夢の終わりに降る雪は (前編)

(夢の降り積もる街で-20)


あゆSS。

シリーズ:夢の降り積もる街で

では、どうぞ。

-----

   雪
   雪
   降り続く雪

   ぼくは目を閉じて
   じっと目を閉じて

   何も見えない
   見えるのは闇
   何も聞こえない
   聞こえるのは雪の音
   降り続く
   いつまでも降り続く雪の音

   このまま目をつぶっていたい
   このまま雪の音を聞いて
   このまま雪に埋もれたい
   ぼくは埋もれたい
   この雪の中
   この冷たい雪の中
   全てを凍らす雪の中
   ぼくの上に降る雪の中
   このまま埋もれてしまいたい
   埋もれてしまえばいい

   何も聞こえない
   雪の音しか聞こえない
   この雪の中で
   ぼくは寝転んで
   降り続く雪の中
   ぼくは寝転んだまま

   このまま埋もれて
   この降り積もる雪の中
   ぼくは

   ぼくは
 
 
 
 
 
 
 

   音が消える

   雪の音が消える
   降り続く冷たい雪の
   降り積もる雪の音が
   消えて

   雪の気配も
   降り積もる雪の感触も
   その冷たさも
   消えて

   消えて
 
 
 
 
 

   ぼくは目を開けた
   白い光の中
 

   まぶしくて
 
 
 
 

   誰?
 
 
 
 

   まぶしくて
 
 
 
 

   そこにいるのは
 
 
 
 

   真っ白な光
   まぶしい光が
   ぼくを

   あたりを
 
 

   光が
 
 
 

   まぶしくて
 
 
 
 

   白い
 
 
 
 
 

   誰?
 
 

   ぼくを見下ろす
 
 
 

   誰?
 
 
 
 

   きみは
 
 
 

   きみ
 
 
 

   きみを
 
 

   ぼくは知っているね
   きみを知ってるね
 

   真っ白な光の中
   まばゆい光の中
   ぼくを見下ろしている
   小さな女の子
 

   ぼくは知っているよ
   誰よりも
   何よりも
   ぼくは知っているよ
   きみを知ってるよ
 

   それは分かるんだ
   それは覚えてる
   でも
 

   でも
 
 

   きみは誰?
 
 

   ぼくは知ってるのに
   知ってるはずなのに
   分かっているのに
 
 

   分からない
   思い出せないよ
 
 

   きみは誰?
   きみは
 
 

   ねえ
   きみはどうして黙っているの?
   ぼくが話しかけてるのに
   こんなにきみのこと
   ぼくは
 
 

   きみは
 
 

   きみは
   どうしてそんな目で
   ぼくを見つめてるの?

   涙を流しながら
   ぼくを見つめながら
 
 

   きみはどうして笑っているの?
   涙を流しながら
   ぼくを見つめながら
   笑ってる
   きみは
 
 
 

   ぼくはきみを知ってる
   それは間違いないよ
   それだけは間違いないんだ

   ぼくは知ってる
   きみの笑顔も
   きみの涙も

   ぼくは知ってる
   知ってるはずなんだ
   知ってたはずなのに
   ぼくはきみを知っていた
   知っていたはずなのに
 

   きみを
 

   きみは
 

   きみは誰?
   きみは
 
 

   きみは
 
 

   ねえ
   どこへ行くんだい?

   笑いながら
   白い光の中
 

   どこへ行くつもりなの?
   ねえっ

   どうして笑っているの?
   ぼくがこんなに手を伸ばして
   ぼくがこんなに一生懸命手を伸ばして
   きみに触れて
   きみの手に
   きみの手を取って
   ぼくのそばに来てほしい
   ぼくの
   ぼくは
 
 

   なのに
 
 

   どうしてきみの顔が
   どうしてきみの姿が

   どうしてきみの笑顔が
   どうしてきみの泣き顔が
   遠くなっていくの?
   だんだん
   だんだん
   白い光の中
   遠くなるのは
 
 
 

   待って
 
 

   待ってよ

   まだ行かないで
   まだぼくはきみに言ってないんだ
   ぼくはきみに言わなきゃならないことがあるんだ
   ぼくはきみに言わなきゃ
   きみに言いたくて
   ぼくは言いたい
   ぼくは
 

   ねえ
   待ってくれ
   待ってくれよ
   ねえ
 

   ぼくは
   手を
 

   待って
   ぼくは
 
 

   待って
 
 
 

   手を
 
 
 

   ぼくはまぶしくて
   とてもまぶしくて
   でも
 
 
 
 

   手を
 
 
 
 
 
 
 
 

   待って…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

夢の終わりに降る雪は (夢の降り積もる街で-20)
 

1月30日 土曜日
 
 

…白いまぶしい光に、思わずすぐに目を閉じた。
オレは…
 

もう一度、目を開ける。
ゆっくり、ゆっくり…
 

朝。
いつのまにか、朝になっていた。
朝の光が窓から、部屋にさしこんでいた。
カーテンのすき間から、白い光がさし込んで

オレはベッドの横に座り込んでいた。
昨日、座っていたそのままにオレは座りこんで

あたりは朝の凍てつくような冷たさに包まれていた。
体は冷えきって、少しでも動かそうとするだけで痛みを感じるほど。
かろうじて凍死しなかったのは、奇跡かもしれない。
夜中、いつの間にか被っていた、この毛布がなかったら…

いや、違う。
これは…自分で被ったわけじゃない。
おぼろげに覚えている。夜中、誰かがオレに毛布を掛けてくれたこと。
多分…秋子さんが、オレに毛布を…

おぼろげに覚えている。
夜のこと。
そして…
 

ふいに感じる寒さ。
背中を毛布がずり落ちていた。
オレは手を伸ばして、毛布を…
 

…手

手を止めた。
自分の手を見た。
伸ばした手
オレの手…
 

さっきの夢
あれは…誰だったんだ?
あの少女
夢の中で笑っていた
夢の中で泣いていた
あの少女は?

オレは知っているはずだ。
オレは確信していた。
その少女のことを知っている
よく知っている少女だってことは
それだけは分かっていて
それだけは知っている
それだけは
本当にそれだけは
 

でも
 

思い出せない
どうしても思い出せない
あの少女は誰だったのか
あの少女の顔を

見ているだけで
悲しくて
うれしくて

オレは

オレは何が言いたかったんだ?
名前も思い出せない少女
あの少女にオレは
何が言いたくて
何を言おうとして
オレは

オレは手を伸ばして
何を掴もうとした?
この手に
オレは
 

オレは…
 
 

何をしたいんだ?
何をしたかった?
何を
 

『…オレ、今日…あゆに会った。オレは…会った…』
 

オレの言葉
名雪に言った言葉

なぜオレは黙っていられなかった?
それを言えば名雪を…泣かしてしまうことは
また泣かせてしまうことはわかり切っていたのに
 

『来てはいけなかった…来なければよかったんだ。オレは…この街に…』
 

それは違うと
もう違うんだってことは
もう過去は変えることはできないってことは

もう元どおりなんてものはないことは
同じ日常なんてないことは
オレ自身が知っていた
分かっていたはずなのに

もしもそんなものがあるとすれば
それは
 

『ボクのこと…からかって…そんなに面白いの?ねえ、面白いのっ!』
 

そんなあいつを忘れることでしか
 

『…誰が…誰が謝ってくれって言ったんだよっ!ボク、そんなこと…誰が頼んだんだよっ!』
 

それしかないことは
オレは分かっていて
オレは知っていて
 

でも
オレは
 

『嫌い…祐一くんなんて…大嫌いだ!大嫌いだよっ!!』
『……だいっ嫌いだっ!!』
 

オレには
 

何が言いたかったのか
何を言えばよかったのか
 

何を言わなきゃいけなかったのか
何を
 
 

傷ついて
傷つけて

傷つけてまで
傷ついてまで
 
 

言おうと思った
言った
それは
 
 

オレは
 
 
 
 

手を握りしめる
強く

強く
 

痛むほど
 

痛い
 
 

だけど
 
 
 
 

一つだけ、分かった気がする
こんなオレにも
 
 
 

やっと

オレは
 
 
 

オレは立ち上がった。
体は痛かった。
座り込んでいた眠っていたせいで、体の節々が痛んだ。
だけど
 

一つだけ分かったこと
やっと分かったこと
オレは卑怯だった
気がつかないフリをしていた
自分のことだけしか考えなくて
そのくせ、自分の心にまで嘘をついていた
 

でも
 

だから
 

オレは立ち上がってゆっくりと部屋を出た。
朝日のさし込む廊下を、ゆっくりと歩いた。
物音のしない、だけどそこにいるのは分かっている
名雪の部屋の前を
 

『……約束…だよ…』
 

そう、あれは約束
オレと名雪との約束

オレは約束した
名雪と約束をして
 

『…結論、出して…』
 

ああ、そうだな
 

『……もう一度、約束…だよ…』
 

約束、したよな、オレは。
もう一度、約束した。

オレがしなくてはならないことは
するべきことは決まっている
決まっていたんだな
最初から
 

だから
 
 

窓の外に見える雪景色
朝の光に白く輝く雪
まぶしい光に目を細めながら
 

あの冬の日もこんな景色が広がっていた。
今でははっきりと思い出せる。
あの時も、この窓からこんな景色を見た。
あの冬
あの日々
 

思い出して

思い出しても
 

わずかに力を込めて握りしめた手
手の中の小さな柔らかい感触
小さな天使
 


オレがすることは
しなくちゃいけないことは
 
 
 
 
 
 
 

   ねえ
   きみは誰なの?
   ぼくはまだ分からない
   思い出せないよ

   だけど
 

   でも
 
 
 
 
 
 

「…おはようございます、祐一さん。」

ダイニングに一歩、足を入れた途端、オレに掛けられた声。
正面のテーブルに、その姿はあった。

秋子さんはテーブルについて、オレを見上げていた。
その前のテーブル上には、ティーカップが一つ。
中からは柔らかい湯気がわずかに上がっていた。
その湯気の向こうから、秋子さんはオレを見上げながら

「体は…大丈夫ですか?」

「…はい。」

オレが頷くと、秋子さんはゆっくりと立ち上がった。
そのまま、キッチンへと秋子さんは消えていった。
オレはダイニングに入ると、いつもの席に座った。
いつもの席…名雪の席の隣。
隣は…空席のままだった。

分かっている。
名雪はここにはいない。
もちろん…学校に行ったわけじゃない。
物音一つしなかった部屋。
でも、中に名雪がいることは、オレには分かっている。
何も聞こえなくても分かる。
分かっている。
だから…
 

「…どうぞ。」

カチャン
 

かすかな音と共に、甘い匂い。
目を落とすと、そこにはティーカップが置かれていた。
カップの中には薄赤い紅茶のような…でも、香里は紅茶とは少し違う甘い、そして優しい香り…

…これは…

蘇る記憶。
この香り…

オレはこのお茶を飲んだことがある。
あの時…あの冬に…

「…これはあの頃…飲んだことがあるお茶…ですね。」

オレは顔を上げた。
そこにいるはずの秋子さんの顔を見上げた。

「…そうです。」

秋子さんはテーブルの向こう、もう自分の席まで戻っていた。
そして、見上げたオレに微笑むと、自分の席に座って自分のカップを持ち上げた。
そして、一口飲むとカップを置いてオレを見た。

「祐一さんは…このお茶を気に入ってましたね。あの冬も…」
「………」
「…わたしも、これが大好きなんですよ。」

秋子さんは言うと、また微笑んだ。

「このお茶は、神経を安らげる効果があるそうですが…それよりも、わたしはほのかに甘いこのお茶が、本当に好きなんです。だから、何かあるとこれを出すんですよ…」

微笑みながら、ゆっくりとお茶のカップを持ち上げて、湯気を見つめる秋子さん。
ほのかに白い湯気に、その微笑みがわずかに揺れるように…
 

…どうして?

どうして、微笑んでいられるんですか?
このオレに…

『……わたしは、名雪の…母親です。』
『でも、わたしは…仕事に行くつもりです。』

そう言ったのは、あなたです。
でも…それを言った時、あなたの肩は…
 

『…コーヒー、今、入れますね。』
 

そう言って、いつものようにキッチンに消えたあなたは、でもそれから…
 
 

あなたは分かってるはずです。
オレがしていることを
オレが名雪を苦しめている、そのことを…

『ゆっくり…考えてください。それが、祐一さん、あなたの…義務です。』

そうまで言って
そこまで知っていて
 

どうしてあなたは…微笑んでみせるんですか?
オレに…微笑むことができるんですか?
オレはあなたの大切な娘さんを泣かせているのに
オレはあなたの大切な娘さんを苦しめているのに

なのに
どうして
 

「……どうして…」
 

オレは思わず、秋子さんの顔を見つめながら
 

あなたは知っているのに
オレが名雪と約束して

あの冬の夜
泣いていた名雪
オレと約束して

名雪は待っていたのに
ずっと待っていたのに
待ち続けて
ずっと待ち続けて
 

それなのに
 

オレは忘れてしまった
オレは忘れたくて
あゆを忘れたくて
あゆが死んだことを
あゆを殺したことを忘れたくて
だから名雪にすがって

名雪との約束
その約束を利用して
忘れるために
名雪を利用して
 

そして
 

忘れてしまった

オレは忘れてしまった
あゆが死んだことを
そして
名雪との約束も
オレは忘れてしまった
忘れてしまって
忘れたことすら忘れてしまったのに
 

名雪は待っていて
 

オレは名雪を泣かせて
名雪を苦しませて

何度も

何度も

なのに
 

「……どうして…」
 

どうして微笑むんですか?
どうしてオレに

どうして?
 

「……秋子さんは…どうしてオレに…笑っていられるんですか?」

「………」

「どうしてそんなに…優しくできるんですか?」

「………」
 

秋子さんは少し首をかしげてオレを見つめた。
手にしていたカップをソーサーの上に置いた。
 

「…優しいということでは…ないですね。」

「……でも…」

「わたしは…優しくはないですよ。わたしは…ただ、無力なだけですから。あだ、それだけですから…」
 

秋子さんは言うと、また微笑を浮かべてオレを見た。
 

「わたしは無力なだけ…ダメな母親です。名雪のことを、わたしは愛しています…誰よりも愛していて、名雪のためならなんでもしたい…そして、何でも出来る、そう思っています。いえ、そう思いたい…」

「………」

「…でも、わたしは何にもできないのです。結局、名雪のために…何にもできない、不甲斐ない親です。」

「そんなこと…」

「…いえ、そうなのです。」

秋子さんは小さく首を振った。

「あの子は、今、苦しんでいます…本当に、悩んで、苦しんで、泣いている…それは分かっているんです。わたしは…分かっているんですよ。なのに…なにもできない。わたしには…なにもできない。」

「………」

「わたしは何でもしてやりたい、あの子の苦しみを、涙を止めるためにできることなら何でもしてやりたい…出来ないことだって、分かっていたってしてやりたいと思います。ええ、本当に思うんですよ。でも…できないんです。結局、あの子の苦しみを、悲しみを、涙を止めることができるのは、わたしじゃないんですから…」
 

秋子さんの視線は、天井に注がれていた。
天井の上、二階…
…そこには名雪が、自分の部屋できっとうずくまっている…
 

「…わたしにできるのは、結局…こうして微笑んで見ていることだけですから。こうして、何事もないように微笑んで…わたしだけはかわらず、微笑んで…そして、こうしてお茶を用意して、待っていることだけ…見守ることだけしか、出来ない…」
 

かすかに秋子さんの手のカップがカチャンと鳴った。
ソーサーにカップが触れて、わずかに震える音色がダイニングに…
 

「…こうして、座って見ていることだけしか、わたしには出来ない…あの子が悲しみも、苦しみも、涙も…全てを思い出にできるまで。思い出に変えるその時まで…わたしはこうしてここに座って、疲れた時に微笑んで見てあげられるように、振り返ればそこにかわらないわたしの笑顔が見えるように、こうして微笑んで…見守ってやることしかできない、ダメな親ですから。わたしは…」

「……秋子さん…」
 

オレは秋子さんの顔を見つめていた。
秋子さんの顔は…少し疲れた笑顔で、でも…
…間違いなく、それは笑顔で…
 

「…思い出が…きちんと全て思い出にかわって…しまうまで。それを…きちんと見守ってあげれるように、微笑んでいられるように…馴れたら、上出来だと思いますけれど。こんなダメな親の、それがせめてもの…義務で、そして…仕事だって、思っていますから。」
 

秋子さんは天井から視線をオレの顔に落とした。
そして、一つ、瞬きをして

「…名雪も…あなたも。祐一さん…」

「……え?」

「…あなたの思い出も…きちんと思い出にかわるように、わたしは…」

「……秋子さん…」

「…そう、思っているんです。あの冬の日…あなたがこの街を去った、あの日から…いえ、その前から。わたしは…」
 

オレを見つめている秋子さんの目。
オレは目を外せず
外さないでオレは秋子さんの瞳を見つめて
 

「…そのくらいしか能がない、ダメな…不甲斐ない親で、不甲斐ない叔母…それだけです。ただ、それだけです…」
 

秋子さんはふいにオレから目線を外した。
手を伸ばしてカップとソーサーを持つと、ゆっくりとイスから立ち上がった。
 

「…ですから、優しいなんて…そんなことではないですから。わたしは…」

「………」

「……そんな、買いかぶるのは、やめてくださいね。」
 

言うと、秋子さんは微笑んだ。
オレに微笑んでみせた。

「……秋子さん…」

オレはそれ以上、何も言えなかった。
ただ、秋子さんの笑顔を見つめていた。

秋子さんはそのまま、微笑んだままで歩いていった。
歩いていくその姿は、そのままゆっくりとキッチンの中に消えた。
オレは…
 

オレは前を落として、カップの中をのぞき込んだ。
もう、少しぬるくなってしまったお茶のカップを覗き込んで
 

「………」
 

息をついて、オレは窓に目をやった。
窓の外、朝の中庭を見た。

朝の光が中庭に積もっている雪に照り返してまぶしかった。
そのまぶしさに、思わずオレは目を細めて
そのまばゆい輝きに、オレは
 

香里の言葉を思い出した。
あの日、白く輝く学校の中庭で、香里が言った言葉
 

『相沢くん、あなたは最低だわ。今のあなたは最低よ。最低の卑怯者…同情の余地もないわ。』
 

そうだな
オレも…そう思うよ
オレは
 

秋子さん
あなたは不甲斐ない親じゃないです
あなたは不甲斐ない叔母じゃないです
あなたは
 
 

やっぱりあなたは優しい人です
だから名雪にも
そしてオレにも
そうして見守って
微笑んでいられるんですね
あなたは
 

こんな最低なオレにも
 

『…最低だわ、今のあなたは。あたしが言いたいのは、それだけよ。』
 

そう
最低のオレ…

香里
お前の言うとおりだ
オレは最低だった
確かに最低だった
だから
 
 

でも
 
 

だから

オレはこれ以上、最低じゃいけない
これ以上、名雪を…あゆを傷つけて
秋子さん、香里、そして…ミイちゃんを、香奈美さんを…心配させて
そのくせ、自分だけ悲劇の主人公を気取って…傷つかずにいようとして
自分に嘘までついて、オレは…

これ以上、最低にはなりたくないから
これ以上、自分に嘘をつけないから
 

最初から、一つしかなかったのだから
本当は、一つだけしかないのに

オレがしなくてはいけないこと
オレがするべきこと
オレがしたいこと

それは
 

最初から、一つしかなかったんだから
 

だから
 
 

オレは
 
 
 
 

「……秋子、さん…」
 
 
 

オレは大きく息を吸って、イスから立ち上がった。
そして、キッチンの中にいる秋子さんの方へ、ゆっくりと歩いていった。
 
 

秋子さん
あなたはきっと、こんなオレも赦すんでしょうね。
こんな身勝手なオレを

こんな身勝手にまた

なのに、そんなオレのことをきっとあなたは
きっと赦すんでしょうね。
だから
 
 

オレの義務
あなたが言った義務を果たします

それだけが

それだけしか
オレには
 
 

オレは
 
 
 

「…秋子さん、一つ…お願いがあるんですが…」
 
 
 
 

   ぼくが言いたかったこと
   ぼくがするべきだったこと

   ぼくがしたかったこと
   きみにしてあげたいことは

   一つだけだから
   それだけは分かったから
   それだけは思い出したから
   ぼくは
 

   だから
 
 

   ねえ、きみ
 
 
 
 

   ねえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「…ねえ、あゆちゃん?」
 

「…あゆちゃん…眠ってるの?あゆちゃん……」
 
 
 

誰かが…呼んでる?
誰?
ボクを呼ぶのは…
 
 

「…あゆちゃん…ね、あゆちゃん…起きてちょうだい。あゆちゃん…」
 

「………」
 
 

ボクは…
 

目を開けた。

誰かがボクを呼んでいる。
夢じゃ…ない。
夢じゃ…
 

「…あゆちゃん…あゆちゃん…?」
 

「あ、はいっ」
 

呼んでいるのは、園のお姉さんの声。
ドアの向こうから、ボクを呼んでいた。

ボクは布団を払ってベッドから起き上がった。

寒いっ

今日も寒くって
今日も

頭が痛くって
まるで眠ってないみたいな
頭の奥
痺れるように
 

でも

ボクは急いでドアに駆け寄って
そしてドアを開けた。

「…なんですか、お姉さん。」

「あ、あゆちゃん…」

園のお姉さんが、ドアの前に立っていた。
ボクのことを見ながら、ちょっと困った顔。

「…ごめんね、寝て…た?」

「いえっ、今、起きたところです。」

「……そう。」

お姉さん、ホウッと白い息を吐いた。
廊下は今朝も冷たくて、部屋の中までその冷えた風が入ってきた。

「…あの…なんですか?」

「あ、そうそう。あゆちゃん、電話よ。」

「…電話?」
 

…誰だろう、こんな朝から…
まさか…
 

ううん、違うよね。
だって…
だって、園の電話、ボク、教えてないし…

…調べれば分かるけど、でも…
 

かかってくるわけ、ない。
掛けてくるわけ、ないもん
だって…
 

「……中瀬さんっていう、女の人からだけど…出る、あゆちゃん?」

「……え?」
 

びっくりして見あげたら、お姉さんがボクの顔、じっと覗き込んでいた。

…そんな、なんか…顔、してたのかな…
ボク…
 

「…ううん。出ます。」

「……そう?」

「はいっ。バイトの人ですから、きっとその連絡だと思うので。」

「…うん。じゃあ…」

「はいっ!」
 

お姉さん、やっと頷いた。
そして、事務所に歩きだした。
ボクはその後ろ、廊下へと出た。
まだ冷たい、廊下に…
 

…何、考えてるの、ボク…
みんなに心配されるような、そんなこと…
しないって、考えないって、ボク、決めたのに。
ミイちゃんに…
みんなに…
…香奈美さん、にも…
 

香奈美さん、何だろう?
こんな朝に。
やっぱり、昨日のこと…かな?

そうだよね。
きっとそう。
きっと…
 
 

ボクは
決めたんだから
 
 

カチャッ
 
 

ボクは事務所の前、受話器を取り上げた。
そして、冷たい受話器に耳、当てて
 

「…変わりました。あゆです。」

「…あ、あゆちゃん…」
 

電話の向こう、香奈美さんの声。
いつもの少し低い、でも良く通る声で

「……ごめんなさい、まだ…眠ってた?」

「……いえ、今、起きたところです。」

「……そう…」
 

香奈美さんの小さな、ため息が聞こえた。
いつもよりも元気のない、そんな声に聞こえた。

…香奈美さん…
 

「…あゆちゃん」

「…はい」

「……昨日は、ごめんね…」

「………」
 

香奈美さんは、やっぱりそう言った。
ちょっと小さな声で、ボクに…
 

「…余計なおせっかい、だよね。あゆちゃんの気持ち、考えてない…ごめん、ごめんなさいね、あゆちゃん…」

「………」

「……ごめんね…」
 

つぶやくように受話器の向こうから
香奈美さんの低くって、でもいつもは張りのある声が
つぶやくように
 

「…香奈美さん…」

「…わたし…ゴメンね、あゆちゃん…」
 

小さな、小さな声で
香奈美さんの小さな声が
詰まって
 

…香奈美さん…
 

謝らないで
謝らないで

謝るのは
ホントは
 

「…香奈美さん、ボク…」

「………」

「……ボク…」
 

「……あゆちゃん、今日…土曜日…だよね。」
 

「……え?」
 

急に言った香奈美さん。
ボクにはなんのことか、一瞬分からなかった。
 

「…えっと…」

「……土曜日、だから…」

「……はい…?」
 

「……今日は、あゆちゃん、バイトの日…なんだよね…」
 

「……あっ」
 

…忘れてた
今日は…
 

土曜日
いつもバイトに行く日
 

バイト
 

百花屋
 

ボクは
 
 

でも、行かなかったら
 

『…バイト、やめるかも…しれません。』

言ったのは、ボク
ボクだけど…
 

お世話になってるのに
店長さんにも
香奈美さんにも
こんなボクを雇ってもらって
お世話になってるのに
 

ボク
 

ボクは
 
 

でも

百花屋にいたら
ひょっとしたら
もしかしたら
 

ううん
来るわけない
来ない
 

来ない
 

でも
 
 

ボク…
 
 

「…ボク……」
 

「……あゆちゃん、今日は…休むってマスターに、言っておくね。」

「……香奈美さん?」

「わたしから、マスターには言っておくから…今日は。ね?」
 

香奈美さんの言葉。
電話の向こうから、小さなため息。
 

「だから…休みにしなさいね。今日は…」

「…で、でも…」

「あゆちゃんの分は、今日はわたしがするから。昨日の…お詫びもあるし。」

「………」
 

「それに…」
 

香奈美さん、もう一度、今度は大きなため息が聞こえて
 

「…あゆちゃん…祐一くんが来るかもしれないから、だから…来たくないんでしょ?だから、辞めるなんてことまで…」

「………」

「…だから、ともかく、今日は…」
 

「……来るわけ、ないです。」
 

「…え?」
 

ボクは思わず、口にしていた。

だって…来るはずないから。
あんなこと…言っちゃったのに
ボク…
 

『嫌い…祐一くんなんて…大嫌いだ!大嫌いだよっ!!』
 

あんなこと…

だから、祐一くんが来るわけ…ないから…
 

祐一くん…
 
 

「……来るわけ、ないです…」

「………」

「…ないです…から………ない…」
 

…ダメなのに
こんな…


震えるなっ

ボクはっ
 
 

ボクは…
 

祐一くんなんて
もう
 

もう…
 
 
 

「…ないです…」
 
 

「………」
 
 
 

「……ない……」
 
 
 
 
 

「…そうかな?」

「……え?」
 

香奈美さんの声が、急に響いた。
受話器の向こう、香奈美さんは続けて
 

「…わたしは…」

「………」

「……ねえ、あゆちゃん。これはね、わたしの…また、おせっかいかもしれない。ううん、きっとまた要らないおせっかいだと思う。思うけど…聞いてくれる?」

「……香奈美…さん?」

「……ねえ、あゆちゃん…」

「………」

「………」
 

ボクは黙っていた。
何を言えばいいのか、分からなかったから。
香奈美さんが何を言いたいのか、分からなかったから。
 

香奈美さんはちょっと黙っていた。
それから、小さな息が聞こえた。
 

「…わたしは…お願い、これは言わせて。ねえ、あゆちゃん。わたしはね…」

「………」

「……昨日、わたし、祐一くんと話して…あゆちゃんが、行って…その後、わたし、祐一くんといたから…思うの。わたしはね、あゆちゃん。祐一くん、きっと…あゆちゃんのこと、まだ好きだと思う。」
 

「………」
 

そんなはず、ない

ボクは分かってる
分かっているのに
 

そんなはず、ない

ボクは口にできなくて
できなくて
 

ただ
黙って
 
 

「…そして、あゆちゃん…あなた、まだ、祐一くんのこと…好きなんでしょ?あゆちゃん?」
 

「………」
 
 

そんなこと、ない
 

ボクは分かってる
分かっているのに
 

そんなこと、ない
 

ボクは口にできなくて
できなくて
 

ただ
黙って
 

「…もちろん、わたしはあゆちゃんと祐一くんの間に…何があって、どんなことがあって、どうして……そんなこと、わたしは知らない。あゆちゃん、言いたくないみたいだったし…祐一くんも、そんな…話す状況じゃなかったから。だから、わたしが言ってるのは、よけいなお世話、いらぬおせっかいだってことは分かってる。わけも知らないくせに、いい加減なこといってる、そう言われても…それが当然なこと、言ってるの。それは分かってるのよ。分かってるんだけど…」
 

電話の向こうの声
香奈美さんの声はかすれて

でも
はっきり
 

「…わたしはね、あゆちゃん。あなたと祐一くんに…もっと素直になってほしい。そして、できれば二人が、また前みたいに喧嘩したり、仲良くしたり…そんな二人に戻ってほしい。そう、思ってるの。だって…」

「………」

「だって、あなたたち…とっても幸せそうだったから。二人でいる時、本当にうれしそうに…二人、笑ってたから。わたしとは違って、あゆちゃん、祐一くんとは最初から、本当に笑って…本気でぶつかってたから。だから…」

「……香奈美、さん…」

「だから…あなたたち、お似合いだなって、わたし、思ってたから。だから…」
 

香奈美さんの声、途切れた。

ボクも何も言えなくって
 

ボクは…
 

「…ごめんね、あゆちゃん。」
 

香奈美さん、しばらくして
 

「…また…わたし、変なおせっかい…よけいなこと、言ってるね。ゴメンね、あゆちゃん。わたしにそんな権利、ないのに…ごめんなさい。」

「……香奈美さん…」
 

そうじゃない
そんなこと、ないです
そうじゃ…
 

ボクは
 

ボクの本当の…
 
 

「じゃあ、わたし…店長には今日、あゆちゃんが休むって行っておくから…いい、あゆちゃん?それで…いい?」

「………」

「……あゆちゃん、それで…」
 

ボクは
 

元気でいようって
泣かないって
そして
みんなに迷惑、掛けないようにって…
 

ボクは
 

「……はい。」
 

頷いた。
頷いてた。
電話を握ったまま、ボクは
 

「……うん。そうして…あゆちゃん」

「………」
 

ボクは

決めたのに
決心したのに
また
ボクは
 

「……ねえ、あゆちゃん。」

「……はい」

「……だから……」

「………」
 

「…辞めないでね。バイト。あゆちゃんが辞めるくらいなら、わたしが…辞めるから。わたしのことで、そんなことになるなら…」
 

「香奈美さんっ」
 
 

ボク、叫んでた。
思わず、叫んだ。
だって
 

「そんな…」

「……ううん。それが…それくらい、わたしは……ごめんね、あゆちゃん…」
 

香奈美さんの声、ボクの耳に
響いて
 

ボクは
 

「じゃあね、あゆちゃん。また明日、電話するね。」

「…香奈美さん」

「…明日のバイトのことは、その時に…ね。じゃあ」

「香奈美さんっ」
 
 

ツーッ、ツーッ、ツーッ
 
 

切れてしまった電話
香奈美さんはもう、電話を切っていた。

ボクは受話器を握りしめたまま
ボクは
 

ボクは
 
 

決めたのに
もう決めたのに

もう泣かないって
もう迷惑かけないって
元気なボクに戻って
みんなに心配かけないで
ボクは
 

決めたのに
 
 

決めた
 
 

『祐一くん、きっと…あゆちゃんのこと、まだ好きだと思う。』

そんなはず、ない

ない

ないのに
 

『そして、あゆちゃん…あなた、まだ、祐一くんのこと…好きなんでしょ?』

そんなこと、ない

ない

ないって
ボクは
 

もう祐一くんのことなんて
もうボクのことなんて
もう
 

もうボクは
 
 

決めたのに
 
 
 

決めた

ボクは
 
 

どうしたらいいの

どうして

どうすれば
 
 

『…ごめんなさいっ、お姉ちゃん…ミイ…ごめんなさぁいぃ……』

『……ううん。それが…それくらい、わたしは……ごめんね、あゆちゃん…』
 
 

決めたのに
もう決めたのに
 

決めたこと
 

決めた
 

決めて
 

決めたのに
ボクが決めた

それは結局
 
 

どうしたらいいの?
ボクは
 

ボクは
 

どうしたら…
 
 
 
-----
 

<Back< 戻る >後編へ>

inserted by FC2 system