天使たちの伝言

(夢の降り積もる街で-19) 後編


あゆSS。

シリーズ:夢の降り積もる街で

では、どうぞ。

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天使たちの伝言 (夢の降り積もる街で-19) 後編
 
 
 
 

「…じゃあね、あゆちゃん…ばいばいっ!」
「…うん!」

ボクは明美ちゃんに手を振ると、校門を抜けて歩道へ跳び出した。
放課後になって…今日は掃除もしなくてすんだから、まだ…時間は大丈夫…なはず…
あわてて、腕の時計を覗いてみる。
時間は…うん、大丈夫。
待ち合わせ場所…駅前までは、走れば10分くらいで着くし…まだ時間は20分近くあるから、歩いても多分、大丈夫。

「…はあ」

思わず、足を緩めて息を吐いたら、吐く息はやっぱり白かった。
見上げると、まだ陽が落ちるには早いけど、少し陽も傾いて、風もちょっと冷たくて。
今朝はもうちょっと暖かくなるかって、思ってたけど…

ボクは思いながら、もう一回、大きく息をした。
…なんて、考えてる場合じゃないかも。
いつの間にか、時間は…15分前。
うぐぅ…遅れたら、きっとミイちゃんに怒られちゃうよ…

でも、ミイちゃん…待ち合わせまでして…どこに行くつもりなんだろ?
こんな時間から、遠くに行けるはず、ないし。
明日は土曜日なんだから、明日の方がゆっくり遊べるのに…
 

『………あのね、お姉ちゃん…放課後…暇?』

今朝、急に言い出したミイちゃん。
ボク、ちょっとびっくりして

『…え?』

『あ、ううん。用事、あるんだったら…いいの。いいんだけどね…でもね、でも、もし…』
『………?』
『…もしも、暇だったら、さあ…』

ボクのこと、ミイちゃん、上目で見ていた。
…その仕草、ミイちゃん、よくするんだよね。
それも、何かおねだりする時。
だから、きっと、ミイちゃん…何かボクにお願いする気なんだって、分かった。分かったけど…
…でも、ボク…ミイちゃん…約束破ってるから…

『ううん、何もないよ。』

ボクは頷いた。
ミイちゃん、そしたらホッとした顔になって

『……そう…』

って、にっこり笑った顔でボクを見た。

『じゃあさ、どっか、遊びにつれてって。』
『…え?』
『え、じゃないよっ。ミイと一緒に、遊びに行こ?ねえ、お姉ちゃん?』
『…遊びに?明日?』
『ううん。今日の、放課後っ。ミイと一緒に、遊びに行こ?ねえ、お姉ちゃん?』

ミイちゃん、首を振りながらボクを見上げて

『何か…今日は用事、ある?』
『…用事は、ないけど…』
『じゃあ…』

ミイちゃん、パッと顔をほころばせると

『放課後、待ち合わせ。ねっ?場所は…』
『ちょ、ちょっと、ミイちゃん?」

ボクはあわててミイちゃんを遮って

『どうしても、今日じゃないと…だめなの?』
『……え』

ミイちゃん、ボクの顔を見て目を瞬かすと

『……ど、どうして?』
『だって…今日の放課後じゃ、そんなに遊べないだろ?それより、明日は土曜日だから…』
『だめっ!今日じゃないと…ダメ、ダメなのっ!』

いきなり、叫んだミイちゃん。
ボク、びっくりして

『ミ、ミイちゃん…』
『……お姉ちゃん…あたしと…遊びたくないんだ?』
『そ、そうじゃなくて…』
『だったら、ミイのいうこと、聞いてくれてもいいでしょ?ミイは今日、お姉ちゃんと遊びに行きたいのっ!』
『…どうしても?』
『どうしてもっ!!』

怒ったみたいに言ったミイちゃん。ボクを見上げて…

でも、なんだろ…なんか、ミイちゃんの目、ボクを見ながら…
…なんか、変だよ?
ミイちゃん、たまにミイちゃんもわがまま言うけど、今日のは何か…変に意固地で…

『……ねえ、お姉ちゃん…このごろ、ミイと遊んでくれなかったでしょ?』

と、いつの間にかミイちゃん、ボクの顔をのぞき込むようにして

『それに…最近、お姉ちゃん…』
『………』
『…だから、ね?お姉ちゃん…ミイと、さあ…』

見上げているミイちゃんの顔、ボクは見ていた。
にっこり笑っている、ミイちゃんの顔。

…なんか…いつもと違う気がする。
ううん、どこがってわけじゃないけど…
…でも…

『…いいよ。』

ボクは、頷いた。

思い出したら、この間の、あのピクニック…あれから、ミイちゃんと、ボク…ろくに遊んであげてない。
それどころか、昨日も、一昨日も、ボクは…
 

  『……約束したもんっ!ミイの前では泣かないって。だから、ミイも泣かない、
   そういう約束…したもんっ!なのに…なのに泣いてたから…』
 

…その約束を、ボク…

『…明日…遊びに行こう、一緒に。』
『…うんっ!』

ミイちゃん、そしたら、元気に頷いて…
 

で、駅前で待ち合わせってことにしたんだよね。放課後…
…うわっ!あと、5分だよっ!

ボクは頭を振って、今まで以上に駆けだした。
このままじゃ、時間、遅れちゃう…
 

「…もう、お姉ちゃん…遅い遅いっ!!」

「……え?」

ミイちゃんの声。
ボクはびっくりして声の方を見た。

「もう…どうせそんなことじゃないかって、思ったよっ!」

ミイちゃん、道の先、角のところに立って、ボクを見ていた。
腰に手を当てて…仁王立ちって感じで。

「ミイなんか、もう…30分は待ってたんだからねっ!でも、まだ来ないから…」

「…うぐぅ…」

…高校と小学校じゃ、ボクの方が遅くってあたり前だよ…

「…だから、ミイ…来てあげたんだからねっ!」

「……うぐぅ…ごめんね」

ボクはとりあえず、頭を下げた。
確かに…それでも、このまま駅前まで行ってたら、遅れてたと思う…
だから…

「……まあ、別に…怒ってるわけじゃないから。ね、お姉ちゃん?」

ミイちゃん、そう言ってから、ちょっと笑ってみせて

「お姉ちゃんは高校生だから、しょうがないって思っておくよっ!」
「……うぐぅ」
「…あははっ」

ミイちゃん、笑いながら駆け寄ってきて、ボクの腕を取った。

「さ、行こう、お姉ちゃん!」
「…うん。」

ボクは腕に掴まったミイちゃんに、ボクもともかく頷いて

「…で、どこに行くの、ミイちゃん?」
「……え?」
「どっか…行きたいとこ、あるんでしょ?だから、どうしても今日って…言ったんじゃないの、ミイちゃん?」
「………」

ミイちゃん、急に黙り込んだ。
そして、立ち止まると、うつむいた。

「…ミイちゃん?」
「………」
「……どうかしたの、ミイちゃん?」
「………」

…ミイちゃん?
急に、いったい…

「……お姉ちゃん」

と、ミイちゃん、顔を上げた。
そして、ボクの顔、じっと見上げて

「………」
「………?」
「………」
「……ミイちゃん、どうか…」

「……お姉ちゃん、もしも…」

ミイちゃん、ギュッてボクの手に掴まった。

「…ミイが百花屋に行きたいって言ったら…どうする?」

「……え?」

「……行って…くれる?」

「………」

ミイちゃん、ボクの顔を見上げたままだった。
ボクの顔、顔を少し傾けたままで見あげた、その目は…なんだか、ボクを…

「………お姉ちゃん?」

…百花屋
この時間に、ボクが百花屋に…行く…と…
 

行きたく…ない…

…行きたい…?

足がすくむような
走りだしたいような
重たいような
軽くなるような
そんな感じがする。
ボクの胸の中…
 

ボクは…
 

行きたい?
行きたくない?
行って…

…言ったら…そこに…

…だから…
……だけど……?
 

「……行かないよ、ミイは。」

「……え?」

見直すと、ミイちゃん、首を振っていた。
ボクの顔見ながら、口をギュッて結んで

「………」
「………」
「………だけど…」

ミイちゃん、口を開くと、ちょっと目を落として

「……ううん、ミイ…行きたいところがね、あるから。」
「……そうなんだ。」
「…うん。」

ミイちゃん、頷くとまたボクを見上げて

「…場所はね、知ってるんだけど…ミイだけじゃ、ちょっと…」
「……どこ?」
「………」

ミイちゃんはボクの顔をのぞき込みながら、小さく首を振ると

「……お姉ちゃんが一緒に、行ってくれないと…いけないところ。」
「………?」
「だから…お姉ちゃん…一緒に来てくれる?」

ミイちゃんは言うと、ボクの腕をまた、ギュッて握った。
ボクは、ミイちゃんの顔を…

…どうしたんだろ?
今日は朝から…おかしいよ、ミイちゃん?
ボクの顔、どうしてそんな不安そうな顔で…
 

「……行くよ、ボク。」
 

「………うん。」
 

ボクが言うと、ミイちゃんは頷いた。
そして、ボクの手を引っ張るように歩きだした。

「…こっちだよ。」
「……うん。」

ボクはミイちゃんの歩く方に歩きだした。
ミイちゃんは駅に向かって歩いていった。

どこへ行くんだろう?
ボクと一緒じゃないといけないところ…
ゲームセンターとか?
それとも…

…そうじゃないよね。
何か…ミイちゃん、そんな感じじゃ…
 

「……ねえ、お姉ちゃん?」

ミイちゃん、ボクの腕を持ったまま、振り返った

「……うん?」

ボクはミイちゃんの顔を見た。
ミイちゃんはボクの顔を見上げた。

「……ミイね、お姉ちゃん…大好きだよ。」
「……え?」
「……それだけ。うん。それだけ…だから…」

ミイちゃんはそう言うと、ボクの手にしっかりしがみついて

「…さ、行こ!」
「ちょ、ミイちゃん…」
「ほら、早く、早くっ!」

ミイちゃんはパタパタと走りだした。
背中の黒い鞄、ボクが誕生日にお礼にあげた鞄の白い羽が、一緒にパタパタ揺れていた。
ボクはそんなミイちゃんに引っ張られて、転びそうになってあわてて

「ミイちゃん、そんな急に…」
「さ、行くよっ!お姉ちゃん、遅いぞっ!」
「……もう…」

ボクの腕をぐいぐい引っ張るミイちゃんに、ボクは合わせて駆け足でついていった。
ミイちゃんの後をついて…
…どこへ行くのか、分からないまま。
 
 
 
 
 
 

「…お待たせしました。」

ウエイトレスの声。
顔を上げると、テーブルにはコーヒーカップが置かれていた。
カップから上がるわずかに白い湯気…そして甘いコーヒーの香り。
テーブルにはオレの前の他に、もう一つ、ソーサーが…

「………」

カチャン

向かいの席の人影が、手にしたカップをそのソーサーに置いて、一つ、小さな息を吐いた。

オレの知らない喫茶店。
いつもの商店街とは駅の反対側にある、百花屋と同じくらいこじんまりした喫茶店の窓際の席で、オレと…香奈美さんは向かい合っていた。
窓の外は陽がやがて傾きかけているのか、わずかに青からオレンジへと変わって行く空の色が見えた。
香奈美さんはそんな空を見上げるようにしながら、窓の外を見つめてまた一つ息をついた。

「……祐一くん」

と、おもむろに香奈美さんは振り向いた。

「…はい」

「………」
「………」

香奈美さんはそれっきり、何も言わなかった。
ただ黙ったまま、オレの顔を見つめていた。
その黒い、印象的な大きな瞳が、まるでオレを突き通すように見つめて…

オレは何も言わず、ただ黙って香奈美さんの顔を見つめ返していた。

オレに…何が言える?
何を言えばいい?
香奈美さんの聞きたいこと…言いたいことは分かっている。
 

『あの子………バイト、やめるかもしれないって…言ってたわ。』

昨日の香奈美さんのセリフ。

『…どうしてだか、祐一くん、あなた…心当たり、あるんでしょう?』

分かっている
それはきっと…
あゆは…

『…何があったのよ?あの子、あそこまで…あなた、何をしたのよっ!』

掴んだ腕
食い込む指
見上げた香奈美さんの刺すような視線

分かってる
香奈美さんが聞きたいこと
香奈美さんが言いたいこと
オレには分かっている
分かっている
でも
 

オレに何が言える?
何を言えば…いい?
オレが口を開けば…いつも人を傷つけるだけじゃないか?
自分が可愛くて…言い訳したいだけじゃないのか?
何を言っても…オレは…
 

カサッ
 

通りかかったウエイトレスが、テーブルに伝票を置く。
丸められた白い紙

香奈美さんはふと、その紙に目をやった。
そして、手を伸ばすと伝票をつまみあげた。

「……なっちゃないわね、ここの教育は…」

香奈美さんは顔をちょっとしかめると、丁寧に皺を延ばして伝票をテーブルに置くと

「これだったら、初めて会った頃のあゆちゃんの方が、全然マシ…だって、気持ちがこもってたもの。」

「……香奈美さん…?」

「…初めて会った頃…一緒にバイトを始めた頃のあゆちゃんの方がね…」

香奈美さんは言葉を切ると、カップを持ち上げた。
そして、コーヒーを一口飲むとカップを置いて

「あの子…あゆちゃんとわたしが初めて会ったのは、わたしが百花屋のバイトを始めた日…あの子も同じ日にバイト始めて…笑っちゃうことに、その日のローテーション、わたしとあゆちゃんだけで3時間、ウエイトレスしなきゃならなかったのよね。」

わずかに口の端、苦笑を浮かべながら、香奈美さんはそのハスキーな声で

「何とかなるかなって、思ってたけど…やってみたら、これが…ひどいものだったわ、あゆちゃん」
「………」
「ほんと、マンガみたいドジな子、ホントにいるとは思わなかったわね。オーダーを取り違えるのはもちろんとして…テーブルは間違える…レジは打ち間違えとお釣りのわたしちがいの連続…挙げ句の果てに、まさか…何もないところでつまずいてお盆の注文の品をおっことす、なんて本気でマンガみたいな話、目の前で見るとは思わなかったわ。」

香奈美さんの苦笑は、口の端から顔全体に広がって

「…まあ、それでお客さんにバシャッ…っていうことにならなかったのだけはマンガと違って…でも、そうなったらそんな笑い事じゃなかったんだけど。でも…きっちり、雑巾とテーブル拭きを間違えて拭いてたけどね。」

…目の前に、ウエイトレス姿のあゆが焦りながら雑巾でテーブルを拭いている姿が浮かんだ。
多分…あゆのことだ、半泣きになりながら、必死で拭いていたんだろうな…

「…それからも、何度もあゆちゃんと一緒にローテーションがあって。はっきり言って、わたし、それが嫌だったのよね。」

言うと、香奈美さんは首を振ると、窓の外に顔を向けて

「だって…その後始末の世話までわたしの負担になる…そう思ったから。だから、役に立たない、それどころか迷惑な存在…ウエイトレスに向いてないんだから、早く辞めたらいいのにって、わたし、思っていた…最初、しばらくはね。」
「………香奈美さん…」
「……でも…」

香奈美さんは右手を耳元にやると、耳にかかっている髪を後ろへと梳いて

「…それから何度も一緒に働いてるうちに…分かったのよ。あゆちゃん、やれば出来る子だって…確かにちょっとドジで、それ以上にあわてんぼだからすぐに焦っちゃって、だから誤解されるけど…本当は、きちんと出来る子なんだって。もちろん、器用じゃないけど…でも、きちんと出来る、責任感のある子なんだってこと…」
「………」
「焦ったりしなければ、人よりもきちんと仕事するし。それどころか、頼まれたライやって言わない…いっつも人のフォローを考えてる、そんな優しい子で…それに何よりもいっつも元気がよくて…この子、落ち込むことなんてあるのかしらって思うくらい元気。」
「……ええ。」
「……でも…その元気が…」

と、香奈美さんの顔がフッと曇った。

「…見ていて、辛く感じる時があるのよ、わたし…」
「……え?」

辛いって…あゆが?
香奈美さん、いったい…

「それは…」

「…だって…」

香奈美さんは小さく首を振って

「…あゆちゃんの元気さは…あの子の自信のなさの裏返しだってこと…そんなことを人に気付かせないように、その場の雰囲気を壊さないように…そのためにわざと元気に見せようってしてるとこ、あゆちゃんにはあるから…」
「………」
「…あゆちゃん、自分のことはいっつも後回し。そして、それが当たり前なんだって、それでいいって…自分で言って自分で笑う…それが謙遜じゃなくって、本気で思ってるの。自分は、それでいいんだって…」
「………」
「いい子なのに…ううん、いい子だから、だからいっつも自分のしたいこと、自分の…気持ち、押し殺して…自分は一歩引いちゃうの。そして『そんなこと気にしないで』って言って、にっこり笑って…」

香奈美さんの声。
あゆの顔。
なんだか泣いてるのか笑っているのか、分からない顔で笑うあゆ…

…思えば、あゆがオレに何かしてほしいって…言ったことは何回あっただろうか?
たい焼きを返す話しも…オレの方から言い出した。
ピクニックは…言い出したのは、ミイちゃん。
会うのはいつも百花屋、でなければ…オレの方から…約束して…

「…でも…」
 

…でも
それは…

オレのせい
あの事故の
あの、木の上から落ちた事故で、あゆは…
 

『でも、手術の跡で…ちょっと生え方、おかしいんだよ。』
 

笑っているのか泣いているのか、分からない笑顔
あゆはオレを見上げて、寂しそうに笑っていた。
 

『でも、だからボクなんか、雇ってもらえるんだし…』
 

比べてもしょうがないのに
いつもそんな風に、自分を卑下するあゆがオレも気になって
だから…
 
 

「…それは…」

「…それは、あゆちゃんのあの頭の傷のせい…事故で負った傷のせいで。そして…それ以上に、あゆちゃんの境遇のせい…ご両親がいなくって、園で暮している…そういうこと、あゆちゃん、必要以上に負い目みたいに感じてるだなって…」

「…そんなの、あゆのせいじゃないのに!」

オレは思わず、香奈美さんにかみついていた。

「あゆが…あいつが園で暮らしているのは…あいつのせいじゃない。そうじゃないですか?それは、あの…」

…事故
いや、オレのせい
オレがあゆを…

「それを…」
「……祐一くん…」
「いや、もし、仮に、そうじゃなくってあいつの両親があいつを捨てていったとしても…それはあいつのせいじゃない。あいつの罪でも何でもない…負い目を感じることじゃないはずじゃないですか?あいつには責任のない…あの園にいる、誰だってそうじゃないですか?ミイちゃんだって…あの子たちには関係ないことじゃないですか。責任がないことじゃないですか…そうでしょう?」
「…それは…」
「だから…」

あゆが負い目を感じることじゃない!
あゆが

あゆは
 

あゆはそんなことで負い目…感じてるのか?
本当に…そうなのか?
園にいることを、あゆが…

あゆはオレに園にいることを最初は言わなかった。
でも、言ってからは園のこと、子供たちのこと、うれしそうに話して…
そんな園のこと
 

「…でも、あゆは…そんなこと、分かってるはずですよ。そんな…園にいること、恥じるなんて…あゆはそんなこと、しない…すべきじゃないし、誰もそれをとやかく言えないって、それを誇りにしてもいいんだって…分かってると思います。あいつ…あゆは…」

「…そうね。わたしもそう思うわ。」

香奈美さんは、オレの顔を見つめて頷いた。

「でも…分かってても、傷つくことはある…いわれないことでも、心が傷つくことだってあるから…だから、あゆちゃん…最初はあなたにも…」
「……それは…でも…」

「…でも、やっぱり…だからなのね。」

「……え?」

香奈美さんの声が不意に明るく変わって、オレは顔を上げた。

「…香奈美さん?」

「……そんな祐一くんだから、だから会ってすぐなのに、あゆちゃん…あなたにはすぐ、心開いたのね。」

「…香奈美さん…何を…?」

オレは香奈美さんの顔を見た。
香奈美さんはオレの顔をじっと覗き込んでいた。

「…わたしもね、そう…あゆちゃんのこと、思って…だから心配もしてるけど、でも…それは、今は、なのよ。あゆちゃんに会うまでのわたしは、そんなこと考えもしなかった…」

「………」

「あゆちゃんと会った頃はそうだった。だから、わたし、あゆちゃんのこと、ただのドジな、でも明るい女の子だって思ってた。そして、そのうちにあゆちゃんが園で暮らしていることを知って…単に『可哀想だな』って、わたし、思ったわ。だから、あゆちゃんに『大変だね』って…『頑張ってね』って…
 何気ない励ましのつもりだった。それがいいことだって、わたしは思ってた。だってそうしたら、いつもあゆちゃん、ちょっと微笑んで…『あははは』って笑ってたから…」

香奈美さんは目をつぶると、首をゆっくりと振った。
髪がそれに連れて揺れ、さらさらとテーブルに擦れて音をたてた。

「でも、それは…あゆちゃんの本当の笑いじゃなくって、あゆちゃんの傷ついた心の…サインだったってこと、わたしはずいぶん…半年もしてから、ようやく…気付いたわ。それもきっかけは、わたし自身じゃなく…美衣子ちゃんだった。」
「…ミイちゃん?」
「…そう。」

頷くと、香奈美さんはため息をついて

「ある日、美衣子ちゃんが百花屋に遊びに来たの。最初はおとなしかったんだけど…だんだん、退屈しちゃったのね。そのうち、大声であゆちゃんに『お姉ちゃん、遊んで!』ってせがみ始めちゃったの。
 あゆちゃん、困っちゃって…あわててお店の隅に美衣子ちゃんを連れていって、『ダメだよっ』て叱って…美衣子ちゃん、始めは言うこと聞かなくって、口答えみたいなことを言いだして。だから、口げんかみたいな…それも子供同士の喧嘩みたいで、わたし、こっそり見てて思わず笑ったくらい…」

…その様子が目に浮かぶようだった。
ウエイトレス姿の小柄なあゆが、顔を真っ赤にしてミイちゃんと言い合いしている姿…
オレ自身、何度か見た光景。
微笑ましいというか…まるで本当の姉妹のような二人に、オレもよく笑って見てたよな…

「でもしばらくしてやっと、美衣子ちゃんが謝って静かになった。でも、美衣子ちゃん、叱られたと思って…シュンとしちゃってた…そしたら、あゆちゃん、ミイちゃんを例のカウンター前の席に座らせたのよ。そして、ちょっと悲しそうなミイちゃんの顔、しゃがんでまっすぐ見つめてね。『おとなしく待ってたら、ケーキ上げるからね』って、そう言ったの…そしたら美衣子ちゃん、『ホント!?』って声を上げて…にっこり笑った。あゆちゃんの顔を見ながら、本当にうれしそうに笑ったの…
そして、その顔を見ながら、あゆちゃんは…笑った。美衣子ちゃんと顔を見合わせて、あゆちゃん、にこにこ笑ってた。その時…その顔で、わたしは…分かったのよ。わたしが…」

と、香奈美さんは唇を噛んだ。

「…それはわたしが初めて見る、あゆちゃんの笑顔だった。あゆちゃんの本当の笑顔…あの、わたしが励ましを言った時の笑顔じゃなくて。ううん、それどころか、初めて会った時からいつもわたしに見せていた笑顔…そんなのじゃなく、本当の笑顔だった。それが…あゆちゃんの本当の笑顔なんだって。それは、わたしにも分かった…」
「………」
「それで…わたし、やっと気がついたの。あゆちゃんはわたしにいつも笑ってくれていた…でも、それは本当の笑顔じゃないってこと…あゆちゃんは、わたしには心開いてくれてなかったことを。そして、それはきっと、わたしがあゆちゃんのこと…可哀想だとか、そんな風に思ってたから…そんな気持ちがあゆちゃんを傷つけて、遠ざけていたんじゃないかって…」
「…いや、そんなこと…」
「…ううん、結局そうなの。そうやってあゆちゃんと比べて自分の方が…そういう自己満足でしかない、そんな気持ち…自分の傲慢さに、わたし、やっと気がついた…あゆちゃんのおかげで、わたしはそれに気がつくことができたの。」
「……香奈美さん…」
「それから…ね。わたしが本当にあゆちゃんと仲良くなろうって…ううん、仲良くなってもらおうって思ったのは。そして、それから少しずつ…やっとそうなってこれた。そして、仲良くなっていくに連れて、もっともっとあゆちゃんのことが分かって…もっともっとあゆちゃんのこと、好きになったわ。あゆちゃんって、本当に純粋な、いい子だから…ホントに…」
「………」
「…でも、そんなこと…そんな当たり前のことに気がついて…そして、本当にあゆちゃんがわたしに笑ってくれるようになるまで、ずいぶんかかった…」

と、香奈美さんは髪を撫でていた手を止めた。
そして、その手をそのままテーブルの上、置いていた左手の上に重ねると、オレの顔を身ながら小さく頷いた。

「だけど…祐一くん、あなたとは…違ってた。あゆちゃんは…」

「……え?」

オレは驚いて香奈美さんの顔を見た。
香奈美さんはオレの顔、少し首を傾げるように、その印象的な瞳でじっと見つめながら

「あゆちゃん、あなたとは…最初から本当に笑ってた。あなたと一緒にいる時、あゆちゃん、本当に笑って…本当に怒ってた。本当の自分、見せてた…だからきっと、あなたにはあゆちゃん、園のことしばらく言えなかったんだと思うの…逆に、それであなたが変わっちゃうのが恐かったんだと思う…」

「………」

「だけど…あゆちゃんがそれを言って…そして、それを知ってもあなたは変わらなかった。『そんなこと関係ない』って言って。」

「…それは…」
 

それは本心だった。
間違いなく、あの時、オレはそう思った。
それは本当…

…だけど…
 

オレは口を閉じた。
香奈美さんは、そんなオレを見ながら話を続けて

「わたし、それを聞いて…そして、本当に生き生きしてるあゆちゃんを見て…思ってたの。二人のこと、本当にお似合いだなって…だから、本当に応援してたのよ。わたし、こんな性格だから、おせっかいっていうか…変にあなたたちのこと、茶化してるように見えたかもしれないけど…本当に応援してたのよ。本当にあゆちゃん、笑ってたから…幸せそうだったから。あなたと一緒にいる時…」

「………」

「…でも」

香奈美さんの目が、オレの目をのぞき込んでいた。
まるで、オレの置くの置くまで見通そうとするように…

「…この頃、あゆちゃんの様子…おかしいっていうのは、わたしにも分かった。あの笑顔、最近はわたしにも見せてくれてた笑顔、全然見せなくなって…それに、あなたも百花屋によりつかなくなった。だから…何かあったのかな…とは思ったわ。でも、まさか…あなたたち二人に限って…とも思ってたのよ。だから、何も言わなかったんだけど…でも、昨日…」

わずかに香奈美さんの組み替えた足がテーブルに当たって、コーヒーカップがカチャリと鳴った。
香奈美さんはそのまま、オレを見つめたまま背筋を延ばすと

「…何があったのかは、わたしは知らない。あなたたち二人の間に、どんなことがあって…それで…こうなってるのか、わたしには分からない。だって、あゆちゃんも何にも言わない…もともと、そういうこと、言わない子だったけど、今は特に…
 そして、わたしにはそんなこと、聞く権利なんてないことだもの。それは、わたしだって分かってるわ。まわりがどうこう言ったって、結局、本人たちの問題…解決できるのは、本人たちだけなのよね。だから、まわりがどうこう言ったって、そんなのは要らぬおせっかい、大きなお世話…分かってるの。そんなこと、わたしだって百も承知。承知してるのよ…してるんだけど…でも…」

「……香奈美さん…」

「…でも、分かってるけど…本当にあなたといる時、あなたのこと話してる時のあゆちゃん…本当のあゆちゃんを見せてて、そして…幸せそうだったから。そして、きっと祐一くん、あなたもそうだったと思うの。だからね、わたし…」

「………」

「おせっかいだとは分かってる。大きなお世話なことも。でも…わたしは…」

「……香奈美、さん…」
 

香奈美さんはオレの顔を見つめたまま、何か言おうとしていた口を閉じた。
そして、オレの顔をじっと見つめたまま…

香奈美さんの瞳
その視線
 

初めて…この冬に会った時、その時からなぜかあゆは確かに気楽に話せる存在だった。
出会いからして…あの駅前のベンチで、あゆがオレに声をかけてきて…

『…ね、大丈夫?』

そう言いながら、ちょっと心配そうにオレを見た、小さな少女。

『うん!たい焼きは焼きたてに限るからねっ』

そう言って、たい焼きを食べていたうれしそうな顔。
 

あゆ、そのセリフはオレが…あの冬、お前に言った言葉じゃないか。
お前は…覚えていないはずなのに、あのたい焼きを…覚えていたのか?
お前も忘れて…オレも忘れてしまった、あの冬の日に食べたたい焼きの味を…
 

だからなのか?
この冬、初めて会った時から、お前のことを…なぜかいつもオレが考えていたのは?
幾度も感じた懐かしい感じ…幾度も感じたデジャヴ…
だから、オレはお前のこと…そして、お前もオレのことを…どこかで覚えていて、だからこの冬のオレたちは…

…そうなんだ。
きっとそうなんだ。
だから、全てを思い出したオレたちは…だから…
 

…そうなのか?
本当にそうなのか?
それが事実としたら
ただそれだけだとしたら
オレたちは
 

出会ってしまったこと
めぐり逢ってしまったこと

出会えたこと
めぐり逢えたこと
 

本当は

本当に

オレたちは
オレは
 

あゆ…
 
 

「オレは…」
 

オレは何かを香奈美さんに言おうとしていた。
はっきりと形にはならない…まだならないものをともかく口にしようと、香奈美さんのその印象的な瞳を見つめ直して…
 
 
 

チリリーーン
 
 
 
 

「…ほら、お姉ちゃん…」
 
 
 

「ミイちゃん、ほら、店員さんを待ってから……」
 
 
 
 
 

声が響いた。
甲高い少女の声
そして
 
 

オレは振り返った。
振り返りながら
 
 
 
 
 

どうして…
 
 
 
 

振り返ったオレの目に映った
そこにいたのは
 

背中に小さな白い羽をパタパタと揺らして駆け戻る小さな少女
そしてその先に
 
 

黒いブーツ
ベージュ色のダッフルコート
肩までの髪
頭の白い、大きなリボン
 
 

オレのよく知っている少女がそこにいた。
 

会いたくない

会いたい
 

少女がそこにいた。
そこにいて
手を小さな少女にさしだして
 
 
 

「もう、ミイちゃん…」
 
 
 

言いながら、少女の目はゆっくりと…
 
 
 
 
 
 
 

「………!!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

凍りついた表情
手を伸ばしたままで
 

いつの間にかオレは立ち上がっていた。
でも

何も言えずに
なにもできずに
ただ

ただ、あゆの顔を見つめていた。
オレのよく知っている
夢にまで見る
オレが今、一番会いたくなかった
オレが今、一番…会いたい…
 

オレたちは互の目を見つめあったまま、立ち尽くしていた。
静かな喫茶店の店内は、その瞬間、何の音も聞こえない…
 
 
 
 

「……あゆちゃん…」
 
 
 

香奈美さんの声。
オレの後ろで香奈美さんが立つ気配。
 

その時、あゆはハッとしたように香奈美さんに目を向けた。
香奈美さんの顔を、驚きと…そして…
 
 
 
 
 
 

「…あゆちゃんっ!!」

「お姉ちゃんッ!!」
 
 
 
 
 

チリリーーン
 
 
 
 
 
 

ベージュのコートが入り口を飛び出して言った。
白いリボンが、その頭でまるで蝶のように羽ばたきながら、ドアの向こう、駆けていく
その姿をオレは

オレは
 
 
 
 

チリリーーン
 
 
 
 

入り口のドア
オレは飛びだした。

白い雪に覆われた街並み
レンガ敷きの歩道を駆けていく小さな後ろ姿を
オレは

追いかけて走った。
走って
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

すぐに追いつける。
オレはそう思った。

でも、何度か角を曲がり、見失いそうになって
それでも追いかけて

その背中
オレの手が届く
その背中
その赤いバッグ

もう幾つ目かの角を曲がって
オレの手はあゆの背中の赤い鞄を掴んだ。
 

「待てよっ!」
「……!!」
 

引き寄せたオレ
あゆはそれでも振り向きもせず
ただ走ろうとして
だから
オレは
 

「……あゆっ!」

「………」
 

オレはあゆの腕
そのベージュのダッフルコートの右腕を掴んだ。
そして、その腕を引いて、あゆを
オレは
 

あゆは
 

立ち止まった
あゆは
 

振り返った。
そして
 

「………」
 

見上げていた。
オレの顔を見上げたあゆは
その瞳は
 

あゆは
 

オレはあゆの腕を掴んだまま
何も言わず

何も言えず

ただ、あゆの顔を見ていた。
あゆの顔
あゆの瞳

大きな瞳が夕暮れのオレンジに染まっていた。
オレンジに染まる空の色を映して
その瞳が揺れて

揺れて
 

オレは
 

「………」
「………」
 

オレたちは
オレとあゆは、黙ったまま
 

あゆのオレンジに染まる瞳を見つめたまま
オレは何も言えなかった。
何を言えばいいのか
何を言うべきなのか

オレは何を言うつもりで追いかけてきたんだろう
あゆにオレは何を言うつもりだったんだ
オレはあゆに…

何が言える?
何を言えばいい?
オレは何を言いたくて
オレは
 

あゆは瞳を揺らしたまま
オレを見つめていたその瞳を
足下に落として
 

「……どうして…」

「………」

「……どうしてこんなこと…するんだよ…」

「……あゆ…」
 

どうしようもなく、オレは立っていた。
オレの目の前のあゆを見つめたまま

目の前にあゆは立っていた。
その小さな体
手を伸ばせば触れることができるほど
すぐそこにいて

でも
 

「ボクを…ボクをこんな…だ、騙すような…」

「…それは…」

「…香奈美さんも…ミイちゃんまで…」

「…あゆ、それは…」

「ボクのこと…からかって…そんなに面白いの?ねえ、面白いのっ!」
 

あゆは顔を上げた。
小さなその体を震わせて
オレを見上げたその顔が
白く
オレンジに染まって

その瞳
オレを見つめて
オレンジに
赤く
 

「…何が面白いんだよっ!みんな…みんな酷いよ、みんなっ」
 
 

「……違うぞ!それは…違うぞ、あゆっ!!」

違うっ!!

オレは思わず、あゆの肩を掴んでいた。
あゆの小さな肩
思ったよりも
思った以上に小さなその肩
オレは両手で掴んで
震えるその肩を掴んで

「それは…違うっ!そんなこと…ミイちゃんや、香奈美さん…二人のこと、そんな風に思っちゃダメだぞ!」

オレはあゆの顔を見つめながら
オレンジに染まったその白い顔
オレの手がガクガクとその体を揺らして
それでもオレは
 

「二人とも、お前のこと…お前のことを思って…心配して、だから…だからこんな…」

「………」

「こんな形で…確かに、お前のことを騙すみたいな、そんな形にはなったけど、でも…それもみんな、二人がお前のことを心配してるから、だからっ」

「………」
 

ガクガクと揺れるあゆの体
オレは力を込めてあゆの肩を揺らした。
 

ダメだ!
あゆ、そんなこと…思っちゃダメだっ!
お前はそんな奴じゃ…ないはずだろ?
いつだって、香奈美さんも、ミイちゃんも…
 

オレはいつの間にか、必死であゆの肩を揺らしていた。
あゆの肩を掴んで
オレを見上げるあゆのオレンジ色に染まる瞳
ぼんやりと何も見ていないような瞳を見つめて
オレは
 

オレは
 

あゆ
お前はそんな奴じゃない
そうじゃないんだろ?
思い出してくれ
お前は…
いつだって…

だから
だからオレは
オレは
 

オレは
 
 

「………」

あゆの瞳にわずかに光が戻るのが見えた。
その瞳がオレの顔に焦点を合わせて

揺れて
 

濡れてはいなかった
あゆの大きな瞳
オレンジに染まる瞳はただ
揺れて
オレを映して揺れながら
 

「……じゃあ…」

「………」

「…じゃあ、祐一くんは、どうしてこんなところにいたの?」
 

あゆの目がオレの顔、見つめながら
あゆの声
かすれたような声であゆは
 

「祐一くんは…ボクのこと、からかうためじゃないんなら、だったら…じゃあ、何のためにいたの?ボクのこと、何のために…追ってきたのさ…」
 

「…それは…」
 

オレは
 

オレは知らなかった
あゆが来るなんて
オレは知らなくって
ただ

ただ香奈美さんに連れられて
香奈美さんと話をするだけのつもりで
オレは
 

オレは
 

何のためにオレは…追いかけてきた?
何が言いたくて
何がしたくてあゆを追いかけて

追いかけて

追いついて
 

何が言える?
あゆに何が言える?
このオレに
今のこのオレに
あゆに何を言うつもりで
何を言おうとして
オレは
 

オレは
 
 
 

何がしたかった?
あゆを捕まえて
あゆに
 

あゆ
 

オレは
 
 

「……祐一くん…」

「………」
 
 

オレは
 
 

何も言わないで
何も言えないで
オレはただあゆの顔を
オレを見上げて揺れるあゆの瞳を覗き込んだまま
オレは
 
 

「……キミは」
 
 

「……オレは…」
 
 
 
 
 
 
 

「………!?」
 
 
 
 
 
 
 

あゆの小さな体

オレの腕の中
すっぽり埋まってしまう小さな体
その温もり
 

何も言えなくて
オレは何も言えなくて
ただ
 

オレはあゆを抱しめていた。
その体
その髪
その瞳
その揺れる瞳
温かいその体
オレは抱きしめて

抱きしめて
 
 

「………祐一…くん…」
 
 

あゆの声
オレの胸でくぐもった声

あゆの息
オレの胸
温かい息が
 

オレは
 
 
 

何を言えばいい?
オレに何が言える?
オレに
 

あゆ

お前、オレに…何を…
 
 

あゆの頭のリボン
目の前に揺れる白いリボン
 

白い
 

白い雪
あの冬の
この街の
 

雪が降り積もったこの街で
白く染まった街でオレたちは出会って

たい焼きを食べて
遊んで
喧嘩して
話して
 

この街で
この白い雪に覆われた街で

あの冬もこの街は真っ白に染まっていた。
雪の降り積もった街角
雪に覆われた森
白い雪の中、見上げてもてっぺんも見えない大きな大きな、大きな木の上で
 

『…祐一くん!』
 

見上げれば笑いながら手を振るお前の姿
オレンジに染まる森の中で
手を振るお前の
揺れていた白いリボン
まるで天使の輪のように
オレは天使を
 
 

天使のように
 
 

『……祐一くん!!』
 
 

『ゴトッ』
 
 
 

天使の
 
 

白い
 

赤い
 
 
 

紅い
 
 
 
 
 
 
 
 

「……あゆ…」

「………」

「……ごめん、オレは…」

「………」
 
 

失くしたと思った
もう二度とオレの前に現われることはないと

オレが殺した
あゆは天使になった
オレは思って
オレは
 
 

オレは
 
 
 

あゆは
 
 
 
 

「………離して…」
 

「……え?」
 

オレの腕の中
あゆの言葉
 

あゆ……?
 

「……何を…」
 
 
 

「離してよっ!!離せっ!!」

「…あゆ…?」
 
 

「離せっ!!離せっ…たらっ!」
 
 

バシッ
 
 
 

弾かれて
オレの腕

あゆはオレの腕を振り払って後ずさっていた。
オレはそばの電信柱、思わず手をついた。
 

「…あゆ…」
 

「……触らないでっ!!!」
 
 
 

あゆは叫んだ。
オレの顔を見つめて
オレンジに染まる瞳
オレを見つめて
 
 

「…誰が…誰が謝ってくれって言ったんだよっ!ボク、そんなこと…誰が頼んだんだよっ!」
 

「あゆ…」
 

「ボクは…ボクはっ」
 
 

手を握りしめて

震えるほど力を込めて握りしめた手
あゆはその手を見つめるように目を落として
その肩が
その手が
その小さな体を震わせたまま
 

「そんな同情なんて…責任なんて、そんなこと…聞きたくなかった…聞きたくなんてないよっ!!ボクが聞きたかったのは…ボクが祐一くんに…そんなことじゃないよっ!そんなこと…ボクはそんなこと、言ってほしかったんじゃないっ!」
 

叫んで、あゆはその顔を上げた。
その大きな瞳
揺れているその瞳は
夕日を浴びて真っ赤に染まって
オレを見つめて
 

「事故のこと…園のこと…ボクは自信がなかったから、だから言えなかった…もしも祐一くんも…もしもそうだったら…そんなこと、思ってた…だから…」
「でも、やっぱり、隠しておけなかった…隠すなんてできないから。それがボクなんだから、だから…」
「…そしたら、祐一くんは…やっぱり違ってた。同情とかじゃなくって、ボクのこと見てくれて…ボクのことからかったりもしたけど、でも…だから…」

「…あゆ…」

「…ボクはうれしかったんだ…ホントに、うれしくて、だから…ボクはキミを…」
「7年前のこと、あの冬のことも…たい焼きも、クレーンゲームも、あの森も…あの木のことも、あの大きな、大きな木のことも、みんな、みんな…ボク、思い出した今も…ううん、ボクは思い出して…ボクのこと、祐一くんのこと、みんな思い出せた…それは…それは、ボク、最初は……」

「でも」
 

あゆはオレを見つめたまま
大きな紅い瞳がオレを見つめたまま
首を音がするほど大きく、激しく振って叫んだ。
 

「…謝ってほしくなんてないっ!」

「そんなこと、してほしくなんてないよっ!あれはねっ、あれは、ボクの…大切な、ボクの大事な、大事な思い出で、ホントにボクの…なのに…だから…」

「………」

「だから、謝ってなんてほしくないよっ!そんな…」
 

あゆはオレの顔を見つめて
 

オレは
 

あゆ
 
 

あゆは
 

「そんな目で見るなっ!そんな目で…そんな顔で、そんなこと…そんなことっ!!」
 
 
 
 
 

「……あゆ…」
 

激しく首を振るあゆに、オレは手を伸ばした。
 
 

そうじゃない
そうじゃないんだ
そんなことをオレは

オレは謝りたくて
オレは
 
 
 

そうじゃなくて
オレは
 
 
 

オレは
何を
 
 
 
 

オレが
 
 
 
 

違うんだ、あゆ!
 
 
 
 

「……触るなっ!!」
 
 
 
 

バシッ
 
 
 

「あゆ…」
 
 

オレの手
伸ばした手を
あゆは
 

あゆは
 
 

「触らないでよっ!ボクに…キミは…」

「……あゆ…」
 

「…違うと思った…祐一くんは違うって、だから…だからボク…ボクは…」
 
 
 

あゆはオレを見つめたまま
その肩を震わせて
その顔
その瞳
揺れる真っ赤な瞳
声を震わせて
 
 

あゆ
 
 

叩かれた手が痛かった。
あゆに伸ばした手

すぐ近くにいて
手が届くほど近くにいて
オレの目の前にいる
オレの

オレは
 

何も言えずに

何を言えばいい?
 

何が言える?
 

オレは
 
 

オレはっ
 
 
 
 

「…あゆっ」
 
 
 

バサッ
 
 
 


白い雪
雪の中にベージュ色のダッフルコートが転がって

オレの手を逃れたあゆ
転んで
 

「…あゆ…」

「…近寄るなっ!!」
 

歩みかけた足

あゆの言葉
 

オレは凍ったように
動けなくて
動かないで

あゆの顔
オレを見上げて
 

オレを
 
 

「……そんな」
 

かすれた声

手をついて
起き上がったあゆはオレを見つめたまま

オレのすぐそばで
手を伸ばせば届く
手を
オレの手
 
 

オレの手に
白い
 

それは
 
 

「そんな祐一くんなんて…」
 

震える声
震える肩
揺れる瞳

オレを映す真っ赤な瞳
その瞳から
 

「…あゆ…」

「…嫌い…嫌いだよっ!そんな祐一くんなんて、ボク…大嫌いだっ!二度とボクの前、姿を見せないでっ!」
 
 

真っ赤な瞳からあふれて落ちる真っ赤な涙が
白い雪も紅く染まる夕日の中で
あゆはオレを見つめて
その瞳から涙が
 

あふれて

あふれて
 
 
 
 

「嫌い…祐一くんなんて…大嫌いだ!大嫌いだよっ!!」
 
 
 

あゆの叫び
あふれて落ちる涙
 
 

「……だいっ嫌いだっ!!」
 
 

振り返り
駆けだして
 

あゆは駆け出していた。
オレに背を向けて
 

真っ赤に染まった街並みを駆けていく小さな姿
ベージュ色のダッフルコート
赤い鞄
黒いブーツが雪を蹴って
 
 

オレは手を伸ばしたまま
伸ばした手を
 

その手の中に白い
 
 
 

あゆ
 
 
 

オレは
 
 
 
 

オレの手の中に残ったのは
 
 
 

白いリボン
あゆの頭に揺れていたリボンをオレは
握りしめて
 

握った
 


 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「………祐一くん…」
 
 

手を
 
 

オレは手を握りしめたまま立っていた。
いつの間にかオレはそばの電信柱によりかかって
 

「……祐一…くん…」

「………」
 

誰かの呼ぶ声。
小さなその声

あゆではない
分かっている声に
オレは
 

「………」
 
 

オレは振り返った。
電信柱に手をついたまま
振り返り
 
 
 
 

ダークブルーのコート
わずかに揺れながら

黒いストレートの長い髪
風にわずかになびいて

オレンジに染まった印象的な瞳
オレを見つめる瞳が
わずかに
 
 
 

揺れながら
 
 
 

「…ごめん…なさい…」
 

「…香奈美さん…」
 
 

オレの声
かすれた声が聞こえる

オレの声
遠くから聞こえる

オレの声
 
 


 
 

「…わたし…」
 
 

香奈美さんの声
かすかに震える声

オレを見つめた瞳
揺れながら
 

肩が
震えて
 

「…こんなつもりじゃ…」
 

「きちんと会って…話をして、そしたらきっと…そう思ったの…だけど…」
 
 

「……ごめんなさい、わたしが余計なこと…わたしが美衣子ちゃんに頼んで…」
 
 

「…ごめんなさい…ごめんなさい…」
 
 
 

頭を下げた香奈美さん
立ち尽くしたまま
頭を下げたままで
 

震えている
震える肩

震える
震えながら

小さな
小さな声が
 
 

「……ごめん…なさい…」
 
 
 
 
 

…そうじゃない…

香奈美さんのせいじゃない
香奈美さんと美衣子ちゃんのせいじゃない

二人の気持ち
オレには

そしてきっと
あゆにも
 

でも
 
 

あゆ
 
 
 

香奈美さん
頭を上げてくれ
謝らないでくれ
そんなこといいから
香奈美さん
 
 
 

オレは…
 
 
 
 
 
 
 
 

言いたかったけれど

口を開いて
そう言ってあげたくて
オレは
 
 

だけど
 
 
 
 

オレは黙っていた
震える香奈美さんの体
思った以上に小さいその体
その細い肩
見つめながら
 

オレは
 
 
 

口を開いたら叫んでしまいそうで
口を開いたらオレは
 

泣いてしまいそうで
何もかも崩れてしまいそうで
オレは
 
 

オレは
 
 

黙って香奈美さんの肩を見つめていた。
白い雪の積もった街並みを
見つめて
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

   白

   雪
 

   雪が降ればいい
   白い雪が降ればいい
   何もかも埋めてしまう雪が降ればいい
 

   あの冬に降っていた雪
   街を白く埋めつくした雪が
 

   雪が降ればいい
   冷たい雪が降ればいい
   何もかも埋めてしまう雪が降ればいい
 

   この街を埋めつくしている雪
   思い出へと続く雪の中で
 

   せめて雪が降れば
   あの思い出の雪が
 

   白くて
   赤くて

   冷たくて
   温かくて

   厳しくて
   優しくて

   悲しい

   悲しい

   雪がどうして降らないのだろう
   この街を埋めつくす雪が
   白く埋めつくしていたあの雪は

   この街を

   この夢を
 

   舞い落ちて
   降り積もる
   雪が
 

   雪が降ればいい
   何もかも埋めつくす雪

   どうして雪が降らないのだろう?
   どうして
 
 
 

   どうして…
 
 
 
 
 

暗闇の中
 

どうしてオレはこんなところに座っているのだろう?
いつの間にオレはこんなところにいたのだろう?
オレはあの白い雪の街で
オレンジに染まる街並みで
 

『……ごめんなさい…』
 

頭を下げたままの香奈美さん
オレは何も言えないで
香奈美さんの細い肩を見つめたまま
 

真っ赤に染まる夕暮れの街
真っ赤に染まる白い雪の街で
 

真っ赤に染まる
 

真っ赤に染まった瞳
 

『嫌い…祐一くんなんて…大嫌いだ!大嫌いだよっ!!』
 

真っ赤な瞳から涙が落ちていた
あゆの大きな瞳から落ちる涙
 

『……だいっ嫌いだっ!!』
 

叫んで
駆けていく背中
赤い鞄
赤い夕日に染まった背中
赤く染まった雪
赤い街並みを
駆けていく背中
駆けていく
 

小さくなって
 

ぼやけて
 
 
 

何もかもがぼやけた景色
何もかもがぼやけて流れる景色

オレはあそこにいた
今はここにいる

あの真っ赤に染まった街
この真っ暗な部屋
 

ここはオレの部屋じゃない
ここはオレの家じゃない
ここは
この街はオレの
 

いつの間にか落ちた陽
暗闇の中で
 

何も見えない
見えなくていい
見えなければ
見えない
 

暗闇の中
座り込んで
オレは
 
 
 

かすかに思い出す
オレは

オレは何も言えずにあの場所を離れた
謝る香奈美さんに何も言えなくて

香奈美さんの謝ることじゃないのに

言いたくて
でも
言えなくて

口が動かなくて
ただ
ただオレは
オレは
 
 

街を歩いて
 
 

この部屋にたどり着いて
 
 
 

陽が落ちていくのを
部屋が闇におおわれるのを
ただ
 
 
 

何をしているんだ?
オレは何をしてる?
こんなところに座って
こんな暗闇の中で
 

何かしなければ
オレは何かしなければ
オレのできること
オレのしたいこと
オレはしなければ
それを
 

それは
 
 

何をしようとしていたんだ?
何がしたかったんだ?
何を
 
 

オレは
 
 

『……だいっ嫌いだっ!!』
 
 

オレは
 
 
 
 
 

コンコン
 
 
 
 
 

オレは何を
 
 
 
 

コンコン
 
 
 
 
 

何かが聞こえる気がする
どこかで小さな音が
オレの頭の中
 
 
 

コンコン
 
 
 
 

…違う
これは…
 
 
 
 

コンコン
 
 
 
 

これは…
 
 

ドアの音
誰かがドアを叩く音
部屋のドアを誰か
 
 

秋子さん?
 
 
 

それとも
 
 
 

さっきまで聞こえていたかすかな音
隣の部屋で何かが動く音
誰かが
 
 
 
 

誰か…
 
 

ガチャッ
 
 
 

ドアノブを、オレはゆっくりと…
 
 
 

「………」
 
 

「……あ、祐一。寝てたの…の?」
 

「………」
 
 

目の前の少女
長い髪がかすかに廊下の電灯に輝いて

見上げる大きな瞳
オレを映して
 

微笑む少女
 

微笑む
 
 

「……名雪…」
 

「あははは。物音がしないから、いないかと思ったよ。」
 

「………」
 

「どうしたの?ご飯…まだ食べてないって、お母さんが。」
 

「………」
 

「………?」
 
 

首を傾げた名雪。
屈託のない笑顔
どこか間延びした口調
そして大きな瞳がぼんやりと…
 

いや、違う
その瞳は
名雪の瞳はオレを
 

「…ね、祐一。明日のことだけど…」

名雪は瞳にオレを映したままで
手を後ろ手にしたまま、オレの顔をのぞき込んだ。

「いっそ隣町のデパートに行こうかって、香里と話してたんだけど…祐一、いいかな?」

「………」

「うんと、まあ…隣町って言っても列車で10分だから、時間、かからないし…いいよね?…ね?」
 

見上げる名雪
オレの顔色をうかがうように覗き込みながら

大きな瞳
オレを映して

微笑んで
 

微笑んでいた
 
 
 
 
 

泣きながら微笑んでいた小さな少女の顔
 
 

『約束…だよ…』
 
 

白い雪が降り積もる
頭に白く雪を積もらせて
三つ編みの髪に白い雪をかぶった少女の顔が
泣きながら微笑んで

微笑んで
 

泣いて
 

『…今日だけは…会わないで。あの子と、今日だけ、会わないで。会わないって…』
 

真っ赤になった瞳
涙も枯れた瞳
揺れて

揺れて
 

『…約束、して…』
 
 

揺れて

わずかに濡れたその瞳
光る
 
 

揺れる
 
 
 

「…だから…ね、祐一…」
 
 

「…名雪」
 
 
 

かすれた声
オレの口から声が
 
 

オレは何を言うつもりだ?
名雪に何を
 

オレは
 
 
 

『約束…だよ…』
 

何度も約束をした
オレは約束をした

名雪と約束したのに
オレは約束したのに
 

何度も

何度も
 

約束

オレは約束を
 
 
 

もう

これ以上
 
 
 

「……名雪…」

「…それで、香里がね…」
 

「……名雪」
 
 
 

オレは
 
 

口にした
 
 

「オレは…今日、会ったよ。あいつに。」

「せっかくだから…」

「……オレ…会った。あゆに…」

「………え…?」
 

名雪は初めて口を閉じてオレの顔を見た。
大きく目を見開いてオレの顔をみつめた。
 

「……祐一…なに…」
 

「…オレは…あゆに会ったんだ。今日。」
 

「………」
 

名雪の目がオレを見上げた。
大きく見開いた瞳
オレの言葉を反芻しているように、かすかに動く唇
 

「…何を言ってるの…祐一?だって…」
 

「………」
 

「……嘘だよね?そうでしょ?そうなんでしょ?」
 

「………」
 

「…うそ。だって…そんなの嘘だよね?だって…」
 

「………」
 

「約束…したもん。祐一、わたしと約束したもん。だから…」
 

「………」
 

「……嘘でしょ?嘘…つかないでよ、祐一。そんな…」
 

「………」
 

「………そんな…」
 

「………」
 

「………祐一…」
 
 
 
 

「…オレ、今日…あゆに会った。オレは…会った…」
 
 
 
 

オレの言葉
オレの口から出た

真実
 
 

これ以上オレは
嘘は
 
 
 

だから
 
 
 

名雪
 
 

名雪は
 
 
 
 
 
 

「……どうしてっ!!」
 
 
 


名雪はオレの腕を掴んだ。
左腕を掴んで
 

「…わたしと約束したじゃないっ!わたしと…」

「………」

「祐一、約束したじゃないっ!今朝、わたしと…約束したのにっ!なのにっ!」

「………」

「…祐一っ!どうして…また約束…わたしと、約束…また…」

「………」

「…どうしてっ」
 

名雪の腕がオレの腕、食い込んで
きつく食い込んで
 

「祐一…どうして?どうしてわたしとの約束、また…破ったの?ねえ…祐一っ!」

「………」

「…祐一…わたしとの約束なんて、どうでもいいって…思ってるんだね…」
 

名雪は目を落とした。
腕を掴んだまま

わずかにその肩が震えて
震えて
 

「わたしとの約束なんて…そんなもんなんだ。祐一にとって…破ったって構わないような、そんなものんだ?わたしなんて、祐一はどうでもいいって…」

「…違う、それは…」
 

オレは首を振った。

そうじゃない
そうじゃないんだ
そんなつもりは
 

でも
 

「違うんだ…」
 

オレの言葉に、名雪はわずかに首を振って
 

「じゃあ…」
 

名雪の顔
名雪は顔を上げて

その瞳
 

「だったら…どうして?ねえ、どうしてなの?祐一…どうしてっ!?」
 

揺れる瞳が
濡れた瞳が
オレを見上げて
揺れて
 

オレは何も言えなかった。
何も言えなくて

そんな名雪の瞳
その顔を見つめるだけで
何も言えなくて
何も
 
 

オレは
 
 
 
 
 

名雪は
 
 
 
 
 

「……祐一っ!」
 
 
 
 

ドカッ
 
 
 
 

名雪は
 
 

「……名雪…」
 
 

「……祐一っ」
 
 
 

名雪の体

名雪の体がオレの腕の中にあった。
名雪はオレに抱きついて

震える肩
温かい体

オレの背中に回した腕に力を込めて
 
 

「……祐一…キスして…」

「……え?」

「わたしと…祐一、わたしにキス…して…」
 

名雪…何を言ってるんだ?

オレは驚いて名雪の顔を見た。
名雪はオレの胸につけた顔を上げた。
少し濡れたその瞳がオレを映すように
 

「わたしと、キスして…わたしを抱しめてよっ!ギュッて、抱いて…キスして…」

「……名雪…」

「わたしを抱いてよっ!」
 
 
 

名雪の瞳
名雪の唇
名雪の
 

震える声
震える肩
震えながら
 
 
 
 

「…このまま、わたしを抱いてっ!わたしを祐一のものにしてよっ!」
 
 
 
 
 
 
 
 

「そして、わたしを…わたしだけを見てよっ!わたしのものになってっ!わたしだけを見てっ!わたしだけ…」
 
 
 

…名雪
 
 
 
 
 

「…祐一、キスしてよっ!わたしに、キス…して…」
 
 
 

オレは
 
 
 

「わたしのこと、抱いてっ!抱いてよっ!」
 
 
 
 

名雪
オレは
 
 
 
 
 
 

「…抱いてよっ!!!」
 
 
 
 
 
 
 

「名雪っ」
 

「ねえ、祐一…」
 

「名雪っっ」
 

「祐一っっ」
 
 
 

「……名雪っっっ!!!」
 
 
 

オレは思い切り、名雪を引き剥がそうとした。
オレを掴んでいる名雪腕を
何度も

何度も
 
 

何度も
 
 
 

「…なんでよっ!」
 
 
 

「名雪…」
 
 
 
 

大きく息をつきながら
荒い息のまま
名雪はオレを見上げて
 
 
 
 

「どうして…どうしてよっ」
 

「…何を言ってるんだよ…名雪…」
 
 

「…どうして…祐一っ!わたしを…」
 

「名雪っっ」
 
 
 

「…どうしてっっっ!!!」
 
 
 
 
 

名雪の瞳
涙が落ちていた。

オレを見つめる名雪の瞳
オレを映して揺れている瞳から
涙があふれて
あふれて
 
 
 
 

「…どうしてよぉぉぉっっっ!!!」
 
 
 
 

叫んだ

名雪は叫んだ
 
 


 
 
 
 

止めどなくあふれて
落ちる
 
 
 


 
 

名雪の瞳から
その大きな瞳から
落ちて

落ちて
 
 
 
 
 

落ちる
 
 
 
 
 
 

名雪

オレは
 
 
 

オレは
 
 

手をついた
ドアに手をついて
 
 
 
 
 

もう
 
 
 
 
 

「……オレは…」
 
 
 
 
 

これ以上
 
 
 
 
 

「……この街に…」
 
 
 
 
 

オレには
 
 
 
 
 
 

「………来ちゃいけなかったんだ…」
 
 
 
 
 

この街は
この雪に埋もれた街は
 
 

この街で出会ったこと
この街で出会った人
この街で起こった全て
 
 

あの雪の日々
あの日
あの夜
あの雪の中
 
 

あの冬も
この冬も

あの街
この街
 

この雪が降る街でオレのしたことは
オレの
オレは
 
 
 
 

『……だいっ嫌いだっ!!』
 
 
 

『…どうしてよぉぉぉっっっ!!!』
 
 
 
 

オレは
 
 

「来てはいけなかった…来なければよかったんだ。オレは…この街に…」
 
 
 
 

来なければ
オレが来なければ
 
 

違うっ!
 
 
 

そうじゃないか
オレが来なければ
 
 
 

違うっ
 
 

オレがいなければ
オレはあゆを泣かすことはなくって
オレは名雪を泣かすことはなくって

全ては何事もなく元のまま
何事もなかったように
何事もないまま
 
 

違うっ
そんなこと…ありえないんだ
何もなかったことに
何もなかったように
元のままなんてもうありはしなくって
なかったことになんてできなくて

そんなことを望むのは
 
 

でも
 
 

だから
 
 

オレは…
 
 
 

「……オレは…」
 
 
 
 
 
 
 

バシッ
 
 
 
 

「酷いよっ!!」
 
 

何かがオレの顔にあたって床に転がった。
何か小さな
白い
 
 

「…名雪…」
 
 

「そんな…そんな言葉を聞くために、わたしは…待ってたんじゃないよっ!」
 
 

名雪の叫び声

あふれながら
 

名雪は上がれる涙をぬぐいもせずに、肩を震わせたまま
 

「祐一にとって、わたしとの約束は…そんなに忘れてしまいたかったことだったの?」

「………」

「そんな…そんなものだっていうのっ!」
 

「…名雪…」
 

名雪が腕を掴んだ。
両腕を掴んで
 

「わたしとの約束…あの冬のこと…あの事故のこと…」
 

オレを見上げる瞳
あふれる涙を拭きもせず
首を振って

オレの顔を見つめて
 

「そして、わたしのことも……あゆちゃんのことも……祐一にとって、全部…全部忘れてしまいたい、そんなものなのっ!忘れたまま、思い出したくもない…そんなものなのっ!?そんなものだって言うのっ!?」
 
 

「……それは…」
 
 
 

「………」
 
 
 
 

「………オレは…」
 
 
 

「祐一…」
 
 
 
 

「………名雪…」
 
 
 
 

名雪の瞳
奥に揺れる何か
電灯の光に揺れて
 

オレは見つめたまま
名雪の瞳を見つめたまま
ただ

ただ
 
 
 
 

オレは…
 
 
 
 
 

「…オレは…」
 
 
 
 
 
 

「…そんな言葉…聞きたかったんじゃないよっ!」
 
 
 

「…名雪…」
 
 
 

「聞きたくないっ!わたしは…祐一、わたし…そんな言葉…」
 
 
 

「………」
 
 
 

「そんな祐一…なんて…」
 
 
 

「………」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「……祐一っ!」
 
 
 
 
 
 

名雪の叫び
窓ガラスを揺らして
 

叫んだ
 

名雪は
 
 
 
 
 

バタン
 
 
 
 
 
 

名雪の姿は消えた。
オレの目の前から消えた。
身をひるがえしたその姿は、隣室のドアの中に
 

オレは
 
 

オレ
 
 

オレの言葉
オレの腕
オレの
 
 
 

背中をずるずるとドアが滑っていくのを感じた。
目の前の景色がずるずると
 
 

オレは
 

床に座り込んで
 
 
 
 
 

床に落ちている白い小さな物
さっきオレの顔にあたった何かにオレは手を伸ばして
伸ばした手
 
 
 

小さな白い

白い
 
 
 
 
 

『人形、欲しい…』

『あの人形…』
 
 

クレーンゲームのガラスの箱、覗き込んでいた少女
見つめるその眼差し
 
 

『だから…わたしがそれまでこの人形、預かっておくから…』
 
 

雪を頭に積もらせた三つ編みの少女
涙で濡れた瞳
 
 

『約束……だよ…』
 
 

約束
 
 
 

プレゼント
 
 
 

白い天使の人形を、オレは握りしめて
握りしめたまま
オレは
 
 
 
 

座り込んだまま
人形を握りしめたまま
ぼんやりと見上げていた。
窓から見える雪を
月明かりに白く輝く雪を見上げていた。
 
 

オレは
何を
 

名雪
 
 

あゆ
 
 

オレは
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コンコン
 
 
 
 

コンコン
 

いるはずなのに返事がないドア。
ボクは少し待って、もう一度
 

コンコン
 

「…ミイちゃん…ボクだよ。」
 

「………」
 

部屋の中からは、何の物音も聞こえなかった。
廊下にはボクが叩いたノックの音だけ、響いて

静かになった廊下
ボクはもう一度、手をあげて
 

コンコン
 

「ミイちゃん…いるんでしょ?」
 

「………」
 

「…みいちゃん…」
 

その時、部屋で小さな物音がして
そして
 

カチャッ
 

「………」
 

小さく開いたドアから、ミイちゃんの顔が見えた。
ミイちゃんは暗い部屋の中から、ボクの方を…

「…お姉ちゃん…」

ミイちゃんの声
小さな、小さな声

ミイちゃんはボクを見上げていた。
暗い部屋の中から、ボクを見上げていた。
大きな目で…
…真っ赤な目…
 

「…ごめんなさいっ」
 

ミイちゃん、いきなりボクに抱きついた。
ボクにギュッて抱きついて
 

「…ごめんなさいっ…あた…ミイ…ミイ…」
 

「……そうだね。」
 

ボクはミイちゃんの頭、そっとなでてあげる。
ミイちゃんの髪、さらさら、音がした。

ミイちゃん、顔を上げてボクを見た。
多分、泣いていたその顔
真っ赤な目でボクを見て

「…お姉ちゃん…」

「…ダメだぞ、ミイちゃん。」

ボクはもう一回、ミイちゃんの頭をなでた。
そして、笑ってみせた。

「ちゃんと部屋にいるくせに、食事に来ないなんて…いけないよ、ミイちゃん。」
 

「……え?」
 

「もう…おばさん、怒っちゃうじゃない。せっかく作ったご飯、食べないのかって…ダメでしょ、ミイちゃん?」
 

「……おねえ、ちゃん…?」
 

ミイちゃんの顔、ボクを見上げて
泣いていたその顔、濡れていた。
大きな、真っ赤な目、ボクをじっと見ていた。

ボクは笑った。
そして、ちょっと肩をすくめて

「…なんてね。ボクもさ、ミイちゃんのこと、言えないんだけどね。」

「………」

「ボクもさ、今日…無断で食事、抜いちゃったんだ…あははは。」

「…お姉ちゃん…」

「だから、ボク…特別に二人分、用意してもらっちゃった。でもね、特別に、だよっ!だからミイちゃん、おばさんに感謝しなきゃ!ねっ!?」

「………」

ミイちゃん、ボクの顔を見上げたままだった。
何にも言わずに、ボクを見上げて
 

「…ごめんなさいっ!お姉ちゃん…ごめんなさいっ」
 

ミイちゃん、またボクの服に顔をつけると、大きな声で泣き出した。
思いっきり、ボクにしがみつくように
 

「…ごめんなさいっ、お姉ちゃん…ミイ…ごめんなさぁいぃ……」
 
 

「……もう、ミイちゃん…」
 
 

「…ごめんなさぁい…ごめんなさい…」
 

ギュッて顔を押しつけたまま、泣きじゃくるミイちゃん。
暖かいその息が、服を通して…
 

ミイちゃん…
 
 
 

「……ダメだよ、ミイちゃん」
 
 

ボクはミイちゃんの頭、そっと抱いてあげる。
頬でミイちゃんの頭、その髪の毛にそっと触って
 

「…約束…今度破ってるのは、ミイちゃんの方だね。」
 

「でも…でも…」
 

「約束破るなって…破っちゃダメって、昨日言ったのは…ミイちゃんだよ。ね?」
 

「…でも…」
 

「……でもじゃないよ。ほら。泣かない、泣かない。」
 

髪をそっと、今度は手でなでる。
ミイちゃんのさらさらの髪、ボクの手の上で流れてく。

ボクの髪も…こんなだったらいいのにね。
そしたら、もうちょっと…傷、分からないような…

…そういえば…
 

「……お姉ちゃん…」
 

「……あ、えっと…」
 
 

見ると、ミイちゃん…まだ泣いてるけど、でも…
顔を上げてボクを見上げていた。
まだギュッてボクに抱きついてるけど、じっとボクを見上げて
 

「…お姉ちゃん…怒ってるでしょ?」

「……え?」

「だって…ミイが、お姉ちゃん…あんなこと、したから…お姉ちゃん、騙して…」

「………」

「…ミイ、ミイは…」
 

ミイちゃん、自分の手で涙をごしごしぬぐった。
でも、すぐにその目に、涙があふれ出して
 

「お姉ちゃん…元気なかったから、だから…ミイ、今朝、ちょうど電話がかかったから…香奈美お姉ちゃんに相談したんだよ。そしたら、香奈美お姉ちゃんが…香奈美お姉ちゃんとミイとで、二人…なかよしにしようねって。だから…」

「……ミイちゃん…」

「だって、お姉ちゃん…元気ないんだもんっ!お兄ちゃんと一緒にいて…元気なお姉ちゃん、ミイ、なってほしかったんだもん!だから…」

「………」

「…でも、それ…お姉ちゃん、困らせちゃったから、ミイ、お姉ちゃん…だから、お姉ちゃん、ミイのこと…」

「………」
 

ミイちゃん、一生懸命、ボクに言った。
涙、真っ赤な目から流しながらミイちゃん、ボクの顔を見上げて

ボクはそんなミイちゃんの顔、見下ろしていた。
ギュッて抱きついたミイちゃんの腕
見あげた真っ赤な目
涙でぐしょぐしょに濡れた顔
 

ボクは
 

「……ううん。ボクは…怒ってないよ。」

「…でも…」

「…怒ってなんかないよ。だって、ボク…」

「………」
 

見上げているミイちゃんの顔
ボク、にっこり笑って
 

「ボクは怒ってないし…元気だよ。ほらっ!」

「……お姉ちゃん…」

「あはは。そんなこと…ミイちゃん、ボクのこと、心配してくれるのはうれしいけど、ボクはそんなに弱虫でも怒りんぼでもないぞっ!」

「…でも…」

「心配してくれる気持ちは、うれしいけどね。でも、ミイちゃんが心配しなくても、ボク…大丈夫っ!」
 

ボクは言いながら、ミイちゃんに笑いかけた。
 

「だから、ミイちゃんはそんなこと、気にしないのっ!ね?」

「お姉ちゃん…」

「だから、ね、ミイちゃん。ミイちゃんは泣いちゃダメだよ。それは約束違反だよ。ね?」

「………」
 

ミイちゃん、ボクの顔をじっと見上げてた。
もう、泣きやんではいたけど…ボクに抱きついたては、まだギュッて…
 

「…でも、お姉ちゃん…」

「…うん?」
 

ボクはミイちゃんの目、にっこりしながら覗き込んだ。
ミイちゃん、ボクを見たままで、ちょっと口ごもると
 

「……祐一お兄ちゃんのことは…お姉ちゃん…」
 

「………」
 

思わず、何も言えなかった。
ただ、ミイちゃんの顔、見返した。
真剣な顔の、ミイちゃん…
 

ミイちゃん…
 

「………ううん」
 

ボク、首を振ってみせた。
ミイちゃんの目、見つめながら首を振って
 

「…それは…うん、いいんだよ。ミイちゃんは心配しなくても…」

「………」

「…あはは。大丈夫。大丈夫だよ。そんなこと、ミイちゃんが心配すること、ないぞっ。そんなこと…」

「……でも…」

「そんなこと…うん。もう…いいんだよ。うん…」
 

思わず、声が小さくなっちゃって…
 

ううん

ボクは首を思いっきり振って、ミイちゃんの顔を見た。

「……ほら、泣くの、やめやめっ!早く行かないと、おばさん、もうご飯片付けちゃうぞ!」

「お姉ちゃん…」

「ミイちゃん、ご飯抜きでいいの?だったら、ボクがミイちゃんの分、もらっちゃうからねっ!」

「………」

「いいの?ミイちゃん…いいの?」

「………」
 

ミイちゃん、黙ってボクを見上げていた。
まだ濡れた赤い目で、ボクの顔を見上げて…
 

「…ううん」
 

ミイちゃん、やっと小さく頷いた。
まだ少し、その目はボクを見ながら揺れて
だけど…
 

「…食べるもん、あたしも…」

「…よしっ!」
 

ボクもそんなミイちゃんに頷いた。
そして、ミイちゃんの手を取って
 

「じゃあ、行くよ、ミイちゃん!」

「あ、ちょ、ちょっと…」
 

ミイちゃん、手をあわてて戻した。
それからボクの顔、ちょっと恥ずかしそうに見上げた。

「あ、あたし、えっと…着替えて…その、顔洗ってから…行きたいな」

「………」
 

ボクはミイちゃんの顔を見た。
ミイちゃんの赤くなってる目と、涙でぐしゃぐしゃの顔を見た。
 

「…そうだね。じゃあ、ボク、先に行ってるよ。」

「うん!」
 
 

パタン
 
 

目の前でドアが閉まった。
部屋の中にミイちゃんは、頷きながら戻っていくのがボクには見えた。
まだ、ちょっとおどおどした感じで
でもちょっとだけうれしそうな顔でミイちゃんは
 

ボクは食堂へと歩きだした。
食堂には、おばさんが…首を長くして待ってるから。
ボクが頼んでるんだもん…待たせちゃ、いけないから…
 

でも

足が重かった。
もう座り込んでしまいたいほど重かった。
だって
 

廊下の途中の洗面所の前
暗い廊下の途中、明るい灯が照らしている洗面所
まだ夜も早いから、誰もそこにはいなかった。
ボクは
 
 

鏡に映るボクを見た。
立ち止まって見た。
鏡の中、映る、ボクの顔…
 
 

…大丈夫
ボクは…泣いてないよね。
約束…破ってないよね、今日は。ミイちゃんの前では泣かないって、約束は。
だから…ボクは…もう、泣いてない…
 

だって、もう、帰るまでに泣いちゃったから。
思いっきり、泣き続けて…もう、枯れちゃったみたいだから。
あの…後…
 

どこを走ったのか、ボクは覚えていない。
どれくらい走ったのかも覚えていない。

ただ真っ赤に染まった街の中、ボクは走って
ただ走って
走って

走って
 

気がついたら、知らない場所だった。
来たこともない場所だった。
この街で暮して…一度も言ったことのない、見知らぬ住宅街の公園の前にいた。

気がつくと誰もいなかった。
まわりには誰も見えなかった。
見知らぬ人さえ見えなかったし
知ってる人の顔も見えなくって

ボクを知っている人

ボクの知っている人

ボクが
 
 

今度は…追っては来てなかった…
 

ううん、あたり前じゃない。だって…
 

『…嫌い…嫌いだよっ!そんな祐一くんなんて、ボク…大嫌いだっ!二度とボクの前、姿を見せないでっ!』
 

ボクは
 

『嫌い…祐一くんなんて…大嫌いだ!大嫌いだよっ!!』
 

ボクが
 

『……だいっ嫌いだっ!!』
 
 

言ったんだもん

祐一くんにボクが、言ったんだもん。
 

あたり前だよね。
追ってくるわけないもんね。
ボクが言ったんだもんね。
祐一くんに言っちゃったんだもんね。
ボクは
 
 

『……だいっ嫌いだっ!!』
 
 

言ったんだもん
 
 
 

『嫌い…祐一くんなんて…大嫌いだ!大嫌いだよっ!!』
 
 
 
 
 
 
 

言っちゃったんだ……もん……
 
 
 
 
 
 
 

言っちゃったよぉ
ボク
 
 
 

ボクは
 
 
 
 

ううん

言おうって思ったんだもん
言わなきゃって
言ってやるって
言わずには
言えば

言った
 
 
 
 

言ったら
 
 
 
 
 

言っちゃったら
 
 
 
 
 
 
 

もう取り返せない言葉
言ってしまった言葉
ボクは
 
 
 

ボクの言いたかったのは
 
 
 
 
 
 

何が言いたかったんだろう?
ボクはなんて言いたかったんだろう?
もっと違うことが言いたかった気がするのに
もうちょっと違う言葉
もうちょっと違うこと
もうちょっと違う…ボクの…
 
 
 
 

もう…取り返しなんてつかないんだ
あんなこと言って
あんな風に言って
祐一くんの
 

『……触るなっ!!』
 

手を
 

『触らないでよっ!』
 
 

『バシッ』
 
 
 
 
 
 

…もう、おしまい。
おしまいっ
あんなことをして
あんなこと言って
嫌いだって
大嫌いだって言っちゃった
ボクは
 
 

祐一くんなんて、もう…

いいんだ
 

いいんだよ
 

ボクは
 
 

もういいから
 
 
 
 

いいんだから
 
 
 
 

だから
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

…いいはずなのに
もういいはずなのに
そう思って

元気になるって
元気なボクに戻ろうって
祐一くんなんて知らなかった
忘れちゃってた頃のボクに戻るんだって

あの公園で泣きながら
思いっきり泣いて思った
もう涙が出なくなるまで泣いた
そして
思ったのに
 
 
 
 
 

なんで
 
 

なんで
 
 

鏡の中のボク
ちっちゃくで
変な頭して
リボン、どっかに落としてきちゃって
17には絶対見えないちんちくりんな顔
そんな変なボク
ボクは
 
 
 

なんでそんな顔して
なんでそんな悲しい顔して
なんでそんな目で

何でそんな風に
 
 

歪んでみえるのさ?
 

なんでだよ
 
 
 

なんでだよぉ…
 
 
 
 

鏡の中のボク
ボクの顔が歪んで
歪んで
 
 
 
 

ボクは見つめながら
鏡に映る窓
ぼんやり星明かりに雪が白く光っている窓を
ぼんやり歪んでみえるボクを
ボクの目から落ちる涙を
 

見て
 
 

泣いて
 
 
 

泣いていた

ボクは立っていた
 

泣いていた
 
 
 
 

どうして…だよぉ…
 
 

<to be continued>

-----
…筆者です。
「仕切り屋・美汐です。」
…やっと…ここまで、たどり着いたね。
「…まだ終わったわけではありません。」
…ああ。でも…ここから先は、もうずっと前から…多分、始めた時から、いや、始める前の構想段階で既にできていたような…そんな気がする部分…そんな気がする。いや、多分、そうなんだよね。だから…
「ここからは…ジェットコースターですね。」
…そうだね。お前…止めるなよ。
「止めはしません。というよりも、この話に関しては、わたしは止めたことなんてありませんが。だからこそ、こんなに長くなってしまった…」
…あはは、確かに。これはオレの…本当に趣味と勝手で書き綴ってきた、そんな話だもんな。Kanonすら、ある意味無視して…書いてきたアナザーストーリーだからなあ。だから…
「……しばらく、お別れですか。」
…ああ。ここから先は…あとがきなしで、最後まで行くから。このまま、一人でオレは…
「……はい。突っ走ってください。わたしは見物させてもらいます。あなたの暴走ぶりを…」
…あははは。ま、そうだな…見ててくれよ。オレはオレらしい最後を…書こうと思うから。いかにもご都合主義な、少女小説書きらしいエンドをね。じゃあ…」
「…ええ。では。」
…ああ。エピローグで会おう。

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