川が頷くのを見て、香里は小さく頷くと、名雪の机の上に置いていた鞄を手に取って

「じゃあ、途中までいっしょに行く、名雪?」
「うん。そうだね。」

名雪も頷くと、鞄を手に取った。
そしてそれから何でもないようにオレに振り返ると

「…じゃあ、ね。祐一。」
「……ああ。」
 

何でもない言葉。
いつもと同じ言葉。

そのまま、香里と名雪は歩いていった。
二人並んで、教室の入り口から廊下へをその姿は、ゆっくりと消えて…
 

いつもの下校風景。
転校して以来、見慣れた風景。
仲のいい友達の、微笑ましい光景…

そう思えたら、どんなにいいだろう?
はた目には…きっと北川からみれば、そんな風に見える光景かもしれない。
でも…
 

振り帰り際に名雪がオレを見た、その目。
何でもないという風に言った言葉を裏切って、オレを見上げていた…その瞳が揺れて…

そんな名雪のことなど気もつかないような香里
でも、その瞬間、香里は名雪の顔をのぞき込んでいた。
オレを見上げている名雪を、心配そうな瞳が
 

そして何よりも
 

「……帰るか?」

「……ああ」

北川の言葉に、オレは頷いた。
鞄を取りあげて、教室から廊下へと歩いていった。
 

何よりも
誰よりも
オレには分かっていた。
 

名雪はオレに聞かなかった。
『これからどこに行くの?』と。
それを聞くのが当たり前の会話の中で
でも名雪はそれを聞くことをしなかった。

だけど、その瞳は
 

『…今日だけは…会わないで。あの子と、今日だけ、会わないで。会わないって…』
 

『約束…して。してくれたら、わたし…』
 

約束

あの冬の日の約束
 

名雪の瞳はオレに訴えていた。
 

『約束…だよ…』
 

約束

名雪とオレとの約束

約束

オレと
 
 
 

「…寒いな」

北川の声に見上げると、空はすっきり晴れ上がっていた。
昇降口を出ると、外はまぶしいばかりの光。

「……そうだな。」

その光の中でオレは、目を細めながら北川に言葉を返した。

少し傾きかけた陽は、明るいとはいえ暖かくはなかった。
もう馴れた気がしていた…この街の冬。
わずかに吹く風に、白い雪がどこからか飛び、舞っている。
その風の冷たさに、オレは…
 

馴れることなんて、きっとないのかもしれない。
オレはこの寒さに…
…この街に…
 

「…相沢。」
「………」
「……なあ、相沢…」
「……ああ」

オレは北川の方に目をやった。

「…やっぱり、お前ら…おかしいよ。」
「………」

オレは黙って北川の顔を見た。
北川はオレの目線に、ふと顔を地面に向けると足元の白い雪を蹴り上げて

「…水瀬さんと香里と…3角関係っていうのは、違うだろうって俺にも分かってる…でも…」
「………」
「…お前ら、やっぱり…おかしいよ。」
「………」
「…それくらい、俺にだって分かるぞ。」

北川は足元の雪のかたまりを勢いよく蹴り上げた。
雪は舞い上がり、砕けて、白い欠け片がまるでカーテンのようにあたりを白く染めた。
細かい欠け片が風に舞い、顔にあたるのを感じた。
冷たい、凍った雪の欠け片…

「…それは…」

オレは言いかけた口をまた閉じていた。

何を言えるだろう?
これ以上…誰に何を言って、そして…

何人の人間をオレは傷つけるのだろう?
何を言っても…この心の重荷は消えないだろう。
なのに、その重荷をまた人に負わせて…
それでオレはまた…逃げようというのか?
あの冬の夜ように
名雪にオレが…
 

『……忘れないで。約束…だよ。絶対、絶対に忘れないで…』
 

約束という名の免罪符
オレは自分の苦しさを名雪に負わせただけで
そしてオレはその苦しさから逃げた
全てを忘れることで
オレは…
 

「…まあ…言いたくないんだったら、言わなくていいけどな。」

北川のつぶやくような声。
見ると、北川は下を向いたまま、足元の雪を固めるようにしながら

「結局、俺に言ったって…俺に何が出来るわけじゃないんだろうけどな。結局は、本人たちがなんとかしなきゃ、どうにもならなくって…俺なんか、ただの傍観者…はっきり言えば、ただの野次馬だからな。」
「……北川…」
「俺自身、好奇心で聞いてる部分、あるし…」

北川はそこで言葉を切ると、また自分で踏み固めた雪を蹴った。
雪は固まったまま、校門の方へと飛んで、雪の上をころころと転がっていった。
ころころと転がり、やがて止まった雪の玉…

「…でもな、相沢」

と、ふいに北川はオレに向き直ると、まっすぐにオレの顔を見つめた。

「俺に何か…もしも出来ることがあるんだったら、遠慮なく言ってくれよな。」
「………」
「…て言っても、何が出来るわけでもないけど…気休めくらいになら、なるかもしれないし。」
「……北川…」

北川の顔を、オレは見つめていた。
本当に北川の顔を見たのは、今がある意味、初めてなのかもしれない。
いつも何を考えているのかわからない感じで…お気楽な奴。そんな風にオレは今まで、この北川という奴を見ていたけれど…

「……ともかく…早く、元の…お前らに戻ってほしいってのが、俺の気持ちだから。そのためなら、出来ることはするつもりだから…それだけ、覚えておいてくれよな。」
「……ああ。」

オレは北川の視線を見返しながら答えた。
北川はオレの目をじっと見ていたが、フッと目をそらすと、空を見あげて白い息を吐くと

「一応…友達だからな。それに…水瀬さんと、香里のああいう顔は見たくないし…」
「……だと思った。」
「……ん?」
「……結局、お前の狙いは、香里だってことだろ?」
「…おい」

かろうじておどけて言ったオレの言葉に、北川はオレの顔をちらっと見ると、肩をすくめて

「……心配するんじゃなかった。こういう友達甲斐のない奴。」
「……図星か…」
「…勝手に言ってろ。」

北川は苦笑しながら、雪を蹴りながら校門へと歩きだした。
オレはそんな北川の後ろ姿に、立ち止まったまま…
小さく、目を落とした。

ありがたかった。
それは間違いない。
だけど…

確かに、そうなんだ。
オレたちが…オレがなんとかしなければ、ならない…
でも、何をすればいい?
オレはどうしたらいいんだ?
オレのするべきこと…
…したいこと…

でも…
 

わずかに雪のかけらを頬に感じた。
見上げれば、校門までの道の脇の木から、風に乗って白い細かな雪のかけらが飛んで、青い空からきらきらと風に舞っていた。
傾きかけた陽に、わずかにオレンジに染まりかけた空に、きらきらと…

「……待てよ。」

オレは目を北川の方に落とすと、後を追って歩きだす。
ともかく、一緒に校門まで…
…そこからは…どこへ行こうか?

名雪が聞かなかったこと
香里が聞かなかったこと
オレの行く先
オレの行くべきところ

一つだけ、分かっているのは
一つだけ、出来ない
行けない場所
行けるはずのない場所
それ以外の、オレはどこへ…

「……なあ、北川…」

オレは言いながら、北川の肩に、手を…
 
 

「……どうした?」
 

「………」
 

「………相沢?」

北川がオレに振り返って、オレの顔をいぶかしげに見ていた。
でも、オレの目は…

北川の向こう
校門のそば

学生たちが通りすぎる校門のそばに、人影が立っているのが見えた。
すらりとしたその姿が、ダークブルーのコートで余計に際だっていた。
長いストレートの髪が、風にわずかに揺れていた。
そして、何よりもその印象的な目…
 

「……相沢…あの人、知り合いなのか?」

「………」
 

大きな瞳がオレをじっと見つめていた。
わずかに眉をしかめるようにして、印象的な瞳がオレを鋭く見ていた。
ただ黙ったまま、オレを見つめて…

オレは…
 

「………」
 

オレは歩きだした。
何やら聞いている北川を無視するように、黙って校門へと足を進めた。
白い雪の上、オレは早足で校門へと…

「………」

「………香奈美、さん…」

「………」
 

香奈美さんは何も言わなかった。
ただ、黙ってオレを見つめていた。
わずかに、風に揺れて耳にかかった髪を右手で払った。

「…何を…しているんですか?」

「………」

香奈美さんはまた、自分の髪を手でなでた。

「…わたしは卒業生だもの。別にいてもおかしくないでしょう?」

「………」

「………」

そして香奈美さんは黙っているオレに、無表情のまま白い息をホウッと吐いて

「……人を待っているのよ。」

「…誰を、ですか?」

「……昨日、わたしの目の前で、小さな女の子に蹴飛ばされていた子。」

「………」

オレは思わず、黙って香奈美さんを見た。
香奈美さんは、また口を閉じると、空を見あげた。
髪がそれに連れてコートの上をさらさらと音をたてて…
 

「……なあ 、相沢…知り合いか?」

「………」

「相沢…俺、ひょっとしたら、どこかで…」

後ろで、北川がそう言ってオレの肩を引いた。
オレは、その時初めて北川の存在を思い出し、香奈美さんの顔から目を離して

「……ああ。多分…あったこと、あるかもな。」
「…え…」
「……百花屋の…アルバイトしてる、香奈美さん…中瀬、香奈美さんだ。」

「こんにちわ。中瀬香奈美です。多分…初めてじゃないと思うわ。」

香奈美さんは言うと、にっこり笑って北川に頭を下げてみせた。
いつもの…多分、営業用のスマイルを顔に浮かべた。

「多分…一度は会ってると思うわ。お店で。えっと…」
「北川。北川潤です。」
「…北川くん…多分…そうよ。」
「…そうかもしれませんね。」

北川は言うと、にこにこしながら

「俺もそんなにじゃないけど、百花屋には…」

「…えっと…ごめんなさい北川くん。申し訳ないけど…」

と、香奈美さんは北川に向き直ると、顔を曇らせて

「ちょっとわたし…祐一くんに用事があるの。ごめんなさいね。」

「…あ、はい。」

香奈美さんの言葉に、北川はあっさり

「じゃあ、相沢…俺、ここで…」
「……そうか」
「…じゃあな。また明日。」
「…ああ」

オレが頷くと、北川は頷いて

「…じゃあ、中瀬さん…」
「ええ…また、今度。百花屋に寄ってちょうだいね。」
「はい、もちろん。」

北川は大きく頷くと、振り返って校門を抜けて歩道を歩きだした。
オレはその後ろ姿をぼんやり見送った。
そして、香奈美さんも…

「…あ、相沢…」

「……?」

角のところで、北川は振り返った。
そして、ちょっとオレの顔と香奈美さんの顔を…

「……いや、何でもない。そんなこと…オレが、バカだった。」

「……?」

「じゃあな」

北川は手を振ると、角を曲がっていった。
その頭が、見え隠れしていた柵の向こうへと…
 

かすかに、香奈美さんが息をつくのが聞こえた。
オレは目を香奈美さんへと戻した。
香奈美さんは、北川の消えた校門の方を見ながら、ちょっと首をかしげて

「……あの子…何が言いたかったのかしら?」

「…………」

オレは黙っていた…でも、少しだけ、苦笑していた。
北川は…多分、オレと香奈美さんのことを…誤解したのだろう。みんなが、オレと香里のことを誤解しているように…
それで、そのことを言おうとしたのだ…でも、オレたちの様子を見て、それは違うと分かった…

「……何でもないですよ。」
「……そうなの?」
「……ええ。」

オレの言葉に、香奈美さんはオレの顔をじっと見たが、やがて肩をすくめた。

「……まあ、いいわ。それに…時間もないし。」
「………」
「…祐一くん。」

香奈美さんは小さく息をついて、オレの顔を見つめた。

「……はい。」

「……ちょっと、付き合ってくれる?」

香奈美さんの静かな声。
少しハスキーなその声は、何でもないように…

…でも、その大きな、印象的な瞳…
 

「……はい。」
 

オレは頷いた。

「…でも…」

「…分かってるわ。百花屋じゃないところ…いい?」

「……はい。」

オレが頷くと、香奈美さんはそのまま振り返った。
黒く長いストレートのその髪が、まるで翼のように広がった。
香奈美さんはそのまま、何も言わずに歩きだした。
ダークブルーのコートの背中は、白い雪の積もった歩道を商店街のほうとは逆に向かってその足を早めて歩いていった。
オレはそのコートの背中を追って、黙って歩きだした。
傾きかけた陽が背中がわずかに暖かい冬の歩道を、オレは香奈美さんの後ろを黙って歩いた。
 


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