夢の終わりに降る雪は 後編

(夢の降り積もる街で-20)

あゆSS。

シリーズ:夢の降り積もる街で

では、どうぞ。

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夢の終わりに降る雪は (夢の降り積もる街で-20) 後編
 
 
 
 
 

コンコン
 
 
 

静かな廊下に響く、ノックの音。
答えのないノック

繰り返す
 
 
 

コンコン
 
 
 

コンコン
 
 
 

還らない音
響いて
消えて
 

たとえそうだとしても
返事がなくても
オレは

叩く
 
 
 

コンコン
 
 
 

返事がなくても
物音すらしなくても
オレには分かっている

分かっている
中に一人の少女がいることを

部屋の片隅にうずくまり
目を開けても何も見ることもなく
口をあけても声すらなく
ただ黙って
ただうずくまって
ただ
 

オレには分かっている
分かっているから
だから
 
 
 

コンコン
 
 

「……名雪」
 
 

オレの声

聞こえるか、名雪?
オレの声は聞こえるか?
お前の耳に聞こえるか?
このオレの声は
 

「……名雪…」
 

聞こえるだろう?
オレの声

お前が聞きたくない
だけど
お前が聞きたい声
オレの声は
 

オレは何度も呼ぶよ
お前を呼ぶよ
だって
オレにできるのは
 
 

「…名雪…」
 

「…聞こえてるんだろ?」
 
 

返事のない返事
声のない声

部屋にうずくまっている少女が見える
オレの目には見える

ただうずくまり
ただ黙って
オレの声を聞いている
目を閉じて聞いている少女の姿
 

「…名雪…」
 

オレは続ける
返事はなくても
オレには聞こえる
お前の声
お前の叫び
 

『…そんな言葉…聞きたかったんじゃないよっ!』

『聞きたくないっ!わたしは…祐一、わたし…そんな言葉…』
 

オレの言葉
オレの声
 

オレはもう言わない
あんなことは言わない
言わないから
だから
 
 

「…名雪……」
 

「………」
 

「聞いてほしいことが…あるんだ。どうしても聞いてほしい…どうしても言いたいことが、あるんだ…」
 
 

言いたいこと
いべきこと
言わなくてはならないこと
 
 

それは始めから分かっていた
オレには分かっていた
最初から分かっていたのに
なのに
 

オレは
 
 

「…どうしても…聞いてほしいんだ。聞いてくれたら、その後は…オレは何も言わないよ。オレのこと、どう思ってくれてもいいから…どう思っててもいいから、今、聞いてほしいいことがある。言いたいことが、あるんだ…名雪…」
 

「………」
 

「…だから…」
 
 

還らない答え
消えていく言葉

無駄かもしれない
そう、無駄な言葉かもしれない
オレの言うことなど
聞く価値もないことかもしれない
そうかもしれない

でも

オレは言いたい
オレは言わなきゃならない
言わなきゃならないから
今度こそオレは
 
 

「…リビングで、待ってるから…」
 

「………」
 

「…お前が降りてくるまで、オレ、待ってるから…」
 

「………」
 

「…待ってるから。ずっと待ってるから…」
 

「………」
 
 

「……待ってるからな。」
 
 

たとえ、今日が終わっても
たとえ何日経っても
たとえそれが
7年でも
 

オレは待たなきゃならない
待っていた少女のために
オレを待っていた少女
オレを7年待ち続けた少女のために
オレは
 

オレは
 

『約束……だよ…』
 

それは小さな約束
小さな女の子と交わした、小さな約束
冬の夜の夢のような約束

だけど

それは大きな約束
少女を縛りつけ
7年もの間
縛りつけた

そして
オレにとってもそれは
 

「………待ってるからな、名雪…」
 
 

待っているから
オレは
 

静かな廊下を、オレは歩いた。
名雪の部屋の前から、オレは階段へと歩いて
 

昼近い陽は、わずかに窓からさしていた。
廊下はほのかに明るく、ほのかに暗くって
オレは
 

階段をゆっくりと降りて
わずかに音をたてて
オレは
 
 
 
 
 

パタン
 
 
 
 
 

オレは
 
 
 
 

振り返った
階段の上を見あげた。
 
 
 

「………」
 
 
 

見上げた

窓から射す白い光
照り返しを浴びて

見上げた廊下
階段の上

オレは
 
 

「………名雪…」
 

ピンク色のパジャマ
赤い半纏を羽織った少女

真っ赤に染まった大きな瞳
オレを見下ろして

見つめて
 

揺れて
 
 

「………」
 
 

何も言わない唇
オレを責める言葉もなく
オレを呼ぶ声もなく
ただ

黙ってオレを
 
 
 

「……名雪…」
 
 

もう一度、オレは呼ぶ
少女の名前
オレを見つめている
真っ赤な瞳の少女

オレのいとこ
オレの
 

約束
 
 

「………」
 
 

それ以上、言葉はなかった。
それ以上、今のオレには
 

オレはただ、頷いた。
そして

階段を降りた。
ゆっくり
ゆっくり
 
 
 

ゆっくり
階段を降りて
 

廊下を抜けて
 
 
 

歩いていった
後ろも向かず
何も言わず
ただ
 

歩いた
歩いていった

そして
 
 
 
 
 
 

立ち止まった。
 

オレは立ち止まった。
白い光景の中
白い雪が積もった景色の中で

雪が一面の地面を覆っていた。
わずかな木々の上にも、雪は積もっていた。
その雪に昼の陽射しが輝いて

オレは思わず目を細めて
目を細めたまま、立ち尽くして

立ちつくした

わずかに風の音
雪の木々を揺らす風
かすかな音が
 

そして
 

雪を踏む音

それは
 
 

「………」
 
 

かすかに息を吐く音
白い息を吐く

昼の陽射しもあたりの寒さを追い払うことはなかった。
吐く息はオレも白くって

白い
 

雪の中をオレは歩きだした。
すぐ後ろを歩く足音とともに歩いた。
雪の中をただ歩いて
 

「………」
 

オレは振り返った。
 

「………」
「………」
 
 

正面に立つ、少女の目を覗き込んだ。
何も言わない少女
オレがよく知っている
オレが忘れていた
少女
 

名雪
 

「…名雪…」
 

オレは呼んだ。
少女の名前
 

それは呪文の言葉
夢から覚める呪文
一つの約束
 

『…約束……だよ…』
 

雪を被ったままつぶやいた少女
今は面影もほとんどないけれど
あの冬の夜の小さな少女に
オレは
 
 

ポケットからマッチを取りだした。
 

「………」
 
 

名雪は何も言わなかった。
ただオレのすることを見ていた。
ほとんど光の見えない瞳
ぼんやりとした瞳で
オレを

オレはその場にしゃがみこんだ。
そのマッチの火を、傍に置いてある新聞紙の束に近づけた。

マッチの火は紙に燃え、大きく燃え上がり
オレはその火に木切れを載せていった。
風に揺れる火の中に、木切れを一つづつ
少しずつ
一つづつ
燃える火の中に入れて
 

燃え上がる火は雪の上、赤く炎を上げた。
オレの目の前に真っ赤な炎を上げて
 

真っ赤な炎
 

名雪の瞳
 

見上げると、名雪の瞳に炎が映っていた。
ぼんやりとしたその赤い瞳に、焚き火の炎が赤く
揺れて
 

赤く
 

揺れている

 
 

その瞳を見ながら、オレは立ち上がった。
名雪の真っ赤な瞳を見つめながら
 
 
 

「……約束……だったよな。」
 
 

オレは取り出した。
それをポケットから取り出して
 
 

「……これに誓った…」
 

「………!」
 

名雪の真っ赤な瞳
光が戻ったその瞳が、オレの掌の上を見つめた。
オレの掌の上
白い小さな

白い
 
 
 

人形、欲しい…』

『あの人形…』
 

クレーンゲームのガラスの箱
この人形はあった
ほんの気楽に言っただろう少女の言葉に少年が
愚かな少年がこの人形を取って

愚かにも

愚かな
 
 

『………あゆっっっっ!!!!!』
 

『ゴトッ』
 
 

愚かな少年
愚かだった
少年の前で
 
 

『……忘れないで。約束…だよ。絶対、絶対に忘れないで…』
 

泣いていた少女
小さな約束

小さな
でも
 

『約束……だよ…』
 

それは大きな約束
一人の少女を縛りつけ
7年もの間
縛りつけて

一人の少年を本当は
本当は
オレを
 
 
 

「……ゴメンよ、名雪。遅くなって…」
 

「………」
 

「……約束…何度も破って…泣かせたけど、オレは…」
 

「………」
 

「………だから…」
 

オレは名雪の瞳を見つめながら
揺れる真っ赤な瞳
オレを見つめている大きな瞳を見つめながら
 

「………こうするよ」
 

手を
 
 
 

「………あっ」
 
 
 

小さな白い人形
オレの手を離れ

ゆっくりと
ゆっくりと
真っ赤な炎の中に

燃える焚き火の中に

白い
 

赤い
 

白い
 
 
 

「………名雪…」
 

「………」
 
 

赤い
 

名雪の瞳の中
大きな瞳の中で

白い小さな人形
7年間の約束
人形の姿が
 
 

布で出来た人形は、すぐに炎に包まれた。
白い小さな人形は、真っ赤な炎の中
その姿は
 
 

「……祐一、何を…」

「…名雪…」

「…燃えちゃうよ、人形…燃えちゃう…燃えちゃう」

「……名雪…」

「……燃えちゃうよっ!」
 

名雪は手を
手を炎に伸ばした
伸ばした手
 

オレは
 
 

「……名雪…いいんだ。」

「……祐一っ」

「……これが…結論、だから。これが…」
 

オレは名雪の腕を掴んでいた。
名雪が伸ばした手を掴んで
 

名雪は顔を上げた。
揺れる瞳でオレを見上げた。
 

「…祐一…」
 

「……最初から、こうするべきだったんだ。オレは…」

「………」

「…帰ってきた時…この街に帰った、その日のうちにでも…すぐにでも、オレは…」

「……祐一…」

「……オレは…」
 

オレは名雪を見つめた。
オレを見上げている名雪
7年前は三つ編みの小さな少女だった
オレの思い出の中の少女
オレは見つめながら
 

「…こうする…べきだったんだよな。なのに…オレは…」

「………」

「…オレは忘れてしまってた。全部忘れてしまってた。あの冬のこと…あの夜の約束までもオレは、忘れていた…」

「……それは…」
 

名雪は首を振った。
オレを見つめたまま、小さく首を振って
 

「…しょうがない…よ。だって、あんなこと…祐一は…」

「……いや、そうじゃ…ない。」
 

オレは名雪に首を振った。
あの冬の夜の少女に
あの冬の夜にオレを救った少女に
 

「…オレは…あの約束で、救われてたんだ…」

「………」

「オレは…悲しかった。オレが殺したと思った。オレが大好きだった少女を、オレが…って。だから、オレは…」

「……それ…は…」
 

「…でも、そんな時、一人の少女がしてくれた約束が…オレを救ったんだ。」
 

そうだ
あの約束
あの冬の日の約束…
 
 

『分かってるよ。祐一…もう、この街に来ないんだ…あの子の思い出のあるこの街に…還らないつもりなんだ。そうなんだ…そうなんでしょ?』
 

そうだ
オレは還らない
還れるわけがない
オレが殺した少女
オレが好きだった少女の思い出のある街に
オレは
もう二度と
 

『でも、もしも…もしもでいいから…』
『いつか、忘れられたら…あの子がいなくなったこと、忘れて…悲しくなくなったら、そしたら…帰ってきて。そしたら…この天使の人形、わたし…燃やすから。あの子の思い出と一緒に…』
 
 

そうだ
オレは忘れたい
全て忘れてしまいたい
なにもかも
オレが好きだった少女
オレが殺した少女
この街
この冬
この雪も
何もかも
オレは
 

『そうじゃなくて…あの子のこと、忘れられないって、もう、だからわたしは…祐一、わたしを好きになんてなれないっていうなら…それでも、その時も…帰ってきて。その時は、わたし…この人形を返すから。』
 
 

忘れたい
オレは忘れたい
忘れたくって

忘れるために
 

『だから…わたしがそれまでこの人形、預かっておくから…』
 
 

思い出を
すべてを
オレは
忘れたい
忘れたら
忘れられたら
 

だから
 
 
 

オレは頷いた。
約束した
オレの悲しみも
オレの思い出も
すべて忘れるために
その約束に
その約束の中に
オレは
 

約束の中に
オレの思い出を
オレの悲しみを
オレの絶望を
オレの罪悪感
オレの苦しみ
すべてを
オレは
 

約束した
全てを忘れるために
全てを約束に負わせて
そして
 

名雪に負わせた
オレの重荷を一緒に
負わせて
そして
 
 

『……忘れないで。約束…だよ。絶対、絶対に忘れないで…』
 
 

忘れたい
忘れたかったから
 
 

『約束……だよ…』
 
 

約束して
そして
 

忘れた
忘れてしまった
全て忘れてしまったんだ

オレは
 
 

「だから…」
 

オレは燃える火に目をやった。
燃え上がる火は人形をまたたく間に包んでいた。
白い人形の姿は真っ赤な火の中で
白く

黒く
 

赤く
 

赤い火に包まれて
 

「……こう、しなきゃいけなかったんだよな。だって…」

「………」

「…約束、だったから。」

「……約束…」
 

名雪は目を落とした。
燃える火の中に
その中でみるみる小さくなる人形に
かつて人形であったものを見つめて
 

「……ごめんな、名雪。そして…」

「………」

「…ありがとう、名雪。」

「……祐一…」
 

名雪は目を上げた。
もう火の中には人形の姿はなかった。
ただ燃え上がる炎が
赤い炎だけが
 

「…あの約束が、オレを…救ってくれたから。悲しくって、どうしようもなく悲しくて、苦しかったオレを、あの約束が…忘れることを、忘れていいんだって、そう言ってくれた…オレは思ったから。そう、思えたから。だから…」
 

「……祐一…」
 

「…でもオレは、あいつのこと…あの事件のこと、忘れるだけじゃなく、あの冬を…あの冬の日のこと全て、お前のこと、あの夜の約束も全て忘れてしまった…忘れて、そして、おかげで普通の生活を、何もなかったように出来たんだ…この7年の間。」
 

「………」
 

「……でも」
 

オレは空を見あげた。
青い空に薄く、白い雲の広がる空を。
白い雲へと上がっていく、焚き火からの小さな、かすかな灰を見上げた。
 

「…その間、お前は…約束を忘れないで、ずっと覚えてた…待っていたんだよな。オレが還って来るのを。約束を、果たす日を…」
 

「………」
 

「……オレは忘れていたのに…いや、そんなお前がいたから、オレは忘れたのに。忘れること、出来たのに…お前は…」
 

「………わたしは…」
 

「……だから、オレは帰ってきた時、こうするべきだったんだ。せめて、あの約束を思い出した時、すぐに…こうしなきゃいけなかった。こうして、約束、果たしてお前のこと、開放しなきゃいけなかったんだ。約束から。オレとの約束…オレのために、待っててくれたお前のために。オレのこと、救ってくれたお前のために。」
 

「………」
 

「だって…オレは忘れてたから。あの日のこと。あの悲しみ。あいつの…あゆのこと。オレは忘れてたんだから。お前のおかげで、忘れられたんだから。だから…」
 
 

オレは名雪の顔を見た。
名雪はぼんやりと火を見つめていた。
燃え上がる火を
もう白い小さな天使の人形など見えなくなった火を
ぼんやりと見つめて
見つめて
 
 

その目を上げた
名雪は
 
 
 
 

「…本当は、お前が…燃やすべきだったけど。約束では…本当は。でも…」
 

「………」
 

「…これで、いいだろ、名雪。これで…おしまいにしないか、名雪。あの約束は…」
 

「………」
 

「……あの冬の夜、お前とオレとの約束は、今、こうして…」
 
 

「………」
 
 

名雪はオレを見つめていた。
オレを見つめている瞳
その大きな瞳
真っ赤な瞳
 

『約束……だよ…』
 

あの夜
真っ赤な瞳
白い雪の中
雪明かりに真っ赤に染まっていた瞳

オレを映して

揺れて
 
 
 
 

名雪は
 
 
 
 
 
 

「………うん…」
 
 
 
 

頷いた

かすかに
でも
確かに

頷いた
 
 
 

パチッ
 
 
 

その時、爆ぜるような音とともに焚き火の火が崩れた。
わずかに大きな灰が、目の前を舞っていった。
目の前を空へと
舞い上がって
 

舞い上がり
 

白く
 
 

白く
 
 
 

舞い上がっていく小さな灰を、オレと名雪は見上げた。
白い小さな灰
白い小さな
 
 
 

小さな少女と
小さな少年の
小さな
でも大きな約束

オレと名雪の約束
あの冬の夜

オレたちの約束
オレたちの思い出
それは思い出となり
やっと思い出になって
きっと
 

オレたちは空を見あげて
灰の舞い上がった空を見あげて
 
 
 

もうあの頃の少女ではない名雪
もうあの頃の少年ではないオレ
もう
 
 
 

オレは
 
 
 

「…オレは…」
 
 
 
 
 

目を名雪に落とした。
その大きな瞳を見つめながら
ゆっくりと
 
 

「……名雪、オレは…」
 
 

最初から、一つしかなかった
オレが名雪に言える言葉
オレが言いたい言葉
それを
 
 

口にした
 
 
 
 
 
 
 
 

   ぼくは思い出したから
   だから
 

   ねえ

   今…行くからね

   ボクはきみを追って
   きっと行くからね
 

   だから
   待っててくれないか
   お願いだから
   ボクにチャンスを
   ボクに
 
 

   ねえ…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

何をしたらいいんだろ
どうすればいいんだろ

道を歩きながら、ボクはそんなことばかり考えてた。
だって

ボクには分からない
もう分からないよ
だって

決めたのに
ボクは決めたのに

元気になって
きっと元気になって
みんなに心配かけないように
笑ってるって
笑ってもらおうって
決めたのに
きっと決めたのに
 

なのに
それなのに
 

『…あゆちゃんが辞めるくらいなら、わたしが…辞めるから。わたしのしたことで、そんなことになるなら…』
 

香奈美さん…
 

『…ごめんなさいっ、お姉ちゃん…ミイ…ごめんなさぁいぃ……』
 

ミイちゃん…
 
 

ボクは決めたのに
決めた

なのに
 

ボクは困らせているのかもしれない
みんなを困らせているのかもしれない
ボクが
 

決めたのに
決めたらそれで

祐一くんのこと
もういいのに
もういいって
何でもないって
もう

そう思って
そう思えば
それで
 
 

決めたのに
 

決めて
 
 
 

それは
 
 

『…でも、お姉ちゃん…』

『……祐一お兄ちゃんのことは…お姉ちゃん…』
 

それは
そのことは
もう

決めたから
 

『あゆちゃん。祐一くん、きっと…あゆちゃんのこと、まだ好きだと思う。』
 

そんなこと
違う
それは

だって
 

『…そして、あゆちゃん…あなた、まだ、祐一くんのこと…好きなんでしょ?あゆちゃん?』
 

そんなこと
違う
ボクは

決めたから

決めて
 

決めた
 

決めたのに
 

ボク
 

どうしたらいいの?
ボクはどうしたらいいの?
ボクは
 

どうしたいの…
 

ボクは分からない
もう分からないよ
もう
 

園には帰れない
帰りたくないよ
帰ったら
 

商店街には行けないよ
あの商店街
百花屋があって
ひょっとしたら
 
 

ボクはどうしたらいいの?
どこに行けばいいの?
学校が終わっても
ボクは
 

空は青くって
街は白くって
風は今日も冷たい
だけど
 

ボクはどこにも行けない
どこに行けばいいの?
どこにも行きたくない
でも
どこかに行きたくて
 

学校の門を抜けても、行くとこなんてない
明美ちゃんたちの顔も、見ていられなくって
だって

何にも言わないけど
明美ちゃんは何も言わないけど
でも
目が
 

心配してくれてる
分かってる
分かってるけど
 

どこへ行けばいい?
どこに行こう?
ボクは
 

どうしたらいいのか、もう…分からない。
分からないまま
ボクは学校からただ、歩いていた
歩くうち
 
 

気がつくと

ボクは公園にいた。
昨日の公園にボクは立っていた。
昨日、迷いこんだ公園に、ボクは今日も迷いこんで…
 

見回せば、やっぱり覚えのない公園。
昨日、初めて来た公園。
昨日座ったベンチ
ボクは座りこんだ。
座り込んで
 

公園には今日も誰もいなかった。
冬の公園に来る子供もいないんだろうけど。
こんな公園に来るのは物好きだけだね、きっと。
きっと、ボクみたいな

住宅街の公園は、今日もホントに静かで
木陰に置かれてるベンチは、今日も冷たくて
でも誰もいないから

ボクは座りこんで空を見あげていた。
昨日、見上げた空
昨日は赤かった空
今日は青い空をボクは見上げていた。

見上げて
 

涙は出なかった。
ただ分からなくって

どうすればいいのか
ボクはどうしたら
ボクは
 

ボクはどうしたいんだろ?
ボクはどうしたくって

ボクは
 

ボク
 

ボク、ホントは…
 
 
 
 
 

「……待ちなさい、しおん!」
 

…え?
 

「にゃ〜〜〜ん」
 

どかっ
 
 

「痛たたたたた…」
 
 

背、背中に…
なにっ?
なんか、爪、みたいのが…
 

「こらっ、しおん!何してるの?」
 

「にゃ〜〜ん」
 

うぐっ
痛いってばっ
爪たてるなよ
もう…
 

「こら、しおん!」

「にゃ〜〜ん」

ぼくは頭の上、載ってきたしおんを捕まえた。
ちょっと暴れるしおんの尻尾、目の前を…

…あはは。くすぐったいぞ、しおん。
ちょっと重くなったかな?
うん。元気そうだね。

「…びっくりしただろ、しおん」

「にゃ〜〜ん」

「あははは」
 

頭の上、しっかり載っちゃった。
ボクはそんなしおんの背中、そっと触っていると
 

「…すいません、この子が…」
 

駆け寄ってきた女の人が、ボクの前に立った。
今のしおんの飼い主。
香里さん…
 

「……あゆちゃん」
 

「こんにちは。香里さん。」

「……こんにちは。」
 

香里さん、なぜかボクの顔を見ながら、ちょっと口ごもった。
…どうか、したのかな…

…そうか。
そうだよね。
香里さん、名雪さんの友達だし…祐一くんとも同じクラスだし。
だから…
 

「……えっと…」
 

「……やっぱり…あゆちゃんは特別なのね。」
 

言いかけたボクに、ふっと香里さん、笑って

「しおん…ここまで懐いてるのは、あゆちゃんだけだわ。」

「……そうなんですか?」

「ええ。うちでも、まだわたしくらいしかゆっくり抱いてられないのに…あゆちゃんには、ほら。もう頭に乗っかっちゃって。」

「…あははは」

「…ホント…懐いて…」

「………香里さん…?」
 

香里さん、またボクの顔をぼんやり、見つめていた。
…何だろ…

えっと…
 

「あ、あの、香里さん?」
 

なんだか変な感じだから、ボク、あわてて
 

「え、えっと…散歩ですか?」
 

「……え?」
 

香里さん、ちょっと目をぱちくりしながらボクの顔を見なおした。
 

「…あ、いいえ。違うわ。」

「そうなんですか。

「ええ…」
 

と、香里さんの顔、急に曇った。
そして、ボクの顔をじっと見つめた。

「………」
「………?」
「………」

…香里さん、ホウッと白い息をついた。
それから、ボクを睨むように

「……名雪の家に、行こうと思って。」

「…名雪…さん?」

「ええ…」

香里さん、また一つ、息をついた。
真っ白に凍った息で、香里さんの顔が曇ったみたいに
そのまま香里さん、ボクを見下ろすように見つめながら

「…あの子…今日、休んだから。」

「……え?」

「……昨日は…学校に来たけど、一昨日も休んでたから…」

「………」

「………そして、それは…病気のせいじゃない。それは…あなたにも分かるでしょう、あゆちゃん?」

「………」
 

名雪さん…
 

『もう、祐一の前に現れないでっ!顔を…姿を見せないでっ!近付かないでよっ!!近付いたりしないでっ!!』
 

ボクが名雪さんに会ったのは
あの夜
あれが、最後…
 

『許さない…これ以上…許さないからっ!』
 

泣いていた名雪さん。
ボクを睨んで泣いていた。
あの長いきれいな髪、乱れてた。
きれいな、ホントにきれいな顔、くしゃくしゃにして、ボクを…
 

「………」

「………」
 

香里さん、ボクを見下ろしていた。
ボクの目を…まるで突き通すみたいに見つめて
 

…あたりまえ、だよね…
香里さんも、ボクのこと…怒ってるんだ。
あたりまえだよね。
ボク…
 

ボクが…
 

「……でも、名雪に同情ばっかり、あたしはしてないわ。」

「……え?」
 

…香里さん?

ボクが見上げると、香里さんはボクを見つめたまま、小さく首を振った。
 

「だって、あなたたち…名雪も、相沢くんも…あゆちゃん、あなたも…みんな、悪いんだから。みんな、自分勝手で…勝手に落ちこんでるから。だから…」

「………」

「…だから、あたしは…名雪にも、同情ばっかりしてあげたりはしなかった…相沢くんは、突き放したわ。あなたは卑怯だって、あたしは責めさえした。だって…」

「………」

「……だから、あゆちゃん、あなたにも、あたしは…」

「………」

「……あたしは」
 

香里さん、ボクの顔をきっと睨んだ。

ボクは
 

でも
ボクは
 

あたり前だよね。
分かってるから。
ボク…
 
 

「……そうですね。ボクも…悪いんですよね。」
 

「………」
 

「だから、ボク…」
 
 

…ミイちゃんも
香奈美さんも

名雪さんも

ボクのせいで
ボクは
 

ボク…
 
 
 
 
 
 

「…痛たたたっ」
 
 

し、しおん、爪立てないでよっ
頭、痛いよっ
 

あわてて、ボクはしおんを頭から下ろした。
しおん、ボクの腕の中でちょっと暴れて

「こらっ!もう…しおん!」
 

ボク、しおんを叱りながら立ちあがった。
そして、しおんを香里さんに手渡した。
香里さんはボクから黙ってしおんを受け取って
それから
 

「………」
 

香里さん、しおんと…ボクの顔を見て
そして…
 
 
 
 
 
 
 

「……はぁ」
 
 
 
 
 

白い息をついた。
大きく、白い息をついて
 

「……あゆちゃん。」

「……はい」

「そこ…一緒に座って…くれる?」

「…え?」
 

言った時にはもう、香里さんはベンチに腰を下ろしてた。
ボクの手からしおんを受け取ったまま、ベンチに座ってしおんの顔、じっと見てた。
 

「えっと…」

「………」

「………」
 

ボクは香里さんの隣に座った。
香里さんの顔、真剣だったから。
しおんを見つめて…
でも、真剣だったから。

香里さん、そのまま黙ってしおんを見ていた。
しおんは香里さんの膝の上、顔をなでると香里さんの顔を見上げて、ちょっと首を傾げた。

「……ねえ、あゆちゃん?」

「……はい」

「……この子…本当に、ひょっとして…」

「……はい?」

「…………」
 

香里さん、一瞬、黙った。
じっと子音の顔、覗き込んだ。
 

「……そんなはず…あるわけないわね。」

「……え?」
 

と、香里さん、顔を上げると息をついた。
白く、長い息を吐くと振り返って

「……あなた…栞、覚えてる…って言ってくれたわね?」

「…はいっ!」

ボクは頷いた。

「ボクの…友達ですから。」

「………」

「………」

「……そう…」

香里さん、また黙った。
そして、しおんの頭をそっとなでた。

「…だから…かしらね。なんだか…」

「………」

「……本当は、あたしはね、あなたに…もっと言ってやるつもりだったの。勝手だって…相沢くんのこと、名雪のこと、どう思ってるんだって。だって…」

「………」

香里さん、ボクの顔を見た。
ボクの目をじっと覗き込むように見て

「…あの子…相沢くんと、約束したんだって。」

「……え?」

…約束…?

「……やっぱり、知らなかったのね。」

香里さん、ボクの顔を見ながらホウッと息をついた。
真っ白な息をついて、香里さんは小さく首を振った。

約束って……

「……何の約束、ですか?」

「………」

香里さん、目を落とした。
膝のしおんの頭をなでた。

「あなたが…事故に遭った日、その…夜。あなたが落ちたこと…それで死んだと思って悲しんでた相沢くんと…相沢くんのこと、名雪は好きだったから。その頃から、あの子、彼のことが好きだったから。だから…」

「………」

「…だから、約束した。あの子…あゆちゃんのこと忘れたら、帰ってきてって。ううん、忘れられなくっても、帰ってきてって。でも、その結論を…名雪に教えてくれるように。もしもあなたのことを相沢くんが忘れられなかったら、そしたら、名雪は約束の人形を彼に返す。でも、もしも彼があなたのこと、忘れられたら…その時には…名雪がその人形を燃やすって。」

「……人形?」

「ええ。」
 

香里さんはボクの顔を見た。
そして、小さく、頷いた。

「小さな、天使の人形…そう、名雪は言ってたわ。でも、それだけは見せてくれなかった…約束の人形だからって。人には見せられないって…」

「……人形…」
 

…天使の人形
小さな、天使の…
 
 

『人形、欲しい…』

言ったのは…ボク。
明るいガラスの箱の中、白い、小さな…

『あの人形…』

ボクは欲しかった。
なぜか欲しかった。
どうしてかは…覚えてない。
覚えてないけど…
 

『だったら、やってみるか?』
 

そう言って
ボクに笑ってくれた人が
 

ボクに
 
 

あれは…
 
 

「…天使の、人形…」
 

「……ええ。」
 

そう、あれは…
きっとそうだ。
あの人形…
 

でも、どうして…
 

「……その人形は、相沢くんがあの日…あなたに上げるつもりで持ってたものらしいわ。相沢くん、泣きながら…ずっとその人形、握りしめていたんだって。握りしめて、街をさまよいながら…でも、ずっと握りしめてたんだって。」
 

『…あっ』
 

『…祐一くんっ!』
 
 

あの時
祐一くんは何かを落として

手を伸ばして

だからボクは
 
 

あれは
 
 

もしかしたら

あれが
 
 

「……あの、人形…」
 

「……それが、あの子と相沢くんの…約束の人形なんだって。名雪は言ってたわ。『それがあるから、わたしは祐一を待てるんだよ』って…」
 

名雪さん
 

人形
 

約束
 
 

『許さない…これ以上…許さないからっ!』
 
 

だから…だったんだ
だから、名雪さん、あんな…
 

『だから、ずっと待ってた…待ってたんだよっ!約束、信じて…待ってたのに…なのにっ!』
 

だからボクのこと
ボクを
 

『祐一の罪悪感につけ込むのは止めてよっ!そんなの…ひどいよっ!!卑怯だよ、あゆちゃん…あゆちゃん!!』

『もう、祐一の前に現れないでっ!顔を…姿を見せないでっ!近付かないでよっ!!近付いたりしないでっ!!』

『許さない…これ以上…許さないからっ!』
 
 

だから…
 
 

ボク、ずるい…んだ
ボクは祐一くんに

ボクは
 
 

やっぱり
ボクは…
 
 
 

「…でも、あたしは名雪に言ったのよ。あなたは…あゆちゃんは、相沢くんが忘れたのをいいことに近付くような、そんな子じゃないんじゃないかって。」
 

「……え?」
 

ボク、香里さんの顔を見た。
香里さんの言ったこと、よく、分からなくって…

…香里さん、どうして…
 

「……だって、あたしが知ってるあゆちゃんは…そんな子じゃないって思ったから。きっと…何か事情があるんだって思ったから…」

「……香里さん…」

「…そしたら、名雪、すごく怒って…次の日、学校休んだわ。だから…あたしも同罪なんだけど。あの子が落ち込んでることに関しては…」

「………」
 

香里さんはしおんの頭をなでながら、一つ、また息をついた。
そして、ベンチの背にもたれ掛かると、空を見あげた。

ボクは何も言えないまま、香里さんを見ていた。
香里さんの顔、見てるだけで
 

どうして…そんなこと?
香里さんは、名雪さんの友達で…
ボクとは1回しか、まともに話したこともないのに…
 

「……どうして…」
 

ボク、思わずつぶやいていた。
 

「………」
 

香里さん、顔をボクの方に向けた。
そして、ボクの顔、じっと見つめた。
 

「……どうしてかしらね。」

「………」

「…名雪には、そう…言えた。相沢くんにも、卑怯だって言った。だから…」

「………」

「……だけど、あなたには…」

「………」

「……なんでかしらね。あたしは…」

「………」
 

香里さん、ボクの顔をじっと見つめた。
ボクは黙っていた。
香里さんの顔をじっと見つめかえしてた。
 

「………あの子、かしら。」

「……え?」

「………栞」
 

香里さんはその名を言うと、かすかに笑った。
口の端で、だけど…笑ってボクを見た。
 

「…あなたが…栞の友達だから、かしら。」

「……栞ちゃんの…」

「…そうね。きっと…そうね。だって…」
 

と、香里さんは空を見上げた。
ベンチの背にもたれたまま、ホウッと白い息を空に向かって吐いた。
 

「…あなた、見てると…栞のこと、思い出すもの。それも…」

「………」

「…あの時の、栞を。あたしの…罪悪感…」

「……香里さん……?」
 

香里さんは片手で目を覆った。
そのまま、ゆっくり目をぬぐうとボクに向き直って
 

「…あの子の写真、覚えてる?家に来た時、見た…」

「…香里さんと一緒の写真ですか?」
 

ボクが言うと、香里さんは頷いた。
 

「…そう。あの子の…たった一人の入学式。中学の…」

「………」

「……でも、あの時には…もう、あの子の命はもうすぐ…あたしは知ってたの。それを知ってたの。その数ヶ月前…クリスマスの日、父に聞いて知ったのよ…」
 

香里さんはボクから正面に目を移した。
でも、香里さんの目は、ぼんやり…
 

「…悲しかった。そして…苦しかった。あたしには…悲しくって、苦しくって…あの子を見るのが、どうしようもなく苦しかった。悲しくって…あたしは…」
 

香里さんは低い声で、淡々と
でも
その目は
 

「…だって、あの子は死んでしまう。目の前にいるこの子が…あたしはずっとあの子のために何でもしてきたわ。小さい頃から…体の弱いあの子は、あたしとしか遊べなかった。だからあたしはいつもあの子と遊んでた…何度も入院したあの子のために、両親はいっつも留守…でも、あたしはそれでいいって思ってた。あの子のために…あたしの妹のために、そんなことは我慢できたの。」
「あたしはあの子が好きだった…大好きだったから。いつか、あの子が元気になる…そしたら一緒に学校に行って、一緒に買い物をして、一緒に遊びに行って…恋の悩みなんか、話し合えるようになるって。あたしは信じてた…信じてたからずっと、あの子のことを見て、あの子を…」
「……でも、それは夢だった。そんなのは…あたしの夢でしかなかった。」
 

その目から
涙が
あふれて
 

「この子は死んでしまう。目の前にいるこの子は…もうすぐ死ぬんだって。ねえ…信じられる?目の前にあの子、栞はいるの…でも、数ヶ月もしないうちに、この子はいなくなるの。それは決まってて…誰にもどうにもできない。あたしには、どうにもできない…そんなこと…」

「………」

「…あの子が何をしたの?何か悪いこと、した? ううん。するわけない。出来るわけ、ないじゃない。生れてこの方、悪いことなんてする暇なんてなく、入院と退院を繰り返して、家からもほとんど出ることもできなくって、悪いことどころか、普通の人の普通に出来ることだって、あの子にはほとんど出来なかったのに。なのに…どうして?ねえ、どうして?どうして…あの子が何をしたの?なんで…どうしてあの子が死ななきゃならないの?どうして…どうしてっ!!」

香里さんは叫んだ。
香里さんの目、涙がいっぱいで
こぼれて
 

落ちて
 

「………ゴメンね、しおん。急に大きな声だして…」
 

驚いて膝から地面に滑りおりたしおんを、香里さんはゆっくりと抱き上げた。
そして、右手で顔をなでると、ボクの方に振り返ってかすかに笑った。
 

「……興奮、しちゃった。あはは…」

「………」
 

「……でも」
 

香里さんはすぐに笑うのをやめた。
しおんを抱きしめながら、小さく、白い息をした。
 

「…あたしには分からなかった。ううん…今でも分からないわ。でも、分からなくっても…あの子は死ぬの。あたしにはどうしようもない…誰にもどうしようもなく、目の前で笑ってる栞は、もうすぐ死んでしまうの…」

「……香里さん…」

「……信じられなかったら…せめて、それだったらよかったかもしれない。でも、あたしはあの子といっつも一緒にいた…だから、分かったの。それは本当で…どうしようもなく、信じるしかなかった。あの子は生きていて…でも、もうすぐ死ぬの。それは…間違いなく、事実だった。」
 

パサッ
 

遠くで雪が木から落ちる音がした。
静かな公園の木から、雪が落ちる音が聞こえた。
 

「…悲しかった。ううん、悲しいなんてもんじゃなかった…恐いくらいだった。恐かった。あの子が死ぬことが…悲しくて。でも、それ以上に…自分が壊れそうで、恐かった…」

「……自分が…壊れそう…」

「…そう。あたしが壊れて…死んでしまいそうで。あの子がいなくなったら、あたし…死ぬかもしれないって。ううん、あの子がいなくならなくっても…いま目の前で笑ってる、この子がいなくなる、それを考えただけで…叫びだしそうで、何でもいいから壊してやりたい…何もかも壊してしまいたくって、何もかも壊れてしまえばいいって。目の前の栞が…消えてしまったら…消えてしまう…死ぬの。死ぬんだって…」
 
 
 
 

「……だから」
 
 
 
 

香里さんは言葉を切ると目をつぶった。
 

そして、ゆっくりと目を
 
 

「…だから、あたしは…あの子を消したの。」
 

「……え?」
 

「…あの子を…自分の前から消したの。いま生きているあの子を…あたしは、消すことにしたの。」
 
 

……消す?
どういう意味…
 
 

「……それは…」
 
 
 
 

香里さんは、目をまた閉じた。
それから、ゆっくりと開けると、ボクを無表情に見つめた。
 

「…あの子なんて、もう…いないって思うことにしたの。もう、あの子はいない…思い出にしかいない。目の前にいる栞は…思い出、幻影。ううん、もうあたしは栞なんて、見えない…見えるわけがなかったの。だって、あの子は…もういないんですもの。」
 

「……でも、香里さん…」
 

「………朝起きて、朝食を取る…テーブルには栞はいない。思い出のあの子は一緒にご飯を食べることもある…でも、それは幻。あたしは思い出に言うことなんてない…だから無視して学校に行くの。学校から帰っても、あの子はいない…あの子の部屋に電気がついてることはある。でも、きっとお母さんが思い出のためにつけたままにしてるだけ…そこには誰もいない。いるわけがない。だって、栞はもういないんだから。」
「あたしは夕ご飯を食べて、お風呂に入ってテレビを見る。あたしはもう一人っ子だから、自由に過ごす。そして、部屋に戻ると、眠る…夢なんて見ないの。だって、目を開けていても夢は見れるんだもの。あの子が生きている夢…でも、それは夢でしかないの。それは思い出でしか。だって、あの子はもういないんですもの…」
 

「…香里さんっ」
 

ボクは香里さんの肩を掴んでた。

香里さん…
ダメだよっ

そんなの…
 

悲しいよ…
 
 

「…ダメだよ、香里さん!そんな…」
 

「……何がダメなの?」
 

香里さんはボクを見た。
立って肩を掴んでるボクを、香里さんはぼんやり、見上げて
 

「…どうせ、早いか遅いかの違いじゃない?どのみち、あの子は死ぬのよ。だから、あたしは…」

「……それじゃ、悲しいよ…悲しすぎるよっ!」
 

「…悲しい?どうして?誰が悲しいの?あたしは…」
 
 

「……悲しいよっ!悲しすぎる…よぉ…」
 
 

「……誰が?」
 
 

香里さんがボクを見上げて言った。
無表情な目で、ボクを見つめた。

ボクは…
 
 

「……可哀想だよ…栞ちゃんが…」

「………」

「……香里さんも…悲しすぎるよ…」
 

「………」
 
 

香里さんの目
ボクは
 

悲しいよ

悲しすぎるよ

ボクには何もできないけど
何も言う資格もないけど
でも
 

悲しい

悲しくって
 
 

「………ええ、そうね。」
 
 

…香里さん?

無表情に見ていた
目が
 

涙が
 

「……両親も、気がついてなんとかしようとした…でも、あたしはかたくなに、栞を消し続けた…それしか、あたしにはできなかった。ううん、出来ないって思ってた。あたしの心を守るには、それしかないって思ってたの…」
 

「……でも」
 

香里さんの涙

しおんを抱きしめて
 

「ある日…あたしは振り返った。テレビを見ながら…一人でテレビを見ているリビングで、あたしは…振り返ったの。あたししかいない…そう思いこんで、思おうとしていたあたしが…その時、振り返ってた。」
「そして…」
 
 
 

「そこに、思い出が立ってた。」
 
 
 
 

香里さんは笑った。
目にいっぱいの涙を溜めたまま、泣いているように
笑いながら
 

「…あの子も、あたしを避けてた。あたしがあの子を消してから。それは分かってたけど…分かっていないことにしてた。消えた栞があたしのことを避けるなんて、そんなことはありえないからって…あたしは…」
「…でも、その日、振り返ったあたしの目には…映った。思い出の…栞が。」
 

「……思い出の…栞ちゃん…」
 

「…そう。あの子は、思い出になってた。あの子…笑ってた。笑ってあたしを見てた…何にも言わないで、ただ、笑ってた。うれしそうな笑いじゃなくて、ただ…あたしを見て、そして…」
 

「あの子の目が、笑ってた。悲しそうに…でも、笑ってた。『お姉ちゃん、ゴメンね』って。『いままでありがとう』って。そして…『いいんだよ』って笑ってた。あの子の目が、顔が…」
 
 

「…あの子は、あたしを赦してた。赦して…笑って。あの子は思い出になってた。あたしを赦してた。あたしの思い出に、自分からなろうとしてたのよ…」
 
 

香里さん


 

泣きながら
 
 

「…どうしてそんなことが…出来るのかしらね。自分を勝手に消した…無視してる姉に向かって…そんな姉をどうして赦せるのかしらね。どうして…」
 

香里さんは小さく首を振った。
涙が、しおんの上にぽろぽろ
ぽろぽろ…
 

「…どうしてそんなこと、出来るのかしらね。そんな妹のこと…大好きな、愛してる妹のこと、そんな思いをさせて…消してしまおうなんてこと、どうしたら…出来ると思う?ねえ、あゆちゃん…」
 

何も言えなくて
ぼくはただ香里さんの顔を見てた。
真っ赤な目の香里さんの顔を
 

「…あたしは、栞を抱きしめてた。生きてる栞を。まだ生きてる栞のこと…すがって、抱きしめて、思いっきり抱きしめてたわ。あたしは…あの子は、びっくりした顔、したわ。そして、やっぱりあたしのこと、抱きしめた。ただ、黙って。」
「そして…その夜、久しぶりに二人で、栞の部屋で、遅くまで話をして…それから、手を繋いで眠ったわ。小さな子供のころ以来、ほんとに久しぶりに…栞のベッドで…」

「………」

「…それからは、あたしは…栞と一緒に過ごしたわ。ずっと一緒に…ご飯を食べて、テレビを見て…散歩も、2度だけしたわ。そして…あの子が苦しんでる時は、あたしは…手を握ってた。それだけは、あたしも一緒に苦しんではあげられないから…せめて、それだけ…」
 

香里さんはしおんにほおずりをした。
ボクは
 

悲しかっただろうって
きっと苦しかっただろうって
思った

ボクには
想像しかできないけど
一緒に苦しむこと
ボクにもできないけど
でも

香里さんも苦しんだことは分かる。
きっと、苦しかったと思う。
だって
 

ボクだって
聞いただけで…苦しいんだもん

香里さん…
 

「…それから、夢のように…時間が過ぎていった。越せないって言われてたあの子の誕生日は、なんとか越えられた。そして、あの写真の日…あの子がどうしてもって中学の制服を着た日…あの子、本当にうれしそうに笑ってた…あたしもね、うれしかったわ…」

「…でも、その日の夜。あの子、意識を失って。」
 

さくっ
 

香里さんの腕から、しおんが地面に飛び降りた。
しおん、香里さんを見上げると、首を傾げて顔を撫でた。
香里さんはそんなしおんのこと、見ていないみたいで首を振ると
 

「…分かってた。もう、あの子は…起き上がることもできなくなってたから。今度意識を失ったら…ダメだって言われてたから。だから、覚悟はしてたの。もう覚悟は…してるつもりだった。なんとか、あたしにも…」

「…でも、そんなの、できなかった。あたしはあの子のベッドの横で、あの子の顔を見ながら、目を開けないあの子を見ながら…必死で祈ってた。何度も祈ってた。どうか、この子を…助けてくださいって。栞を死なせないでって。あたしたちから、この子を奪わないでって。何度も、何度も…ずっと祈ってた。ずっと…お願いだから、せめて、せめて…もう一度だけでいいから、目を開けさせてって…」
 
 
 
 

「そしたら…三日後に栞、目を…開けたわ。」
 
 

香里さんは言葉を切った。
真っ白な息をゆっくり、ゆっくり吐き出した。
 

「…その時、そばには偶然、あたし一人しかいなかった。お父さんもお母さんも…みんな用事があって、あたし一人が病室にいた。あたしは…ぼんやり栞の顔、見てた。詩織が意識を失ってから、ずっと…ほとんどで寝てなかったから。だから、あたしはただベッドの脇のイスに座って、ぼんやりあの子の顔、見てた…」

「その時、あの子の目が、ゆっくりと開いたの。」
 

香里さんは空に顔をむけたまま、目を閉じた。
 

「あたしは…何も言えなかった。とっさに、何も言えなかった。ただ、あの子の顔、見てた…」
「あの子は目を開けた。それから、2、3度、瞬きをして…あたしの顔を見た。そして、言ったの。『お姉ちゃん』って。あたしは…」
「あたしは、それでも何も言えなかった。ただ、頷いただけ。あの子の顔、見ながら、頷くだけしか…できなかったの。ただ驚いて…うれしかった。あの子の目が開いてる…口をきける。それだけで、もう…」
「そんなあたしに、あの子、もう一度言ったわ。『お姉ちゃん』って。そして…」
 

香里さんは体を起こすと、ボクの方、向いた。
ゆっくりと目を開けて…
…真っ赤な目だった。
真っ赤な、ホントに真っ赤な、目…
 

「…あの子、言ったの。『わたし、もう…死ぬんだね。』って。」
 
 

「……栞…ちゃんが…」
 
 

「…ええ。もちろん、誰もあの子にそんなこと、言ってない。あとどのくらい生きられるのか…そんなこと、あたしには言えなかった。両親も、みんなも黙ってた。知ってて、あの子には黙っていたの。でも…」

「…あの子だって、バカじゃないもの。とっくにそんなこと、知ってたと思う。だけど、あの子、何も言わなかった。それまで、何も言わないで…いつだって、笑ってた。元気になったら…そればっかり言って、そんなこと、おくびにも出さなかったの。一度も…あたしの前で一度もそんなこと、言わなかった。なのに、この時になって…」

「あたしは、何も言えなかった。もう、何にも言えなかった。ただ、あの子の顔、見てるだけ。そして、思ってた。祈ってた。願った…どうしてこの子が?ねえ、どうしてって…」
 
 

「そしたら、あたしを見ていた栞の、その顔が…みるみるうち、くしゃくしゃになって、そして…」
 
 

「大きな目からぼろぼろ、ぼろぼろ、涙がこぼれた。あの子、泣いてた…泣きながら、言った…『お姉ちゃん、わたし…死にたくないよ』って。『死ぬの、恐いよ』って。そして、泣きながらあたしに手を伸ばして…泣きながら、『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って……」
 
 

香里さん、真っ赤な目からぽろぽろ、ぽろぽろ涙こぼして
ついてた手、ギュッて握りしめていた。
ぶるぶる、肩が震えていた。
 

…香里さん…

香里さん…
 
 

「…あたし、すぐにあの子の手、しっかり握った。そして、あの子の頭、ギュッと抱きしめたわ。」
「何も言えなかった。何にも言えなかったけど…抱きしめてた。抱きしめて、あの子の背中叩いて、ギュッて抱きしめてたわ…あの子が泣いてる間、ずっと…」
 
 

香里さんは
 

笑って
 
 

「…あの子、泣いてくれたの。あたしの前で…あの子、絶対泣かなかった。いっつも笑って…困らせることなんか、絶対言わなかったあの子が、あたしの前で泣いて、あたしにわがまま言って、泣いてくれた…泣いてくれたの。あの子…あの子は…」
 

香里さんは笑ってた
ボクに笑っていた

目からぽろぽろ涙をこぼしながら
香里さんは笑って
 
 

「…それがあの子の…あたしへの最後の言葉。その後、両親たちが来て…みんなと少し話して…あの子、その時にはもう、笑ってた。笑って…」

「…しばらくしてもう一度、あの子、目を閉じて。そして…」
 
 
 

「…二度と、目を開かなかったわ。そのまま、三日後にあの子、息を…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

栞ちゃん
 
 

きみはそうだったね
ボクと一緒にいた時も
いつもそうだったね
 

どんなに辛い治療でも
どんなに苦しい発作でも
きみはちょっとだけ困った顔をして
でもいつだって泣いたりしなかった
わがまま言ったりしなかった
文句を言うこともなかった
いつもみんなを励ましてた

ボクはきみが好きだった
大好きだったよ
尊敬してさえいたんだ
そんなきみのこと
ボクは
 

でも
きみも泣きたかったんだね
泣きたいときがあったんだね
泣ける人がいたんだね
きみは泣けたんだね
泣きたかったきみは
 

よかったね
こんなこと言うのはおかしいかもしれないけど
よかったね

ねえ、栞ちゃん

ボクは思うんだ
思ってるよ
そして
 

ボクはきみが大好きだった
ホントの友達だったよね
 

だからボクは

ボクは
今だって
 
 
 

「……ねえ、あゆちゃん…」
 
 

「……はい」
 
 

顔、上げたら香里さんの顔、ぼんやりぼやけてた。
ボク、あわてて手で目、ぬぐったけど
 

「……はい」
 
 

「…あゆちゃん…」
 
 

香里さんの顔、またぼやけた。
すぐにぼやけて
何度もぬぐってもぼやけちゃって
 
 

「……栞はあなたのこと、一番の友達だって言ってたわ。あなたは…栞のこと…」
 

「…もちろん、友達です。一番の…友達でした…」
 
 
 

「……ありがとう。」
 
 

香里さん、頭を下げた。
ボクは涙、ぬぐうので精一杯で
ボクは
 
 

「…ねえ、あゆちゃん。」
 

「……はい」
 

「…もしも…もしもでいいんだけど、もし出来たら…あの子のこと、ずっと忘れないでいてくれる?できるだけ…できれば忘れないで、ずっと思い出にしてやって…くれる?ねえ…あゆちゃん…?」
 
 
 

「……もちろんですっ」
 
 
 
 

ボクは涙を拭いて、首を思いっきり振った。

ボクが忘れることはない
きっと忘れない

ボクが病院で辛かった時、一番の友達でいてくれた人
栞ちゃんのこと
ボクは…
 
 

「…きっと…ううん、絶対忘れません。ぼく…忘れませんからっ」
 
 

「………ありがとう。」
 
 

「……忘れないですから…」
 
 
 

ボクは忘れない
忘れないから…
 
 
 
 

「……ありがとう。あゆちゃん…」
 
 

香里さんは涙を拭いた。
そして、にっこり笑った。
 

「…あはは。もう、あたし…こんなに泣くこと、ないのにね。もう…あの子は思い出になって…あたしの思い出になって、あたしの中にいるんだから。あなたの中にあの子が、いい思い出になって生きてるみたいにね…ね?」

「……はい…」

「……じゃあ、これでおしまい。」
 

香里さんは言うと、一つ、大きく息を吸って
 

「あたしが言いたいのは…それだけ。あたしがあゆちゃん、あなたに言いたい…言いたかったのは、それだけよ。」

「……え?」
 

もう一度、涙を拭いて見上げると、香里さんはもう、笑ってなかった。
ボクの顔、じっと見つめてた。
 

「…あなたにも、名雪にも…相沢くんにもね。言いたいのは…それだけなのよ。こんなこと、あの二人には話さないけど…」

「……香里さん…」

「…なのに、あなたには話しちゃったわね。どうしても、あなたには辛く当たれない気がして…こんなことまで、話してしまったわ。なんでかしらね…ね、しおん?」
 

香里さん、手を伸ばして足下のしおんを抱き上げた。

「……にゃ〜あ」

しおん、鳴くとポンっと香里さんの手から飛び出しちゃって
そのまま、ボクの膝に載ると
 

「……にゃ〜〜〜〜ん」
 

「……もう、しおん…」
 

香里さん、ちょっと顔をしかめるとボクに肩をすくめた。
 

「…これじゃ、どっちが飼い主なんだか分からないわね。ねえ、あゆちゃん?」

「……あははは」
 

ボクは思わず、笑った。

ううん、ホントは…笑ってみせた。
まだホントには笑えなかったけど…
香里さんが笑ってるから、ボクも笑ってみせた。
 

「………ふふっ」

「………あははは」
 
 

「にゃ〜〜〜ん」
 

見上げるしおんの顔、ボクたちは見つめて

笑ってた。
笑いながら空を見上げた。
 

まだ昼の空には白い雲が薄くかかっていた。
ボクと香里さんは白い息を吐きながら、白い空を見上げていた。

ボクたちは
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「…こりゃ…雪かな。」

空を見上げたオレは、思わずつぶやいていた。
木々のすき間から見える空は、もう…暗かった。
まだ夕方…いつもなら夕焼けのころだというのに、もうあたりはすっかり暗くなって、もともとくらい森の中はもう足下も定かには見えない。
こうして歩いていても、足下の雪はこの間歩いて固めたはずなのに、もうすっかり柔らかくなって…
 

ズボッ
 

「うわっ」

…思ってるそばから…これだ。
右足が柔らかい雪の中に突っ込んでしまっていた。
思わず、ため息をつきながら、オレはなんとか足を雪の中から引き抜く。
そして、背中に担いだリュックから、懐中電灯を取りだした。
…もうこれを使う羽目になるとは…思ってなかったのに。

だいたい…このリュック自体、結構痛手だった。
この街にはマシなディスカウントショップってものがないんだからな。
こんな物に3千円も使う羽目になるとは…

…いや。何よりの痛手は…
 

オレは懐中電灯であたりを照らしながら、ゆっくりと歩きだした。
暗くなった森の道を、その小さな灯を頼りに、オレは歩きながら
 

…この間やった時は、あゆが一緒だったから…だからだと思ってたのに。
それが…今日も結局、3千円も使ってしまうし。
おかげで、使い捨てカイロが思ったより買えなかったからな…
もしも、おかげでオレが凍死したら、それは…
 

「……はあ」

思わず、ため息。
吐く息も海中電灯の明かりに、真っ白に凍って…
 

…ていうか、別に…あれじゃなくてもよかったんだけどな。
でも…

…あいつがほしいって言った物、あれだけだったし。
それに…
 

バサッ
 

音にびっくりして明かりを向けると、そこには…木から落ちた雪。
風に枝から落ちた雪が、音をたてて落ちたらしい。
びくついてる自分に、思わず、オレは苦笑い。
 

…はあ。
マジで…凍死したらどうなるんだ?
誰か…見つけに来てくれるのかねえ…
秋子さんは…オレが今日は帰らないって言っただけなのに、何にも言わずにただ『はい、行ってらっしゃい』だし…
説明したくなかったのはホントだけど、さすがに…これにはびっくりしたぞ、オレも。
あの人は、何にも考えてないんじゃないのか?マジで…

いや、ひょっとしたら、何もかもお見通しなのかもしれない。

オレは秋子さんが玄関に用意して置いてくれていた、分厚いコートの襟をしっかり直して足を進めた。
出掛ける前からこのコート、いつもの薄いコートの代わりに掛けてあったしな…
これなら…何とかなるとは思う。でも…
 

どんどん寒さを増すあたりの空気。
歩いていても顔に吹きつける風に、思わず顔が凍りそうになる。
止まっていれば風には当たらないで済むかもしれないが…下から来る底冷えはどうしようもないだろう。
だから…
 

できれば…あいつがさっさと見つけてくれたらいい。
そしたら、オレもこの冷たい中、過ごさずに済むんだから。
でも…
 

あいつのことだから、多分…気がつかないだろうな。
あいつ…ドジで、その上、注意力に欠ける奴だから。
何にもないところでも転ける奴だからなあ…
多分、見つけてはくれないだろう。
それに…
 
 
 

サーーーーー
 
 
 

ふいに、目の前が大きく開けた。
今までオレの上、多いかぶさっていた木々の姿が消えていた。
そして、代わりに真っ黒な空。
 

オレは足を進めた。
森の中、ここだけ大きく開けた、この場所に

オレはゆっくりと歩いた。
ゆっくりと雪の上を歩いていった。
ゆっくりと歩いて
そして
 
 

立ち止まって

見上げた
 
 

空を
 

かつては大きな大きな、大きな木があった
いっぱいに、空も見えないほどの広がる枝があった
オレがあの冬の日に見上げていた
真っ赤な夕日の中、見上げていた

空を見上げて

そして
 
 
 

待った
 

待って
 
 

そうだよな
オレは…待った方がいい。
どんなに寒くても
どんなに凍えても
オレは
 
 

待った方がいい
オレは
 
 
 
 

待った

空を見あげて
今にも雪が降りそうな空を見上げて
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「……雪だぁ…」

ボクは立ち止まって、思わず空を見上げた。
もう真っ暗になった空から、白い小さな雪ががちらちらと落ちて、ボクの顔にあたったのを感じたから。

空はとっくに陽が落ちて、真っ暗になってた。
結局、香里さんは名雪さんの家に行って…
でも、それにはしおんはマズいからって、ボクがしおんを預かって。
そのまま、しおんと一緒に遊んでいたら…気がついたら、こんな時間。
うぐぅ…おばさんに怒られちゃうよ、今日も…

そうそう、怒られちゃうんだよっ
だから…立ち止まってる場合じゃないってばっ
園はもう…すぐそこの角まで来てるんだから…
 

ボクは急いでまた駆けだした。
もう、息が切れて…でも、おばさんには昨日も迷惑かけたから…今日は何とか、迷惑かけないようにしないと。
 

全速力で門を抜けて、園の玄関に到着。
時間は……セーフ。
 

…ふう…
間に合ったよ。
やっと…だけど…
 

ボクは息を整えながら、振り返って空を見上げた。
雪は…変わらず降ってる。
ボクの頭にも、うっすら、雪のかけらが…

「…冷たっ」

頭から手で叩き落とした雪…背中に入っちゃったよぉ
うぐぅ…ドジ…

…はあ。
でも、この分だと…そんなには大きくならないみたい。
少しは積もるのかな…
そしたら、朝、ミイちゃん、ボクを起こしに来るよね…『お姉ちゃん、新雪、新雪っ!』って。ミイちゃん、新雪踏むの、大好きだから。
…でも、明日は日曜日だし。ミイちゃんも寝てるかな…

…そういえば、しおん…ちゃんと香里さんの家に帰ったのかな?
家までは見届けなかったけど、大丈夫だとは思うんだけどね。
こんな寒い中、帰ってなかったら大変だから…
…ううん。きっと、今ごろはこたつかストーブで、きっと丸まって眠ってるよね。さっきまであんなに遊んだんだもんね。
きっと、香里さんの膝とかで…
 

…香里さん。
なんでボクに栞ちゃんの話…してくれたのかな?
栞ちゃん…ボクの一番の友達だったけど
確かに、友達…
絶対忘れない。忘れないよ。忘れないけど…
 

『あたしが言いたいのは…それだけ。あたしがあゆちゃん、あなたに言いたい…言いたかったのは、それだけよ。』

『…あなたにも、名雪にも…相沢くんにもね。言いたいのは…それだけなのよ』
 

…ううん。分かる…気がする。
香里さんが言いたかったこと。
ボクにも、分かる…

…気がするけど…
 

でも…
 

ボク、どうしたらいいのか
本当に…どうすればいいのか
 

香里さんの言いたいこと
それはそうだけど
だけど
 

どうしたら
 

どうしたいんだろ、ボク…
 
 
 

「…お姉ちゃん?」

「……え?」
 

声にあわてて振り返ると、そこにミイちゃんがいた。
玄関から、ボクの方、ちょっと首をかしげて見てた。

「…何してるの、そんなところで?ご飯、終わっちゃうよ?」
「……あははは。雪、見てたんだよ。」
「…雪?」
 

ミイちゃん、ボクの向こう、外をじっと見て

「…ホントだっ!雪だぁ!」
「…うん。でも…あんまり降らないみたいだよ。朝まで…5センチも積もらないんじゃない?」
「……え〜〜〜〜。もっと積もればいいのにぃ!」
「…あははは。こればっかりは、どうにもならないよ。」
「…うーーー」

ミイちゃん、ちょっと頬を膨らませたけど、すぐに手を叩いて
 

「って、お姉ちゃん、急いで急いで!時間、終わっちゃうよっ!」
「あ、いけないっ!」

そうそう、夕食夕食っ!

ボクは急いで玄関に飛びこんで、靴を脱いだ。
そして、靴箱に入れながら…
 

もう一度、空を見上げた。
真っ暗な空
白い、小さな雪が、ちらちら、ちらちらと
降って
 

落ちて
 
 
 
 
 

   雪が降っていた。

   真っ黒な空から白い雪が

   雪が降っていた。

   白い雪の降り積もった街に

   夢の降り積もった街に

   終わりの雪が降っていた。

   夢の終わりの雪が降っていた。
 

<to be continued>

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